千代里
2024-09-05 08:19:41
20015文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その43


 石造りの暖炉を赤々と照らす、炎が爆ぜる音。ぱちり、と弾ける薪の甲高い合いの手が時折挟まれ、部屋に居るものをふと我に返させる。
 窓の向こう側――建物の外では相変わらず雪が降り続いているものの、部屋の中は外気の冷たさが嘘のように暖かい。
 イシュガルドで育った者ならば、ごく自然に受け入れる平穏の世界。それが、この部屋には満ちていた。
 故に、室内にいたノエも、数日前は硬く強張らせていた表情を緩め、体の力を抜き、椅子に背中を預けていた。
 あの決死の登山行から、既に七日が過ぎていた。ランドンを振りきるだけでなく、結果的に彼を仕留める形となったノエではあったが、その代償も小さくなかった。傷を負ったまま長時間歩きづめだったために、失血がひどく、麓にあった砦で丸二日は寝込んでしまったのだ。
 とはいえ、いつまでも寝ているわけにもいかない。体力と気力が戻るや否や、一行は休息をとっていた砦を旅立ち、領主の待つ街への旅を始めた。オデットだけは不服げではあったのは、ノエの体力が十分に回復したか疑念を抱いていたからだろう。
 救助した三人の民間人は、誰一人たりとて、街に戻りたくないとは言わなかった。彼らは、領主の決断を聞いた上で行動すると決めてくれた。
 その後の雪原を行く旅路は、行きよりは幾らか順調に進んだ。その一番の理由は、やはりランドンの気配に逐一怯えずに済んだからだろう。
 民間人がいる以上、もとより無理な強行軍はできない。そのため、帰りには時間がかかると予想していたものの、竜から与えられる恐怖が減るだけでも、道程はずっとスムーズだった。ランドンが死したことにより、領地一帯のドラゴン族たちも今は様子を伺っているようだ。
 おかげで今、ノエたちはとある要塞にて、こうして休息を取ることができている。ここは領主のいる街にも近く、もはや目的地は目と鼻の先にあると言ってもいい。
 今頃、皆は屋根のあるありがたさを感じながら、要塞の厨房を借りて夕食を作っているはずだ。
 だが、ノエは一行には「部屋で休んでいる」と言い置いて、こうして一人、割り当てられた部屋に身を置いていた。
……そろそろ、連絡しなくちゃいけない頃合いだよな」
 ノエが握っていた拳を開くと、そこには真珠に似た耳飾りが一つ。正確には、それは離れた場所にいる者同士が会話するために必要な通信器具――リンクパールだ。
 ノエは、救出の旅に向かう前に、父であり領主でもあるベルナールと約束をしていた。
 攫われた人たちを首尾よく連れ帰ることができたのなら、彼らの今後をどうするかの判断を伝えるために、一度連絡する、と。
 出発前の時点では、急な申し出ということもあって、ベルナールは彼らをどう扱うかについては、最終的な判断を保留した。
 竜の血を飲み、結果的に異端者と同じ状態になった街の住人を受け入れるのか、受け入れないのか。領主として、彼はすぐに回答を出せないと言ったのだ。
「父さんが、マルコさんたちを受け入れてくれればいいんだけど」
 当初予定していた人数より、悔しいことではあるが、連れて帰れた人数は少ない。
 三人ぐらいならば、目溢しをしてくれないか――そう言ってしまえるほど簡単な話ではないとわかっていても、ノエはついそんな楽観的な願いを胸に浮かび上がらせる。
 呼吸を整え、リンクパールを耳に捩じ込む。通信を開始すると、鈴を振るような涼やかな音が暫く響き、
……ノエか?』
 わずかに緊張が混じった父の声が、ノエの耳に届いた。
 息子からの着信に、領主という立場より先に私人としての気持ちが滲んでしまったのか。その声は領主の威厳よりも、父から息子への感情が滲み出ていた。
 もっとも、ノエは父に無事を伝えるために連絡をしたわけではない。
『そうです。今、街の近くにある要塞にいます。攫われた人も一緒です』
……! そうか。お前は……いや、全員無事だろうか。怪我をした者は?』
「誰も怪我はしていません」
『それは……よかった』
 ノエとしては端的に要件だけを伝えたかったのだが、ベルナールはノエの安否も気掛かりの一つに加えていたらしい。真っ先に安否を問われて、ノエは一瞬面食らってしまった。
(そういえば、オデットもそんなことを言っていたな……
 ノエに対して直接心配の言葉をかければ、ノエは間違いなく拒絶する。だからこそ、ベルナールは迂遠な言葉でしかノエを案じれない。オデットは、ベルナールの曖昧な物言いから彼の感情を汲み取ってノエにそう伝えてくれた。
 父の不器用な配慮に感謝はしない――素直に礼を言えるほど、親子の間の溝は簡単には埋まらない。
 だから、今のように遠回しの物言いの方がノエにとっては幾分か対応が楽なのも事実だ。
「攫われた方は十名程度いたようですが、異端者が拠点としていた場所に残っていたのは三名のみでした。残念ながら、残りの方は異端者の言葉に誘われて、その場を去ってしまったと、残された方が教えてくれました」
……そうか』
「それでも、残った方もいます。……あなたが無事でいるかを案じていた方もいました」
 ノエの私的な感情と、マルコたち被害者が領主に向けた気持ちは別だ。彼らの気遣いも正しく伝えねばと、ノエは言葉を送る。
『そのように案じてもらえるとは……私のような至らぬ者の采配を――ああ、いや』
 そこで、ベルナールの自虐的とも言える発言が途切れる。
『私が成しえたことだからこそ、だな。どうやら、私は随分と果報者のようだ』
……ええ」
 もし、また自分を卑下するようなことがあったら、と身構えていたノエは、いくらか肩の力を抜く。
 ベルナールは、領主として己のできる最大限の成果を出そうと奮闘している。その頑張りを賞賛する者の声すら聞かないふりをするのは、ノエとしては許しがたかった。それは、自分が彼の息子であることとは無関係の『許しがたさ』だ。
