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Public まほやく
 

バ先の謎先輩と飲み会したらホラー展開になった話(カフェパロの約束/オーカイ)

月刊オーカイ企画さん2024年8月号に、お題「守護」「朝焼け」「目玉」「乾杯」で参加させていただいたもの。夏だ!BBQだ!ホラーだ!コリーカフェだ!カインくん、お誕生日おめでとう(ございました)!のすべてを詰め込もうとして生み出された混沌。なんでもいい人向け。

※ 後半ホラー展開(主要キャラは無事)



 カインのバイト先には、謎の先輩がいる。何が謎かというと、何の仕事をしているのかわからないのだ。名前はオーエンといい、ついでに苗字も謎である。
 めったに姿を見かけなくて、見かけるときには大抵バックヤードでスイーツを食べている。カインが働き始めた最初のうちは、ホールに出ている姿を見かけたので、ホールスタッフなのかと思っていた。しかしメニュー説明の表現があまりにグロテスクなので、内心「おいおい」と思っているうちに、いつのまにかホールの担当からは外されていた。
 かといって、古株のキッチンスタッフで、時折ホールに出ることもあるレノックスによると、キッチンで働いている様子もないという。オーエンがキッチンを訪れるのは、チャンバーを覗いて甘いものを持っていくときだけだそうだ。
 ホールがてんやわんやのときに出てきてくれず、バックヤードで菓子を食べているのを見つけたときには、さすがに後輩のヒースクリフに愚痴を言ってしまった(最初は直接本人に言ったが無視された)。人の噂をするような品のないことはしないヒースクリフは、曖昧に笑って「なにか事情があるのかもしれないよ」と言っただけだった。辞めさせられない事情ということか? とカインなどは勘繰ってしまうのだが、謎は深まるばかりだ。
 嫌われているのか、なんだかんだ気に入られているのかもわからない。
 基本的に挨拶は無視される。必要があって話しかければ、すぐに「敬語」と指摘されて本題をうやむやにされる。

「俺と同期のクロエは敬語じゃなくても許してるのに、なんでだよ……なんでですか?」
「『どうしてですか?』 クロエは必要があれば、ちゃんと敬語が使えるからだよ。おまえみたいな敬語の苦手なやつに、無理やり敬語を使わせるからおもしろいんだろ」
「パワハラだ……!」

 指導と呼んでほしいなと、にんまり笑う顔は楽しそうだ。愛ある指導と言えばそうなのかもしれないが、やはり嫌がらせのようにも思える。
 しかし、気に入られているのかもしれないと思うこともある。つい今月の頭、夜のシフトで入ったときのことだ。違算金が発生してレジ締めに手間取っていると、めずらしくオーエンがホールにやってきた。まだ帰っていなかったのかと内心驚くと、話しかけられる。

「おまえ、明日誕生日でしょう」

 なんで知ってるんだ? と一瞬眉をひそめたが、シフト交代のときにほかのクルーからお菓子やらプチギフトやらを手渡されていたのを、どこかで見ていたのかもしれない。

「シフト表みたら、明日も入ってるけど。お祝いしてくれる友だちとか、いないわけ」

 妙なことを訊いてくるなと思った。シフトを替わる気もないだろうに。

「友だちはみんなゼミとバイトで忙しいし、別の日に飲む約束をしてるんだ……です」
「へえ。でも、おまえの恋人は当日お祝いしたいだろうに。自分よりもバイトを優先されて、かわいそうにね」

 嫌味な言葉に反して、淡々とした声音だった。

「恋人なんて、いないぞ?」

 一体なんなんだと溜息をつきたくなった。面倒なことになるからしなかったけれど。オーエンはその気配を感じたのか、ふっと微笑んだ。やはり嫌がらせだったのか。
 ちらりと壁掛け時計を見た。あと数十秒で六日になる。日付が変わる前に帰れるかと思っていたけれど、難しそうだった。オーエンが絡んできて集中が乱れるから、なおさら作業に時間がかかっている。

