水盆に映り込む邑神の微笑みは優しいまま、カップを持ち上げて紅茶を一口飲む。そして邑神の視線は水盆ではなく庭の方へ、あるいは現在から遠いどこかを見つめながら口を開く。
「自分と東雲祥貴が友人関係だということを知った先輩が言ったんだ。『東雲くんをモデルに絵を描いてくれ。そして文化祭で披露しよう』と」
「なるほど……でも祥ちゃん自体は確か……」
「そうだ、アイツは剣道部だったからな。直接美術部に関係はない人間だったが、美術部に入れば東雲祥貴をモデルに作品制作をすることもできるかもしれない――そう仄めかすことが目的だったらしい」
「……ほんで描いたん?」
「いや」
「まだ続きがあるんかい」
「はは……すまない」
謝りながらもそこまで申し訳なさそうでもない表情が水盆に映っていた。その心はここになく、高校時代に戻っているようだった。
「とんでもないと東雲祥貴を描くことを固辞すると先輩方は次に東雲祥貴本人に『モデルになってくれ』と依頼しにきたんだ。まあ、妥当な動きだとは思う。誰が東雲祥貴を描こうと関係ないんだ。東雲祥貴がモデルであるということが大事なんだ――で、アイツはこう言った。『有奇くんが描いてくれるならモデルになりますよ』……と」
「うわあ……祥ちゃんなら言いそ〜」
懐かしさ半分困惑半分の表情でおもしろおかしいと言わんばかりにくすくすと笑い声を漏らす。
「そうだろう? アイツは本当に狡い男だからな。これ幸いとばかりに自分に肖像画を描かせようとしたわけだ。そして自分を取り囲む包囲網がいよいよ完成した――あれだけ描きたくないと言っていた人間が筆を執ったわけだ。アイツのことを絵に描きたくなかったくせに一人前に自負があった――自分自身の傲慢さと言い換えることもできるが……」
「――祥ちゃんの『美しさを一番理解している』って話か」
「そうだ。アイツの美を自分以上によく捉えて描ける人間が少なくとも校内にいるわけがないと思っていた」
「そこだけ聞いてるとすごい自信家やもんな」
「ああ……そうだな……」
邑神は庭に向けていた視線を水盆に戻す。すると水盆を見つめていた千葉の視線が自然に交わる。今度はどこか遠くを見つめている目ではない。己に向けて言葉が発せられる、千葉は瞬時に確信した。
「――絵を描くという行為は写真を撮影する行為とどこに差があると思う?」
「……いきなり哲学的な話やな」
邑神の言葉に千葉は顔をあげて真っ黒な瞳を正面から見つめた。突然の質問で脈絡のないように思えたが、邑神の問いがここまでの質問とも無関係とは思えなかった。千葉が沈黙するのを見て邑神は慌てたように付け加える。
「写真を撮影するのも技術や知識は必要だが、今回はあくまで「写実する」道具という意味での写真撮影という前提で考えてくれ」
「それはわかってるんやけど……とりあえず道具が違うやろ。写真の方はレンズとか特に色味をいじっていなければそのままを撮影できるけど、絵を描くのはまず色を選んだり作ったりするから自分で考えなあかんよな。あとは人間が目で知覚して脳で処理したものを手で描くわけやから、中継地点を挟む分、その作家の認知の仕方で対象の描かれ方が左右される……みたいな」
「その通りだ。写真というものがこの世に誕生したときに画家が直面した問題とこの質問は深く結びついている。認知――つまりその作家の取捨選択が問われるわけだ。リアルを描くだけなら画家は要らない。では画家の存在理由は何なのか――その作家がどのように世界を捉えて表現するか、その差異に価値が生まれるんだ」
邑神が水盆に浮かんだ紫陽花を人差し指でつついた。その行為によって生まれた波紋。雨雲の中でも届けられる僅かな自然光を揺らがし、テーブルの上にも光の波紋が浮かび上がった。
「その作家が何のどんな様子をどんな風に描きたいと思うのか……作家性というやつだな。絵を描く行為は描くという範囲に留まらなくなり、意味を求められるようになった」
「……当然の流れやな」
「ああ。自然の流れだ。ただリアルを描くというのにも勿論相応の技術は必要だが、それだけでは意味がない。なぜそれを描いたのか、画家たちの直面する問題となった。もっとも、そんなことを考えずとも傑作を生み出す化け物じみた人間は歴史上にはたくさん居るが――少なくとも凡人にはなかなか難しい課題なんだ」