『その場に残らなかった者は、異端者の言葉をよしとしたというわけか。私の街に竜の信奉者がいたとは信じたくはないが……
「そのことについてなのですが。救出した方の話によると、異端者たち自身も、竜への信仰のためにその身を捧げたというわけではないようです」
 話の流れがそちらに向いたついでに、ノエはマルコから教えてもらった内容をベルナールに語って聞かせる。
 現在のイシュガルドが抱える社会そのものへの不満を抱いた者が集い、力を求めた結果として竜の血を飲んだらしいということ。
 彼らは、現在の体制を覆し、平等な社会を作ると豪語していること。
 拉致された者の半分ほどは、襲撃の前から生活に不満を抱いていた者であり、異端者の言葉に耳を貸しやすい状況であったこと。
 それらの内容を全て話した後、ノエは最後にマルコが語った重要な情報を口にする。
「異端者の理想は先ほども話したように人間を主体としたもののようでした。しかし、彼らの中にも、竜に対して心の底から敬意の念を抱いて異端者となったと思しき少女がいたそうです。彼女が率先して竜と交渉の場を持ったことで、先日の奇襲が行われたとのことでした」
 ノエから一通りの説明を受けたベルナールは、最後に加えられた内容を聞き、しばし沈黙を挟む。
……なるほど。それは貴重な情報だ。『氷の巫女』ほどではないだろうが、その一派にとっては間違いなく行動の要だろうな』
「氷の巫女、というのは……?」
 どこかで聞いたような気がする通り名だと、ノエが思っていると、
『近頃、異端者たちの動きが活発化している話については聞いているだろう。その原因となり、彼らを率いていると思しき人物だ。活動が活発になってきているため、流石に捨ておけぬと判断したのか、教会の騎士団までもが警戒しているお尋ね者だ』
 ベルナールの口ぶりから察するに、そちらの方が現在の異端者の活動としては主流であるらしい。
 マルコたちが関わった異端者たちは、寧ろ例外に値すると見ていいだろう。
『氷の巫女一派については、中央の騎士団が対応してくれる。その分、我々は我々の力で降りかかる火の粉を払わなくてはならない。貴重な情報を伝えてくれたこと、感謝する』
……その言葉、マルコさんにも伝えておきます。その方が、異端者の情報を纏めて僕に伝えてくれたんです」
 マルコの名前を出した瞬間、通信越しに微かにベルナールが息を呑んだ。
 マルコは、自身が仕えた領主のことをよく覚えていた。そして、それは仕えさせていた側も同じだったらしい。ベルナールの記憶には、自分より年上の騎士の名前が今も残っていたのだろう。
「異端者については、先ほどの情報をもとに警戒を進めてもらいたいと思います。……それで、僕たちが連れ帰ってきた三人の方についてですが」
 そこで、ノエは一度言葉を区切る。
 どのような処遇にするか、果たして父は決められたのだろうか。
 聞かねば、話が進まないとは分かっていても、心のどこかで聞きたくない気持ちもあった。
 彼らが拒絶されれば、ノエは父に対して、今まで違う幻滅を覚える。同時に、自身の見通しの甘さへの苛立ちを感じるだろう。
 かといって、易々と受け入れれば、ノエが認めていた領主としての父を否定されたような気持ちになるに違いない。
 どちらに転んでも、自分の心のどこかに傷が残る。それが分かっているからこそ、ノエは苦い感情を抱きながら父の言葉の続きを待った。
『お前が連れ帰った者は、竜の血を飲まされていたのか?』
…………はい」
『それならば、私は今まで通り街で暮らしてもらって構わない、ということはできない』
 心臓を冷たい手で掴まれたような衝撃が、ノエに走る。
 どこかで予想できた答えではあった。けれども、同時にそうでなければいいと望んでいた。
 だが、ベルナールは彼らを受け入れないと結論を下した。
 それが、全てだ。
 ならば、ノエも決断しなければならない。
「彼らを街から締め出す……ということですか。それなら、僕は」
『待ちなさい、ノエ』
「待てません! あなたが、彼らを受け入れないというのなら、僕は責任持って彼らが暮らせる場所を見つけなくては――
『だから、待ちなさいと言っているんだ!』
 ぴしゃりと頬を打つような鋭い声に、ノエはリンクパール越しであったというのに、思わず体を強張らせる。
 ノエは今、初めて父親に叱られるという体験をした。たとえ、それが領主と冒険者という立場からのものであったとしても。
『お前が私を嫌うのは自由だが、私の民をお前の勘違いで振り回すというのなら、領主として許すことはできない』
…………すみません」
 自分でも驚くほどに、声には覇気がなかった。
 ほんの数秒にも満たない叱責ではあったが、ノエは己が勇み足であることを否応なしに自覚させられた。ベルナールの言う通りだ。彼の話はまだ終わっていないのに、結論を先走るべきではなかった。
『確かに、私は彼らを街に受け入れることはできないと言った。しかし、彼らが異端者の思想に染まっていないというのなら、これまでと違う場所にはなってしまうが、人として暮らせる環境を整えるつもりだ』
「それは、どのような場所ですか」
『お前が宿泊しているような、各地の砦や要塞だ』
 ベルナールに言われて、思わずノエは自分の部屋を見渡す。同時に、彼の頭には今まで何度も世話になってきた要塞や砦の様子が浮かび上がっていた。
『そこならば、街以上に第三者が入り込む可能性は少ない。竜血を懐に忍ばせて、血を飲めと迫る異端者が忍び込む可能性は低いだろう』
 ベルナールが示した案は、彼なりの精一杯の譲歩なのだろうとすぐに分かった。
 兵士たちがいる場所ならば、万が一彼らが悪しき異端者の思想に染まっていたとしても、更なる竜血を得る機会は少ない。加えて、厳重な検問や監視網もある。街という特性上、人の行き来に制限をつけづらい環境よりは、領主としてもその他の住民にとっても、安心できる場所というわけだ。
