押し寄せる水の中、なすすべもなく濁流の中へ吸い込まれていく中、水木はすべてを思い出していた。すべて。あの村で起こったこと──だけではない。
そもそも自分は、どうあってもあそこへいかなければやらなかったし、幽霊族を救わなければいけなかった。狂骨を解き放つわけにはいかなかった。
顔を抑える。
水の中だというのに、呼吸は少しも苦しくなかった。
そもそも、自分の本性は、
水木が顔を上げた先には、背後に光輪を負った…神や仏と呼ばれる何者かが存在していた。
水木が水木でなくなっていく。本性に還っていく。…水木という人間だった時の記憶は、夢のように淡い。消えてはいないが、その時の感情が思い出せない。
不意に脳裏をよぎったのは、墓場で拾った赤子のこと。人間の子とは違うことも多かったが、健やかに育ち、水木にも懐いてくれて──水木は、その子どもを………、
「…………」
育てた子のことは覚えている。冬の日に風邪をひかさないよう抱きしめて眠ったこと、寝付かない夜におぶって歩いたこと、初めて喋った日、全部覚えているのに、抱きしめて守ってやりたいと思った、その時の感情はひとつも思い出せなかった。
水木、だったものが閉ざした目から、涙がひとしずく、こぼれた。
どうしてこんなに。
かつて思ったことを、意識を失う寸前に思っていた。それも程なくして忘れてしまうのかもしれない。
人知を超えた大水に養父が飲み込まれてしまった。鬼太郎と目玉の父を高い所に押し上げて、自分は迫りくる水に飲まれて消えた。
鬼太郎は最初、自分が声を枯らして彼の、養父の名を呼んでいることに気づいていなかった。気づいたのは、喉の乾きに咳き込んだ時だ。
目玉のおやじもまた無二の友が消えたことに愕然としていたが、今生の別れを覚悟したのち再会した体験と、何より子の親であるという気持ちが立て直させた。鬼太郎、しっかりするんじゃ鬼太郎、と根気よく声をかけ、仲間を集め、消えた水木を探し始めた。
鉄砲水が押し流した町は無惨な景色に変わっていたが、不思議なことに、そのどこにも水木の姿は見つからなかった。
人の世の穢れをすっかり落とすまでは神域には入れぬ。
かつて水木という人間だった魂は、人ならば竜宮とでも呼ぶであろう空間の手前に留め置かれ、輪郭も魂も曖昧にたゆたっていた。時間の感覚もなく、水木が生まれてから死ぬまでの様子を何度も繰り返し見た。最初は多少は表情を動かせた物事も次第に遠くなり、最近ではぼんやり眺めるだけになってきていた。それでも、「あの子」がこちらに手を伸ばし、必死に自分を呼んでいる顔が蘇るたび、胸が震える。そうしてまた最初から繰り返し、いちから記憶を眺めた。いつしか、かつて恐ろしく、忌まわしく思っていたはずの南方での記憶さえ心を震わせることはなくなっていた。
鬼太郎はある時から決まった夢を見るようになっていた。
明け方、または昼寝の終わり、恐ろしく澄んで青い水の中に水木が眠るようにたゆたっているのだ。彼は穏やかな様子で目を閉じ、衣服も突然消えた日のスーツではないものを身に着けていた。だが、鬼太郎にはわかった。それは水木だし、これが願望が見せるものではないということが。
この世かあの世か、はたまたどこぞの異界、神域か。それはわからないが、だが、幻ではなく、どこかには存在している場所。
目覚めるたび、鬼太郎は水木のことを思った。歩けないうちから抱きしめて守ってくれた、世界で一番頼りになる腕を、微笑みかけてくれる愛に蕩けたまなざしを、誰より優しく名前を呼んでくれる声を、…真夜中、悪夢に魘され苦しみながらも、鬼太郎が起こせば笑いかけてくれたことを。忘れる日などきっと来ない。
「…そりゃ、竜宮かもしれんの」
息子の夢の話に、その父は考えながらそう答えた。
「水木は大水に飲まれて消えた。川の神と海の神は違うが、水の満ちる宮ならやはり海神なのだろうよ。川ならば海に流れつくものでもある…」