「よければ、手伝って欲しいんですけど」
「もっと丁寧に頼んでくれたら、考えないこともないよ」
……よろしければ、手伝っていただけませんか。オーエン先輩」

 カチリ。長針と短針と秒針が重なって、日付が変わる。

「いいよ。手伝ってあげる」

 鼻歌でも歌いそうな調子で言って、オーエンがレジ台に歩み寄ってくる。ドロアーを覗き込むようにして、肩に手を置かれた。いつもより低い声が耳孔に流し込まれる。

「それから、お誕生日おめでとう。カイン」
「どわっ!」

 耳朶をくすぐる吐息に思わず飛び退くと、オーエンは楽しそうに喉の奥で笑う。じわじわと何をされたのか理解して、時間差で頬が赤くなる。
 今ごろ、おまえのスマホはロッカーの中でメッセージを受信し続けてるんだろうに……僕なんかに一番に誕生日をお祝いされて、惨めだね。
 そう言うオーエンの笑顔には邪気がなくて、まるで一番にお祝いできてうれしいと言っているみたいだった。……たぶん気のせいだろう。



 そんな間柄だから、鳴らされたチャイムに応えて覗いたドアスコープの向こうに、オーエンが立っていたときには心底驚いた。

「オーエン! ……先輩」
「おまえんち、古すぎ。インターホンもないわけ」

 オーエンはろくな挨拶もなくズカズカと上がりこむと、ローテーブルの上に置かれたものを見て眉をひそめた。

「おい、これはなんだよ」

 いや、そもそもなんでおまえがここに……と疑問を口にする前に、オーエンが畳の上に放り投げたビニール袋の中を覗いて、先に到着していたクロエが声をあげる。

「あ、これスモアの材料だ!」

 マシュマロと、チョコレートと、グラハムクラッカー。クロエが数えあげるごとに、オーエンのこちらを睨みつける視線が強くなる。カインは答える。

「しゃぶしゃぶ用の鍋です」
「夏に? BBQじゃなかったの」
「いや、賃貸の室内でBBQはできないだろ……でしょう? できなくないですか?」
「下手な敬語で言うな、ムカつく。最初は僕もそう思った」

 そこにクロエが割って入る。

「ごめんね。最初はBBQの予定だったから、今回の集まりのことをずっとそう呼んでて!」

 オーエンの纏う空気が、ふっと緩んだ。

……まあ、どうでもいいよ」
「やっぱクロエには甘くないですか?」
「食後にコンロでマシュマロ焼こうよ!」

 クロエの言うとおり、当初は、バイト仲間が集まってのBBQの予定だった。「BBQパーティーしま~す! 参加希望者は名前書いてね」とクロエがバックヤードに貼り出した紙に、確かにオーエンの名前はなかったはずだ。希望の日時に近隣のBBQをできる場所がどこも予約いっぱいだったのと、ヒースクリフの両親が「夏バテしないように精のつくものを食べなさい、お友だちも一緒に」と言って(それでも脂の多い料理が苦手な息子に配慮して比較的食べやすい)しゃぶしゃぶ用の高級肉をたくさん送ってくれたそうで、急遽カイン宅でのしゃぶしゃぶパーティーに変更されたのだった。
 その流れのどこかで、気か予定が変わってオーエンも参加することになったのだろう……と考えていると、クロエが「オーエンは、カインの家に来てみたかったんだって」と言い出した。

「「は?」」

 ふたりの声が重なった。オーエンのほうを窺うと、彼は気を取り直したように唇を歪めて笑った。

「だって、この家、出るだろ」
「え?」

 クロエが驚いた顔をしてカインを見る。

「何がだ?」

 カインはきょとんとして訊き返す。例の虫のことなら、古い物件だ。出ないことはないが、これから食事というときにする話ではない。

「幽霊じゃない?」
「幽霊に決まってるだろ」

 オーエンとクロエの声が重なり、クロエはちょっと嬉しそうにオーエンを見た。オーエンはその視線を無視して続ける。

「僕はその手の話が大好きでね。ぜひ現物を拝みたいと思って」
「出ないけど……?」

 この家で幽霊なんて見たことがない。不気味な気配を感じたこともない。

「この家、めちゃくちゃ古いけど、古いだけでいい物件だぞ。近所の人たちも親切だし」

 オーエンの両目が、こちらを見つめたまま、ゆっくりと弧を描く。そのあいだに、クロエが「オーエン」と呼びかけた。

「あの、知ってると思うけど、今日はヒースクリフも来るんだ。ヒースはそういう話題が苦手だから、出るとか出ないとかいう話は、また今度にしてもらえると……
「どうしようかな。そう言われると、ますます話したくなる」
「え~」

