桐子
2024-09-01 15:04:21
5058文字
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いとおしい獣③(父水)


2 毒蛇の巣

高級旅館で濃密なひとときを過ごした水木は、ゲゲ郎とともに旅館を後にした。ゲゲ郎いわく「あんなところは肩が凝る」とのことだ。
黒塗りの立派な車で連れて行かれたのは、大きな屋敷だった。一見すると、ごく普通の日本家屋に見えるが、門構えや庭の広さを見ると、相当裕福な家のようだ。ゲゲ郎は慣れた様子で中へと入っていく。
「ここは?」
「わしの住んでおるところじゃ」
「お前、……金持ちなんだな」
「まあ、そこそこのう」
古めかしい門をくぐった先に、広い庭がある。石畳を歩きながら、水木は落ち着かない様子で周囲を見回した。
「そんなに緊張せんでもよい」
「いや、緊張するだろ」
庭だけで水木の住んでいるアパートが三つも四つも入ってしまいそうな広さだ。しかも庭の池には鯉が泳いでいるし、鹿威しまである。これが個人の邸宅とは。
「こっちじゃ」
ゲゲ郎に手招きされ、後に続く。すると、玄関先に一人の男が現れた。背が高い長髪の男だ。ゲゲ郎と同じ和装で、細めた目がどこかうさんくさい。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「うむ。ただいま帰ったぞ」
「そちらの方が……
男は意味ありげな視線を水木に向けてきた。ゲゲ郎はにこにこと笑って「そうじゃ」と言った。
「わしの大切なお人じゃから、丁重に扱ってくれ」
男は驚いたのか、一瞬言葉を失った。だがすぐににっこりと微笑んだ。
「これは失礼いたしました。私はこの屋敷の使用人たちをとりまとめております、長田と申します。以後お見知りおきを」
そう言って恭しく頭を下げる男に、水木は戸惑いながらも頭を下げた。
「鬼太郎様がお待ちです。それと、あとで顔を出すようにと乙米様が」
「うう……わかった。すぐ広間へ行く」
ゲゲ郎は嫌そうな顔を隠そうともせず、渋々といった様子で頷いた。
ゲゲ郎に案内され、奥へと進んでいく。まるで迷路だ。しかし、床は飴色に磨かれ、ちりひとつ落ちていない。廊下に活けられた花は美しく、さっきまでいた高級旅館にひけをとらない。
「ここがわしの住む離れじゃ」
母屋らしい立派な建物と廊下で結ばれたのは、平屋建てのちんまりとした小さな部屋だった。質素な和室にはちゃぶ台が置かれ、隣にある寝室と二部屋しかないようだ。
「こじんまりしておってすまんのう」
「いや……
水木は首を振った。むしろ落ち着く広さだった。ゲゲ郎は『旦那様』と呼ばれていたのだからこの家の主なのだろう。それなのにこんな狭い部屋でいいのだろうか。
ゲゲ郎は「まあ入れ」と言って中へ招き、やかんを火にかけた。
「あの母屋は前の当主の趣味なんじゃが、ああも悪趣味じゃと居心地が悪い。じゃからここに倅と二人で住んでおるのじゃ。倅は鬼太郎というて、これがまたほんにできた息子でのう。今は母屋にうつってもらっておる」
湯が沸いたのか、ゲゲ郎はやかんの火を止めてお茶を淹れてくれた。
「狭いところで悪いが、お主も今日からここで暮らすことになる。自分の家だと思って気楽にしておれ」
「息子さんには、俺のこと言ってるのか?」
「ああ。お主に会うのを楽しみにしておるよ」
楽しみ? 父親の種付け相手に会うのに?
変わっているなと思いつつお茶を飲んだ。少し熱いが、渋みがなくて飲みやすい。
しばらく黙ってお茶をすすっていると、襖の向こうから声がした。
「父さん、失礼します」
「おお、鬼太郎。入りなさい」
襖を開けて入ってきたのは、ゲゲ郎と瓜二つの男の子だった。小学生くらいだろう、とにかくゲゲ郎と同じ顔をしている。違うのは髪の色が栗色だというところくらいだ。
鬼太郎と呼ばれた男の子は、水木の顔をじっと見てきた。目が大きいこともあいまってどこか不気味だ。
「こんにちは。鬼太郎です」
鬼太郎はぺこりと頭を下げた。水木も姿勢をただし、頭を下げる。
「初めまして、水木です。君のお父さんの……
そこまで言ってから、まさか種付け相手ですとも言えず言葉をつまらせてしまう。こんな小さな子だと思わなかったのだ。しかし、鬼太郎はスンとした無表情で「分かってます」とだけ言った。
「父さん、乙米さんが呼んでます」
「そうか……やれやれ、仕方ない。行くとするか」
あからさまに気乗りしない様子で、ゲゲ郎は立ち上がった。
「水木さんのこともお連れしろと」
……わかった。すまんが来てくれ」
「あ、ああ……
水木は戸惑いながらも立ち上がった。自分まで呼ばれるとは、どういうことだろうか。
離れを出ると、ゲゲ郎は母屋に向かって歩き出した。長い廊下が続き、その突き当たりにある立派な襖の前で足を止めたゲゲ郎が口を開いた。
「失礼する」
返事を待たずに襖を開けると、そこには二十畳以上はある広間があった。惜しみなく金箔を使用した襖には龍の画が描かれている。
その奥に座る、和装の女がいた。年齢は五十代くらいだろうか。赤い口紅をひいた唇は艶めいており、目力のある瞳が印象的だ。若い頃はさぞ美しかったことだろう。
「お帰りなさいませ、お兄さま」
女はじろりとゲゲ郎を睨み、続いて品定めするような視線を水木に向けた。どうやら歓迎されているわけではないようだ。明らかにゲゲ郎よりも年上に見えるのに、ゲゲ郎を「お兄さま」と呼ぶのには違和感があったが、とりあえず頭を下げた。
ゲゲ郎はすたすたと上座へ向かい、厚い座布団の上に座った。さて、自分はどこへ座ればよいのかと思っていると、鬼太郎がちょいちょいとスーツの裾を引いて、自分の隣、和装の女と対面する位置にある座布団を差した。
「水木や。こちらは乙米という。わしにかわってこの屋敷の運営を一手に引き受けておる。こちらは水木といっての……

