千代里
2024-08-31 11:47:18
13585文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その42


 昔、とある辺境に一匹の竜がいた。その竜は、どうにも体ばかり大きいのに、不器用で鈍臭い面が際立つ竜だった。
 体は大きく育ったものの、背の翼を使って同胞のように高く飛ぶこともできない。大きな口からは、同胞のように炎や雷を吐き出すこともなく、火の粉すら漏らせない大口はいつだってからかいの的だった。
 いつしか、同胞に揶揄されるのを嫌がるようになった竜は、いつも下を向いて歩き続けるようになった。
 ある日、常のように同胞の揶揄いにうんざりした竜は、住処である荒野の中でも、同胞すらも寄りつかない外れの場所に訪れた。そこで、彼はこっそりと静かな時間を過ごすことにしたのだ。
 だが、静寂の時間はすぐに終わる。誰もいないはずの僻地に、一つの生き物がやってきたのだ。
 それは、細くて折れそうな四本の手足を持った生き物だった。その生き物が、同胞が忌み嫌うヒトであると気づいたのは、後のことだ。
 何も知らない竜は、好奇心の赴くままに未知の生き物の元へと近づいた。どうやら、それは少し離れた崖から落ちてきたようで、大怪我はしていないものの、足を怪我して動けないようだった。このままでは、こんなちっぽけな生き物は早晩魔物の餌になるだろう。
 そもそも、どうしてこんな矮小な生き物がこのような場所に来れたのだろうかと、竜は生き物を観察した。
 それは、栗色の細い毛で頭部が覆われていた。だが、体毛と呼べるのはそれぐらいで、奇妙につるりとした肌には鱗の一枚も生えていない。代わりに、脆そうな肌のほとんどは獣の毛皮で作られた防具に包まれていた。
 奇妙だと思った。珍妙、と言い換えてもいい。
 それでも、竜は思った。
 その小さな体の小さな顔にあった青銀の瞳。
 その輝きは、とても綺麗だ、と。
 竜の姿を見て、小さな生き物はすっかり怯え切ってしまっていた。生き物は言葉を発して、意志を伝えようとしていた。竜が耳を傾ければ、生き物が怯えていることがすぐに分かった。
 他の魔物と異なり、意志を持って対話も可能な存在――それが、同胞から聞いたヒトというものだと、竜はようやく思い出した。
『ヒトは竜を狩ろうとする生き物』と同胞は話していた。しかし、眼前の生き物はとても弱そうで、竜を殺せるような力があるとは到底思えなかった。
 竜は、矮小でちっぽけな生き物と自分を比較して、わずかながら残っていた自尊心を慰めようと、目の前の生き物に話しかけてみた。この生き物より自分は強い、と思いたかったのだ。
 その生き物は竜が話したことに、とても驚いた。そして、もはや命はこれまでと観念したのか、震え上がりながら、自分の身の上を話し始めた。
 その男には、優れた『兄』なる生き物が近くにいた。兄というものが竜にはわからなかったが、竜にとっての同胞のように、とても身近にいる自分と似たような出自を持つものだと教えてもらった。
 兄は学問に優れ、武芸も達者な人物だった、不出来な弟を嘲笑う者でもあった。
 弟は、そんな兄の嘲笑に耐えきれず、彼を陥れようと竜の血を求めてこの地に赴いたのだと語った。
 竜の血を飲んだ人間は、同じ人間であっても忌み嫌われる存在として扱われるらしい。
 竜には、その部分の説明は分からなかったが、身近な同胞から嘲弄を受ける苦しみは理解できた。
 だが、自分と同じ気持ちを持つ者が現れたことへのわずかな疑念はあった。
 竜は、今まで同胞から何度も騙されてきたからだ。
 だから、それは本当なのかと尋ねた。騙そうとしている側に、そのような問いを投げたところで、はぐらかすだけであるのは当然だ。しかし、そのような駆け引きは竜には分かっていなかった。
 竜の愚直な質問に、男は言った。
「本当だよ。僕は、嘘は嫌いなんだ」
 男の言葉を聞いているうちに、竜も自分の中にあるもやもやとした感情の一部を伝えていた。炎を吐けずにいること、仲間のように飛べないこと、それらの不出来な振る舞いを笑われるのが耐えられないこと。
 男は、同胞のように竜を笑うような真似はせず、竜の言葉に耳を傾けてくれた。
