千代里
2024-08-27 19:35:10
11659文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その41


 出立してからの下りの道は、行きとは違う道を通ることになった。ヤルマルたちが通ってきた道もノエが潜り抜けてきた洞穴を経由した道も、どちらも塞がってしまっているからだ。
 どうせなら、道を崩さずに来て欲しかった、とヤルマルが唇を尖らせたのも、宜なるかなというものだ。
 だが、予め、山全域に及ぶ地図を慎重な聞き取りを経て用意していたヤルマルは、彼女なりにいくつか下りの道に当たりをつけていた。
 大雑把な内容であったがために時にハズレを引くこともあったが、問題ないと笑い、彼女は迷わずに次の道を示していた。このような道なき道を行くのも、長い旅路の中でヤルマルは慣れっこになっているらしい。
……一人でも行くつもりだとは言ったものの、ヤルマルさんがいなかったら道に迷っていたかもな」
 そんな独り言を漏らすノエは、今は隊列のしんがりを歩いている。周囲に視線をやりながら、ややおさまりの悪い鞍の上で、彼は何度か騎乗の姿勢を直していた。
 元々ノエが乗っていた大型のチョコボは、現在ヤルマルがマルコを乗せて先を走っている。ノエがしんがりを務め、敢えて一人乗りをしている理由は、
……ランドンがいつ、僕を狙って襲ってくるか分からない)
 昨日の時点で、ノエは間違いなくランドンが自分を狙っていると結論づけていた。ヤルマルたちを追いかけるのではなく、一目散にノエを追いかけてきた様子からも、竜の目的は明白だ。
 此度の下山の道のりでも、ランドンがノエを狙ってくる可能性は十二分にある。その時、自分の後ろに人を乗せていては、同乗者を巻き込んでしまうことになる。
 そのため、ノエは単独行動に移行しやすいしんがりの位置から、先を行く皆を見守っていた。
 できることなら、何事もなく過ぎ去ってほしい。
 そんなか細い祈りがあっけなく潰えたのは、旅に慣れていない救助者たちの様子を見ながら速度をやや落として、三十分ほど獣道を下った頃のことだった。
 パラパラと、不自然に地面を打つ小石の群れ。
 微かに、しかし確実に腹の底まで響く唸り声の正体は、わざわざ探すまでもない。
「皆さん、すぐに走り始めてください!」
 ノエが警告を発するより早く、すでに先頭のヤルマルが手綱でチョコボを打つ。
 ――――ゴ、オオ、オオォォ!!
 直後、響いたのは、まるで風が唸り声を上げたような巨大な音の塊だった。
 街中では到底経験しえない距離からの竜の遠吠えに、クララとコーディが鞍上で悲鳴をあげる。それでも、まだ目の前に竜がいないだけ、現状はましな方だ。
「こんな狭い山道を、いったいあのデカブツはどうやって登ってきたんだよ!」
「さあな! 意外と、根性さえあればどうとでもなるんじゃないか!」
「いらなかったね、そんな根性は! それで、ノエ。君は本当に――いいんだね」
 ルーシャンと共に悪態をついていたヤルマルは、不意に言葉の熱を変える。
 こんな状況であるというのに、不自然なほどに落ち着いた声がノエへと問いかける。
 この下山の旅路が始まる前に、ノエは一行とあることを決めていた。ヤルマルが、それについて確認しているのだと、ノエにはすぐわかった。
……はい。あいつは、今までも僕を――僕だけを目掛けて追いかけてきていました。理由は分かりませんが、あいつに対する囮になれるのは僕しかいません」
 倒すことは不可能な相手だ。少なくとも、今ここにいる仲間たちの力を束にしても敵う相手ではないだろう。
 それに、今は守らなくてはならない人たちを抱えている。たとえどんな状況であろうと、ノエは彼らに傷をつけたくなかった。
……兄さん。約束、忘れないでくださいね」
「ああ、分かっている。僕は自分だけを犠牲にして、皆を送り出すわけじゃない」
 少し離れたオランローのチョコボの鞍の上で、マルコが静かにこちらを見つめているのが目に入った。老爺の厳しい眼差しは、ノエが己に課せられた責任から逃げないかを問うていた。それは、助けられる側としての正当な権利でもある。
