삐약さん翻訳
2024-08-30 15:59:59
6229文字
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小片 3





12.



 奴には目も、鼻も、口も、耳もなかったが、こちらを知り尽くしているかのような振る舞いをした。



「おえっ……



 激しい疲労とともに疲弊が重なり、体がとても耐え切れなかった。ジェイムスは必死で手近な壁にしがみつき、床に吐瀉物を撒き散らした。何も食べてない。しかし、空腹などまったく感じなかった。ここはそういう場所なのだから。あるいはすでに自分はあの世に行っているのかもしれない。あの世が単にこういう場所だったというだけで。



「──触るな」



 ざらついた表面のラテックス手袋を無遠慮に押しつけ、顔の薄い皮膚に痕を残していく。奴にマナーなんてものは欠片も存在しなかった。ジェイムスは手をあちこち振り回し、羽虫を追い払うような身振りをする。奴に効くはずなかった。

 唇、目元、頬、耳、まつげ。一つ一つ繊細なふりをして撫でさする。その手つきがひどく気持ち悪くて、そのせいで吐いたのかもしれない。奴はまるで、自分がもっとも大切に思う人の真似をしているようだった。お前ごときに何ができるつもりで。ジェイムスは嫌悪を隠すことなく、奴もそんなジェイムスを気に留めなかった。気に留めるはずもなかった。ただ、そのまま顔を撫でまわすだけだった。



「やめろ、やめろってば!」



 反抗するほど手つきは荒くなっていく。そのたび顔に細かな傷が生まれた。しまいに唇が裂けるほどになってようやくジェイムスは反抗をやめた。乱れるだけ乱れきった金髪、いつ流れたとも知れない涙が頬全体を汚すころ、奴はそれ以上触ることをやめた。*──望み通りの反応が見られて満足したか?* ジェイムスは処刑人を睨みつけた。奴は首を傾げるばかりで、一切何の行動もしなかった。頭がうるさく鳴る。……汚らわしいと、自分のことがそう思えてならなかった。











13.



 ナイフを手で弄びつつ、考えに耽るよう宙を見つめる。とっくの昔に始まった儀式で、彼は何の動きも見せずにいた。狩人が獲物を狩るのに真剣でないというのは、己の雇い主に極めてよくない印象を与える。……とかなんとか騒いではいたものの。ハッ、だから何だ。どうしたって?



「今日はそういう気分じゃないんだ、ちくしょう」



 いくら僕がサイコシリアルキラーとはいえ、たまには嫌気も差したりするんだ。



 自分をせっつく棘をナイフで突き刺しながら不平をこぼす。今日は拷問確定だな。だが、そんなことはあとで考えることにした。

 自分がトップクラスのアイドルに上りつめた時期、人々の悲鳴と歓呼を満喫していた時期を思い浮かべる。あのときはこの上ない恍惚と美しさのあまり痺れるような心地だったのに。メンバーの奴らが全員火に巻かれて死んだとき、すべてのスポットライトは自分へと巡ってきて、そのことに対する悪評も少なくなかった。だいたいスーパースターなんていうのは、ファンであろうがアンチであろうがまとめて狂わせる存在なのだ。ジウンはそういう演技が上手かった。ファンのためにか弱いふりを、アンチのために邪悪な姿(あ、これは演技じゃない)を。ふむ、別に驚くような過去でもない。

 だが、いまはあまりに退屈だった。だれもかれもが本性を知っているから演技をする必要がないなんて。こんなのあまりにつまらない。言うなれば、そう、病院でまったく味気のない食事をしている気分。塩の入っていない白粥を食べている気分。そもそも人生なんて起伏があるから面白いのに、自分を隠す必要がなくて楽とはいえ、人間というのはそういうもので。



「興がないんだよ、興が」



 悲鳴を聞くのはいまも楽しい。愛すべき、生産的な趣味の一つだ。だけど今日は乗り気じゃない。見逃してくださいよ、エンティティ様。いつも努力してるんですよ、僕なりに。

 ジウンはナイフの一本を手慣れた様子でつまんで投げた。誰かを刺すためではなく、それ以上進むなという威嚇射撃だった。



「水臭いな、顔ぐらい見てってくれても罰は当たらないのに」

「さっさと消えなさいよ。あんたの顔なんか反吐が出るわ」

「やーれやれ。天下のリー・ユンジンさんは反吐の出るような顔を見に、丸腰でこんな危ない場所に飛び込んでいらしたのかな?」

「きさま、」

「だけど、家族同然で同じ釜の飯まで食べた仲なのに、ここまで無視されたら泣いちゃうかも」

……本調子じゃなさそうね」

「ああ、姉さんはいつもすぐ気付いてくれたっけ」



 ジウンはユンジンの言葉に日が差したような笑顔を浮かべた。血に汚れた口元で笑うのを見るなんて我慢ならない。ユンジンはさっと頭を振ってゲートを見やった。



「でも私はあんたの気分が悪い理由なんか聞きたくないわよ」

「──ちょっと、昔が懐かしくて」

「え?」

「わかるだろ、姉さんも。ああ、末っ子が姉さんのこと本当に好きだった。姉さんが見えないといつもどこにいるんだって真っ先に探してさ。上の兄さんもそうだよ。ほんとによく姉さんの世話焼いてた。実の姉さんみたいだって言いながらね。こうしてみると、姉さんはいろんな人に好かれてたんだな。自分ではわがままで冷たいように振る舞ってたけど。うーん、どうかな。末っ子は姉さんが優しいんだって懐いてたよ。もちろん、僕も君を優しいと思ってはいたけどね。あのころが少し、懐かしかったんだ。僕がNO SPINだったころ、5人全員で1位をとった夜に泣きながら抱き合ったころのこと。それが少しだけ恋しかった」