 それに、そこならば竜に変化したとしてもすぐに仕留められる――という考えもあったのだろう。
……ご家族や同居している方とは、離れることになるのですね」
『やむを得ないが、そう判断せざるを得ない』
 クララやマルコのように、ある程度大人として成長している者ならば、一定の諦めは既に抱いていただろう。だが、まだ子供のコーディはどうだろうか。
……元々身寄りがないから孤児院にいたんだろう。それなのに、更に彼はまた誰かの都合で自分の居場所を失うのか)
 しかし、ノエにもベルナール以上の案は思い浮かばない。
 それに、ノエが最初考えていた他国に向かう案も、結局は元いた場所から離れるという点では変わらない。
 遣る瀬無い現実に、ノエが唇を浅く噛んでいると、
『どちらにせよ、彼らにとっては最後となるかもしれない家族や知り合いとの別れのときまで、私は妨害するつもりはない。一度ならば、街に戻ることは許可するつもりだ』
「えっ。いいのですか」
……あくまで、城門付近までだ。宿直の騎兵が泊まる建物を使ってもらうつもりで、準備を進めている』
 ベルナールは、あくまで生還者は兵士の監視下にいることを望んでいる。街の奥に入れないということは、兵士の目を掻い潜ってどこかに行ってしまうことを危惧しているからだ。
『他の住民の感情もある。帰宅まで許すことは、今の私にはできない。彼らが目立ちすぎてしまう』
……そうですね。そのほうが良いと思います」
 生還者の存在は、必ず街の住人の噂として広まる。竜の血を飲んで帰ってきた者が身内にいると知れば、迎え入れた家族や周辺の住民全てが弾圧の対象になりかねない。
「僕と同じような形で、謂れのない噂話が一人歩きする可能性は、少しでも減らしておきたいですから」
……お前の言う通りだ』
 かつて、冤罪により異端者に仕立て上げられた母のせいで、ノエは自らも異端者として罰された。そんな彼の言葉は、ベルナールには痛烈な皮肉として突き刺さったようだ。
 実際、ベルナールも、ノエの一件があるからこそ、異端者の身内に対する扱いも慎重になっているのだろう。
『親族や知人が面会を求めるならば、それを止めるつもりはない。短い時間にはなる上、兵士が立ち会うもとでの会話となるだろうが……
……いいえ。きっと、彼らにとってはどれだけ短くても、必要な時間になるに違いありません」
 自分を探している祖父の話を聞き、泣き崩れたクララのことを思い出す。
 今生の別れとなってしまうとしても、少しでも家族と話す時間があるのならば、ノエたちが彼らを連れ帰った意味はある。今は、そう信じたい。
『ランドンの一件もある。兵士たちを、彼らの監視に割いておける時間はあまりない。慌ただしい時間になると思うが』
「あの。そのことなのですが……実は、報告しなければならないことがあるのです」
 そういえば、重要なことを話していなかったと思い出し、慌ててノエは声をあげる。
 ノエが歯切れ悪く切り出したのを聞いて、ベルナールの声が懐疑に染まる。急に何を言い出したのだろう、と疑問を抱いたのだろう。
『何かあったのか、ノエ』
…………ランドンについて、ですが。犠牲者の方が集められていた山にて、彼と邂逅しました。その時の戦いで生じた山道の崩落に巻き込まれて……あの竜は、死亡しました」
 ベルナールが鋭く息を呑んだのが聞こえた。先ほどのノエからの伝達以上に、明確な驚きが露わとなった驚きだ。彼にとって、この報告は間違いなく寝耳に水だったはずだ。
『本当に、死亡したのか。ただ姿を見失っただけではないのか』
「間違いありません。かの竜が絶命したのを、僕がこの目で確認しました」
 話しながらも、ノエはつい数日前に竜と交わしたやり取りを、命を賭した戦いの場面の数々を、思い返していた。
 ノエに対して怒りと悲しみを一方的にぶつけ、ノエの知らぬ誰かの名前を呼び続けた竜。戦っていたはずの相手を見限ることもできず、最後にはその身を賭して守ろうとして命を落とした彼のことを。
……本当、なんだな』
「街に戻りましたら、あなたにランドンの遺骸がある場所を教えます。兵士に確認してもらえば確実でしょう」
 ノエは、できるだけ簡潔にランドンが落命した場所について説明した。そこが急峻な山の麓と聞き、ベルナールは疑問の声をあげる。
『経緯は分かった。だが、一体どうやって、そのような場所に誘い込んだんだ。今まで奴は、自分が不得手とする場所には、近寄りもしなかったというのに』
 ランドンは街への襲撃を繰り返し続けるだけの、愚直な竜であった。だが、一方で、自分の至らない部分を理解している竜でもあった。
 鈍重な体を持つ彼では、崩れやすい細い山道を登っては、足を踏み外してしまう。それが分かっているから、ノエたちが登った山には今まで近づこうともしなかったのだろう。
 もし、彼が本当に愚か者なら、己が踏み入るべきでない場所に入り込んだ時点で、ヒトの計略により殺されていたはずだ。
……あいつは、僕があの場所にいたから、追いかけてきたんだ)
 ランドンのことを思い返し、ノエは懐に入れていた巾着を取り出した。その中には、竜の遺骸から剥がれ落ちた鱗が入っている。
「父さん。一つ、尋ねてもいいでしょうか」
『ランドンのことに関してか』
「そうなるのかもしれません。……父さんが収めている領地に、ナタロアという方はいませんか。恐らく、少し前の世代の方だと思うのですが」
 名前や発音の雰囲気、それにノエと見間違えていた様子から察するに、ナタロアという人物がエレゼン族の男性であるのは間違いない。
 しかし、イシュガルドにはエレゼン族など、ごまんといる。
 せめて、土地を治める立場の父ならば、住民の名簿に目を通したことぐらいはあるのでは、とノエは一縷の希望を抱いていた。
……ナタロア、か。その名前については、どこかで聞いたようにも思う』
「本当ですか」
『ああ。だが、あれは……どこで見た名だっただろうか。すぐには思い出せないが、その人物がランドンと何か関係あるのか』
