溶けかけ。
2024-08-30 18:21:27
1343文字
Public ほぼ日刊
 

予約席

ーーたとえ、代が変わっても、紡がれた想いは変わらない。

所謂、陰膳のお話。
※ちゃんと、この後ヌヴィレットさんが美味しく頂きました。

☓☓月☓☓日
 
 この日が来るとカフェ・リュテスの一角に特別な予約席が用意される。



「ねえ、お客さんはまだ来ないの!?」

 そう言うと、まだ幼い娘は、ぷぅと頰を風船のように膨らませた。

「もう少しだよ。――こらこら、つまみ食いはダメだぞ」

 用意されたケーキへと伸ばされた小さな手を軽く叩く。まったく、誰に似たのやら。
 ぷぷぅ、と小さな頬は更に空気を溜め込んで大きくなった。
 確かに、少し遅すぎる――そう思いながら、腕時計を確認すれば、営業終了まであと数分というところまで押し迫っていた。今年は少しばかり仕事でも立て込んでしまったのだろうか。

「遅くなってしまってすまない」

 彼の人が銀糸を揺らしながら小走りでやってきた。注文は毎年変わらない。
 コーヒーとカフェオレを一揃い、そしてケーキを一皿、予約席へと運ぶ。「今年は仕事でも立て込んだんですか?」私がそう聞けば、彼はジャボを緩めながら頷いた。

……営業終了前に駆け込んでしまってすまない」

 肩を落とす彼はどこからどう見ても、威厳に満ち溢れた最高審判官と同一人物とは思えない。どちらかと言えば、叱られる前の我が子と似ている気がする。

「いえいえ、毎年のことなのでお気になさらず。むしろ、予約した挙げ句、当日キャンセルをするような奴らよりずっと良いですよ」

「今日だけは特別に長く開けておきますね」と告げれば、彼の目が驚きに見開かれる。そして、「ありがとう」と頰を緩めた。
 「ごゆっくり」と告げて娘の下へ戻る。これから、きっちり1時間。彼らの時間の始まりだ。



「ねえ、父しゃま」

 娘が私のエプロンの裾を引っ張った。彼女の視線に合わせてしゃがみ込み、「なんだい?」と訪ねる。

「あの人はなんで一人なのにコーヒーとカフェオレを頼んだの? ケーキにも手をつけてないよね?」

 娘の質問に苦笑する。子どもは時々、妙に鋭いときがある。

「あれはね、君にも私にも見えてはいないけど、もう一人いるんだよ」

「お化け!?」目を輝かせた娘に「似たようなものかな」と返して頭を撫でる。まだ、死という概念も理解出来ないような幼子に死者を想って用意された物だよ、と教えても理解に苦しむだろう。



「こんばんは」

 聞き馴染みのある声に、私は新聞を読む手を止めた。コーヒーとカフェオレ、そして定番のケーキを乗せたトレーを持つと、彼を案内すべく立ち上がる。

「予約席はこちらになります」

「ありがとう……まだ何か?」

 怪訝そうな顔をする彼に、ああ、あのとき父が言っていたのはこういうことだったんだな、と長年の疑問が解けていく気がした。

「いえ……ごゆっくり。今日だけは特別に長く開けておきますね」

 私がそう言えば、彼はいつぞやと同じように目を見開き、頰を緩めた。



「ねえ、ママ。なんであの人は一人なのにコーヒーとカフェオレを頼んだの?」

 いつぞやの私と同じことを言う息子に思わず笑みが溢れる。しゃがみ込んで彼と視線を合わせると、今は亡き父と同じことを言う。

「あれはね、君にも私にも見えてはいないけど、もう一人いるんだよ」

 ――彼は、彼女だけを想ってる。