……



 彼女は束の間ためらったように見えた。そう、そうだ。僕は姉さんのこの反応が大好きなんだ。ジウンが狂ったように笑い転げて言った。



「嘘だよ、姉さん」

……あんたはなんだって、ここまで」

「なあに。居残って串刺しはごめんだろ? さっさと行きなよ。ああ、気分転換になった」

「この、人でなしが!」



 ユンジンのヒステリックな悲鳴を聞いて、ジウンは気力でも回復したようにバットを華麗に振り回した。いいね、これほどなら。次の儀式のいいモチベーションになる。



「もちろん、あなたの命に背いた僕への甘い拷問を受けてから、ですけどね」











14.



 ほんっと、頼むからどっか行ってくれませんかね?



 レオンの言葉にジウンが笑う。けらけら、なんて可愛い擬音語をつけたくなかった。いったいどうやってここまで来たのか、自分が座って休むベッドにこれ見よがしに寝転んで脚をばたつかせている。子どもだってあんな真似はしないだろう。なんだってそう神経を逆撫ですることばかりするんだ?



「レオンも意外に甘いんだからさ。ユンジン姉さんだったら死んでるどころの話じゃないよ」

「殺してもいいですか?」

「そんな、警察が人を殺すだなんて……

「警官が殺人鬼を殺すことに何か問題でも?」

「殺人鬼ね……。何か引っかかるところはないの?」



 その言葉を無視して汚れた防弾服を拭き続ける。正鵠でも射たような顔つきだ。殺人鬼。あの人、あの、人? 防弾服を拭いていた雑巾を投げ捨てる。どんなに思いを巡らせても、同じ扱いを受けるのは不当だという結論にしか至らなそうだった。



「あなたと同じにしないでください」

「どうして? 彼だって人を殺したじゃないか」

……

「そんな説得力でどうやって首席卒業したんだい? まったく理解できないね、警察なんてのは。いつだって犯人が捕まらない、捜査は難航って言っとけば終わりなんだから。それなら僕も警察になっとくんだったよ。舞台で無理して笑うアイドルよりよほど簡単そうだ」

……

……危ない、ギリギリだったね」



 やや無意識のうちに出た拳だった。かろうじて逸れた拳をちらっと流し見、唇の片側だけをつり上げる。まだからかい足りないという心が透けて見える半月形の目だった。軋轢を生んではいけない。レオンにはわかっていた。煮えたぎる感情を抑えつける。殺人鬼との関係を拗らせれば、儀式で害を被るのは自分ではなく他の人たちだ。だから、自分さえ黙っていれば済む話だった。



「僕ほど性格のいい殺人鬼が他にいる? 話も通じる、ユーモアのセンスもある、かっこよくて、いくらか人情も兼ね備えてる。だからね、レオン」

「頼むから、どっか行ってくれ……

「とてもいい忍耐だった。褒めてあげるよ」



 僕を殴ればどうなるか、君もよくわかってる。



 レオンは歯を食いしばって聞くまいとした。地獄だ、地獄。警官として目の前の殺人鬼をのさばらせておくことは、市民たちを死から救えないという事実は、レオンにとって大きすぎる悪夢だった。警官というのは、人々を守るために……



「また儀式で会おうね」



 ああいう奴らを逮捕するためにある、存在なのに。



 無力感が全身を覆った。俺は、無能だ。











15.



 ローラは夜中によく目を覚ました。本人の問題ではなく、ジェイムスのせいで。



 隣で悪夢にうなされているジェイムスにローラは眠たい目を思いっきりこすり、また、と不満げに呟いて彼の体を揺すった。だが、そんなことでは起きないと熟知しているローラは、しまいに億劫な体を引きずって彼の胸に体当たりをした。ぐはっ、と声を上げて重たい咳とともにジェイムスが目を覚ます。暑くもない部屋なのに額が冷や汗に濡れていた。



「ローラ? ああ、まったく。何事だ……

「ジェイムスのせいで寝れないってば」

「私? あ……ごめん。寝ようか……



 不慣れな手つきでローラの布団を引き寄せ、背中を軽く叩く。ローラはあたかもすぐ寝入ったように安らかな寝息を立ててみせた。するといつも、途切れ途切れに彼はすすり泣いた。時間にして、およそ30分ほど。30分のあいだローラ本人も眠れないのだが、その部分だけは決してジェイムスのせいにしなかった。ただ思案に沈むだけだった。メアリーがいたらどうしただろう、と。











16.