 再び、耳を裂くような咆哮が轟き、土砂崩れの前触れのような乾いた音が幾度も響く。おそらく、ランドンが岩場を崩して、こちらへと迫っているのだろう。
「では、ヤルマルさん。皆さんの案内をお願いします」
「ああ。任されたよ。だから、君も早くのろまな竜を出し抜いて、追いついてきてくれよ」
「ええ。必ず」
 それ以上の会話は、時間の無駄となってしまうと判断して、ヤルマルはチョコボの首を前へと向ける。彼女の判断に従い、サルヒとルーシャンがその後に続く。
「兄さん。……絶対ですよ」
「ああ。ちゃんと、覚えているよ」
 ノエは、自分の額に軽く手のひらを触れさせる。そこにオデットが施してくれた祝福と願いが込められていることを、ノエは忘れていなかった。
 オデットの頬にさっと赤みが走るが、すぐにその変化は不安と憂いに沈む。
「さあ、オデット。君も行って」
…………はい。麓で、待ってますね」
 オデットは名残惜しげに一言残すと、今度こそチョコボの首を翻らせて、彼方へと走っていった。
 残されたノエは、刻一刻と近づいてくる振動を元に、ランドンの位置を割り出そうと首を巡らせる。幸い、岩だらけの山道では、ランドンのような巨体の竜を完全に隠すことは難しい。
 首を上に向ければ、ひときわ高い断崖の上に陣取り、こちらを見下ろす鈍色の巨体がすぐに目に入った。
「随分と高いところにいるな。廃墟にいる僕たちに気づかずに、そのまま登っていってしまったのだろうか」
 そのような理由だったなら、廃墟が高所になくてよかったとノエは心底から安堵する。
 ランドンは、ノエが上に向かっていると察して、ノエとは異なる道を探して山頂を目指して愚直な登山を続けていたのだろう。
 あの巨体ならば、上にただ向かうだけでも困難だったはずだ。おかげで、ランドンが徒労に時間を費やしている間に、ノエたちは十分な休息を取ることができた。
「最初、僕だけは違う場所で休息をとるって話もしたけれど、結局猛反対を受けたんだっけ」
 ランドンが自分を狙っているとわかっている以上、他の面々と離れて過ごすべきではと打診したが、オデットにものすごい顔で睨まれてしまった。
 中途半端に手勢を割けば、別行動している相手の様子が気になってしまい、精神的な負担にもなる。別の場所に泊まった上で再合流する手間を考えて、昨晩は行動を共にしていたが、結果的にそれは当たりだった。
 だが、角度や勾配が隠してくれたノエたち一行の幸運も、ここに尽きた。今なら、竜は迷いなくノエ目掛けて下山してくることだろう。そして、それはヒトであるノエたちのようなゆっくりとした下山ではあるまい。
「ごめん。少し怖い思いをさせるかもしれないけれど、我慢してくれ」
 ノエはチョコボの首を軽く叩くと、ヤルマルたちが向かった方角とは逆――上に向かって、チョコボを走らせた。先ほどまで仲間と共にゆっくりと踏破していた道を逆さまに辿るように、ノエはチョコボを上へ上へと向かわせる。
 できるだけ早くとチョコボを急かしたおかげで、ノエの体はみるみるうちに目的地へと近づいていく。
 出立地点でもあった廃墟が岩陰から見えてきた頃、ノエはチョコボの手綱を引き、一度登山を中断させた。続けて、彼はチョコボの鞍から飛び降り、困惑した様子のチョコボの首を軽く叩いてやった。
「お願いだ。できれば、僕が戻ってくるまで、ここで待っていてほしい。でも、戻ってこないようだったら、皆のところに行ってくれるか」
 チョコボに言葉や意思がどれほど伝わるかは分からなかったが、岩に紐でくくりつけなくとも、チョコボはじっとその場に残り続けていた。巨体に似合わぬ小さな黒い瞳は、ノエの思いを透かして読み取ろうとするかのように、じっとノエの双眸を見つめている。
「ここに僕が戻ってこられるかは五分五分だ。でも、麓で君を迎えるのは僕だ。だから、僕の気配がここから消えたら、麓に向かってほしい」
 実際、これは強がりではない。オデットに約束したように、ノエは命を投げ出してランドンを惹きつけ、皆を助けようと考えているわけではない。