……はい。可能ならば、その方に会いたいと思っているんです。亡くなったのなら、せめてその墓前に」
『理由を説明はしてくれないのか』
「すみません。それは、僕はにできない」
 ランドンとのやり取りを詳らかにすれば、ベルナールはノエが竜に心を許したのではないかと要らぬ不安を抱くだろう。それでなくても、ノエは自身がランドンと交わした言葉を、第三者に無闇に漏らすつもりはなかった。
『分かった。私の方でも調べておこう。本当にランドンが死んだというのならば、この領地のドラゴン族の襲撃もいくらか落ち着くはずだ』
 ベルナールの言葉から滲み出る安堵からは、彼が長い間、ランドンの存在に悩まされてきたことがありありと伝わってきた。
 自分の住む街を――ひいては、自分自身や家族の命すら危険に晒してきた存在だ。ベルナールにとって重荷であったのは間違いない。
 故に、その言葉は予想して然るべきだった。
『よくやってくれた。ノエ。……この地に生きるものを代表して、感謝の言葉を送らせてくれ』
 それは、一人の冒険者として、偉業を成し遂げた者に送られる最大の賛辞であると分かっていたのに。
……ありがとう、ございます」
 竜が落命する直前、ノエへと残した言葉。
 その残響が、今もノエの心に薄く影を落としていた。
 
 ***
 
 ベルナールが下した決定は、夕食のために一堂が会したときに、ノエを経由して生還者の三名に速やかに伝えられた。
 食堂の一角で今後の処遇について聞かされた生還者の反応は、幸いなことに概ね穏やかなものだった。
「今すぐ異端審問官に突き出されてもおかしくないのに、領主様の寛大な処置には感謝しなくてはいけないわ」
 クララはそう言って笑ってみせたものの、ノエの話を聞いた直後に彼女の体が微かに震えたのを、ノエは見逃していなかった。
 彼女にとって、あの街は故郷だ。その地に二度と足を踏み入れてはならないと言われたも同然の結論は、少なからず衝撃を与えたに違いない。それでも、彼女は笑みを絶やすまいとしてくれた。その気丈さに、ノエは頭が下がる思いを抱いた。
「私はすでに老い先短い身だ。今更、少しばかり住む場所が変わったところで何の問題もないよ」
 対して、マルコはクララとは異なり、己の動揺を微塵も表に出さなかった。彼なりに思うところはあっただろうに、平静を保つ様子は伊達に歳をとっていないと言うべきか。
 だが、年長の二人と比較して、この情報に衝撃を覚える者もいた。
……俺、やっぱり帰れないんだ」
 夕食として食べていた焼きたての黒パンを手に握りしめたまま、唯一の年少者――コーディは視線を机に落とす。
……コーディさん」
「でも、仕方ないよな。俺がいたら、他のチビたちも怖いだろうし。プリシラさんや世話してくれるおばさんたちが、嫌になって仕事をやめちゃったら、孤児院に残ってるチビたちはもっと困っちゃうし」
 少年の声は、不自然に上擦っていた。それが、どこからどう見てもからげんきであることは、その場にいた全員が気がついていた。
「だったら、俺、兵士のおじさんたちがいる所で大人しくしてるよ。それに、ほら! 俺、兵士の人たちの仕事、いつも近くで見たいって思ってたしさ。むしろ、都合がいいよ!」
 ノエたちの労りの視線を笑い飛ばすかの如く、コーディはますます声を張り上げる。
 本来ならば気遣うべきは、この情報をもたらしたのはノエの方だ。自分自身ではそう思っているのに、ノエの口からは機転のきいた言葉一つ生まれない。
「そうだね。砦の手伝いは、普通の子供であれば、やりたいと頼んでもできることじゃないさ。それに、外から人が来る分は問題ないんだろう、ノエ?」
 言葉が出ないノエの代わりをしてくれたのは、ヤルマルだった。
 コーディの強がりをこれ以上続けさせるのも酷と思ってか、彼女は率先して話の主導権を掴み取る。
 竜の血を体に入れたという忌々しい事象には敢えて触れず、前向きな未来だけに触れるように話を進めているのは、ノエにもすぐ分かった。
「ええ。家族や知人が砦に慰問に行くことはあるでしょうから。兵士の方は立ち会うでしょうが、知り合いの方と話をする機会ぐらいは作れるはずです」
「事実上は、兵士と親族の面会と大差ないだろうからね。そうなると、次に会うときは、コーディがボクらの荷物の検問をすることになるのかな?」
 ヤルマルが戯けたように声のトーンを上げて、コーディへと片目を瞑ってみせる。
 すると、コーディも、にいっと口角を釣り上げ、
「へっへーん。悪いものが入ってないか、ちゃーんと見てやるからな!」
 腕まくりするような素振りをしてみせたが、ひゅうと食堂に入り込んだ隙間風に、たちまち震え上がってしまった。そんな少年の様子を見て、一同に笑いの花が咲く。
 つい先程まで、今まで通りの生活は送れないと通告を出された場とは思えないほどに、場の空気は温かく、程よく弛んでいた。
……僕は、まだまだだな)
 笑いが弾んだついでに、夕飯の団欒を再開した皆を眺めつつ、ノエは自省する。
 大事な情報であり、覚悟も必要な内容であるからと包み隠さず説明したことは間違いではなかったはずだ。しかし、それぞれの受け取り手がどんな感情を抱くかまでは、考えきれてなかったと言うしかない。
 マルコやクララがもし悲嘆に暮れた場合、果たして自分は慰めの言葉をかけられただろうか。ヤルマルのように、上手く場を切り替えることができただろうか。
「若人。まーた暗い顔をして、一人で反省会か?」
 どん、と軽く肩に衝撃が走り、机に落ちていた視線がゆっくりと持ち上がる。ノエが見上げた先、ルーシャンが片眉を寄せてこちらを見つめていた。
 彼が指先で、ノエの前に出された夕食を示す。メインディッシュとして用意されたシチューの入った深皿からは、食欲をそそる良い匂いが漂っていた。獣の骨から取ったと思しき旨みの香りは、ノエに空腹であったことを思い出させてくれた。
「飯が冷めるぞ。オランローが久々に新鮮な食材が使えるからって、腕を奮ってたんだ。しっかり食ってやれ」