 クロエが困った顔をする。このままでは楽しいしゃぶしゃぶパーティーが百物語の場になりそうだ。
 心優しい後輩を怖がらせるわけにはいかない。そもそも、この家、何も出ないし。カインは、ずいと身を乗り出した。

「わかった。その話は、みんなが帰ったあとに、俺と二人でしないか? この家に住んでる張本人に、いろいろと訊きたいこともあるだろ?」

 駄目押しで「もし、どうしてもヒースに怖い話を聞かせたいって言うなら、コンロでマシュマロは焼かせない!」と言うと、オーエンはちょっと目を丸めたあと、微笑んだ。

「カインの分際で僕を脅すなんて生意気だけど……いいよ。マシュマロを食べながら、たっぷり怖い話をしよう」



 飲み会が終わったのは、午前0時近かった。想像以上に話が盛り上がり、慌てて片付けを始めたのは終電間際で、みんなで手分けをして皿洗いをし、ゴミをまとめ、空き瓶と空き缶をすすいで仕分けたが、すべて片付ける前に時間切れとなってしまった。
 みんなが忙しく立ち働いているあいだ、オーエンはずっと大袋のマシュマロを焼いては食べていた。みんなを見送り、洗い物の続きをしようとすぐ隣のシンクに立ったカインは、その横顔を見てなんだかすべてが面倒になってしまい、近くにあったチューハイの缶を手に取った。洗い物は明日、目が覚めてからやることにする。

「なにおまえ、まだ飲むの」
「飲みかけのやつだよ。流すのもったいないし」

 呆れたような半眼でこちらを見るオーエンだが、お互い様だ。こちらはこちらで、まだマシュマロを食うのか? と思っている。

「乾杯」

 生ぬるい缶を軽く持ち上げて言うと、オーエンは応じるように鼻を鳴らした。気が抜けて、ただの甘い砂糖水のようになったチューハイを飲み下す。

「あっま……
「ちょうだい」

 思わず溢れた声にオーエンの瞳がギラリと光り、躊躇無く手が伸びてくる。缶を奪われ、飲み口に薄い唇が触れるのを、呆気にとられて見つめる。最後の一滴まで飲み干そうと白い喉が露わになって、喉仏が上下する。
 口を離したオーエンは、なんでもなさそうに「おいしい」と言って唇を舐めた。なんだか見てはいけないものを見てしまった気がして、慌てて話題を探す。

「それで、二次会のテーマは怖い話だっけ? 何度も言うけど、俺はこの家で恐怖体験なんてした覚えはないぞ」
「敬語。……まずは、おまえの言ってた近所の親切な人たちの話を聞かせてよ」

 意味がわからなかった。首を傾げながらも、ええと、と話し出す。身体に酔いが残っていて、益体もない話を親しい友人と語りたいような、そんな気分だった。オーエンは、親しい友人ではないけれど。