 竜は、男を魔物から守り、傷が治るまでそばにいることにした。竜の血が欲しいというのなら、少しぐらいなら分けてやろうとも言った。
 だが、人間は竜の血はいらないと首を横にふった。
 辺境まで辿り着き、竜と話をした。この冒険譚は兄が望んでも得られない経験だと人間は笑った。
「僕の名前はナタロアだ。君は、なんて名前なんだい」
 問われて、竜は名前を伝えた。
 だが、その名前は竜の言葉では容易に発音できても、ナタロアなる人間には発音しづらいものだった。
 それに、竜は自分の名前が嫌いだった。竜の同胞は、いつも竜の名前を嘲笑と共に口にするからだ。
 だから、お前が名前をつけてくれと頼んだ。
 お前とおれだけが呼びかわす名前を、と。
「じゃあ……ランドン、というのはどうだろう。昔、僕が飼っていた犬の名前なんだ」
 弟みたいに可愛がっていた、と目を細めるナタロアに、きっとその名は特別に祝福された名なのだと分かった。
 その日から、竜はランドンになった。
 ナタロアは兄の元に戻り、ランドンは自分と語らった奇妙なちっぽけな生き物との時間を愛しんだ。
 幸いなことに、ナタロアは、それからも何度かランドンの前に姿を見せた。
 ランドンにとって、ナタロアとの日々は愉快であり痛快だった。同胞と顔を合わせるよりも、ナタロアと言葉を交わしあうほうがずっと楽しかった。
 彼と出会って初めて、ランドンは楽しいという感覚を知ったのだ。
 ランドンが空を飛べないと言ったら、ナタロアはチョコボなる生き物を連れてきて、ランドンと共に走ってくれた。空を飛べないなら、地面を早く走ればいいと彼は笑って手を振っていた。
 チョコボという生き物はランドンよりもずっと小さいのに、ランドンよりも早く走った。チョコボに跨ったナタロアを見て、お前も自分の足で歩けと不貞腐れたこともあった。
 炎を吐き出す練習にも、彼には付き合ってもらった。
 魔法という不可思議な技を使うナタロアの隣で、ランドンは大きな口を開けて意識を集中していた。焚き火よりもずっと小さな炎しか生み出せないのに、そんなちっぽけな炎のためにランドンは神経の全てを使い果たさなければならなかった。
「いつか、もっと長く炎の息を吐き出せるようになるよ」
 そうだろうか、と首を傾げると、ナタロアは手を開いてみせた。彼の手の上には、ランドンの目で見るのもやっとなほどの小さな炎があった。
「僕と君のどちらが先に大きな炎を作り出せるか、競争だ」
 そう言いながら、ランドンが作った小さな炎を火種にして、ナタロアは火おこしをした。焚き火となった自分の火が、ナタロアが食べる食事のために役立つのを見るのは、ランドンにとっては何だか誇らしいことだった。
 そんな日が、いつまでも続くように思えた。
 だが、いつの頃からか、急にナタロアがランドンの前に姿を見せなくなってしまった。
 ナタロアを見ていない時間があるとのんびり屋のランドンが意識し始めた頃、再びナタロアはランドンの前に姿を見せた。その時の彼は、何やらとても疲れ果てているように見えた。
 怪我をしたわけでもなさそうなのに、なぜそこまで疲れた顔をしているのか。もしや、ナタロアの悩みの種である兄に何かされたのか。
 ランドンが尋ねると、ナタロアは言った。
「兄さんは……死んだよ」
 ただ一言、吐き捨てるようにして口にした言葉は、何やら自嘲に似ていた。
「僕が、殺したんだ」
 そうか、とランドンは言った。
 どうやら、ナタロアは兄を倒せるほどに強くなったらしい。
 自分よりも先に悩みを克服したのは、喜ばしいと同時に寂しくもあったが、ランドンは祝福の言葉を送った。
『すごいじゃないか。ナタロアはおれよりも先に強くなったんだな』
 ランドンの友人は、困ったような顔をしてランドンを見つめた。
 まるで、ランドンに違う言葉を期待しているかのようだったが、ランドンには他にどんな言葉をかければいいか分からなかった。
 暫くの沈黙の後、ナタロアは不意に手を広げてみせた。すぐに、そこには大きな炎が生まれた。以前は、夜空の星々よりも小さな灯りしかなかったというのに、今のナタロアは容易くランドンの吐息よりも大きな炎を作って見せた。