……はい。ありがとうございます」
 ちらりと作り手である友人の方も見やると、オランローもノエに向かって思わせぶりに口角を釣り上げてみせた。彼をよく知らぬ者なら、強面の笑みとして怖がったかもしれないが、それが親愛と心配の気持ちが込められたものだと、ノエにはすぐ分かった。
 ルーシャンのいうように、新鮮な食材を使って作られた料理は久方ぶりだ。今まで塩気の強い干し肉や乾燥させた果物をふやかすか火で炙って食べるだけだった。それを思えば、目の前の食べ物の何と美味なことか。
 暫く、歓喜にわく舌や胃を楽しませていると、
「領主様の判断が不満か?」
 声を落として、ルーシャンの囁きが耳に入ってきた。
 彼の問いかけに、ノエはゆっくりと首を横に振る。
「父さんは、できる限りの譲歩をしてくれました。僕もそう思っています」
「だったら、どうしてそんな暗い顔をしてるんだ?」
「一つは……僕がこの話を伝えたときに、コーディさんや他の方々の気持ちを十分に考えきれていなかったんじゃないかって……そう思ったからです」
 先だってのやりとりは、ルーシャンもすぐに思い出せたようだ。彼は「ああ」と納得の声を漏らすと、
「あれは仕方ないだろ。それに、子供だからって坊やに対してだけ適当に誤魔化して騙すような真似をするよりは、余程いいと俺は思うぞ」
「そう、でしょうか」
「孤児院育ちの子供っていうのは、ガキに見えても存外目端がきく。大人の空気を読むのに長けている。そうじゃないと、弱い立場の自分は食いっぱぐれるって分かっているからな」
 どうしてそんなことを知っているのか。ノエが目線で問いかけると、
「前に話しただろ。親父に引き取られる前は、俺は孤児院にいたんだよ」
 かつて、同じ立場だったからこその知見だと、男は付け足した。
 ルーシャンの意見も踏まえたうえで、ノエはコーディを改めて見やる。
 彼は如何にも『子供らしい子供』の振る舞いをしている。けれども、だからといって大人より一段劣る存在として扱われて、それを良しとするほど幼いようにも見えない。
 竜の血を飲むことが何を意味するかも、コーディは理解している。ならば、甘い幻想で取り繕った言葉よりも、剥き出しの現実をありのままに伝えられた方が、結果的にコーディにとっては望ましいことだったのかもしれない。
「お前が気になるなら、後で謝っておけばいい。もっとも、ああいうタイプの空気の読み方ができるやつは、お前の謝罪を受け取ってはくれないだろうけどな」
「はい。そうしてみます」
「ランドンも死んだんだろ。悪いニュースばかりじゃないなら、もう少し明るい顔をしてみたらどうだ。それとも、傷がまだ痛むのか?」
……そんなに、暗い顔をしていましたか」
「お前がどろどろになって帰ってきて、治療が終わってからずっとな。奥歯にもの挟まった犬ですら、もうちょいましな顔をするだろ」
 ルーシャンの揶揄混じりの言葉に、ノエは思わず自分の頬に手を当てる。残念ながら、指先が感じたのは暖炉で温まった滑らかな頬の感触だけだった。
「俺たちと別れた後、竜と何かあったのか」
 今度は先ほど以上に声を顰めて、男は問いかける。
 ほとんど唇を動かさない話し方のおかげで、周りから見ればルーシャンはただ食事に集中しているように見えるはずだ。
「僕は、ランドンの言葉を聞いたんです。彼が何に対して怒っているかも知った。彼は、僕のことを自分の知人と誤解したようです。ランドンは、その人間に裏切られたから怒っていた。そこまで分かっていて、僕は――
 ランドンの勘違いを理解しながらも、誤解を解くこともなく竜を殺した。ノエの沈黙には、そのような意味が含まれていた。
「僕は、彼を許せなかった。父さんのことも許せないと思いましたが、あの時とはまた話が違う。だって、あの竜は」
「もう何十人も……ひょっとしたら、何千人も、何万人も殺している。そうだろ」
 ルーシャンが付け足した言葉に、ノエは無言で頷き返した。
 ランドンとナタロアという人物の間には、埋められない溝があったのかもしれない。しかし、ランドンはその溝を埋めたいと望んでいたようだった。
 けれども、かの竜が望む人物ではないノエが、ランドンは許さないと決めた。半ば、一方的と分かっていながらも。
「お前は、無念のままに死んだ何万人の仇を討ったんだ。今を生きるお前は、そのことだけを誇っていればいい」
「ランドンを討ったことを、誇る……
「ああ。領主様じゃなければ、この土地に住んでいるわけでもない俺が言うのも何だがな。まぐれであっても竜を一体殺したお前に対して、俺は言うぞ。よくやった、とな」
 イシュガルドの人間なら、誰だって同じ言葉を口にするはずだ。正面からの賞賛がはずかしかったのか、ルーシャンは早口で、そう付け足した。
 彼の言う通り、イシュガルド人として竜の討伐を賞賛するのは至極当たり前のことだ。
 それでも、ノエの中にある小さな淀みは消えてくれない。ランドンの言葉を聞いたのは、彼だけだったのだから。
……竜の話たことは、忘れるべきなのでしょうか」
「何を聞いたか知らんが、お前が抱えていたいっていうんなら、好きにすればいい。だが、渡された賞賛は素直に受け取っておけ」
 ぽんと、ノエの頭にルーシャンの手が軽くのる。そのまま、勢いに任せて揺さぶられて、ノエの視界が左右にぶれた。
「お前のおかげで、この砦にいる兵士の何人かの命が確実に救われた。そういう事実まで見ないフリをするのは、流石に嫌味だぞ」
 ルーシャンに言われて、ノエは顔を上げる。
 砦のあちこちで今日まで命が続いたことを喜び、語り合う兵士たちがいる。ノエよりも若い兵士もいれば、ノエの何倍も年上の兵士もいる。
 女もいれば、男もいる。彼らにも帰る場所があり、帰りを待つ友や家族がいるのだろう。
 それらの笑顔をすこしでも守ることができたのなら、それは確かに意味のあることだ。
 そして、それらの賞賛を受け取らないのは、かつてベルナールが己を否定したときにノエが叱咤したのと同じ状況になる。