「犬くさい」

乙米は着物の袖口で顔の半分を覆い隠し、侮蔑を隠さずに言った。初対面でいきなり何を言い出すのだ。乙米の言葉に動揺したのは水木だけではなかった。ゲゲ郎も驚いたように目を見開いたあと、すぐにムッとした表情になった。
「わしの大切な客人に向かって無礼ではないか」
「お兄さまこそ、こんな汚らわしい者をこの屋敷に招くなど、何をお考えですの。よりにもよって犬など……中間種でも軽種でもかまいませんから、蛇の目の者をお迎えください」
乙米は心底不快そうに顔をしかめた。
最初に会った代理人も、探しているのは蛇の目だと言っていた。この種付け契約は、どうやらゲゲ郎の一存で決められただけで、家の者は納得していないのだろう。
「水木さんといったかしら……契約違反はこちらがしたのですから、お金は払います。ここはあなたのような方が足を踏み入れてよい場所ではありません。お帰りなさい」
金さえもらえれば何でも言うことをきくだろうと言わんばかりの言いぐさだ。水木はさすがにムッとした。
だが、ここでごねても仕方ない。
ーーーもらえるものがもらえるなら、尻尾を振って出ていくさ。
「わかりました。すぐにでも……
水木がそう答えるようとすると、高慢な笑みをうかべた乙米の表情が、凍りついた。

「それは困るのう」

水木の言葉を遮ったのは、他でもないゲゲ郎だ。穏やかな口ぶりだが、目だけは笑っていない。
ずん、と場の空気が重くなった。息苦しい。声を荒げているわけでも、表情がけわしいわけでもない。それなのに、ゲゲ郎が激しい怒りをたぎらせていることが伝わってくる。
「水木は大切な客人じゃ。出ていけなどと……あまりに無礼ではないか?」
……っ、こほっ……!」
乙米が苦しそうに咳き込んだ。その目には怯えの色が浮かんでいる。
「わしは子を作れというお主の言葉をのんだ。たいそう譲歩しておる。そのくせ、相手に対してごちゃごちゃと文句をたれるとは、全く見苦しい」
「ごちゃごちゃなど……わ、私はただ……