(最良の結果は、僕が苦も無くあいつを仕留めたうえで、皆の後を追って下山することだ。でも、今の僕には、一対一であいつを仕留めるなんて絶対に無理だ)
 一呼吸を挟み、ノエはすでに鞘から剣を抜き放つ。背にくくりつけていた盾を構え、青年は万全の臨戦態勢で残りの道をのぼり、その場所へと姿を見せる。
 数刻前までノエたちが体を休ませていた廃村の出入り口だった場所――そこにノエは立っていた。まばらに見える石造りの建物は放棄されて久しく、粗悪な組み立て方だったのか、壁の一部が崩れている家も珍しくない。おかげで、村はかつての賑わいが嘘のように随分と見通しが良くなっている。
 ノエが姿を見せると同時に、ふと廃墟の一部に影が落ちた。山間から姿を見せた雲――ではない。
 影はみるみるうちにその大きさを広げ、一層濃くなり、
…………!!」
 咄嗟に俯き、腕を前に出して防御の姿勢をとる。間髪入れず、立っているのも難しい凄まじい振動と夥しい量の砂嵐が巻き起こり、ノエの全身を打った。
 砂が目に入り込まないよう、目を閉じ、ノエはしばし鼓膜を破らんばかりに吹き付ける風の音に耐えた。
 数秒を経て、ようやく腕に打ちつける砂つぶの雨が落ち着いた頃、ノエは顔を上げる。
「やっぱり。……落ちてくると思ったよ」
 ノエの眼前には、堂々とした巨躯を誇る鈍色の竜の姿があった。その足は、数刻前にはノエたちが団欒に用いていた建物を下敷きにしている。
 登りの道は、重量も大きさも桁違いのランドンにとっては苦行だったに違いない。しかし、降りるとなれば別だ。ただ、崖から飛びおればいいだけなのだから。
 故に、この邂逅はノエの予想通りだった。
(あの程度の高所は、たとえ翼が機能していないとしても問題ないってことか)
 ヒトならば骨折間違いなしの落下であったにも拘らず、ランドンは鬱陶しそうに体を震わせるだけで、痛みに苦しむ様子は微塵も見せていなかった。
 ランドンは重たげに頭を上げ、ノエを見つめる。距離があるため、彼の視線が正確にノエの両目を捉えたかは不明だが、少なくともノエの方を見たのは確かだ。
 ランドンが口を開き、咆哮をあげる。
 単なる獣の唸り声に似た声の裏に、独特の抑揚が混じる。それは、ノエが先だって聞いた『会話』を彷彿させるものだった。
『なぜ、お前は来なかった!!』
 竜の意思と思しき言葉が頭に直接届き、ずきんと痛む。
 先だってのように激しい頭痛に苛まされずに済んだのは、ノエの方である程度の覚悟をしていたからと、ランドンがいくらか理性を維持したまま己の意思を発しているんだろう。
……この竜は、いったい何の話をしたいんだ」
 ランドンが放つ言葉の内容は、先だっての遭遇のときと全く同じだ。しかし、やはりというべきか、ノエは全くもって竜の発言の意図が読めなかった。
 ランドンが、一歩一歩地面を蹴り立ててこちらへと近づいてくる。ただ数歩前へと踏み出るだけで、地面の全てが割れそうな音が響く。
 竜の立ち位置と、自分の立つ場所をざっと確認してから、ノエは再び鈍色の巨体に向きなおった。
『なぜ、お前はおれの前から逃げ続けた! なぜ、今もおれに何も言わないんだ?!』
 続くランドンの声は、意思と感情がごちゃ混ぜになったかのように乱れ、ノエに嫌な頭痛をもたらした。ランドンが感情任せになればなるほど、言葉は聞こえづらくなり、代わりに単なる感情だけが届いてしまうらしい。
 先ほどの咆哮と比べれば、竜との距離は半減している。果たして、竜の耳というものがどれほどの機能を有しているかは知らないが、ノエは構えた剣を突きつけつつ、ゆっくりと口を開いた。
「僕が何も言わないのは当たり前だ。僕は、お前を知らない。最初に出会ったときから、お前が何を言っているのかもさっぱりだ」
 誰もいない廃墟の中、ノエの声は風に攫われながらも確かにランドンに届いたらしい。
 竜の歩みが止まり、口が戦慄いた――ように、見えた。人間ならば、信じられない言葉をぶつけられて、ショックのあまり立ち尽くしたといったところか。
(さて、どう出る――……っ!?)