 自分が成し遂げたこと全てに背を向けるのもまた、不誠実である。謙遜も過ぎれば嫌味になる、とはノエ自身が指摘したことでもあるのだから。
……何だか、自分のことじゃないみたいで、少しくすぐったいのですが」
 故に、まだ己自身で飲み込めなかったとしても、ノエはわざと自らの賞賛に相乗りしてみせる。
「何言っているんだ。どうやって討伐したかは知らないが、吟遊詩人に語って聞かせりゃ、何十倍も誇張して英雄譚として広めてくれるだろうさ。大物殺し(ジャイアントキリング)の冒険者ってな!」
「そんなことになったら、恥ずかしくて宿に泊まれなくなるじゃないですか」
 からからと笑うルーシャンに釣られて、ノエの口元にもようやく自然な笑みが生まれた。
「おっ、今回の旅を歌にするのかい? いいねえ、だったらボクがまずは伝説の証人として歌って見せようじゃないか!」
 どうせなら、と話題を拾い上げたヤルマルが、即興でこれまでの旅路をまとめ上げ、出鱈目な旋律をつけて歌い上げる。それらを聞きつけた砦の兵士たちが、吟遊詩人の調べにやんやの喝采を送る。
 彼らのはしゃぐ声に誘われるようにして、ノエは喉の奥を震わせて久々に笑い声をあげたのだった。
 
 ***
 
 思いがけなく賑やかな場となった夕食の後、砦の兵士と意気投合したヤルマルとルーシャンを置いて、ノエは自分の部屋へ戻る道を辿っていた。
 オランローは散らかった食器の片付けをサルヒとすると言っていたので、今のノエは一人だ。オデットも、あの様子ならばオランローの手伝いをしているのだろうか。それとも、女性用にあてがわれた部屋に戻ったのかもしれない。
 故に、男部屋に戻ったノエは、室内に誰もいないだろうと思っていた。
 だが、扉を開けたノエを迎えたのは、小さな先客だった。
……コーディさん」
 照明にエーテルを通すと、部屋はあっという間に光に包まれる。
 男部屋として用意された部屋の中、一番隅の寝台の上で、少年が膝を抱えて蹲っている姿がはっきりと浮かび上がった。
(やっぱり、ショックを受けているのだろうか。だから、一人で隠れて……?)
 誰にも見られないところで泣いていたのではないか。ノエがそう思い、わざと靴音を立てて近づくと、コーディはひょいと顔をあげた。ノエの危惧に反して、彼の目は赤くなっている様子もなく、ただ蹲っていただけなのだとすぐに分かった。
……すみません、コーディさん」
 たとえ泣いていなかったとしても、少年の心を揺さぶったのはノエである。ならば、ルーシャンが言っていたように謝罪はするべきだとノエが頭を下げると、
「ん? なんで兄ちゃんが謝るのさ」
 これまた予想通り、コーディは、心底不思議そうに首を傾げてみせた。
「先ほどの話について、もう少し別の切り出し方もあったのではないかと、そう思ったんです。僕は、みなさんの将来に関わる話であるからと、事実のみを切り出して伝えてしまいました。ですが、いきなり事実のみを突きつけられても面食らってしまったのではありませんか」
……ああ、そのこと。俺も、最初はびっくりしたよ」
 コーディはぐるりとノエに向き直り、目線をあちこちに泳がせて言葉を探す。
「でも、異端者になっちゃったのは事実だし。兄ちゃんたちは、そうじゃないって言ってくれたけどさ」
 コーディは曲げていた足をうんと伸ばす。伸ばした手をベッドについて、足をぶらぶらさせている彼は、リラックスしているとノエに対して強調しているようだった。
「だから、司祭様が言っていたみたいに、異端者だから罰せられなきゃいけないとか、そういう怖い話にならなくてよかったって思ってる。そりゃ、孤児院に戻れないのは……ちょっと寂しいけど」
 大人顔負けの落ち着きぶりを見せて話していたコーディの言葉が、そこで不意に曇る。
 やはり、彼にとって孤児院の生活から引き離されることまでは、手放しに受け入れられなかったようだ。
「でも、ヤルマル姉ちゃんが言ってたみたいに、孤児院の人が俺に会いにきてくれるなら、俺はそれで十分だよ。外に放り出されてもおかしくないのに、砦で面倒みてくれるっていうんだから、俺ってすっごく幸運だよなー」
 少年は、からっと笑ってみせる。そこには、ルーシャンの言う通り、子供としてあたたかな嘘に包まれるよりも、多少厳しくとも現実を受け入れる力があるように見えた。
 そんな彼のしなやかな逞しさを損なうまいと、ノエも口の端に笑みをのぼらせる。
「きっと、プリシラさんもグレンさんも、コーディさんに会いに行こうとするはずですよ」
 ノエとしては、無難な内容を口にしたつもりだった。
 だというのに、ノエがグレンの名を口にした瞬間、コーディの顔が再び曇った。
(そういえば、山を降りる前に、コーディさんは攫われる時の話をしようとしていましたが……あの時、やはりグレンさんと喧嘩をしてしまったのでしょうか)
 続きを聞くべきか、それともこのまま黙ってやり過ごすか。
 ノエが悩んでいる間に、コーディの方が先に結論を出していた。
「あのさ。俺が砦に行くってことになるなら、ノエ兄ちゃんに会う機会も減っちゃうよね」
「ええ。……そうなるとは思います」
「だったら、やっぱりこの話は……ノエ兄ちゃんに、今、ちゃんと伝えておくべきだと、思う。だから、少し時間をもらってもいい?」
「それは、先日話してくださった、コーディさんが拉致されたときの話ですか?」
 果たして、コーディは静かに首を縦に振った。
 中途半端に立ったままだったので、ノエは寝台へと腰を下ろし、改めて少年と向かい合う。これは、きっと居住まいを正して聞くべき話だ。
「あの日、俺が竜に攫われる前に、アラン先生が異端者をやっつけていたって話は、前にしたよね?」
「はい。グレンさんとコーディさんと一緒にいたアランさんは、竜に変化した異端者と戦っていた騎兵を援護するために、二人に隠れるように言いつけて、異端者の元に向かったのですよね」
