砂浜に落ちる影が伸び始め、空の色と混ざっていく。水平線に沈む夕陽を眺める海水浴客はまばらで、獅子神たちもまた、暮れる日を名残惜しむことなく帰路についていた。高速が混む前にと出した車の後部座席に、真経津と叶、天堂が互いに凭れ掛かりながら眠っている。僅かに開いた窓から流れ込む風が、真経津の前髪をさやさやと揺らしていた。
いい日だった。と、そんな真経津の表情をバックミラー越しに見て、獅子神は思い耽る。今日は腐れ縁のギャンブラーたちに朝から車を出すことを強要され、散々な日の幕開けかと思いきや、辿り着いたビーチにはバースデーパーティーの装飾がされていた。一体いつから用意したのか、と目を見張っていたところ、ヤシの木の陰に何人か銀行員らしき姿が見えたが、気付かない振りをした。獅子神にとってはそれだけこの光景が――目を傷めるくらい光る海辺が、ヤシの木の間にかけられたフラッグガーランドが、砂浜に敷き詰められたバルーンが――どうしようもなく、鮮やかに見えてしまったのだ。この世にこんなに色があったなんてと、柄にもなく感傷的な気分になり、それを手荒なお祝いでブチ壊してきたのもまた腐れ縁の彼らだった。
誕生日おめでとう、と全く揃わない声を口々にあげ、いつの間にか首にかけられたハワイアンレイは体温と日射にどんどん萎れていった。それでも、あの瞬間は正しく、目に焼き付いて離れなくなってしまった。
遠くから黒々とした夜がやってきた今でも、あの暴力的なまでの色彩が目蓋にこびりついている。後ろから三人の寝息が聞こえるなか、ふ、と獅子神が笑みを零したのを、村雨は聞き逃さなかった。
「何をニヤニヤと? 暑さで頭がやられたのか」
「ちげーよ。あー、今日のこと思い出してた」
「もうすぐ高速に入るんじゃないのか。道を間違えるなよ、何時に向こうへ着けるのか分からないのだから」
「渋滞なー。してるよなー絶対。長くなるかもしれねえなー」
信号待ちに差し掛かり、獅子神はハンドルに両腕を預ける。助手席には昼間と変わらない調子の村雨がおり、きっちりとした姿勢で座っている。獅子神は、この男がこんなに明るい色を着ているのを初めて見た。明るいグレーに柄が入った夏物、それにサンダル。罷り間違っても彼の趣味ではないだろう、と思う。天堂あたりが合わせてやったのかもしれなかった。それを嫌がらずに着ているというのも可愛げがある。
「あなたが考える通り、これは奴が揃えた。引き立て役にしてやると言うので腹が立ち、逆に私を引き立たせてやろうと思ったので着てやったまでだ」
「……アタマ読まねぇでくれる?」
「それで、どちらに軍配が上がったと思う」
「うーん……」
負けず嫌いめ。と唇を尖らせて二人の格好を見比べたが、正直今日は勝負ごとに関わる気分ではなかった。ちょうど信号が切り替わったので、アクセルを踏む。
「おい、獅子神」
「運転中は集中させてくださーい」
「……」
これ見よがしな舌打ちが聞こえたが、車内の音量を上げて掻き消した。
こんないい日に勝ち負けなんて決めたくはないし、夏の終わりのだらっとした空気も、なぜだか今は肌馴染みがいい。この季節に産まれたのに、居心地のよさを感じたのは今日が初めてのことだった。気持ちのいい海沿いを走り、墨色になっていく海を横目にする。
「村雨は眠くねえの? 後ろの奴らみたいに寝てもいいんだぞ。こっから何時間かかるかわかんねぇんだしよ」
寝息を背負って走る夜道というのも悪くない。これまで、そんなことをする人間を車に乗せたこともなかったから。
獅子神なりの気遣いとして声をかけたつもりだったが、横からはなんの反応もない。なにか機嫌を損ねてしまったのだろうかと視線をずらせば、向こうと目が合った。追い抜いていった車のテールランプが村雨の頬を赤く照らし、唸りながら過ぎ去っていく。
「眠くはない。昨夜はいつもより数時間多く睡眠を取ったので」
「え?」
思わず目を開く。今こいつ、すごいこと言わなかったか。
「いっぱい寝たのか?」
「そうだな、いつもよりは。だから後部座席のようにマヌケを晒していないという訳だ」
音楽の切れ間、静寂のうちに思考を回す。村雨が後ろ三人の優位を取ったことに不気味な笑みを浮かべているのはさて置き、つまりは――今日のためにルーチンを崩した、と彼は言った。
「……」
思わず口元を手で覆い、深呼吸のように長い息をつく。そこまでしたのか、この男が。そこまでさせる日だったのか、この日は。だとすれば後部座席で眠りこける男たちだって、なにかしら。傲慢な考えにはなるが、なにかしらを、獅子神のために犠牲にしていることになる。そう思い至ったところで、獅子神はとっぷり沈んだ陽に感謝した。なにしろ顔がべらぼうに熱い。
「異様な発汗だな。匂いが変わって煩わしいので空調を下げてくれ」
「……今日、が……」
「ああ」
気取った村雨の言葉も聞こえないように、指の隙間から声を絞り出す。
「……今日が……あって、よかった……」
「そうか。あなたがやらないなら私が空調を下げる」
カチ、カチ、カチ……と車内の空調が操作され、冷風が帯びる熱を冷ましていく。それにも関わらず、獅子神の頬は夏の熱気を宿したままだった。
凪いだ夜の海には、月が道を作っている。ウィンカーを左に出し、今日という日があった海から、遠く離れていく。
「獅子神」
「うん……」
「そういう訳だから、今の私は特に不快な状態ではない。空調も完璧。このまま話し相手にでもなってやれば、あなたに居眠り運転をさせることもないだろうな」
言葉の調子こそ面白がっているが、村雨の声に嘘はない。彼は平坦な道の先を眺め、対向車のライトに目を細めていた。ハンドルを握り直し、獅子神はアクセルを踏み直す。ぐん、と体に重力が加わる。
ああ、あの海からどれほど遠く離れても。
この世の鮮やかさを忘れることはない。
明日には……いや今日、疲れた体を玄関先に投げ出したところで、もうこの日は終わってしまうのだろうに。帰りたくないと駄々を捏ねたくなるのは、隣で甘やかしてくる男がいるからか。眠った友人を起こしては降ろしていき、最後に助手席の彼を見送るそのときまで、今日という日が在り続ける。それがどんなに、獅子神にとって得難いものだったか。
走らせていくうちにインターチェンジの看板が目に入り、カーナビゲーションにも案内が入る。無機質な音声は村雨とは似ても似つかぬそれであり、眠気が来そうなものだった。
インターチェンジとは反対方向にウィンカーを出す。
「なあ、もう少し下道行っていいか」
「浮かれすぎだ」
構わない、と、夜のしじまに波が寄せた。
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