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けーだい
2024-08-26 15:29:21
3534文字
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サマーバケーション
8/25「COMIC CITY VEGA 2024」の無配再録
海に行った記憶がない。
研究所のロベリーに挨拶をした帰り、切り立った崖の向こうに海を眺めながらぽつりとそんなことを言った。
夏の盛りに入ったばかりの太陽に焼かれながら、急な坂道を下る。じりじりと皮膚の焼ける感触はまるでゲルド砂漠にいるかのようで、ラネールの裾に近いこの辺りにしては珍しい暑さだった。じっと立っているだけでも汗が噴き出てくるような陽気の中を歩いていたから、少しぼうっとしていたのかもしれない。半ば無意識に口から出たそれは、話しかけるというよりも多分独り言のようだったと思う。
ふたりともずっと無言だったから、突然口を開いた俺に驚いたらしい。隣を歩くゼルダが俺を振り返る気配がした。肩の触れないぎりぎりの距離がその些細な動きで崩れて、彼女の手の甲が一瞬だけ俺の手を掠めて離れていく。
遠ざかってしまった温度を惜しむようにゼルダに視線をやれば、彼女は不思議そうに首を傾げていた。
「そう、ですか?」
その翠はまるで信じられないというように見開かれている。そうして俺はまた自分が言葉を間違えたことを自覚した。
確かに海に行った事自体はある。海に潜って魚を捕ったこともあれば、無人島に辿り着いて数日をそこで過ごしたことだってあった。
けれど今隣にいるこの人と、一緒に海で過ごした記憶はない。
かつて修行や研究に明け暮れていた頃はハイラル中をふたりで回っていた。その頃の記憶が全てある訳ではないけれど、少なくとも想い出した中には海の記憶はない。強いて言えば、百年の眠りから覚めて彼女を助け出した後、復興を目指す旅の中で何度かウオトリーに足を運んだことはある。けれど彼女と向かったのは山の頂上にある池や村の施設ばかりで、ふたりで砂浜を踏んだこともなければ、波に足を晒したこともなかった。
今にして思えば不思議だった。それなりにふたりで過ごしてきたはずなのに、何をするでもなくただ波に揺られるような時間はどこにもなかった。それだけ俺達にはやるべきことがあって、ずっとそれに追われ続けてきたということだろう。その時は俺も彼女も必死でそれどころはなかったのだけれど、それが今は喉の奥に引っかかった小骨みたいに無性に気になった。
そんなことを纏まりもなくぽつぽつと話す。全く要領を得ない、思いつくまま喋る俺の声を聞きながら、彼女はずっと海を見ているようだった。
「確かに、貴方と海に行ったことはありませんでしたね」
彼女が足を止める。長い下り坂はいつの間にか分岐に入ろうとしていた。右に行けばいつもの道だ。村の真ん中を通って、すれ違う村人達に挨拶しているうちに家に着くだろう。
けれど左に行けば、少し遠いけれどさっきまで見えていた海がある。浜まで出れば、波に触れることくらいはできるかもしれない。
そんな予定は全くなかった。だからなんの準備もしていないし、今日は日差しがあまりに強いから、早く帰って遅めの昼食でも食べようかと思っていたはずだった。なのに。
「行ってみませんか」
思いと裏腹に、その言葉は素直に口から出ていた。
*
蛇腹に折り畳まれた割には長く急な斜面を下って行く。標高のあるハテノから海に辿り着くにはほとんど山越えになる。こちら側に下りてくる人があまりいないのはこのきつく長い坂のせいもあるのかもしれない。
思いがけない遠出にもかかわらず、ゼルダは待ちきれないというように軽い足取りで俺の数歩先を歩いていた。近くに住んでいたのに一度も通ったことのない道が珍しいのか、代り映えのしない景色を興味深げに観察している。
「考えてみたら」
大分傾き始めた日を眩しそうに手で避ける彼女がぽつりと漏らす。その言葉は、潮の匂いの混じった風にかき消されそうなくらい小さかった。聞き逃さないよう数歩の距離を縮めて、隣に並ぶ。翠の瞳は海へと注がれたまま、思ったよりもっと遠いどこかを見ているようだった。
「私自身、海に馴染みがないんです。城は内地にありますし、各地の泉にしてもそうです。主だった遺跡も海からは離れた場所がほとんどでした。そのせいか、子供の頃まで遡っても海に入った記憶はありません。