 様子を伺う間もなく、ノエに竜の巨体が迫る。息を止め、すかさずノエは竜の腕が届かない位置を見定めて、そちらへと転がり込んだ。
 瞬間、大きく振り下ろされた爪が、ノエのいた空間を抉る。もし、あのまま竜の接近を許していれば、間違いなくノエの首を宙を跳んでいた。
『嘘をつくな! お前まで、おれを馬鹿にするのか!!』
「馬鹿にしているつもりはない。だが、本当に、僕は――
『お前は、嘘が嫌いだと言っていたのに! お前までも、おれに平気で嘘をつくのか!! 嘘をついて、お前は――!!』
 向きなおった竜の口が、ノエに向かって開かれる。暗い喉の奥の向こうに膨れ上がっているのは、炎の赤だ。
「ブレスか……!」
 正面から受け止めば、間違いなく黒焦げだ。さりとて、回避に徹しても炎の息から逃げられる距離は稼げない。
 迷う余裕は数秒もなかった。ノエは構えていた盾を振り翳し、炎へと向ける。
 噛み合わさった奥歯に力をこめ、昨晩の休息で回復した体内のエーテルを障壁の形にして放出する。
 積み上がった光の壁が、炎の息とぶつかる。障壁から漏れ出た熱が、ノエの肌を炙り、じりじりと彼の体を蝕んでいく。
(今はまだ受け止められてるが、あまり長くはもたない……!)
 このまま消耗戦に持ち込まれてしまったら。そんなノエの危惧は、幸い杞憂に終わってくれた。
 放たれたときと同じくらい、炎の息が急激に薄れる。しかし、油断は禁物と、ノエは盾を構えたまま竜の次の行動を探ろうとしていた。
 ランドンは、炎の中から姿を見せたノエをまじまじと見つめている。まるで、ノエが炎の息を凌ぎ切れるとは思っていなかったかのようだ。
『お前と最後に会ったとき、おれはこんなにも長く炎をはけなかった』
…………
『なのに、なぜお前は驚かない。なぜ……喜んでくれない……!』
 ランドンの声に、驚きのせいか一瞬収まっていた激情が再び戻ってくる。
『他の連中にのろまと笑われ、翼も動かせず炎もろくにはけないと言われていたおれに、お前だけが『いつかできる』と言っていた! なのに、どうしてお前は驚かない! どうして、そんな冷たい目でおれを見る!!』
……僕は、お前が何を言っているか分からない。お前は、もしかしたら――
『黙れ!!』
 再び、竜の爪がノエへと振り下ろされる。今度は、幾ばくかの余裕を持ってノエは回避に移れた。
 ランドンの攻撃は、まるで子供が癇癪を爆発させて暴れているかのようだ。行動にはムラが多く、その巨体が持つ破壊力がなければ、熟練の冒険者なら容易く相手どれただろう。この竜が今まで騎兵に打ち取られずに済んだのは、その桁外れの頑丈さと巨躯があってこそだとノエは悟る。
『お前は、おれを殺そうとしただろう! 仲間の手を借りて、おれに顔すら見せず!!』
 竜が吼える。振り下ろした爪が、大地を破り、地面を揺るがす。その狭間で、怒りの叫びがこだまする。
 何を言われているかは、相変わらずノエにはわからない。ノエがランドンに遭遇したのはこれで三度目だが、ノエがヤルマルやサルヒたちのように仲間の手を借りてランドンを殺そうとしたことは一度だってない。むしろ、こちらの方が殺されそうになり、幾度も危ない橋を渡らされたほどだ。
 だというのに、一方的にノエを詰るかのような物言いに、ノエは不愉快な感情が生まれるのをおさえられなかった。
「お前が何の話をしているのかわからないと、そう言っているだろう! お前こそ、この土地で暮らす人を何人も殺した! 住む家を奪った! そうだろう!!」
『お前は、おれを裏切った! なのに、お前は姿すら見せない! 弁明のために顔を見せることもなかった!!』
 またノエの分からない話をしながら、尻尾が大きくノエへと振り抜かれる。大ぶりの挙動を察して、ノエはこれまた冷静に距離を置いた。
『お前が姿を見せてくれないのなら、お前が顔を出さねばならぬように、お前の仲間を傷つければいい――そう、あの連中が教えてくれたんだ!』