「兄さんがいなくなったからかな。前より、訓練にも身が入るようになったんだ。魔法も……君より先に上手くなってしまったよ」
 ランドンは再び、祝いの言葉を送った。だが、ナタロアの疲れ果てたような顔は変わらなかった。
 
 その日を境に、彼はランドンの前から姿を消した。
 辺境にいた同胞に、ナタロアの話をしても笑われるばかりだった。
 ヒトという生き物は徒党を組まなければ竜に勝てないくせに、竜に対しての憎悪だけは持ち続けている愚か者だ。大人しく、自分たちは竜より下等で愚かな生き物であると認めればいいのに。
 彼らは、一様にそう言った。しかし、ランドンはナタロアが『愚かな生き物』とは思えなかった。
 ランドンは、空を見上げ続けた。星が空を覆い、日が空に昇り、幾度もの繰り返しを眺め続けた末に、ランドンは決めた。
『あいつを探しに行こう』
 ナタロアの住処がどこにあるかは分からなかったので、ヒトが暮らしているところを見かけたら、片端から顔を出した。
 ナタロアとは似ているが違う姿を持った彼らは、ランドンの姿を見ると、誰もが怯えた意思を発しながら姿を隠した。
 中には、金属でできた鱗のようなもので体を覆った一団が、ランドンに襲いかかることもあった。尖った爪や牙に似たもの――ナタロアが以前見せてくれた『武器』というものが、何度もランドンに突き立てられた。攻撃の殆どは鱗で弾けたが、鱗の隙間から捩じ込まれたそれらは、時にランドンに鋭い痛みを与えた。
 最初こそ、ナタロア捜索を優先するために、ランドンは彼らを無視していた。しかし、やがて不愉快さが増し、ランドンは彼らを追い払うことにした。
 ランドンが前足を振り下ろし、尻尾を振るうだけで、その生き物は動かなくなった。不愉快な痛みを齎す者がいなくなって、ランドンは集中してナタロアを探すことができた。
 
 そうして、友人を探して各地を彷徨っていた彼は、とても星が綺麗な夜に探し人と再会した。
 それは、ランドンが幾度目かの不愉快なヒトたちを追い払った数日後のことだった。誰もいなくなった石造りの巣――ランドンを襲うヒトは揃ってこのような巣で暮らしていた――の中で、何とはなしに星を見ているときに、その人は現れた。
 栗色の髪に、青銀の瞳。少しばかり顔の造作が変わったような気もするが、それはきっと気のせいだろう。
『ナタロア、この前会ったとき以来だな。近頃、おれの住処に来なくなっただろう。一体何をしていたんだ? おれは、お前を探しに自分の住処からここまでやってきたんだぞ!』
 ランドンは、いつものように友人に語りかけた。
 だが、ナタロアは何かとても驚いたような顔をしていた。
 よく見れば、今の彼は『この前』会ったときとは異なり、何やら暖かそうな毛皮に包まれていた。『この前』着ていた毛皮は動きやすそうだったが、少し寒そうにも見えたことをランドンは覚えていた。
「なあ、ランドン。……今日は時間がないから、君と話はできなさそうなんだ。代わりに、明日の朝、僕がいう場所に来てくれないか。そこならゆっくり話ができそうなんだ」
 ナタロアが示したのは、ランドンが今いる場所から少し離れた地点だった。
『明日? それは、いつのことだ?』
「今は月が出ている。あの月が見えなくなり、太陽が昇り、星々が消え去った頃だ」
『分かった。じゃあ、月が見えなくなったらそこに行こう』
 ランドンはそう言った後に、自分がナタロアをすぐに見つけ出せなかった理由を思い出した。
『なあ。お前の住処はどこにあるんだ? 話が終わったら、今度は、おれがお前の住処に行こう』
 ランドンの問いかけに、ナタロアはしばらく悩んだ顔をしてから、指をある方角へと向けた。その指が指す方向へ歩き続ければ辿り着けるのだと、ランドンは理解した。
 ナタロアはまだ疲れ切った様子だったので、体を休めるために巣に戻るようにランドンは促した。
 どこか顔つきが違うのは、きっと大層くたびれているからだろう。大きな炎を吐き出そうとした翌日は、ランドンはいつも動けなくなるほどの疲労感に包まれる。それと同じようなことが、彼にも起きているに違いない。
 月が見えなくなった頃、ランドンはナタロアに言われた場所に向かった。
 だが、そこにいたのは、ランドンが嫌いな『武器』を携えた人々だった。見たこともない大きな『武器』を持ったヒトもいた。
