おねえ
2024-09-02 20:37:14
2390文字
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陽炎-before summer-

1つ前の「陽炎」の裏設定ストーリーです。
単体でも読めなくないですが、出来れば読み終わってから読んで欲しいです。

 春のくせに夏みてえに暑い日だった。
 あの頃の俺はタイムが思ったように伸びない日が続いていて、俺のアイデンティティである走りとか疾さとかにも翳りが見えた気がして焦っていた。
 新婚の教師と身体の関係を結ぶ。それが悪い事だと分かっていたが、もうそれに縋るしかない。みんなから求められる上辺だけの俺の影に隠した本当の俺を知る人間は少ない。
 恋愛対象が同性で『普通』の枠から外れた俺の事を。
 明るくて人当たりもよく、顔が良くてスポーツも出来る。悩みなんか笑って吹き飛ばし、誰からも頼られる気のいい俺でなくては。
「豊前? どうかしたか?」
 同級生の部員に声を掛けられてハッとする。
「ああ、なんか疲れたみてえだ。気晴らしに飲みもん買ってくるわ」
 ヘラヘラとした笑いを貼り付けて答えると、じゃーな! と手を振り自販機へと向かった。
 
 スポーツドリンクが売り切れていたので麦茶を買いグラウンドへ戻ろうとすると、何やら話し声が聞こえた。
 普段なら気にも止めないのに、やけに引っかかってしまったのは、その弱った心に沁み込んでくるような優しい声色のせいか。
 見るとそこには大柄の生徒がひとり、花壇の前にしゃがみこんでいた。制服のワイシャツに着いた校章の色を見る限り下級生か。被った帽子には「桑名」という刺繍があった。
 ん? ひとり?
 俺は気になってその様子を見つめる。
「少しだけど芽が出たねえ。大きくなっててえらいえらい」
 そう言いながら地面からひょっこり顔を出した小さな芽に優しく触れながら話しかけていた。
 変な奴。そう思いながらもそいつの行動が気になってこっそり見つめてしまう。
 その変な奴は、今度は枯れ始めた草に触れて話しかけ始めた。
「君はいっぱい咲いたんだね。遺してくれた種は大事にして、来年また植えるよ。お疲れ様」
 えらいとかお疲れ様とか、そんな優しげな言葉を優しい声で植物に伝えるのかよ。
 ――人間の俺すらまともに言われたことの無い言葉を。
 
 みんな俺のことを完全無欠完璧超人か何かだと思い込んでいる。そのせいか、あらゆるヘルプが俺の元へと届いた。
 断ってもいい。それは理解している。でも怖かった。みんなの思い描く「完璧な俺」を裏切るのが。だから笑顔を貼り付けてOKして、必死で「完璧な俺」であり続ける。
 そうして完遂したタスクを受け取った人間は、簡単な礼は言えど労いの言葉などかけることは無い。「お前なら出来て当然」。そんな心の声が毎度聞こえてくるようだった。
 
 俺が唯一縋る相手だって同じだ。俺が完璧超人であることが前提で触れてくる。
 完全無欠な美人の弱みを察し、それに気がついた唯一の人間という優越感に浸っているだけだということは薄々分かっていた。センセー以外に縋る相手のいない俺が簡単には離れていかないとたかを括っているからこそ、ぞんざいに扱っても平気だし家庭を捨てる気なもさらさらないことも理解している。
 センセーが俺を求めるのは、世間に対してのマウントだ。誰にも知られることのない自己満足。俺を抱いているときだけ感じられる自己顕示欲に酔っている小さい人間だ。
 それに辟易としつつも、俺の内面を晒すことが出来る唯一の相手であるから離れられない。センセーの目論見通りだ。それがひどく癪に障る。
 
 だから俺は決めた。センセーには自分から求めないことを。身体も、心も、センセーの気持ちも。
 センセーから求められた時だけ他の誰にも見せられない同性愛者の一面を覗かせ、センセーの望む俺になってやる。
 センセーが俺を利用しているのと同じように、俺だって利用してるだけだ。俺だってセンセーと同じ弱っちい人間なんだ。そんな自分への嫌悪感が消えない。

「また明日も来るからね。元気でいるんだよぉ」
 優しい声にハッと我に返る。
 視線の先にはさっきの後輩が愛おしげに植物へと手を伸ばしていた。そして優しく触れると立ち上がる。
 ずっと見ていたことがバレないように、俺はさも今しがた通りがかりましたという表情でグラウンドへと戻った。
 
 その日、俺のタイムは久しぶりに伸びた。
 他の部員に羨望の眼差しで見られながら、調子に乗った仕草を見せてやる。そうすればみんな口を揃えて言うんだ。「流石、豊前だな」って。
「だろ? 俺、すげーから!」
 自慢げに笑えば、みんなも呼応するように笑う。いつもならその様にヒリつくような感覚があるが、今日は違った。みんなの笑い声が心地よい。
 
 いつもと違う俺の心の奥にあるのは、産まれたての柔らかな感情。
 ――あの手であんな風に優しく触られたら、俺も何か変わるかな。
 日陰で生きる俺には当たらないはずの柔らかな日差しのような光は、俺が知らなかった感情を芽生えさせた。
 あったかくて、柔らかくて、それでいてほんのり痛い。一般的に呼ばれる感情よりは淡く弱々しい、産まれたばかりの気持ち。
 いつかあの光に手が届いたら、触れてくれたら、この痛みは消えんのかな。
 こうして湧き上がった想いは俺の中の希望となった。

 あの日見た光に触れたくて、俺は毎日、部活前の時間で花壇を見に行く。そこでは枯れ始めた花はいつの間にかいなくなり、代わりに芽生えていた植物が背を伸ばしていた。
「おー。今日も元気に育ってんな」
 誰もいない花壇でなんの花かも分からぬ草に話し掛ける。あの日、アイツがしていたことの理由がほんの少しだけ分かった気がした。
 誰の目にも止まらぬとも、命を滾らせ成長するものへの愛おしさ。それがアイツの心の中にあるのかもしれない。
 僅かに聞こえるひとり分の足音。それを合図に、俺はその場を立ち去る。
「わぁ。今日も元気に育っているねぇ」
 そんな柔らかな声を背中で聴きながら。