 それが異端者たちのことであるのは明らかだ。やはり、ランドンが周辺の村々を積極的に襲うようになったのは、異端者たちの入れ知恵によるところだったらしい。
 だが、そのような事情を踏まえても、ノエの腹の底には沸々とした怒りが湧き立つだけだった。
 竜には意思がある。言葉を交わすほどの知恵もある。もはや、これは明白となった事実だ。
(だったら……尚更僕はこいつが許せない)
 振るわれる爪牙を交わし、頭のスレスレを通り抜けていく牙の鋭さに首筋に寒気を覚える。
 だが、その怖気よりも尚熱い感情がノエを突き動かしていた。
(こいつは、その誰かに会いたいという願いを叶えるためだけに、人を殺したんだ)
 理由はわからない。事情も知らない。
 だが、今はどうでもいい。ノエには瑣末なことだ。
 ランドンにとって、彼が無造作に踏み潰したヒトも、一夜にして滅ぼした村々も、すべて『誰かに会う』という願いの踏み台に過ぎなかったらしい。彼はそのことを自覚しているのに、失われた者を悼むような感情をつゆほども見せていなかった。
 そして、今。彼は再会を果たした『だれか』――正確にはその人物と誤解しているらしいノエに対して、一方的に激情を見せている。
『やっぱり、お前もおれが竜だから、他の人間のように、おれを殺すしかないっていうのか』
 叩きつけられる音の咆哮と共に、ランドンがノエへと肉薄する。ノエはちらりと背後を見やり、ランドンへと背を向けて、ある一点へと走り始めた。
 ランドンがますます怒りを帯びた雄叫びをあげる。ノエがまた逃げ出すと思ったのだろう。実際、今のノエは攻防を経た上で逃亡にはかったようにも見える。
(でも、僕は逃げようと思ったわけじゃない)
 ノエが見据えた先にあったのは、先だってサルヒたちが皿洗いをしていた水場に向かう道の入り口だ。
 崖にほど近いその場所の下に何があるのか、ノエはよく覚えていた。だからこそ、ランドンが廃村を出て程なくして襲ってきた場合、この場所を『使おう』と決めていた。
『お前が、おれに――を、くれたんじゃないか! なのに、お前も他の人間のように俺を裏切るのか!!』
 竜の泣き言など、もはやノエの耳には届いていない。彼の頭は、今はひたすらに竜と自分の距離が如何程かという一点に注力していた。
 どすん、と一際重たい振動がノエの体に響く。振動の発生源が近いせいで、内臓まで震えてしまったかのような揺れがノエを襲う。
『ようやく追いついたぞ。これで、お前はもう逃げられないだろう』
 ランドンの言う通り、ノエの背後には崖しかない。横っとびに細い獣道を通り抜ければ、水場に向かう道へと逃げ延びることも不可能ではないが、ランドンの巨体が回り込む方が早いのは明白だ。
……さっきから、同じことを何度言わせるんだ。僕はお前のことなど知らない。話をしたこともない。お前が何を言いたいのかさっぱりだ」
 崖下から吹き付ける風に背後に広がる空虚を実感させられながらも、ノエは静かに、淡々と言葉をぶつける。
『なぜ、そんなひどいことを言う。お前が、おれに名をくれたのに』
……名? 一体何のことだ」
 ノエが本気で訝しげな顔をしている様子を見て、ランドンはまるで子供が意地悪をされたかのように顔を歪める。
 そのような様子を見れば見るほど、ノエは苛立ちに似た感情に思考を支配される。
 自分がどれだけ人を傷つけたか理解されず、己の願望のみを押し通そうとする。一方で、自分の願いが否定されれば、まるで自分が被害者かのような素振りを見せる。
 それは、ノエがかつて蛇蝎の如く嫌っていた父の姿と似ていた。
(だけど、こいつは……父さんよりも最悪だ)
 父は、確かに己の選択がどれほどノエを傷つけ苦しめたかを、再会するまで正しく理解はしていなかった。あまつさえ、都合のいい理屈を見つけて、自分の過ちを正当化しようとした。
 だが、彼は決して自分も被害者だとまでは言わなかった。悲劇の主人公のようには振る舞わなかった。