 いくらナタロアの姿を探しても、彼は見つからなかった。代わりに、そこにいた人々は竜の鱗に武器を突き立て、その体を魔法で生み出した炎やら雷やらで焼こうとした。
 突然の怒涛の攻撃に耐えきれず、ランドンは追い詰められ、ついに崖から転がり落ちていった。奇しくも、それはありし日のナタロアとの出会いを逆さまにしたものだった。
 ランドンは空を飛べない。それが分かっているから、崖が近くにある場所にランドンを呼び出したのではないかと気がついたのは、ずっと後のことだった。
 ヒトが降りることもできない深い谷で、ランドンは傷ついた体を横たえていた。痛みに疼く体は休息を求め、彼は深い微睡に身を委ねた。
 眠りの海の中で、彼は何度も問うた。
『どうして、来なかったんだ』
 ナタロアが約束した場所にいたのは、ランドンを傷つける人間だけだった。そこに、友人の姿はなかった。
『なぜ、姿を見せなかった』
 疑問は、いつしか怒りと悲しみになった。
 自分は、嘘をつかれたのだと遅まきながら気がついた。
 ならば、今度はなぜ嘘をついたのかを、尋ねたい。なぜ、ランドンを傷つけるような真似をするのか知らねば気持ちが収まらない。
 ランドンは微睡から目を覚ますと、ナタロアが示した方角へと歩き続けた。そこには、石でできた、とても大きな人間の巣があった。
 ランドンが近づくだけで、巣で暮らす人間たちはランドンを傷つけた。痛い思いをしても何度も近づいたが、その度にランドンは人間が持つ武器によって追い払われた。
 痛みが耐えられなくなったら、ランドンは少しばかり微睡んで、再び友がいるはずの巣に向かった。
 何度も、何度も、もはやランドン自身でも数えきれないほどに。
 周りの竜たちに笑われても、ランドンは目覚めるたびに繰り返した。
 ある日、何度目かの微睡からの目覚めの後、ランドンに近寄ってきたヒトがいた。
 それらのヒトは、武器でランドンを虐めるようなことはしなかった。
「どうして、あなたはあの街の人を襲うの?」
 そのヒトは、ナタロアより随分と小さかった。ナタロアよりもずっと高い声で、その生き物はランドンに問いかけた。
 それは、ランドンにとって、ナタロアを除く、二人目の『自分を馬鹿にしない生き物』だった。
 ランドンは、堰を切ったように語った。
 自分が友人と過ごした日々。彼が来なくなってしまったから探しに出かけたこと。そして、友人がランドンを騙した顛末まで。
「だから、あなたはあの街に向かっているのね」
『ああ。だって、あいつはあそこを住処にしていると言った。だから、会いに行くんだ』
 小さな生き物は、後ろにいる同胞にランドンのことを話した。すると、大きな体をしたヒトの男は言った。
「それならば、その裏切り者が住処から出てきたくなるように、周辺の人間の住処を壊してみてはどうでしょう。人間とは、仲間が傷つけられれば黙ってはいられない生き物ですから」
 半信半疑ではあったが、ランドンは言われた通りに動いた。今までと同じ方法ではナタロアに会えないのなら、違う方法を試してみるのも悪くないと思ったからだ。
 そして、ある日。
 雪が積もった森で、ランドンが常のように忌々しい人間たちに責め立てられたときだった。
 何気なく首を巡らせた先に、他の人間とは異なる装いをした男がいた。
――――
 栗色の頭髪に、青銀色の瞳。その顔貌は、ありし日のナタロアによく似ていて。
『似ているんじゃない。お前だ。やっと、お前がここにきたんだ』
 あれこそがナタロアだ。そう信じて、竜は走る。
 どうしてあの日、お前は来なかったのか。なぜ、おれを傷つけるような真似をしたのか。
 微睡の中、繰り返してきた怒りと悲しみをぶつけるため、ランドンは彼に迫った。
 感情に任せて大きな声で怒鳴りつけたら、かつてそうだったように叱られてしまい、一瞬萎縮してしまった。話すことはない、と厳しい言葉をぶつけられたが、久々に聞いた『彼』の声は記憶の中の彼と瓜二つに違いなかった。
 彼と言葉を交わすことができた。あんなにもナタロアに怒っていたのに、ランドンの硬い鱗の奥にある心は、久々の対話を喜んでいた。