……
そのことに、気付きもしなかった」
だから、楽しみなんです。
そう笑う彼女に、言葉になる前の色んな感覚で胸が詰まった。幼い頃からひたすらに努力を重ねて、そうしてやっと掴んだ平和な世界を、彼女は未だに味わうことさえしていない。
いっそ彼女の手を引いて走ってしまおうか、と一瞬考えてやめる。そうしていつかのように手が離れてしまうのも嫌だった。
逸る気持ちに足早になってしまいそうなのを必死に抑えながら彼女の隣を歩いた。だいぶ伸びた影は夕焼けが近いことを告げている。気付けば風の中に波の音が混じっていた。散々曲がりくねっていた道も、もう砂浜まで真っ直ぐ伸びている。
*
水平線が真っ赤に染まる頃、辿り着いたハテノ湾には誰もいなかった。
「静かですね」
風もいつの間にか止んでいて、あたりは波の音だけが響いていた。砂を押してはさらう波打ち際まで、二人分の足跡を刻んでいく。
「ほんとは
……
」
今日はどうにも、ぼんやりした言葉ばかりが出る日だった。その先をどう続けるつもりだったのかも考えていなくて、結局何も言えないままブーツを脱ぎ捨てる。波打ち際に足を進めると、俺の行動を見守っていたゼルダも倣うように靴を脱いだ。綺麗に揃えて俺の靴の隣に置き、裾を捲るとおそるおそる、水面に足を浸していく。
海面近くの水は温くなっていて、思ったより涼しくはなかった。けれど繰り返し足を撫でていく水の感触や、波が引くのと同時に足の下にある砂が持っていかれる感覚自体は心地がいい。
はじめて海に入ったというゼルダは、砂の感触がくすぐったいのか、それとも水の動きが気になるのか、波に抗うように足先で水面を揺らしている。白い足首に跳ねた飛沫が彼女の動きに合わせて流れ落ちていくのが見えた。
波に足を取られそうになりながらもしっかり砂を踏みしめて、彼女は無邪気に戯れている。
「ほんとうは、なんですか」
静かに先を促されて、もう一度自分の中身を浚い直してみる。思っていることも、伝えたいことも、たくさんあるけれど、どれもゼルダに言うべきではないような気がした。
黙り込んだ俺の隣に彼女が寄り添う。微かに触れた手の甲は少し冷たくなっていた。その手を、そうっと握る。
されるがままの彼女は少し驚いた顔をしていた。俺が自分から彼女の手を取ったのが、意外だったのかもしれない。
「リンク?」
伺うように俺を覗き込んでくる翠が夕日に照らされて、俺の知らない色を見せる。百年前を合わせても数年しか一緒に過ごしていない俺達には、まだ互いに知らない顔がいくつもあるのだろう。
「
……
もう少しだけ、このまま」
太陽が沈んでいった海は夜の色に染まり始めている。今から帰っても家に着くのは夜中で、それならせめて、もうしばらくはここに留まっていたかった。
ゼルダが握り返してきた手を都合よく受け取って、ふたりで波に揺られていた。燃えるような水平線がやがて静かに暗くなる。
ぎゅ、と一度強く手を握られて、ゼルダを振り返った。いつから俺を見ていたのか、ぱちんと視線が絡み合う。
「帰る?」
彼女は少し目を伏せて首を横に振った。そしてもう一度顔を俺に向けると「ありがとう」と言う。
きっと、俺が言うべきじゃないと言葉にしなかったことを、彼女は理解しているのだろう。
「訊いてもいいですか」
俺の我儘に付き合う彼女は、ただ真っ直ぐに俺を見つめている。
「貴方はいつも、私にあたたかいものをくれます。
……
それは、何故?」
その問いかけの答えは、今までさんざん飲み込んできたせいで咄嗟には出てこなかった。代わりに繋いだ手の指を絡めて、握る。
そうして自分の奥底に沈め続けてきた一言をどうにか告げると、驚きに見開かれた翠が、やがて幸せそうに緩く弧を描いた。
あまりに眩くて、思わず引き寄せられる。もっと、一番近くに居たいという欲求が、飲み込むのをやめた言葉と一緒に溢れ出るのを感じた。長い睫毛が震える様を間近に見つめて、彼女が恥らい視線を伏せるのにはっとする。
怯えるのなら離れるつもりだった。けれど彼女は絡めた指を握り返して、俺を引き留めるから。
吐息の触れる距離で覗き込んだ翠に、俺の青色が映り込んでいるのが見えた。そうして、ふたり分の色が混じった瞳が応えるように閉じていく。
はじめて触れた唇は、泪のような味がした。
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