 目の前の竜は、自分が傷つけたものの重みも意に介していないのに加えて、まるで自分こそがノエに――ノエに重ねている誰かに傷つけられたかのように言うのだから。
『お前が、すべて無かったことにするというのなら!!』
 ランドンの朱黄の双眸が、ノエを射抜く。
 刹那、ノエは自身の体が地面に縫い止められたかのような錯覚を覚えた。
 これまでのランドンは、ノエとの攻防において手を抜いていたのではないか。そう思うほどの圧倒的な存在感が、ノエを圧迫せんと迫っていた。
――っ!!」
 ごう、と唸りをあげて前足が振り下ろされる。反射的に動けたのは、ノエがこれまで培ってきた経験が、動かねば死ぬと警鐘を発してくれたからだ。
 ぺしゃんこに踏み潰される前に、ノエは身を翻し、体を転がすようにして距離を置く。だが、背中に広がる空虚の気配に背筋を嫌な汗がつたった。
 一歩、回避の方向を間違えれば、飛び退る距離を過てば、奈落に落ちるのはノエだ。そのことはランドンにもわかっていたのだろう。
 続く爪の攻撃は、ノエにとって回避する場所の余地がない方向へと振り抜かれていた。
 身を投げるわけにもいかず、ノエは地べたを這う虫のように無様な逃走で回避を試みる。
……痛っ」
 それでも、長身の体の全てを爪から逃すことはできず、足に鈍い痛みが走る。普通の魔物なら防具の表面に傷をつける程度にも思えるような一撃だった。だが、巨躯の竜の場合は、ただの一凪ぎもその程度では済まない。
(爪が掠っただけでも、この深さか……!)
 恐らくは、ナイフでざっくりと裂いたような傷跡が皮膚に残っているに違いない。そのような確信を持つほどに、足が嫌な熱を持ち始め、一拍遅れて走った痛みにノエは苦鳴をこぼすまいと歯を食いしばった。
 激痛で動けないノエが歯噛みしている間に、ランドンはその鼻先をノエへと近づけた。鈍色の竜の巨体は、今やノエの視界の全てを埋め尽くしている。
……お前が、全てを無かったことにするというなら。おれは、お前を喰って、お前との日々を永遠にする。ずっと前から、お前が何も言わないなら、そうしようと決めていた』
……ずっと、前から?」
『ああ。ずっと前から。お前が、おれを殺そうとしたときからだ!!』
 ドン、と激しく前足が振り下ろされる。子供の地団駄を踏んだときの何百倍もの振動が響き、ノエが転がる地面の小石が小さく跳ねた。
……そうか。じゃあ、それでもいい」
 ノエがそう言った瞬間、ランドンの瞳に何故か躊躇が浮かんだような気がした。
 自分から『お前を喰う』と宣言していたにも拘らず、あたかも自らそれを拒んでいるかのような。
「見ての通り、僕はもう動けないようだ。だから、お前の好きにすればいい」
 ノエは剣の柄を握りしめ、ゆっくりと体を起こす。
 剣の先端を地面に突き刺し、よろよろと立ち上がる姿に、先だってまでの戦意は見られない。
 手負いの獣のように弱々しい姿は、観念したと竜に告げているかのようだった。
……お前が僕を喰いたいというのなら、できるだけ痛みがないようにしてくれよ。僕は、自分の体が砕ける感触を味わって死ぬような終わり方はごめんだ」
 ノエの淡々とした物言いに、むしろランドンは怖気付いたかのようだった。グルル、と何度か迷いを示すかのような唸り声をあげている。
 だが、自分が宣言した手前、引くことはできないと覚悟を決めたのか。
 ランドンの巨体が、ゆっくりとノエへと近づいてくる。
 それを確かめながら、ノエは呼吸を整え――意識を、研ぎ澄ましていく。
 体に落ちる影――ランドンが開いた上顎が、すっかりノエの体を覆ったときだった。
 
……光よ、剣となせ」
 
 つぶやいた刹那、ノエの視界を黄金が覆う。
 それは、黄金色の魔力で作られた剣だ。竜がその口を閉じる直前、ノエはエーテルの剣を生成する魔法を発動させていた。
 黄金の隙間から吹き出す赤が何のものか考えるより先に、ノエは更に体内のエーテルを加速させる。
 ――――オオォォオ!!