 しかし、ナタロアはランドンから逃げ続けた。ランドンが踏み入りづらい山に行ってしまったときは、彼の元に再び辿り着けるだろうかと不安にもなった。
 数々の苦難を乗り越えて、何度も山道から滑落しそうになりながら、ランドンはナタロアと再び見えるという幸運に恵まれた。
 だというのに、彼はランドンの知らない魔法でランドンを傷つけた。口が焼け、鱗を貫く魔法の剣に悶えながらも、ランドンは自分を支える地面が崩れていくことに気がついた。
 また落ちてしまうのか。また、離れ離れになってしまうのか。
 そう思った矢先、ランドンは見た。
 地面の崩壊により崩れていく中、空中に投げ出されている友人の姿を。
 人間は脆い。ランドンが踏み潰しただけで動かなくなってしまうほどだ。
 だったら、こんな高いところから落ちたら、ナタロアは死んでしまう。
 気がつけば、竜は首を伸ばし、宙を落ちていく人間の体を己の口の中に収めていた。衝撃が体に伝わらないように、分厚い舌でその体を包んでやった。
――おれは、あいつにとても怒っていたはずなのに)
 あの瞬間、確かにランドンは友人を喰らってやろうと思ったのに。
 竜は口に入れたちっぽけな人間を、そのまま飲み込むことができなかった。
(おれはただ、もう一度、あのときみたいに、お前と――
 最期に竜が耳にしたのは、鱗が砕け、己の中心にあった命の源が砕けちる音だった。
 
 ***
 
 薄暗い。なのに、どこか温かい。けれども、それは温かな羽布団に包まれたときの柔らかさではない。森の木陰に体を預けて休むときに感じる、腐食した葉の温かさとも違う。
「う……
 粘つく喉を無理やり動かし、声を出す。みじろぎをした末に、曖昧だった記憶にかかっていた靄を少しずつ剥ぎ取っていく。
「たしか、ランドンと一緒に崖下から落ちて……
 その途中で、視界も意識も暗転してしまったのだと思い返す。
 落下の途中で、契約している妖異――オルタシアを呼び出して、彼の翼だけを借りて自分は軟着陸する――それがノエの打ち立てた計略だった。ランドンだけが落ちれば、それでよし。もし自分が落ちても、保険は用意しておく。ノエとしては、不測の事態を見越した上で積み上げた作戦のつもりだった。
 だが、彼から飛翔の力を預かるより先にランドンの口が迫ってきていた。
 そこまで記憶を遡ったノエは、ようやく全身に入った力を使って、体を起こそうとする。
 だが、直立しようとしたにも拘らず、ノエの頭はすぐに天井のようなものにぶつかった。強かに頭を打ち、ノエの視界に火花が散る。
「一体、ここはどこなんだ……
 洞穴のようにも思えるが、わずかに光も感じる。そのくせ、みょうに生暖かい。
 それに、洞穴独特の湿り気もなければ、音が反響してこだまする様子もない。
 立ち上がっての歩行を諦めて、ノエは腹ばいとなり、わずかに陰影が見える方へと進んでいく。粘つく水っぽい何かにうんざりしていたが、記憶を順に遡っていくうちにノエはある可能性に思い至った。
……もしかして、ここは……あの竜の口の中、なのか?」
 最後に目にしたのが大口を開けた竜だったのならば、その可能性は大いにありうる。
 だが、それならばなぜ、ノエは竜に飲み込まれていないのか。もし飲まれていれば、気絶していた自分は今頃竜の腹で消化されていた頃だろうに。
「だけど、もしここが口なら……こじ開けられるかもしれない」
 疑問を胸に抱きながらも、ノエは全身に力を込めて、天井と感じていた部分に手のひらを添えて、突き上げんとする。ノエの予想通り、天井――上顎にあたるそれは、ノエが渾身の力で持ち上げると、微かに動きを見せた。
「これなら……僕一人の力でも……!!」
 突如、竜が我にかえって自分を噛み砕かないことを願いながら、ノエは万力を込めて閉じていた口をこじ開ける。牙と牙のわずかな隙間から差し込んでいた光が、徐々に大きくなり、外の空気が竜の生臭い口内の臭いをさらっていく。
 予想通り、ノエは竜の口の中に閉じ込められていたらしい。予想と現状を照らし合わせて、ノエは次なる行動を弾き出す。
 無理に慌てることなく、ノエは一歩一歩、牙の淵――ヒトでいうところの歯茎の端まで足を進めた。中途半端なところで力を抜いて飛び出せば、自ら牙に挟まれることになりかねないからだ。
(よし、今だ……っ!!)