 起床直後、朝一番にカーテンを開けると、こちらに向かって手を振ってくれる人がいる。
 通りを挟んで、そのまた奥の奥にあるマンションの一室。掃き出し窓の向こうに、ゆらゆらと黒い影が揺れる。
 遠くて、性別も、年齢も、姿かたちもわからないけれど、恐らく目覚める時間が同じぐらいで、同時にカーテンを開けて、自分を見つけたのだろうと思う。
 カインも手を振り返すと、ゆらゆらと揺れる動きは大きくなる。両手を高く掲げて、振っているような。ゆーら、ゆーら。黒い両腕が揺れる。
 道行く人と視線を交わすこともない大都会で、見知らぬ人と、小さな共通点から毎朝、朝の挨拶をするようになるなんて、ささやかな約束をしているようで嬉しかった。
 帰宅後、大抵は夜遅い時刻。部屋の灯りをつけると、玄関脇のはめ殺し窓のほうから「おかえりなさぁい」という、か細い声がする。老齢の女性の声。
 隣家に住むお婆さんの声だと思う。シルバーカーを押しながら、ひとりで歩いている姿を何度か見かけて、挨拶をした。重たそうな荷物を運んでいるのを手伝って、家まで送ったこともある。最近、姿は見ていないが、声は聞こえるので、元気そうで安心している。
 どんなに夜遅くに帰っても「おかえりなさぁい」と挨拶をされるので、自分の立てる物音で起こしてしまっているのではないかと不安も覚えるが、友人を連れて帰るときには声がしないので、たまたま起きているときに声を掛けてくれているだけなのだと信じたい。

「本当に壁が薄くて参るよ」

 そう言うとオーエンは目と口を三日月型に歪めた。

「それから?」
……それから?」

 カチリ、とオーエンがようやくコンロの火を落とした。立ち上がり部屋を横切ると、隅にあるベッドに勢いよく腰掛ける。誕生日に耳元で囁かれたのといい、先ほど飲みかけに口をつけたのといい、人のベッドに断りなく腰かけるのといい……オーエンは想像以上に遠慮がない人物らしい、とカインは密かに驚く。

「まだいるだろう。たぶん、若い女だ」

 その話はしたくなかったけれど、なぜか知られているらしい。ほろ酔いの頭は深く追及することをせずに、「まあ」と認めた。

……自分で言うのもなんだけど、俺、けっこうモテるほうで」

 ハッ、とオーエンが笑う。馬鹿にしたような笑いだったが、言っているのは本当のことなのでダメージはない。

「でもこれは自慢とかじゃないので、そのつもりで聞いてください」

 オーエンが黙ったまま、目線で先を促す。

「アパートの入口でよく見かける女の人がいるんですけど、毎日挨拶してたら、気に入られたみたいで。最近、ドアノブにタッパーに入ったおかずを掛けて置いていってくれるようになったんです」
「まさか食べていないだろうね」

 オーエンが眉をひそめる。もちろん、食べるわけがないと答える。さすがの自分も、よく知らない人からもらった食品を口にはしない。

……正直、ちょっと怖いですけど、まだそれだけなんで。親切心かなと思ってます」

 警察に行けとか、引っ越せとか言われたら面倒だなと思う。警察沙汰にするにはまだ早いような気もするし、引越しのための金は無い。

「どんな女?」

 そう訊かれて思い出そうとする。

「いつも俯いていて……髪が黒くて、長い」
「こんなふうに?」

 オーエンがマットレスの下に手をやったかと思うと、何かを引き出す。
 ずる、ずる、ずる……
 長い、黒髪の束だった。自分の髪であるはずもない、漆黒の――

……え?」

 オーエンが嫌悪に顔を歪め、畳の上にそれを投げ捨てる。

「気持ち悪い」
「いや、そこに捨てるなよ!」

 ゴミ箱に入れてくれ、頼むから! と突っ込みながら、必死に状況を理解しようとする。つまり、どういうことだ?
 オーエンが忌々しげに長い髪の毛を見下して、呟く。

「だんだん気配が濃くなるから、やばくなる前になんとかしないととは思ってたけど、まさかもう中に入れてるなんてね」
「え? 俺、女の人を連れ込んだりなんてしてな……

 わけがわからないながら慌てて否定すると、オーエンはちょっと笑った。

「馬鹿、人間の話はしてない」

 一番怖いのは人間だってオチだったらよかったのにね。そう言って、オーエンはポケットからスマートフォンを取り出した。何かを検索したかと思うと、こちらに差し出す。黒髪の束を遠巻きにしながら、歩み寄って受け取る。

