すこし身を屈まなければならないくらいの低いテーブルに、カフェオレが置かれている。コーヒーとミルクはべつにいれられていた。マグカップにミルクを注ぐと、ぐるぐると円を描いて茶色と白が混ざっていく。
「私はね」
むかって左側にいる男性に言い聞かせるでもなく、独り言のように呟いた。
「一日に一回はこうしてゆっくりするのが好きなんです」
空調が効きすぎているわけでもなくぬるくもない室温を、わずかに出た皮膚で感じながらその男性を眺める。
しっかりとした骨と肉を体に纏った男性――千葉鉄斎――は、カフェラテをマグカップに注いでいた。
「お邪魔ではなかったですか」
「いいえ。ひとりで過ごすのも、大勢で過ごすのも同じことです」
下緒院の休憩室の天井に、すこし古いシーリングファンがカラカラと音をたてて回っている。彼が持ち歩く杖はソファの肘掛けにたてかけられていた。
小指ほどの長さのティースプーンをくるりとまわしてから小さな皿にそれを置き、さらに混ざっていくさまを見下ろす。
「ああ。そうだ。頼まれていたものをお渡ししようと思って」
袂に入れていた符、十枚。束になっているものを和紙の帯でつつんである。
鉄斎はそれを見下ろして「ありがとうございます」と軽く頭をさげた。
「あなたなら呪いを正しいことに使ってくださるだろうと信じているので、この十枚のうち一枚、特別製の符が入っています」
彼は規則正しく育つ木に似ている。健康な木だ。根から養分と水分をしっかりと吸い込み、枝まで循環し、みずみずしい葉をつくり、やがて芽吹かせる。
もっとも、それは青嵐の憶測にしかすぎないのだが。
けれど彼はその木のように〝ただしいこと〟をしてくれる気がする。それは、信じている。
「特別製?」
「気味悪く思われるかもしれませんが、私の血で書いた符です。使ったものの視界を五秒阻害するものです。いざという時にお使いください」
鉄斎の目が一度またたきをした。
「相手が人間でも妖魔でも使えます。役立ちますように」
カップの持ち手に指をそえ、カフェオレを一口飲む。喉に絡みつくような甘さを感じ、目を細めた。
「人間でも」
そう反芻する彼の指先は、符に触れている。根を張ろうとするように見えた。
「私は人間の可能性を信じているんです。カミと人間が主従、あるいは対等な立場にあり、人間では成しえない異能を使う。はたしてただの人間は本当の〝ヒト〟であり続けられるのか」
「それは信じているというよりも、試している、というように感じますね」
「……ふふ。とはいえ私もただのヒトです。気をつけたいものですね。異能は元々、人類が好きなように扱えるようなものではないのですから」
異能は刀神がいるからこそ成しえる秘術であり、呪いであり、祝福でもある。
刀神は、刀遣い――人間の生気を得なければ朽ち、死んでいくし、人間側も妖魔を狩る時点で刀神の異能がなければ全人口も半減していたかもしれない。
互いに生きるために戦うのだ。そこに生きようとする意思があろうと、なかろうと。
「千葉くん。あなたはきっと、生きようとする人間を手放せないんでしょうね」
「……そうですね」
「それでこそ凪鞘班の職員です」
「雲井先生は違うんですか」
鉄斎の目がひたり、と青嵐に向けられる。
「私は……可能性の芽を摘んでしまうのは悲しいことだと思います。でも、そうですね。その人間の手を振り払うことはそれ以上に悲しい」
ふと故郷を思い出す。
もう感じることができない沖縄の風。白い雲。さざなみ。時に置いて行かれるような感覚。
〝悲しい〟という感情を、久しぶりに自覚したかもしれない。これまで何度か目の前で事切れる刀遣いの最期を思い出したからなのか、望郷の想いを感じたからなのかは分からないが。
そっと目を閉じる。
休憩所の白い壁はうっすら黄ばんでいて、それでも白いものと感じるのは長年ここのソファに座ってきたからだろうか。
まぶたを閉じても、その白さはありありと浮かんでくる。
下のほうで、ザリ、と音がして、ようやく目を開けた。自分が履いている草履の音だった。
「よい時間を過ごせました。ありがとう。千葉くん」
「こちらこそ。ありがとうございます」
うっすらと薄茶色の液体が滲んでいるカップを持って、備え付けられている流し台に向かう。
ソファがギシ、と音をたてた。彼も飲み終えて、ともにこの部屋を出るのだろう。
ふと背後に険しい視線を感じる。
「おや。お迎えですか」
背中越しに呟くと、舌打ちのような音が聞こえてきた。
洗い終わったカップの持ち手に指をかけて振り返ると、黒っぽい雰囲気の男性が立っていた。
あ、という鉄斎の声が後ろから聞こえる。
「それでは」
軽く会釈をして、彼の横をすり抜けた。その直後蛇のような、膿んだ眼球を見た。見たといっても幻だ。それくらいの力があるものの。
「大蛇……」
たしか名を、化野鴨といった。
大和人である彼の知る言葉ではない言葉を呟く。
「なんだよ」
背後からまじまじと見ていたことに気付いたのか、彼は不機嫌そうに呻いた。
「……いえ」
見慣れた白い床からかかとを離し、歩く。ここでその名――大蛇という言葉を今ここで出すべきではないだろう。
胃の中をかき回されるような不快感を感じ、ハンカチを口もとに当てる。
――あれは一体、何人の魂を呑み込んできたのか。
ガラス窓の外はうっすらと雲がかっていた。いや、煙かもしれない。
眼鏡のつるを親指と人差し指の間で押し上げて、清浄な空気をゆっくりと吸った。枯れた枝木に水分を廻らせるように。
水分を思い切り吸い込んだような梢の先が、風にのってゆらりと揺らぐ。
風が出てきたのかもしれなかった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.