「――凡人?」
「ああ――自分自身のことだ」
問答の最中は勿体つけた表情をしていた邑神が、また悲しげな顔で呆れに似た笑顔を浮かべていた。
――挫折だ。
千葉は邑神の顔を見て理解した。
「いよいよ東雲祥貴を描くこととなった自分はこの高校の誰よりも東雲祥貴の美しさを描けると思い、作品制作に取り組んだ。だが、己に失望した」
「……めっちゃ綺麗に描けてたけど……」
「そうだろう。だが、『結局自分は他の人間と同じように東雲祥貴を見ている』ということに気づいてしまった」
「それはどういう意味?」
「……先程、美しいと思う花を切ってきてほしいと頼んだな」
「えっ……ああ……」
「絵を描く行為も花を切るのと同じなんだ。美しいと思う部分を美しいと思うように切り取り、描く。そうした結果――自分はあの絵を完成させることができなかった。東雲祥貴をあのように描くことは、自分じゃなくてもできる。他の人間と同じようなフレームでしかあの男を捉えられていなかったとまざまざと感じた」
「あれだけ――思い入れを感じるものやのに?」
「その『思い入れ』が凡庸ということだ」
邑神は肩を竦めるとカップに残っていた紅茶を飲み干した。そして千葉から視線を逸らすと安楽椅子に座り直し、まだまだ雨の止まない庭を眺める。
「その『思い入れ』や『入れ込み』が恋なのか愛なのか、今となってはどうでもいい話だが、とにかく当時の自分は失望した。東雲祥貴にとって特別だと思っていた自分は『自分が』特別なわけではなく、結局のところ『東雲祥貴が』特別なだけだった。他の生徒が感じるような羨望の目を東雲祥貴に向け、同じような目でヤツを捉え、未熟な腕でヤツを描く――『誰もが抱く凡庸な思い入れ』とでも言おうか。確かにあの絵は悪くない作品だと思う。だが、己の作品に対する姿勢があまりにも凡庸だった。だから自分は、描くのをやめた」
庭の紫陽花を眺める黒い瞳の、悔しさの滲んだ熱。その熱が自分に向けられているわけではない事実に千葉は再び、己の心がじくじくと痛むの感じた。
所詮過去の話だ。だが、過去の話と割り切って聞くには邑神の欲が大きすぎると思えた。
「――描くのをやめたって、筆を折ったってこと?」
「いや……あの作品の制作は中断したが代わりに別のものを描いた。先輩方には頭を下げる羽目にはなったが、それで良かったと思う。自分の納得できないものを描くくらいなら、注目されなくても自分が納得できるものを描きたいと思った――逃げたとも言えるかもしれないが、それで良かったんだ。自分の傲慢さに気づけたことが、あの作品に取り組んで良かったと思える唯一のことだった」
「やっぱり、今でも祥ちゃんを描くのは嫌なん?」
「そうだな――だが、まあ、描けと言われれば描くかもしれんな。自分が特別でないことを受け入れられた今だからこそ、諦めながらなら描けるかもしれない……そんな特殊な依頼をしてくる人間はもう居ないが。その一件があったから、東雲祥貴でさえもう肖像画を描いてくれなどと言わないだろう」
千葉がどう足掻こうと、邑神有奇にとって東雲祥貴は特別な存在なのだ。わかっていたことだった。邑神の東雲への態度や話し方や、何よりその視線が、他者に向けるものとはまったく違うものだというのは一目瞭然だった。
泥濘の思いがゆらりゆらりと揺れながら千葉の心を隅から隅まで焼き尽くす。思考は冷めているのに胸だけがやたら熱い。
「そんな顔をしないでくれ、千葉恵吾」
「……そんな顔ってどんな顔やねん……」
声が明らかに不貞腐れていた。自分の不機嫌を上手く取り繕えず、千葉は内心焦る。こんな思いをするのはいつ以来だろう。そもそもこんな思いを今までにしたことがあっただろうか。
邑神は困ったように笑って、もう一度水盆に視線を落とす。そして静かに、まるで独り言のように話し始めた。
「――綺麗な紫陽花だ。水色と紫色が綺麗にグラデーションになっているな……水に浮かべることを考えて茎を短く切り落としている。だが、なるべく花が萎れないように花弁に触らないように運んできたんだろう。すべての花弁がいきいきと見える。繊細な気遣いだな」
「……いきなりどうしたん?」