「全部、人間じゃないって言ったらどうする?」

 見せられたページには、地図が載っていた。自分の家の周辺地図だ。ピンがいくつか立っていて、そこから吹き出しが伸びている。

「焼死(タバコ失火)、孤独死(病死)、無理心中(ストーカー殺人)……?」

 画面を覗き込む自分を、オーエンはじっと観察している、その視線を感じる。

「事故物件サイト。見たことない?」

 思わず顔を上げた。胸が悪くなって、その澱が溜まる前に吐き出すようにして言った。

「悪趣味だ」

 オーエンは片方の口角を上げて笑った。

「おまえみたいなのこそ見た方がいいと思うけどね。いや、おまえみたいなのが見ても無意味か」

 カインの視線は、ふたたび、どうしようもなく、手のうちのスマートフォンに戻る。
 焼死のピンは、例のマンションに立っていた。こちらを見て、手を振る人の……。もしかして、と思う。仮に、オーエンの言うことがすべて真実だったとして。

……助けを求めてた?」

 オーエンはすべてを言わずとも理解しているようだった。

「死んだことにも気づかずに、身を焼く炎と肺を満たす煙に悶えながら、必死に助けを求めて手を振っているのに……呑気に手なんか振り返されたら」

 さぞかしきみを恨んでいるだろうねぇ、と言う声は歌うようだ。
 孤独死のピンは、隣家に立っている。もっとよく見ようとカインがマップをスライドさせたのを目にとめて、オーエンが言う。

「まあ、そっちは大して害がなさそうだから、どうでもいいよ」
……

 あのお婆さん、亡くなっていたのか。ぐ、と込み上げる感情があった。悲しみ、悔しさ。独りで死ぬということが、すべて悪いこととは思わないけれど、もし自分がもっと気にかけていたら、早くに気づけていたら、亡くなることはなかったかもしれないのだろうか。
 オーエンが大きな溜息をついた。

……なんだよ」
「その顔。おまえって本当、相変わらず傍迷惑なお人好しだね」

 ムッとする。お人好しで何が悪いというのか。相変わらずというのも、よくわからない。オーエンとはバイト先で知り合ったばかりのはずだ。

「この家も確かに場所が悪いけど、おまえなんかどこに住んだって同じだよ。家が悪いんじゃなくて、おまえが死霊を引き寄せてるんだ」
「なんで」
「お人好しだから」

 また言われる。だから……と反論しようとすると、それを遮るようにオーエンが被せて言った。

「僕の話を聞いて、かわいそうだと思っただろう」

 そのとおりだった。どんなにか痛かったか、どんなにか寂しかったか、想像をしてしまう。その場に自分がいて、助けられたらよかったのにと願う。そうできなかったことを悔いる。
 沈黙の肯定に、オーエンは笑みを浮かべた。今度は、そう嫌な笑いではなかった。

「あいつらは、同情されるのが大好きなんだ。自分を憐れんで死霊になんかなってるんだから」

 オーエンが言葉を終えると、シン……と部屋が静寂に包まれる。いつ、その静寂を破って、あのお婆さんの声が聞こえてくるかと思うと、気が気ではなくなってきた。勝手なものだ。元気であることを嬉しく思ったり、亡くなったことを可哀想に思ったり、化けて出ることを恐れたり。
 そうして、畳の上の髪の束に目をやる。絡まり渦を巻く長い黒髪を見ていると、ぞわぞわと背筋を悪寒が這いのぼってくる――最後のピンは、このアパートに立っていた。
 思わず縋るようにオーエンを見た。目と目が合って、「……で?」とオーエンは尋ねた。

「それでも、この家に住み続けるの?」
「いや……うーん、でも……

 貧乏学生のこと、すぐに引っ越せるわけではない。オーエンは焦れたように髪の束を指さす。

「その女。また来るよ。おまえが差し入れられた食べ物を家の中に入れるたびに、少しずつ、少しずつ、その女も中に入ってきているんだ。このままじゃ、髪だけじゃなくて、完全に中に入れるようになる日も近い。だからと言って、そのまま突き返せば、どうなるかわからない」

 オーエンの語る法則はよくわからなかったが、妙な説得力があった。自分のよく知らない、この世界の仕組みを知っていて、導いてくれるひと。既視感のようなものを覚えた。……突拍子もない話だが、なんだか、信じてみようかという気が湧いてくる。