 武具も防具もなしに勇敢なことだ、と思ったのでノエもよく覚えている。コーディは一つ頷き返すと、
「その後、アラン先生が……返り血で、服を赤くして戻ってきたんだ。俺、怖くなって、先生に背を向けてしまった。それで、アラン先生がグレンに何か話していて……多分、グレンも何か言っていたんだと思う」
 グレンは口がきけない。故に、返り血を浴びたアランを怖がり、彼を見ることができなかったコーディは、グレンが何を言っているのかを知るすべがなかった。
 グレンは、恐らくいつものように、人の掌をとって指で文字を描くか、地面に足で字を書いて意思表示をしたのではないだろうか。
「でも、その時は竜が街を襲っていたときだから、いつまでも同じ場所にいるのもよくないと思って、俺……覚悟を決めて、振り向いたんだ」
 はあ、と大きく息を吐く音が響く。何度も、何度も。続く言葉を発するために、自分の気力の全てを使おうと決めたかのように。
「その時……グレンが、アラン先生にもたれかかったように、見えて。……グレンが倒れたのかと思ったんだけど、そうじゃなかった」
 コーディの言葉につられるようにして、ノエの中にも、その瞬間の情景が思い浮かぶ。
 アランに倒れ込むようにして、距離を詰めたグレン。一瞬、アランはグレンを抱きしめたようにも見えた。
 だが。
「グレンが、離れたとき……見え、たんだ。グレンが、ナイフを、持ってて」
――――っ!」
「そこから、赤い……血が、落ちてて。アランさんは、お腹のあたりを抑えてて」
 その直後、飛竜の影が三人を覆った。少年二人を庇うために、咄嗟にアランはその身を挺して飛竜の一撃の前に立ちはだかった。
 飛竜が振るった爪は、子供を庇った男の首を運悪く切り裂き、先ほどの比ではない量の血が辺りに飛び散った。
「それで、俺、怖くなって、どうしたらいいか……分からなくて」
 コーディの呼吸が、早く、浅くなる。ノエは咄嗟に寝台から立ち上がり、コーディの隣に腰を下ろすと、少年の体をゆっくりと両腕で包み込んだ。
 目を隠すように手で覆い、精神の負荷を軽減するためにも、体に与えられる情報を極限まで減らす。
……ありがとうございます。話は、わかりました。だから、もうこれ以上は」
「それだけじゃ、ないんだ! それだけじゃ……!」
 少年の背中を一定のリズムで何度か軽く叩き、乱れていく呼吸を落ち着かせようとする。それでも、コーディは宥められるのを拒絶するように、銀色の頭をぶんぶんと振った。
「アランさんが、倒れて……俺もグレンも、どうしたらいいか、わかんなくなったとき……。グレンが、先に立ち上がって……俺を、竜のいる方に、押しやったんだ」
…………!」
 竜にとっては、子供のどちらを拉致しても構わなかったはずだ。
 そして、グレンは自分が助かるために、親友を竜への贄として突き出した。ほんのささやかな行動ではあったが、竜にとっては決定打となった。
「竜に掴まった後のことは、よく覚えてなくて……。でも、グレンがアラン先生を刺したのも、俺を竜に突き出したことも、それだけは、覚えてたんだ」
…………そうだったのですね」
「ねえ、俺……帰るのが怖い。だって、帰って、俺……グレンに、どんな顔で会えばいいか分からない。分からないんだよ……!」
 少年の涙まじりの声は、心の底から湧き出た悲鳴でもあった。
 コーディは、山で目覚めた時から今までずっと、この言葉にならない不安と闘い続けていたのだ。何も知らない子供であるかのように笑いながら、ずっと。
 そんな彼にこれ以上無理をさせてはならないと、ノエは何度も少年の背中をさすってやる。
「グレンさんは……アラン先生が亡くなったのも、コーディさんが連れ攫われたのも、自分のせいだと言っていました」
 すん、と少年が鼻を鳴らす声が聞こえる。
 コーディによって力一杯握られたノエの上着は、爪が皮膚に突き立って少し痛いほどだった。けれども、今のコーディの心はこれの何倍もの痛みに苛まされていることだろう。
「グレンさんは、アラン先生の埋葬の場に立ち会う資格が自分にはないと言っていました」
……それは、グレンのせいでアラン先生が死んじゃったから」
「いいえ。アランさんが亡くなったのは、飛竜によって攻撃されたからです。子供がナイフで力一杯刺したところで、アランさんのような大人が相手なら、致命傷には至りませんよ」
 もちろん、刺す場所と刺された相手次第では、命を落とす可能性はある。だが、刺された直後に子供達を庇うほどに動けたのなら、アランにとってグレンにより齎された傷は、すぐに命を落とすほどの深手ではなかったはずだ。
「それでも、グレンさんは自分の罪を自覚していたのだと思います。それに、コーディさんを助けてくれと頼んだのも、グレンさんでした」
…………
「グレンさんは、コーディさんを竜の前に突き出したのかもしれません。でも、彼は……きっと、後悔したのだと思います」
 この発言は、全て推測から成り立っているものだ。それは分かっていながらも、ノエは敢えて推測に推測を重ねる。
「その時は、飛竜に襲われて、グレンさんも怖かったのでしょう。だから、咄嗟に自分が助かることばかりを考えてしまった」
……でも、後悔してたから、俺を助けてほしいって……頼んだ?」
「はい。言葉を出すことができないはずのグレンさんが、あなたを助けてほしいと頼むときだけ、声を発したんです。その時の彼の気持ちまでもが嘘であるとは、僕は思いません」
 コーディはノエの腕の中で、じっと黙りこくったまま、しばしの時を過ごした。微かに漏れ出る息の合間合間に、少年は考え続けているようだった。
 自分の友人は、果たして自分が知る彼のままでいるのかどうか。
 実際に対面しなければ、答えは出ないだろう。
 だが、誤解を間に挟んだまま再会して、仲違いするような結末になってしまうのは、ノエとしても望むところではない。だから、せめて少しでも心のしこりを解いた状態で再会することができれば、とノエは願う。