「………」
正座する膝の上、鬼太郎はキュッと手を握った。恐ろしい程の力が込められていることは、浮いた血管からもわかる。
「…取り戻せないでしょうか」
目玉のおやじはすぐには答えず、腕組みをして生返事を返した。
息子は、切実な目でもって父を見る。
「僕は、…あれがお別れだなんて、嫌です」
「…わしもじゃ、それは。わしも同じじゃ、鬼太郎よ」
父は微笑んで、息子を見上げた。
「…わしら幽霊族の横紙破りなど、天の神々も見慣れたもんじゃろ」
開き直りのような台詞に、息子はパチパチと瞬きした。
「水木となぁ、約束したのよ」
「…何をですか?」
「鬼太郎の節目節目は一緒に祝おうとな」
「………………」
肩透かしを食らった顔で黙り込んだ息子に、父は笑う。
「いくつになった?鬼太郎や」
「…見た目は変わりませんが…、人間ならとっくに成人です。十五どころか、二十歳を超えて何年経つか…」
「紋付袴を用意すると張り切っとったんじゃ、水木の家の紋では不満もあるかもしれんが…なんて言うもんじゃから、あるわけなかろうと言ってな」
目と口を丸くする息子に、おやじはまた笑った。
「なかろ?なあ、かわいいせがれや」
鬼太郎は首をぶんぶん振って、ありません、と噛み気味に言う。
「覚えとるか?七五三もそりゃあもう張り切っての…」
「覚えてます」
答えながら、鬼太郎の胸に気恥ずかしさと懐かしさ、そして愛おしさが湧き上がる。
近所の神社にお参りにいって、妖怪が七五三かねとからかう妖怪仲間に、それ以前にうちの子だからいいんだ、と水木は堂々と胸を張っていた。
「約束というのは守られなければならん。そう思わんか?」
「……はい」
おやじは風呂にしている茶碗の縁に手をかけ、そして笑った。
「わしもそう思う。さて、善は急げじゃ」
烏を集めよ、と言う父に、鬼太郎は素直に頷いた。
川なら河童じゃろうが海なら人魚か鰐かの、と頭の上で言う父に、鰐?と思わず聞き返す。日本の海にワニなんて…、と引っかかった息子に、父は陽気に笑う。
「因幡の白兎は何に毛をむしられたんじゃったか、知らなんだか」
「あ…」
「豊玉姫も八尋の大鰐じゃ」
因幡のは鮫とも言うがの、と付け加えた父に、鬼太郎は黙って頷いた。
いずれにせよ、水木の手がかりが知れるなら何でもよかった。
今となっては少なくなった白砂青松のとある浜につくと、ンンッ、と喉を整えるような咳払いの後、目玉の父はぴょんと鬼太郎の頭から飛び降りた。それ自体は珍しくもないが、何となく癖で手を皿のように差し出しかけた鬼太郎の前で、ぼふん、と小さな爆発のように煙が立つ。
もくもくと立ち上る白い煙の中、あるはずもないのに大きな人影が浮かんだ。鬼太郎は目を丸くして口をあける。
煙が晴れれば、そこにいたのは縹色、いや、薄藍色の着流しの大男だった。髪は灰色がかって白く、顔は…、
「………とうさん…?」
鬼太郎自身とよく似た、鬼太郎が大人になったらそうなると言われたら信じるだろう顔をしている。目玉の父の小さな体はそこにはなく、身の丈六尺も超える大柄な男がひとり立っているだけ。
男は愛嬌のある顔でにこりと笑うと、腕をのばして鬼太郎を抱き上げた。
「わっ」
「わしも一度こうして見たかったんじゃ」
「ちょっと…」
「しかしあまり保たんのでな、このナリは。話はあとじゃ、父から離れるでないぞ」
え、と聞き返す間もなく、人の形を得た男は息子をしっかり抱いて大きく跳躍し、躊躇なく沖合に飛び込んだのだった。
──豊葦原の中つ国が滅びるほどに乱れれば、その厄はどこまで及ぶかわからない。
といって、神々が手をいれるのには限度がある。また、どうしようもなくなれば初めからやり直すのでも良いではないかという考え方もある。
だが中つ国に満ちるはいずれ神々の遠い末裔でもある。
