僕は本当はとても怒っていたのだけど、どこか憔悴した様子の色褪せた兄さんの顔を見てしまったら、そんな気持ちは急速に冷えて小さくなってしまった。
突然押しかけてしまった上に、兄さんと二人で話がしたいから少しの間、席を外してほしい、という一方的な僕のお願いを兄さんと同室の二人は快く受け入れてくれた。自分のベッドに腰掛けて、最小の動きで僕を見てうっすらと笑った兄さんが何だか小さく見えてしまって、僕は居ても立ってもいられなくなって、早足で兄さんに近づく。
「兄さん」
声をかけた僕に、よお、といつものように返した兄さんは、でも、いつもとは全然違った。声の調子も、笑い方も。
だから、というのも変な話だけれど、兄さんは僕を追い返さない、そう判断して兄さんの隣に腰掛ける。帰れ、と言われたところで、諾々と受け入れるつもりはなかったけれど。
「椎名さんから聞いたよ。兄さんが、箱に閉じ込められて……というか自分から入って、出られなくなって、危うく死ぬところだった、って」
兄さんは返事をしなかった。それについて特に反論する気はないのだろう。事実だから。
はは、と笑った声が乾いていた。
「暗くて狭いところが苦手なのに、どうして自分からそんなところに入ってしまったの?」
冷えていた怒りが、少し時間が経って常温に戻って、手に取ってゆっくり眺められるようになったからだろう。僕は怒っていたのではなくて心配していたんだ。と、落ち着いて考えればすぐにわかったことを改めて認識できたから、責めているのではない、という気持ちを込めて兄さんに問うと、兄さんはばつが悪そうに笑った。
「別に俺っち、暗いのも狭いのも平気だけど?」
やっぱりまだいつもの眩しさはなかったけれど、それでも最初に見た時よりはずいぶんましな顔色で、ほっとする。
「でも、あの時の兄さんは泣いてたよね」
「は? あの時?」
「陥没した穴に落ちて、行方不明になった時だよ」
小さい頃、山で狩りをしてくる、と言ったまま夕餉の時間になっても兄さんが戻らなくて、郷中大騒ぎになったことがある。兄さんが抜け道を使ってたびたび外の世界を見に行っていることを知る人はあまりいなかったから、というのもあるけれど、夕餉の時間に遅刻はしても、理由もなく席につかないことは一度もなかったから、何かあったに違いない、と僕を含めた全員がそう思った。
「幸い大きな怪我はなかったけど、道具もなしに自力で出るのは不可能なくらいに深い穴だったよね」
兄さんの目がうろうろとさまよう。多分、何かしら誤魔化そうとしたんだろう。でも結局、それはやめたみたいだった。
「……そんなこともあったなァ」
「郷のみんなで探し回って、二回目の夜が来た頃になってようやく僕が見つけた」
「あん時も言ったけどよ、夜の山に入るんじゃねェよ。おめェまで落ちたらどうするつもりだったンだ」
「僕は夜目が利くから大丈夫だよ」
「そういう問題じゃねェんだよ」
咎めるように僕の頭に置かれた兄さんの手は、言葉とは裏腹にとても温かくて優しかった。
大人たちが捜索隊を組んで山に入ってもなかなか見つからなくて、僕も行く、と言うと当然、お前はまだ子供だから、と拒まれはしたのだけれど。
でも、兄さんのことを一番知っているのは僕なのだから、僕が探すのが一番効率がいいはずだ、と僕は信じていたから、大人たちに黙って山に入って、僕の手ではとても届かないところにいる兄さんを見つけた。
「人を呼びに戻ろうとしたら、縄があれば出られる、って兄さんが言うから、木にくくりつけて、垂らしたんだ。万一を考えて縄を持っててよかったよ。まあ、手持ちがなくてもその場にあったもので何とかしたけど」
「万一って、何考えてたンだよ」
「兄さんが穴に落ちて出られなくなってるかもしれないってことをだよ」
「ドンピシャじゃねェか。でもまァ、あれはマジで助かったわ。ありがとな」
「あの時も、お礼を言ってくれたね。泣きながら」
あの時の兄さんのことは、今でもはっきり覚えている。
僕を見るやいなや、僕に抱きついた力の強さも、僕の名前を繰り返し呼ぶ熱い声も。
僕に縋りついて、僕よりも小さな子供みたいに泣きじゃくっていた兄さんを。
僕より強くて賢くて何でもできて、いつも僕を守ってくれる兄さんのあんなにも脆くて弱々しいところを見たのは、あれが最初で、最後だった。
無事二人で下山して父さんに叱られた僕を庇ってくれた兄さんとその日は一緒の布団で寝て、朝起きたら兄さんはもう、昨日の夜のことなんてすっかり忘れたみたいな、いつも通りの、僕がよく知る頼もしい兄さんだった。
「泣いちゃいねェだろ」
「泣いてたよ。怖かった、って」
「あー……うん、まぁ、そうだったかもな」
兄さんは僕の記憶が不確かであることに賭けたのかもしれないけれど、その賭けには勝てないとわかったんだろう。素直に、とは言い難くはあっても、可能性として認めることはした。
「だから僕は兄さんが、落ちた穴が暗くて狭くて怖かったのだと思ったんだけど」
「違ェよ」
僕の言葉を遮るように否定した割に兄さんの口調はどこか弱々しい。
「……が、怖かった」
「え?」
だからよく聞こえなくて、聞き返した僕に、兄さんが顔を近づける。
僕に、寄りかかる。
まるで、縋るように。
「……独りが、怖かった。誰もいないところで誰にも気づかれずに独りで死んでいくのが、怖かった」
兄さんは割れそうなくらいに薄い声でそう言って、僕の手を握った。
ひとりにしないで。
そう言ってるみたいに。
僕が抱きしめると兄さんは僕の肩に頭を乗せる。
泣いていたのかもしれない。
多分僕は何も気づいていない振りをしていた方がいいと思って詮索はしなかったから、実際のところはわからないけれど。
「……じゃあもう、自らそんな危険な目に遭いに行くのはやめてほしいよ。いくら僕がそばにいようとしても、兄さんが何も言わずにどこかに行ってしまったら、僕にはどうすることもできないのだから」
「うん……」
素直に頷く兄さんは、あの日の兄さんと同じだった。
大丈夫だよ、兄さん。
兄さんは独りじゃないから。
いつだって、ずっと、僕がいるから。
絶対に兄さんを独りで死なせはしないから。
落ちる時は、僕も一緒に落ちるよ。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.