「乙米」

その言葉がとどめだった。名前を呼ばれ、乙米は唇をわななかせたあと、すっくと立ち上がった。そしてそのまま広間を出ていってしまう。
「父さん、水木さんがしんどそうです」
鬼太郎はこれだけの威圧感の中にいても、平然とした様子だった。息子にたしなめられ、ゲゲ郎はようやく重種の圧を消した。水木は思わず息を吐いた。
「すまんな、水木」
ゲゲ郎が申し訳なさそうに眉を下げた。
「いえ……それより、よかったのか?俺なんかのために」
「お主は大切な客人だと言ったじゃろう。それに、わしはお主に子を産んでもらいたいと思っておる。なあに、わしと乙米の喧嘩など日常茶飯事じゃ」
そう言って微笑むゲゲ郎に、水木は何も言えなかった。
離れへ戻ると、どっと疲れが出た。
「大丈夫ですか?」
鬼太郎が心配そうな表情で水木を見る。
「ああ……
「今日は早めに食事をいただいて、寝た方がいいですよ」
それがいい、とゲゲ郎も同意した。小学校中学年くらいにしか見えないが、ずいぶんしっかりした子だと水木は感心した。お手伝いさんが食事を運んできてくれたので、ちゃぶ台を囲み、三人で少し早い夕食をとった。刺身や煮付け、天ぷらに味噌汁、つやつやのご飯。旅館と遜色のない豪華さだ。食事は基本的に離れに運んでもらうのだそうだ。
「掃除はできるが、わしは料理は壊滅的に苦手なのじゃ」
「父さんは魚を焼こうとして、壁を燃やしてしまったんです。それ以来台所には立ち入り禁止なんですよ」
なごやかに食事を終えると、鬼太郎は「では、おやすみなさい」と言って離れを出ていった。
「よかったのか。鬼太郎くんもここで寝起きしてたんじゃ……
水木が親子の間に入り、追い出してしまったようで申し訳ない。親子はいっしょにいるべきだろう。
「それがのう、……鬼太郎は、水木さんが来のはいい機会だ。いい年して父さんと寝起きするのもどうかと思っていた、自分は一人で寝起きしたいなどと言うのじゃ……わしは寂しい……
しょんぼりと肩を落としてそう言うので、水木はつい吹き出してしまった。どうやら鬼太郎は年のわりにしっかりしているらしい。あのくらいの年なら、一人部屋が欲しいと思っても不思議ではないのかもしれない。
「あんた、自分の子どもより子どもだな」
「うるさいわい」
ゲゲ郎は拗ねたようにそっぽを向いてしまった。白い髪が顔の半分をすっかり覆い隠してしまう。細い首やとがっ顎の線などを見ていると、細身で華奢な印象を受けるのに、やはり重種と言うべきか。圧倒的な存在感がある。
「まあ、息子も気を遣ってくれておるのじゃ。乙米とは大違いじゃ」
一瞬、人の家のことに首を突っ込むのはどうかと思ったが、つい口が滑ってしまった。
「乙米……さんとは、そんなに仲が悪いのか」
……あやつは心根は悪くはないのじゃが、蛇の目至上主義者でなぁ。蛇の血を濃く残すことを最優先と考えておる」
ゲゲ郎はどこか遠い目をした。
「だからお主が気にすることはない。わしはお主が気に入った。それだけのことじゃ」
そう言って、ゲゲ郎はにっこり笑った。
……ありがとう」
なんだか照れ臭くて、水木は視線をそらした。
「今日は疲れたじゃろう。ゆっくり休め」
「いいのか、今夜は……しなくて」
子作りのことを言っていると察したらしく、ゲゲ郎の目元がふっとゆるんだ。
「それなら、今夜は酒盛りに付き合ってもらおうかの。お主は酒はいけるくちか?」
にこにこしながらそう言われるので、なんだか気が抜けた。
「酒は好きな方だ」
「それはよい。もらいもののうまい酒があるんじゃ」
ゲゲ郎はいそいそと、酒のあてをもらってくると言って母屋へ向かった。
一人になった水木は、畳の上に寝転んだ。これからここで、一年過ごすなんて、やっていけるだろうか。いや、なんとしてもうまくやるのだ。幸いなことに当主本人に気に入られているのだ。契約が途中で切られることはないだろう。
ただ、誰かと暮らすというのは久しぶりで――――どうしたって親戚の家を転々としていた頃を思い出してしまう。
邪険にされ、満足に食事ももらえず、いつも腹をすかせていた。寂しくて惨めで、ひとりだちしたら絶対に腹一杯食べて好きなことをするのだと決めていた。

もうすぐだ。借金さえなくなれば、自由になれる。

水木は目を閉じた。畳の匂い、薄い線香の香り。この部屋はせまいが、あたたかくて居心地がよい。
この屋敷に来てからというもの、ずっと緊張していたせいもあるだろう。やがて水木は、うとうとと眠りの世界に落ちていった。