 とびきり強く腕に力を込めて、上顎を跳ね上げ、大きく広がった光の元へと転がり込む。
 幸い、体のどこも引っ掛けることなく、ノエの体は地面へと投げ出された。
 少しばかり高低差を感じると同時に、強かに体を地面に打った衝撃がノエの全身に走る。予想外の痛みに、ノエの眼前に一瞬火花が散った。
 どうやら、竜の口というものは、それだけでも相応の大きさがあったらしい。
「それにしても、一体、何が起きてこんなことになったんだ。ランドンは――
 振り返り、ノエは息を止めた。
 竜の唾液でべたつく上着を払うことすら、一瞬忘れてしまう。
…………!」
 目の前には、先ほど竜が出てきた口があった。
 だが、その口が再び自主的に開くことは、二度とないだろう。
 ノエたちが戦っていた崖下には、槍衾のごとき岩の尖塔が乱立してた。
 その一つに――大きな獲物が。串刺しとなっている。
 これまで、長らくノエの父を悩ませ、街の人々を苦しめた竜は、自然が作り上げた一振りによって終わりの時を迎えていた。
 今まで多くの剣を、槍を、弓矢を弾いてきた鱗も、落下による加速と、地脈の流れにより鋭利かつ頑強に育った岩石による一撃には耐えられなかったらしい。
 今も、傷口となった部分からは、夥しい量の体液――血が流れ落ちている。
……運が悪かったら、死んでいたのは僕の方だったな」
 そこまで呟き、ノエはふと自分の体と物言わぬ竜を見比べた。
 ランドンと邂逅した際、この山の麓にある歪に育った岩塊を、彼への武器として使うこと自体はすでに考えていた。だから、ノエはランドンと遭遇した際に下にくだらずに上に向かったのだ。
 ランドンは、今までこのような高所に自ら足を運ぶようなことはなかったのだろう。今回のような奇策が通せたのは、あくまでノエを追いかけて彼がやってきたからだ。
 だが、竜に食われかけたことで、ノエの作戦は失敗となった。結果的に竜の口の中がクッションとなってノエは大怪我をせずに済んだが、もしあのまま食われていたらノエは今頃死んでいたに違いない。
 はたまた、オルタシアがノエと契約していなかったら、ノエは自滅覚悟で道連れを図ったことになる。
「そういえば、何でこいつは僕に食らいついてきたんだろうか」
 自分の落下の安全を優先すれば、致命傷だけは避けられたかもしれないのに。そう考えて、ふと思い出す。
「そういえば、あいつは誰かの名前を呼んでいたような……
 おそらく、ランドンにとってノエは『見知った誰か』だったようだ。それが誰かは知らないが、ランドンはその相手から『名前をもらった』と語っていた。その言葉には、拭いきれない哀惜と共に、友愛の念が混じっていた。
 そんな人物が、たとえ憎むような何かがこれまでにあったとしても、崖から落ちて死んでしまうと思ったら竜はどうするだろうか。
……お前は、もしかして、僕を助けようと……した、のか?」
 イシュガルドに生きるものとして、そのようなことは考えてはいけないことかもしれない。けれども、ノエの思考は一つの可能性に行き着いてしまった。
 振り返り、ノエはもはやものも言えぬらしい満身創痍の竜を見上げる。
 周囲にある多くの岩は半ばで折れていた。運がよければ、ランドンは怪我を負うだけで済んだだろう。
 もし、彼が決死の飛行をした末にノエを口に収めなければ。頑健な竜を仕留めるほどの硬度を持つ岩の槍の直上に、運悪く落ちることはなかったかもしれない。
…………
 だからといって、一体なんと言葉をかければいいのか。ノエはランドンによって切り裂かれて痛む足を引きずり、彼を見つめ、
…………いや、僕はお前にお礼は言えない」
 ゆっくりと首を横に振り、無言で背を向け、立ち去ろうとした。
 しかし、そこでノエは足を止める。その耳に、微かに『声』が聞こえたからだ。