……友だちの家にでも」

 泊まろうかな、と言おうとしたところだった。オーエンがすっと立ち上がった。

「僕の家に来たら?」

 咄嗟に言葉が出てこなかった。大して親しいわけでもない。むしろ嫌われているような気さえする。そんなバイト先の先輩の家に、泊まる……というか、住む、のか?
 気がついたら、うつくしい顔が至近にあった。赤い両目が、めずらしく真摯な色を帯びてこちらを見つめている。

「この世界のおまえって、信じられないぐらい赤ちゃん。自分の身も自分で守れないなんて、哀れで、みっともなくて……だから僕が守ってやるよ」

 そして、全部思い出したときに、悔しがればいい。
 やっぱりちょっと変な人だな、と混ぜっ返そうとする自分を、頭の片隅に追いやった。オーエンの真剣な顔は初めて見た気がしたからだ。こちらも真剣な顔で答える。

「ありがとう。でも、その、守ってくれる? のは、助かるけど……泊めてもらうのは、さすがにちょっと悪いような……

 遠回しに断ると、オーエンが舌打ちをして、さらに顔を近づけてくる。

「守ってくれて助かるだなんて、なまぬるいことを言うな。おまえは守る側だろ」
「え? おまえが言い出したのに? なんか理不尽……じゃないですか?」

 人形めいて整った顔が、今はもう吐息が掛かるほどの距離にあって、だけどそれが嫌ではなかった。もう少し互いが酔っぱらっていて、もう少しいい雰囲気の話題だったなら、キスをしていただろうなと思った。なんだか、そんな目で見つめられていて、そんな距離感だった。
 オーエンの表情が、ふと、やわらいだ。

……早く思い出しなよ、騎士様」
「あのー! ごめん! まだ起きてるー!?」

 突然、明るい大きな声がして、オーエンの言葉はかき消された。クロエの声だった。カインは咄嗟にオーエンから身体を離す。オーエンは、不機嫌そうにというよりは、訝しげに、眉根を寄せている。

「あ、ああ。起きてるぞ。どうした?」

 声がする玄関のほうへと向かう。すると、別の声が聞こえてくる。

「ごめんね、俺たち忘れ物をしちゃったみたいで」

 ヒースクリフの声だ。忘れ物? 狭い部屋を見回すが、忘れ物などなさそうに見える。どんなやつだ? と訊こうとすると、被せるように別の声がする。

「すまないが、ここを開けてくれないか」

 レノックス。いつも人が話し終わるのをきちんと待つ彼にしては、ずいぶん性急だった。そんなに大切なものを忘れたのだろうか。終電を逃しても取りに来るくらい?

「おい」

 オーエンが低い声で呼んだ。それよりも先に、カインは玄関扉に近づき、ドアスコープを覗いた。

「馬鹿、見るな……!」

 オーエンが叫んだ気がした。
 ドアスコープの向こうは、真っ暗だった。

……え?」

 外廊下は本来なら常夜灯の灯りで照らされているはずで、いくら真夜中とはいえ、扉の向こうがこんなに暗いのはおかしい。身を引こうとするけれど、目も、身体も、離せなかった。
 ず、ずずずと、何かが扉に擦れる音がする。視界一面の黒の中に、ゆっくりと白いものが現れた。
 額だ、と思う。ならば、自分が見つめていた暗闇は、漆黒の髪だ。あの女が。べったりと扉に張り付いて、這い上ってきて。それが擦れて音を立てていたのだ。
 ゆらり、と女は身体をわずかに起こした。バラバラと額に垂れる髪の筋の下で、俯いた顔が、ゆっくりと上向く。

「なんで、食べてくれないの……

 喉の奥から絞り出すような声だった。え、と零れた声に反応するように、ぐりん、と顔があがる。生きている人間とは思えない、青黒い顔の中にぱっかりと空洞が開いた――口だ。

「食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて食べて」

 ガン、ガン、ガン、と扉に頭が打ち付けられる。そのたびに、乞う声に歪な呻きが混じる。顔にかかった髪が乱れて、隠れていた目元が覗きそうになる。血走った白目が見えて――