 ノエの体を切り裂かんばかりに響く大音声の咆哮は、痛みにもがく竜の絶叫だった。
 コンフィティオル(懺悔の祈り)の名を与えられた、巨大な剣を地面から生み出す魔法は、最近のノエが得意としている魔法でもある。地中から突如姿を見せた黄金の剣は、竜の下顎から上顎まで串刺しに貫いていた。ノエの視界を覆った赤は、竜の顎から噴き出た血だ。
 だが、この程度で竜が倒せるなどと思っていない。足の痛みを無視して、ノエは剣から地面へとエーテルを這わせながら、更に吼える。
「崩れろ――――!!」
 彼の声に呼応するように、エーテルで作り上げられた魔法陣がランドンとノエを覆うように地面へと広がる。あわせて宙空に浮かび上がったのは、先ほどよりも規模は小さいが、魔力で作られた数振りの剣だ。それは標的へと切先を向け、ランドンや周囲の地面へと降り注いだ。
(ルーシャンさんのように、何度もはできないかもしれない。でも、これなら……!)
 脳裏に思い浮かんだレイピア使いの魔道士は、複数の魔法を高速でいくつも打ち出す術を身につけている。それは古代の魔道士が身につけた秘術であり、ノエが見よう見まねで簡単に会得できるものではない。
 それでも、今まで長く行動を共にしていれば、エーテルの使い方を教わる機会は何度かあった。彼が魔法を編みあげる場面を何度も目にした。あとは、応用を効かせればいいだけのことだ。
 魔力で作り上げられた剣の一つが、ランドンの鱗に突き立つ。だが、その数は多くない。そのほとんどは、竜とノエの周辺にある地面を穿っていた。
『お前、は……お前は、また、おれをぉぉぉおお!!』
 大音声の咆哮と共に、ランドンが大きく足を踏み下ろす。間一髪、ノエがそれを回避したときだった。
 ――ガラガラと、世界そのものが崩壊しているかのような大音声。
 まるで、大地そのものが悲鳴をあげているかのような音の正体は、ノエと巨竜を支えていた地面が崩落を始める音だった。
 ランドンが散々暴れ回り、ノエがダメおしとして己の魔法で崩壊を促した地面は、大きく亀裂を広げ、凄まじい振動と共に崩れていく。
 だが、落下していくのはランドンだけではない。かつて地面だった岩石が崩れていくと同時に、ノエの体も宙に投げ出される。
 それでも、巨体であるが故に重量もノエの何百倍にも及ぶ竜の方が、落下する速度は早い。
「よし、あとは……!」
 過剰なエーテルの消費で目眩を覚えつつも、ノエは懐に忍ばせたクリスタルへと意識を集中させるために、目を瞑る。
 体を包む浮遊感は、否応なしに、かつて異端審問と称して崖から突き落とされた時の恐怖をノエへと思い出させる。あの瞬間、確かに感じた死の足音が、再びノエの心胆を寒くする。
……だけど、今の僕は一人じゃない」
 あの日、崖の下にいた老傭兵がノエを救ってくれた方法を、ノエもすでに身につけている。
 エーテルを一身にクリスタルに捧げ、ノエは友の名を呼ぶ。
「オルタシア、力を――
『ノエ、まだだ!!』
 妖異の友人に働きかけるために、闇色のクリスタルに意識を集中させかけたときだった。今まさに呼びかけた友人の放った警告が頭に響き、ノエは咄嗟に空中で体を捻る。
「まさか……!!」
 刹那、ノエの視界に飛び込んできたのは、退化した翼で辛うじて羽ばたく竜の姿だった。
 精々落下の速度を緩めることしかできないのに、それでもなおノエへと迫ろうとしているランドンの姿――その大きく開いた口腔が、ノエの視界を埋め尽くす。
――ナタロア!!』
 聞き覚えのない名で名前を呼ばれると同時に、ノエの視界は黒に塗りつぶされる。
 生暖かい生き物の気配に全身を包まれたと同時に、激しい衝撃がノエの全身を覆う。
 体を岩に打ちつけたときに似た激しい衝撃を最後に、ノエの意識はぷつりと途切れた。