『ナタロア――
 やはり、それはノエの知らぬ名だった。
 だが、ノエは否定も肯定もせず、竜の次の言葉を待った。
『今度は、おれが落ちちまった、みたいだ……。ちょっと、怪我をしたみたい、だな……。だから……今度は、お前が、待っちゃくれないか……?』
 ノエの知らない二人の関係を思わせる言葉を紡ぎながら、ぽつぽつと竜は言葉を落とす。
『お前、は……どこに、いるんだ? よく、見えないんだ。お前、小さいから……な。いつも、見失って……しまうんだよ、なあ』
「僕は、ここにいる」
 すでに、微かに動くだけとなってしまったランドンの口の前に立ち、青年は言う。
 すると、竜は微かに息を吐き出した。それは、安堵であり、喜びの混じった吐息だった。
『そうか……そこにいるんだな。ナタロア』
 呼び慣れない名に、頷くことはできなかった。
 けれども、ノエはすでに閉ざされた竜の瞼を、息を潜めて見つめていた。
『なあ、ナタロア。また、後で話を……しよう、な。また、後で――……
 言葉が途切れる。微かに開閉していた口は動かなくなり、吹き荒ぶ冷風だけがノエの髪をなぶっていた。
 風に促されるように、ことり、と何かが落ちる音が響く。視線をやると、そこには串刺しになった竜の腹から、一枚の鱗が剥がれて地面に転がっていた。
 鈍色の鱗の一欠片は、それ一枚だけでノエの手のひらほどの大きさもあった。
……僕は、お前のしてきたことを許さない」
 瞼の裏には、今でもランドンに踏み潰された兵士の姿が焼き付いている。
 彼が無造作に振った尻尾の一撃を受けて、二度と目覚めることのなくなった兵士がいた。
 ランドンの炎に焼かれて、全身に火傷を負い、息もろくにできないままにこの世を去った人もいた。
 ほんの一部とはいえ、ノエは砦の救護室で見てきたものを忘れたわけがない。
「お前が台無しにして、壊してきたものが沢山あったことを、僕は忘れない」
 言葉を足跡と共に残しつつ、ノエは鱗を拾い上げる。
「だけど、お前が最期に伝えたかった言葉を聞くべき相手が僕じゃないことも、分かっている」
 鱗を手にのせ、視線を上に向け、もはや物言わぬ巨竜に向けて、彼は告げる。
……だから。お前が僕に重ねた誰かに、お前の言葉を届ける。それぐらいのことは、やってもいい」
 ランドンは、自らが傷つけたものがどんな意味を持っているのかすらも、理解できずにいた。それは彼がナタロアという名前の人物以外のものを、言葉を交わす相手としてみなしていなかったからだ。
 それでも、竜にはやはり、『心』が備わっている。ヒトと言葉を交わすことも可能であった。
 ならば、竜がかつて言葉を交わし合った者もいたのだろう。
 それが、この地に住まうすべての人々にとっては、終わらない悲劇の始まりだったとしても。
 その最初の邂逅そのものを――竜とヒトのささやかな友愛そのものを、何も知らないノエが過ちと断ずることはできない。
 故に、竜が遺した言葉だけを抱えて、ノエは背を向ける。
 吹き荒ぶ冷風は、ノエの体に容赦なく打ちつけ、彼の心に乾いた隙間風をもたらした。
 
 ***
 
 岩の尖塔群は、高所から見てみれば槍衾のように見えたが、その足元は細い谷の連続となっていた。本来はごつごつとした岩肌が並び立つ荒野のようになっているのだろうが、異常に偏った地脈の影響か、巨木のように乱立する岩の塔はノエの行く道に暗い影を落としていた。
 暗く落ち込んだ影は、方向感覚を奪っていく。ランドンが残した足の傷から走る痛みは、ノエの思考から正常な判断能力をゆっくりと削いでいた。
(傷……何で治していないんだっけ……
 痛みを取り除こうと、治癒魔法のために体内のエーテルに働きかけようにして気がつく。今の自分は頭のてっぺんからつま先まで疲労に満たされていて、魔法を行使したら最後、動けなくなってしまうからだ。