狩られた幽霊族が姿を変えた狂骨達はもはや看過できぬ。かといって…、その中で手を上げたのは海神の筋、その末席に名を連ねるまだ若い神だった。仮初に人の子に生まれ、幽霊族を助け、中つ国を生き永らえさせましょう。二本の足の代わりに生えた美しく長い鰭、その鱗の色と同じ夏の海のような瞳を煌めかせ、勇ましくもそのように名乗り出たのであった。
果たして、人の世にて水木の名を得たその神は、紆余曲折あったものの見事に役目を成し遂げた。
だが、そこですぐにも神界に戻るはずが、本性を思い出すことなく人の世に留まってしまう。
神々は困った。本性を思い出さない限りただの人間とはいえ、目的と本性のためにそもそも最初から普通の人間より手厚い加護を受けている。容姿にしてもそうだ。元の美質を隠すにも限度があった。何より魂だ。そこにいるだけで他の人間やそれ以外に影響を与えてしまう。幽霊族の子を育てることでいよいよ人の身に封じた、その箍が緩みはじめていた。狂骨のようなことにはならないが、あまりよろしくない。
それに、見事にやりおおせた末の子に、海神とその身内は盛大なねぎらいをしてやりたかった。こうなると人でも神でもかわらない。
──それで、大水に乗じて神々は少々強引な手を打ったのだ。大水に紛れて、本性を見失ったままの美しく若い神を海の底、竜宮までさらってしまおうと。
「…だのに、まだずぅっとそのまま。だいぶ浮世のことはお忘れになったというけどね。よほど思い残したことでもおありなのかしらねぇ…」
古馴染みの人魚の話に耳を傾けながら、最後の幽霊族、父親の方は黙って何度も頷いた。
神の御業だ。水木、という存在など、本来であればすぐに消えてしまったのだろう。それがそうなっていないという。たとえ時間の問題だとしても、…大水からもう十年以上が経っているのに。
黙りこくって話を聞いていた鬼太郎を、かつて水木にゲゲ郎と名前をつけられた男はそっと抱き寄せる。ポンポンと肩を叩く。言葉はいらなかった。水木の未練。友なれば、そして親なればこそ、男にはよくわかった。
あの男の未練など、今となってはこの息子以外にないだろう。
清らかな水が満たすそこは、神気と静寂に満ちていた。結界になっているのかと思ったが、そもそもそこに入り込むこと自体が難しいゆえか、はたまた…水木だったその存在に許されているからか、鬼太郎とその父は目を閉じたそのひと─ではないが、まだ人の形をしていた─に近づくことができた。水にたゆたう髪は白く、それがあの日のままのように思わせる。
「水木さん」
「水木」
何の反応もない。ただ静かに、泡が上へ上っていくだけ。
「……み、……おとうさん…」
呼びかけに、…ぴくりと瞼が動いた。その時やっと、その左の瞼を縦に走る傷がないことに鬼太郎は気づいた。
消えてしまったのだろうか。先程の人魚が言っていたように、記憶が。もう、水木という存在は本当に、どこにも…、
「みずき…」
鬼太郎の目から溢れた涙が青にとける。息子の後ろに立ち、その両の肩に手を置いた父は、じっとかつての友を見た。
魂は変質していない、というより、これが本来の水木なのだと理解した。人の身に押し込めきれなかった分も取り戻した…。
「……………」
どれほどの時が経ったか。さほどには経過していなかっただろう。
ひく、と震えた瞼が、うっすらと開いた。鬼太郎はぐっと息を飲み、それから大きく口を開く。ごぼ、と泡が増える。…幽霊族で良かった。人間だったらここまで追いかけてはこれなかった。
「水木さん!!」
名を呼ぶ。
名は、魂を縛る。あなたは水木だ、と刻みつけるよう。
ゆるゆると開かれる瞼、はめ込まれた宝石のように青い目。鬼太郎の養父だった頃よりも、もっと明るく、澄んだ。
その目が、ゆっくり鬼太郎を見た。
──まるで、知らない誰かを見るような目で。
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