……グレンが何を考えているか、今の俺には分からない」
……コーディさん」
「だから、話をするよ。友達、だからさ」
 コーディはごしごしと顔を腕でこすり、まだ赤みの残る瞳を弓の形に撓ませて笑顔を作る。それは、彼の得意とする空元気かもしれない。けれども、それが幼い彼が膝を折らずに歩くために必要な、精一杯の虚勢であるとノエにもすぐ分かった。
「それで、アラン先生を傷つけたことは……ちゃんと、アラン先生のお墓の前で謝らせる! それは絶対だ!」
……そうですね。きっと、コーディさんが叱ってくれたら、グレンさんも反省すると思います」
「うん、絶対そうだ。よーし、そうと決めたら、俺、グレンに説教するためにちゃんと休む!」
 コーディはいそいそとノエの腕の中から抜け出ると、がばりと布団の中に潜り込んでしまった。それが、彼なりに一人の時間を欲しているのだと分からないほど、ノエも野暮ではなかった。
「では、僕は皆の様子を見てきます。コーディさん、一人でも眠れますか」
「子供じゃないんだから平気だってば!」
 布団の奥からくぐもった返事と共に、ひらりと褐色の手が振られる。ノエは照明はそのままに、扉へと手をかけた。
 蝶番を軋ませ、扉を開いたとき、
……ありがとう、ノエ兄ちゃん」
 微かに聞こえた少年の感謝の言葉に、ノエは「どういたしまして」とだけ小さく呟き返した。
 *
 扉をくぐり、廊下へと出てから、ノエは細く長く息を吐き出す。
 コーディにはああ言ったものの、少年を一人にしておくわけにもいかず、ノエは扉の脇に身を預けて、少年の眠りの番をしていた。
 とはいえ、誰も通らない廊下で、何かすることがあるわけでもなし。そうなると、暇を持て余したノエの思考は、すぐに先ほどの話について吟味し始めた。
……グレンさんは、どうしてアランさんを刺したのか」
 コーディには、その部分についてはさっぱり見当がつかなかったようだった。
 だが、ノエにはすぐ思い当たる部分があった。
「直前に、アランさんは異端者をやっつけた、とコーディさんは話していました」
 騎兵を交えた異端者との一戦は、厳しい戦いだったはずだ。竜に変じた異端者の首から血が溢れ出るほどだと、コーディは言っていた。返り血を浴びるほどの惨状は、少年にとっては衝撃的だったに違いない。
 だが、グレンにとって、それはただ、グロテスクなものを見て本能的な忌避感を覚える、というだけにとどまらない。
……きっと、グレンさんは思い出してしまったんだろう」
 彼の母は、アランによって殺されている。異端者であった母の最期は、竜に変じた姿だったとアランは語っていた。
 グレンにとって、あの襲撃のとき目にした光景は、母を失ったときの再現そのものだったはずだ。
「だから、彼は……アランさんを発作的に刺してしまったんだろうか」
 だとすると、グレンは、日頃からナイフを持ち歩いているのだろうか。
 発作的に刺したのだとしたら、随分とタイミングよくナイフが懐にあったものだ。そもそも、人に向かって刺す方法を彼はどこでどうやって知ったのか――
 そこまで考えが至った瞬間、ノエは目を見開く。
……そうか。そういう、ことだったのか」
 ノエの中で、一つ一つのピースが嵌っていく。
 初めて少年と会ったときの様子。剣の鍛錬を続けている小さな背中。
 騎士に憧れているのだろうかと思い、彼の鍛錬に手を貸したのは誰だったか。長剣に振り回されているように見えたグレンを指導したのは、誰だったか。
「グレンさんに、ナイフのほうが扱いやすいと教えたのは、僕じゃないか……!」
 思わず、己の額に拳を何度も打ち付ける。
 考えてみればすぐに分かることだ。
 グレンの稽古に初めて付き合ったとき、彼はどんな反応をしていたか。
 ――グレンさんは、大きくなったら騎士になりたいのですか。
 剣の稽古に励む彼に尋ねたとき、グレンは首を『横に』振っていた。
 ならば、彼は何のために剣を握ったのか。そのことについて、ノエは尋ねなかった。
 力を得て、生きるためか。きっとそうではない。
 強くなるためか。それも、おそらくは似ているようで違う。
 なぜなら、その答えを、グレンはもう示している。
「彼は……復讐するために、剣を取ったんじゃないのか」
 本物の剣をノエが見せたとき、グレンは食い入るようにそれを見つめていた。
 そこに、憧れの気持ちはあっただろう。だが、憧れ以外の感情もなかったか。
 早くこの剣を振いたい。ノエは、グレンがそのように感じていると思い、彼の焦燥を微笑ましく感じていた。
 だが、その焦りは、純粋に強さを求めていたが故に生まれたものではない。
……彼は、一刻も早く、仇を取りたかったのだろうか)
 だから、グレンはナイフを忍ばせていた。いつでも、自分の仇を討ち取れる機会があれば逃すまいとして。ナイフならば、孤児院でも利用する機会はある。一本隠し持っておくことも難しくない。
 そして、異端者との戦いで疲弊したアランの隙をついて、少年は復讐者としての一歩を踏み出した。
……でも、グレンさんは後悔をしていた。僕は、あなたの心がアラン先生の死を悲しんでいることを知っている)
 アランならば、グレンの心が楽になれる場所を作ってくれるかもしれない。ノエがそう伝えたとき、グレンは反証をしなかった。
 アランの遺体に最期の別れを告げるとき、少年の顔には仇が死んで喜んでいる様子などは微塵もなかった。
(だったら、グレンさんが自分の心に向き合い、一つの答えを見つけるまでは……この話は伏せておこう)
 どのみち、既に全ては終わったことだ。事の全てを打ち明けたところで、アランが蘇るわけではないのだから。
 は、と短く息を吐いて、ノエは石壁に背を預ける。ひやりとした石壁は、思考を続けて熱くなっていた頭を程よく冷やしてくれた。
……僕が、グレンさんの鍛錬をしなければ。もっと違う結末があったのだろうか」
 考えても詮無いことであると分かっていても。
 その可能性は、ノエの頭に薄くこびりついていた。