 落下の衝撃で、懐に持ち歩いていた錬金薬のほとんどは、容器が破損して使い物にならなくなっていた。辛うじて保持していた外傷向けの錬金薬をひたした布を巻き、止血をしている。それが、今のノエにできる精一杯だった。
「これ、さっきも繰り返した気がするな……
 同じ失敗を辿っているのは、自分がそれだけ磨耗している証拠だ。改めてノエは自分の状況を捉え直すも、それで現状が良くなるわけでもない。
「そもそも……僕は、どこに向かっているんだっただろうか」
 失血の末にすり減った思考は、そもそもの目的意識まで緩やかに奪っていく。
 自分は、なぜ歩いていたのだろう。竜の口から出てきて、それからどこへ向かおうとしていたのだろう。
 誰かと待ち合わせをしていた気がする。けれども、それはノエが作り出した幻ではないと言える証拠はあるのだろうか。
 茫漠とした意識の中、落ちてきた前髪を上げるために何気なく額に手をやり――
…………ここに、あの子が残してくれた」
 寒さで息を白く染めた彼女の笑顔が、朦朧としてきた意識にふと蘇った。
……約束を」
 その言葉を口にした瞬間、疲労にあえぐ体に小さな火がともる。
「彼女と、約束をしたんだ」
 言葉と共に、ノエの瞼の裏に今度はくっきりと、少女の笑顔が浮かび上がった。
 春の花を思わせる薄紅の波打つ髪を翻し、紫紺の瞳を細めて笑う娘。何度も困らせてしまったのに、それでもノエの背中を押してくれた彼女。
「必ず、帰るって。約束、したんだ」
 言葉にした瞬間、胸に灯った蝋燭よりも小さな炎が確かに熱を持った気がした。
 重たい足を引きずり、一歩、また一歩と進んでいく。
 膝が折れそうになった。その場に頽れて、倒れ込みそうにもなった。何もかもを投げ出して、このまま眠っていたくもなった。
 いつしか、腰の剣帯にさしていた剣は無くしていた。今、魔物が出てきたら、自分は格好の餌食となってしまうに違いない。
 それでも、少しでも彼女の側に行けるのなら。
 彼女と――仲間のもとに、たどり着けるのなら。
――さん!」
 何本目になるかわからない谷を潜り抜け、行き止まりから続く分かれ道を曲がった。
 そのときだった。
「兄さん!!」
 聞き覚えのある声が、ノエの耳を打つ。
 春の小鳥の囀りのように涼やかで、なのに時々流れる河の水のように冷たく耳に響くこともある彼女の声を、聞き間違えるはずがない。
「オデット……?」
「兄さん! 兄さん!!」
 少女の声の他にも、いくつかの足音が聞こえる。前にもこんなことがあったなと、ゆっくりと記憶の糸と糸が結ばれていく。
「兄さん、一体どうしたんですか!? こんなにぼろぼろで、服も体もどろどろになって……!」
 説明をする余裕もなく、ノエはようやく体の力を抜いた。このまま地面に倒れ込んでも、側に彼女がいるのなら問題ない。そんなことを思っていたところに、
「こんな場所で寝るんじゃない。あんたのチョコボが、乗り手はまだかとお怒りだぞ」
……ごめん。ちょっと、今は無理そうだ」
「だろうな。直に、あの竜が追いかけてくるんだろう。急ぐぞ」
 自分に肩を貸してくれている友人――オランローに、ノエはゆっくりと首を横に振る。
 訝しげに眉を寄せる彼に、ノエは掠れた声を振り絞るようにして、
「あいつは、もう……追いかけて、こない」
「どういうことだ。……おい、ノエ。ノエ、寝るな! 目を覚ませ! オデット、早く気付け薬と魔法を――!!」
 微かに感じるのは、治癒魔法の淡い光か。それとも、イシュガルドの気まぐれな天気が偶然太陽をもたらしてくれたのか。
 瞼の裏に差し込む柔らかな光に浸りながら、今度こそノエは安堵を齎す腕の中で眠りについた。