「一見大振りの花の塊なのに繊細さを感じられるのは、これを選んできた人間の感性に起因するものだ。自分はその感性をとても好ましく思う」
邑神の黒目が真っ直ぐと千葉の目を見上げた。既に焼き尽くされたと思っていた心は、その視線の熱さに再度焼かれる。しかしその熱さは不快なものではなかった。冷めていた思考までも熱くなりそうだった。
「千葉恵吾――お前さんの繊細で臆病な感性は愛らしい。お前の見る世界を自分も見たいと思えるんだ。お前の見る世界はきっと、自分にとっても好きだと思える世界だからだ」
「……なんや、それ」
「東雲祥貴には抱えなかった思いを、お前さんには感じる。千葉恵吾の見つめる今の世界を一緒に見たいと思える。これは自分にとって大切な気持ちなんだ」
「祥ちゃんには、思わへんってこと?」
「お前も知っているだろう、あの男を。あの男が見つめる世界はあまりに、厳しい。自分は東雲祥貴ほどストイックじゃないんだ……お前さんの見つめる『今』の小さな美しさを、自分も同じように美しく思う、いや、思いたい」
「……俺が甘いって言いたいん?」
ああ、また不機嫌を隠せなかった。しかし、そもそも既に取り繕えていない醜い感情――『嫉妬』だ。今更隠してももうバレている。
その嫉妬心を目の前に邑神有奇の視線はさらに熱く、甘い。
「その甘さが好きだ」
その視線を受け留め続けながら、千葉ははっとする。
どうして忘れていたのか。邑神のこの目は己にしか向けられていない色だということを。
「……狡いわ、カミサマ」
「狡いか」
「だってそんな風に言われたら、反論できへんやん」
「反論するつもりだったのか」
「そりゃ……まあ。これだけの話を聞かせられたら、祥ちゃんのこと好きやったんやろ、とか、祥ちゃんの方が大切なんやろとか、色々言いたいことはあるに決まってるやん」
不貞腐れる千葉相手に、瞳に込めた熱量はそのまま一片の笑顔も作らずに真摯に語った。
「……だが、欲情するのはお前さんにだけだぞ」
千葉は目の前の男が何を言ったのか一瞬理解できず、そして理解した瞬間に思い切り表情を顰めた。邑神の発言にツッコミを入れざるを得なかった。
「……何を大真面目に……そんなん関係ないやろ……」
「大真面目だが……」
「いやいや、祥ちゃん相手なら勃起できるやろ」
「落ち着け、千葉恵吾……可能かどうか、じゃなくて、そうしたいかどうかが問題だろう。意思の問題だ。自分はお前さんだから恋人になりたいと思った。一緒に心地良いときを過ごしたいと思った。何を選ぶかが重要だという話をしたところだろう――自分は千葉恵吾という繊細で臆病で甘い男に寄り添いたいと思い、それを選んだ。お前のことを好きだと自覚した、それが大切なんだ」
何か言いくるめられたような感じがして、しかし邑神の言葉自体は紛れもなく幸せを覚えるもので、相反する思いが渦巻く心で千葉は素直になれなかった。
「――カミサマ、さっき、俺のことも褒めるって言ってたやん。まだ全然褒められた気がせえへんねんけど?」
千葉の発言に邑神は一瞬呆気に取られ、しかし柔らかく甘い微笑みを浮かべると、吐息混じりにこぼす。
「まったく、お前という男は……本当に……」
「繊細とか臆病とか甘いとか、全然褒め言葉ちゃうやろ」
「わかったわかった。だが一晩はかかるぞ?」
邑神の手が千葉の頬へ伸ばされる。少し体温の低い指が輪郭を撫でる。その手つきはなにやら意味深で、千葉は唇を尖らせながら「ふうん?」と言う。不機嫌な表情のまま、しかし邑神の手へ頬擦りをし、そしてその指先へ口づけた。千葉の一連の行動に邑神は満足そうに笑みを浮かべながら、しかしその黒目の奥に隠しきれない貪欲さが色めき立っていた。
「褒めてほしかったら夜を一緒に過ごせって? カミサマ、狡いで」
「お前さんが嫌なら無理強いはしないさ」
「……嫌とは言ってへんやん」
千葉が寂しそうにもう一度邑神の指先に口づけ、そして甘噛みする。冷たかった指先が、少し温かくなった。
「……本当に可愛い男だよ、お前は」
その言葉が発せられると共に、ふたりの吐息が混じり合う。
お互いがお互いを選んで、今ここにある。
だからこそこの時間は甘く優しい時間なのだ。
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