 雨がじとじと降る街で、彼らは何を思っただろう。



 ジェイムスは雨に濡れ、つやつやと光る鉄製の手すりを撫でた。遠くからヘリコプターの音が聞こえる。なんらかの異常なウイルスに侵されたような警察署の内部は、それこそ凄惨極まりなかった。彼らが見た世界は本当にこうも壊れているのか? 自分が言うことではなかったけれど。



……



 だが、私のような人間がいったい何様のつもりで彼らを憐れむのだろう。ジェイムスは慎重に階段を下りていった。水に濡れて滑り、転んで脳震盪でも起こしたら一大事だ。



「ジェイムス?」

「あ……

「驚かせたかしら? ごめんなさい。そんなつもりはなかったの。雨が降ってるわ。中に入って話しましょう」



 クリーム色の廊下。ジェイムスはこの警察署(美術館のようだ)を見て感嘆した。ジルが笑う。初めて見た人たちはみんなそういう反応をするのだと。しばらく廊下に背中を預けていたジェイムスは窓を叩く雨粒を見ながら言った。



「どんな気分でしたか?」

「何のこと?」

「素敵で美しかった場所がこうして侵食されてしまって」

……まあ、よくはないわね。数ヵ月前まで普通に通っていた勤務先なのに、こんなふうになるだなんて。笑ってしまうのは、あれだけ長く働いていてもたまに道を間違うのよ。あっちはどこの部署だったかしら?なんて。とにかくレオン、あの子は初日なのにどう脱出したのか……。まったく大物ね」



 不躾な質問だっただろうに、何気ない様子で受け流してくれる。彼女は強い人だった。強くて、どんな逆境も切り抜けていく人。そう、憐れみを受けるような人たちではない。ジェイムスは懐から何かを取り出してジルに手渡した。



「これ、どこにあったの? ちょうどあの子が失くしたって焦ってたのに」

「私も知らないんです。シェリルが渡してくれたので。あなたと親しい仲でしょうから、いま渡しておくのがいいんじゃないかと」

「うーん、私よりあなたのほうが喜ぶかもしれないわよ」



 警察官の制服から落ちたバッジだった。ああ、そんなわけでここに来たんです。ではこれで。そそくさとジェイムスが早足に歩きはじめる。もう少しゆっくりしていけばいいのにという言葉にも、彼は自分があるべき場所へと去っていった。雨に降られていると、あの日の記憶が蘇って耐えられなくなりそうだったからだ。











17.



 彼は時折、あるいはたびたび盲目的に振る舞った。自分が持っているものなど何もありはしないのに。だから、ジェイムスは彼を引き離すのに全力を費やす。

 こんなことをしたって何も得るものはないと警告のように厳しく告げても、彼は関係ないとばかりにいっそうすり寄ってくる一方だった。何の意味があるんだ、私が何になれるというんだ。私は君の救世主じゃないのに。しかし、そんな彼を見ているうちに不憫になって頭を撫でてやれば、そのあいだ喜んで猫のように喉を鳴らしながらくっついてくる。それはかえってジェイムスの心を暗澹とさせた。人を盲目的に信じ、愛するというのは、決して、決していいことではないのだから。



「キスするのは、難しいことじゃないじゃないですか」

「理解できそうにないよ。何が君をこんなふうにしたのか」



 おそらくだが、この煉獄のような場所に落ちてからではないだろうか。彼のこの幼子のような執着は。ちょうど、気に入っているおもちゃを子どもが手放したがらないように。彼もそうではないかと思う。誰しも表には出さないものの、おそらくこうした精神的欠陥が一つはあるのだろうとジェイムスは踏んでいる。死ねば振り出しに戻る記憶、何度も何度も戻ってくる場所、自身が暮らした馴染み深い世界、殺人から逃れる狂ったゲーム。脱出できなければ、覚えていられない。自分もやはり覚えていないが、おそらく彼を忘れたことも一度や二度ではないだろう。だからこれほどまで来てしまったのだ。



「失うのが、失うのが嫌なんです」

「誰かを失いたいと思うことなんかないよ、レオン」

「お願いです、一回だけ……



 さらに大きな問題は、自分がこれを拒めないということだった。どうすればいいかわからない。むしろ泣きたいのは自分のほうだった。こうして曖昧に拒めば、彼がアンジェラのように火の中へ消えてしまいそうで。強く拒めば、彼がエディーのようにタガを外してしまいそうで。かといって、完全に受け入れるのでは、マリアのように、なってしまいそうで……



……いま、とても怖いんだ、レオン」

「俺もです。俺だってそうです」

「どうすれば君を正気に戻せるんだろう」

「俺はいつだって正気でした」

「どうすればいい……



 キスすればもう戻れない。マリアが私の頬を撫でたように。



 ジェイムスは俯いたまま動けなかった。俯いたまま、そのまま、じっと──。