「《クーレ・メミニ》」

 突然、眼前が白くなった。目の眩むような強い光。思わず瞼を閉じる。次の瞬間には光が消えて、身体が動くようになっている。

……今の!?」
「だから、化け物の目を見るなって何度言ったら……

 うんざりした調子で呟いたオーエンのほうを振り返る。外国語のような不思議な響きを唱えたのは、確かにオーエンだった。目が合うと、オーエンは少し得意げに笑った。

「一か八かで唱えてみたけど、いけるもんだね」

 混乱した頭で、ふたたびドアスコープを覗く。あの女の姿は消えていた。消えていたが――「ええ!?」と頓狂な声をあげて、扉を開く。
 扉の向こう、外廊下のあった場所の地面には、大きな亀裂が入っていた。ぱっくりと開いた暗い暗いひび割れ。底が見えないほどに深い。
 じり、と思わず後ずさる。と、いつの間にかすぐ後ろに立っていたオーエンに、背がぶつかった。

……っと」
「時空の裂け目? 呪文で、この世界の理が乱れたかな」

 オーエンはよくわからないことを言いながら、亀裂のすぐ傍にしゃがみこむ。そうして彼にしては声を張り上げて、言った。

「ねえ、賢者様? いい加減、起きたら? 何か月、眠ってるんだよ」

 その声は深淵に吸い込まれていって、反響すらも返ってこない。カインは「落ちるぞ」と言って、オーエンの手を引いて立たせる。オーエンは不服そうな表情を浮かべながらも、おとなしく従った。とりあえず部屋の中へと戻る。

「呪文? 賢者? おまえ、一体さっきから何を……っていうかさっきの化け物は一体……
「おまえを追い回してた死霊だよ」

 オーエンはやれやれといった調子で肩を竦めた。

「ずいぶん怒ってたね。僕ときみがあんまり仲がいいから、身の程知らずに嫉妬でもしたのかな」
……成仏したのか?」
「成仏? そんな生易しいものじゃないよ」

 オーエンがうっそりと笑みを浮かべた。もっと詳しく訊きたいような気もしたが、ほかにも訊きたいことは山ほどある。

「ていうか、目玉! おまえ、片目の色が変わってるけど、大丈夫なのか!?」

 赤かったはずのオーエンの片目は、金色に変わっていた。どこか見覚えのある色だと思う。オーエンはにんまりと唇を歪めた。

「ああ、元に戻ったんだ。これはね、おまえの目玉だよ」
「え!?」
「おまえが何も守れない赤ちゃんだっていう証、なんだけど」

 オーエンはそう言うと、亀裂を指さした。

「なんだか一から説明するのが面倒になっちゃった。この亀裂に飛び込めば、全部思い出せるかもしれないけど、どう? まあ、下手したら死ぬけど」
「いや、普通に死ぬだろ……死ぬんじゃないですか?」

 思い出したように敬語を使うと、笑われる。

……まあ、こんなおまえともうしばらく遊ぶのも、悪くないかもね」

 独り言のように呟いたあと、とりあえず、とオーエンは顔を上げる。

「おまえ、始発までに荷物まとめなよ。こんなことになった以上、僕の家に来るだろ」

 始発という単語にハッとして、窓の外に目をやった。すでに空は白んできていて、部屋の時計を見ると明け方だ。いつの間に、そんなに時間が経っていたのだろう。
 カインは、混乱した頭で考える。幽霊、呪文、賢者、時空の裂け目? 悪い夢みたいに、何もかもがデタラメで、バラバラだった。何ひとつ説明がつかない――自分ひとりでは。そして、そのピースを繋げられるのは、目の前に立つ、性悪で、謎が多くて、意外とかわいげがあって、人間離れしてうつくしい、この男しかいないようだ。
 どうやらほかに選択肢はなさそうだった。

「よろしくお願いします……オーエン、先輩」

 オーエンは何も言わず、色の違う両の瞳を細めた。それは、遠くの空のグラデーションと同じ色をしている。