何せ彼は王の側近なので、二人きりで会える日は限られている。それに私も女王の命でメリニにいる身だったから、忙しい日々が続くこともあった。
それでも、カブルーは思い出したように城を抜け出し、私の屋敷にやってくる。迷宮にいた頃と同じかそれよりも丁寧に私に湯浴みをさせ、食事をさせ、若い男らしからぬ優しさで私を抱く。私も、彼にすがって額をこすり付ける。
彼が滑らかな褐色の指先が悪魔に潰された耳や、義眼をはめた目をなぞるたび、私は欲望のかけらを感じる。悪魔に食われてしまったはずの欲望が、芽生え出すのを感じる。
「そういえば、今夜からまとまった休みが取れるんです」
夕暮れ時、使用人を下がらせ、二人きりで食事をしていた時、ランプの灯りだけが確かな部屋でカブルーは言った。彼は子羊のクレピネットを切り分けて口に運び、満足げに咀嚼する。
「まとまった休み? 急な話だな」
私は軽くワインを飲むふりをして、そう尋ねた。するとカブルーも酒で料理を流し込み、楽しそうに笑ってみせる。ランプに揺れるそれは、彼にしては珍しい表情だった。もしかしたら、もうしたたかに酔っ払っているのかもしれない。
「そうです。これで心置きなくあなたと朝寝ができるってものですよ。我が悪食王は人使いが荒いですからね、ようやく得た休みは有効に使わなくては」
「私は仕事があるが……」
とはいっても、女王の命は気まぐれで、私はほとんど自由の身だったし、フィールドワークとしている魔物の研究を追いやれば、彼の言う通り二人で朝寝が出来ることだろう。恋人のためならそれくらいしたいと思うものなのかもしれないが、愛情というある種の欲望が薄いままの私には、やはりよく分からなかった。
普段なら朝早く出てゆくこの男と、太陽が上にあがっても眠る生活。それはきっと勤勉な役人なら怠惰と遠ざけるべきものなのだろうが、でも、私はそれに少しだけ憧れを覚えた。それが、彼が再び芽生えさせてくれた、欲望というものなのかもしれない。
「もちろんミスルンさんの生活リズムに合わせますよ。でも、恋人と朝寝って俺にはなかなか出来ないから、憧れがあって」
そうだな、お前はどれだけ夜に優しい顔をしても、朝には役人服を着込んで公人に戻ってしまっているから。それがお前が選んだ道だから。冒険者の次の道はこの国のために生きることだから。それこそ短命種は人生が短いのだから、あの男に断りも入れずに、私とずっと寝ていてもいいのに。
ランプがまたたく。油が切れかかっているのか、炎が少しだけ小さくなる。そろそろ食事も終わりにしようか? そうしたら風呂にでも入るか? この男と一緒に? それからいつものように寝るのか? 抱きしめられて、かつて乳母が揺らしていたゆりかごの中でなんの心配もなく目を閉じるように。
「ミスルンさん、食事が終わったら散歩でもしませんか? ここら辺は街中だけど、少し行くと星がきれいな遊歩道があるんです」
カブルーがワインを飲み干す。私は羊肉を切り分けながら、それを口に運び、そうか、今日は急ぐ必要がないのだ、と思った。
私たちはずっと、何かに急かされるようにして肌を重ねてきた。それは彼の仕事の忙しさから来るものだったのかもしれないし、短命種と長命種の生命の長さの違いを本能的に理解していたからかもしれない。どちらにせよ、私たちは愛し合っていたが、普通の恋人たちとは違って、どこか欠けているようでもあった。
そう、多分私たちには時間はあまりなくって、焦っているのだ。
いや、焦っているのは私の方だな。彼は必ず私を置いてゆく。誠実に愛されれば愛されるほど、長命種の私は彼の死を感じる。少しずつ欲望が芽生えていけばいくほど、残された時のことを思ってしまう。
「……そうだな、今日くらいお前の好きにすればいい」
私は食事を終え、ナプキンで口元を拭う。するとカブルーは楽しそうに笑い、テーブルの上に肘をついて私を見つめ目を細めた。酔っ払った目は、私のすべてを見通しているように思えた。カブルーは元々観察眼が優れた男だが、普段の論理的なそれよりもずっと、今日は直感的に見つめられている気がした。
「ミスルンさん、新しいランプは?」
「明かりなんて魔法で灯せばいい。さっさと行くぞ」
