溶けかけ。
2024-08-29 22:16:06
1874文字
Public ほぼ日刊
 

matinée

昼間の呟きの「うるさい!キスしてやる!」が元になったヌフです。何故かちょっとシリアス風味。何故だ。

「フリーナ殿。もうそのように固まって数分経つのだが、私にキスをするのではなかったのかね?」

「う、うるさい! い、今に見てろ! だから目を閉じてろよ!」

 ソファに座るヌヴィレットの膝の上に向かい合うようにして乗るフリーナ。その体は羞恥でぷるぷると震えており、顔は今にも火が出そうなほどに赤い。ああ、喧嘩など売るものじゃない――彼女は己の口の軽さを恨んだ。



「あー! もう! 煩い! キミは僕の父親か何か!?」

 とある午後の日、フリーナが自宅で叫んだ。彼女の目の前のソファには、ヌヴィレットが横たわっていた。長い脚を組んでを肘掛けに置いた彼は、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
 何故、ヌヴィレットがフリーナの部屋にいるのかというと、二人がいわゆる、恋人と呼ばれる間柄だからに他ならない。

「大体、いつもいつも、やれ、『腹を出して寝るな』とか『スイーツは一日一食一つまで』だとか――もううんざりだ! 僕はキミの子どもでも、メリュジーヌでもない! 立派な大人だ!」

 フリーナは一息で言い終えると肩で息をする。ヌヴィレットはソファから体を起こすと反論を始めた。

「ふむ。君の言い分は理解した。まず、私は君の父親ではないし、そのつもりもない。君とは、あくまで円満な恋人関係を築きたいと思っている。次に、苦言に対してだが……

 フリーナの癇癪に対して、至って冷静に順序立てて反論をしていくヌヴィレット。その様子に彼女の堪忍袋の尾がぷつん、と音を立てて引き千切れた。

「あー! もう! うるさい! キスしてやる!」

「ほう……? 君に出来るというのならやってみるといい」

 ヌヴィレットはフリーナの腰に腕を回すと自らの膝の上に導いた。逃げる間もなく、腰はがっちりと彼の腕に固定されていた。わたわたと慌てる彼女に「フォンテーヌのスターが恋人にキスの一つも出来ないとは……」とヌヴィレットがさも、嘆かわしいというような表情で首を左右に振った。

「で、出来るとも! よーく見ているといい!」



 それから早数十分。フリーナは目を閉じてキスを待つヌヴィレットの前で顔色をころころと変えていた。青い顔をしたかと思えば、頰を赤く染め、ぺちぺちと自身の頰を叩く――何度も繰り返した仕草によって彼女の頬は羞恥とは別の意味で赤く染まっていた。

 (うぅ……勢いで言ったが、僕からキスなんてしたことがないぞ……)

 勿論、恋人である以上、キスやそれより進んだことなど何度もしている。だが、いつもヌヴィレットにリードされてばかりでフリーナ自身が彼をリードしたり、誘ったことなど一度もなかったのだ。夜の誘いも、愛情を確かめるキスも、全てはヌヴィレットから施されるばかりで与えるものではなかったのだ。

 ヌヴィレットに嫌われたらどうしよう――ふと、そんなことが頭を過った。キスの一つもまともに出来ないとは、と呆れられてしまったら? そう思うたびに、心はもやもやとした黒いもので埋め尽くされていく気がした。

「フリーナ殿」

 彼の声がして、思わず肩が跳ねた。パクパクと早くなる心臓を押さえながら、彼を見れば未だに目を閉じたままで少しだけ安心した。
 
 ああ、どうして上手くいかないのだろう。

 ここが舞台の上で、男を惑わす娼婦の役であったなら、幾らでも彼を誘惑出来たし、キスの一つや二つなんてケーキを食べるよりも簡単だった。
 役を脱いだ、ただの僕はこんなにも臆病なんだ――フリーナは自嘲する。
 本物の心というのはなんとも難解で複雑怪奇なものなのだ。作り物であればもっと話は早かった。落ち込むフリーナの頬に手が添えられた。驚いて固まった彼女の唇にヌヴィレットのそれが重なる。矢継ぎ早に冷たい舌を差し入れられ、口内を余すところなく堪能されて息が出来なくなった。彼の顔がゆっくりと離れていく――溺れているみたいだ、とフリーナは息を整えながら思った。

「無理をする必要はない」

 ヌヴィレットが言った。「でも」と申し訳なさそうな顔をする彼女の唇をもう一度塞ぐ。小さな頭と細すぎる腰に手を添えて、こちらに引き寄せると、今度はもっとじっくりとフリーナの口内を味わう。

 唇を解放してやれば、酸欠によってくったりとこちらの胸に凭れ掛かってくるフリーナを抱き寄せて、後頭部にキスを贈る。少しばかり、虐めすぎてしまったと反省をした。

「君は、君のままで。ありのままでいるといい」

 ヌヴィレットの腕の中でフリーナが小さく頷いた。