私はそう言って、カブルーの褐色の腕を掴んだ。筋肉のついたたくましいそれは私の腕とは違って、体温が高かった。青い瞳は夜目がきき、私の無表情なそれから感情を読み取っているようだった。
「急がなくていいのに。まとまった休みがあるのに、せっかちですね」
甘い声がする。
でも、短命種のお前は急がなくちゃあいけないだろう、とは言えなかった。
カブルーが私を導いたのは、黄金郷を望む美しい遊歩道だった。
虫の鳴き声が聞こえる。遠くから魔物の鳴き声が聞こえる。私たちは魔物に守られた伝説の都、私はそんな都が見える、手入れされた草原の中にいた。明かりは魔法で灯し、少し距離をとって浮かせた。あまりにもまぶしいと、夜目のきくカブルーの瞳に悪かったから。
「ここは静かでいいところだな。それに手入れもきちんとされている」
「そうでしょう? ミスルンさんなら気にいると思ったんです」
朗らかな声でカブルーが言う。私はそれを聞きつつ、でも、街中にある屋敷の騒々しさも少し懐かしいな、とぼんやりと思った。というのも、私が生まれ育ったのが使用人の多い家だったので、人の気配に安心するところがあるのだ。
「けど、俺はうるさいところの方が好きかもしれないな。母さんは飲食店で働いていたし、酒に酔っ払う客も多かったから。夜遅くに迎えに行くと、こんなところに来ちゃいけないって言われましたけどね」
「そうか……」
カブルーは少しだけ、いつもより饒舌だった。
私は彼の過去をあまり知らない。私の過去について彼はほとんどすべてを知っているのに、私は彼のそれを持たない。
大きな月、またたく星、人の気配のしない、静まり返った遊歩道。虫たちの鳴き声、黄金郷を守る魔物の咆哮。
そんな中で、私は少しだけ彼との重なりを感じる。静かな場所よりも人の気配がするところを好むこと、それだけなのに、どうしてか二人にとって、とても大きなことのように思える。
「迷宮に潜っていた時は、酒場の地下に寝床を借りていました。うるさかったけど、どこか懐かしくって。母の働いていた店みたいだなぁって。……なんだか、俺、今日母さんの話しかしてませんね」
あなたと、もっと色々話したいのに。カブルーが言う。
でも、私もお前の家族について知りたい。お前を一人で立派に育てた母について知りたい。けれど、今踏み込むのは無作法だろうか? いや、私はもっとお前について知りたいんだ。早く、早く、すべてが過ぎ去ってしまう前に。
「もっとしていい。まとまった休みが取れたんだろう? お前の家族の話が聞きたい。お前が私の話を聞いてくれたみたいに、お前の話を聞きたい」
たとえば、自分が自分と気付いたのはいつ? お前は聡いから、ゆりかごで寝ていた頃からすべてを見通していそうだな。
私がそんなことを言うと、カブルーは、買い被りすぎですよと笑って首をかいた。巻き毛が腕に触れ、くしゃりと潰れる。気だるげな表情。それに触れたい、とかすかな欲望が生まれる。これを伝えたら彼は喜ぶだろうか? いつものように、ゆりかごの中にいるように抱きしめてくれと言ったら、彼は喜ぶだろうか?
私は分からない。そんなもの、分かるはずがないのだ。私はさまざまなものをなくしてしまったから、食われてしまったから。もしそれを今も持っていたら、お前を喜ばせられるかもしれないのに。
「ミスルンさん……」
そんな時、かすかな体臭とともに、私は抱きしめられた。誰もいない遊歩道で、昼間は恋人たちが逢瀬に使う遊歩道で、星が輝く遊歩道で私は抱きしめられた。
「……カブルー?」
「ゆっくり、あなたを愛したい。いつもみたいに急ぐんじゃなく、ゆっくり、あなたを愛したい」
言葉を紡ぐ若い声は、甘く優しく響く。私はそれに指先をしびれさせて、もし義眼が生身のそれだったら、両の目でこの男を取りこぼしなく見るのに、と思った。それこそ彼が言うようにゆっくり、時間をかけて。
鼻の奥がかすかに痛む。私たちには時間がない。でもそれでも、丁寧に愛し合うことは出来るはずだった。彼がそうしてくれるように。
カブルーの言う通り、明日はともに朝寝をしよう。戸惑った使用人が朝食を持ってうろうろしても、抱き合って眠っていよう。かつて何にも脅かされることなく眠っていられた、あのゆりかごの中での眠りのように、今は星々の中にいよう。
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