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ふーこ
2024-08-23 23:09:33
9060文字
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小説
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菜虫化蝶
壬生主です。
卒業前の春の二人。待ったなしの変化と、自然に訪れる変化を思うこと。根差しているものと、それがいつか変わる時のこと。
きっとなら、小さい頃からそうだったんじゃないだろうか。
神経を研ぎ澄まして、常に周囲の状況を観察し把握する。
鍛えた技を強力な武器としてその身に携えて、しかし繰り出す直前までそこに殺意があることを気取らせない。
己を偽り他人の懐に入り込む術は彼の高潔とは相性がよくないから、代わりに気配という気配を断つ。
命を狙うことと同じように、命を狙われることにも細心の注意を払い、下手をすることのないように。隙など微塵も他人に見せぬように。弱みを悟られることのないように。
◇
どこかに人の気配を感じて壬生は目を覚ました。意識を取り戻したと同時に簡易ベッドから下り、壁を背に息を殺す。
闇に慣らした目で時計に目をやると、時刻は深夜二時を回ったところだった。部屋の中には壬生の他に誰もおらず、電気の消えた室内には外から差し込む光もない。
この部屋は拳武館の敷地の中にある。壬生は、深夜の任務が終わった後、ここを使用することを許されていた。先ほど落としたと思った返り血の臭いがまだどこかに残っていてうんざりする。
壬生は殺しに出血を伴わせることが少ないが、今日のターゲットは頭部と顔面からの出血がひどかった。血濡れで帰ることもないと鳴瀧から言われたのを受け入れて、今晩はここで眠ることを決めたのだ。
暗闇の中でさらに遠くの気配を探ると、かすかに話し声を聞き取ることができた。こんな夜更けであるが、どうやら鳴瀧の正式な客人らしいと悟り、ならば盗み聞きは礼を失する真似だと壬生は静かにベッドに腰かける。
壬生は眠りから覚めるのも早ければ入るのも早い。無防備になるもならぬも、最大限に自分の制御下に置くことが身についている。今も再び眠ろうと決めれば眠ることが出来るのだが、もう一度体を洗ってこようかという考えも頭を過っていた。
逡巡している間も体は重い。眠気を感じていることが分かる。それでも体が勝手に意識を手放すことを、意思が許しはしない。
目を伏せていると、ふと龍麻の顔が思い出された。彼が授業中に居眠りをしてしまったという話をしていたのはいつのことだったか。
想像をしてみるも、作り話を考えているような感覚だった。頬杖をついて、教科書に目を落とすような素振りで、眠気に抗いながらも終いには瞼を閉じる。その様子を見ている自分のことは、具体的には考えられない。そんな場所に身を置いたことがないからだ。
「
……
眠たいな」
そう独り言ち、壬生は再び浅い眠りに沈む。
居眠りをして、龍麻は誰かに起こされたのだろうか。考える必要もないことを頭の中で遊ばせながら、長く、深い呼吸をした。
この日は、壬生が最後に拳武館での任務を遂行した日となった。夜が明けると血の臭いはいくらか薄れていて、壬生は、夢の中で龍麻を揺り起こしていたような気がした。
◇
温かい日と寒い日が入り混じりながら、だんだんと春に向かっていく季節の、今日は寒い日の方だ。拳武館の校内に植えられた桜の木のつぼみは、まだ硬く閉じている。
龍麻は壬生とともに道場に向かっていた。この頃、龍麻は週に何度か拳武館に顔を出すようになっていた。兄弟子と手合わせをするためである。
二人はたまに、言葉を交わすよりもそうしている方が互いを分かり合える感覚があった。対峙してぶつかり合いながら、氣が渦を巻いて昇華していくような、あるべきところにあるような、言葉にしがたい達成の感覚だ。
拳武館の道場の床板は冷たく、それは素足になると余計に強く感じられる。龍麻はその一瞬、いつも覚悟をして息を止めた。
寒気に気を引き締めながら敷居をまたいだ龍麻の視線が、道場の床を踏む壬生の足元を捉えた。傷跡だらけの足だ。皮も爪も何度も剥がれたことが窺え、痣や裂傷の跡も残っていた。何年も鍛えて技を磨いてきたことが分かる。
龍麻は壬生に、痛くなかったのかと尋ねそうになったこともあったが、結局そうはしなかった。当然に痛かったに決まっていて、勝手に覗いたその傷に同調をするのも心を寄せるのも、おかしなことのように思えた。
向かい合う瞬間は、いつも緊張と興奮に肌が粟立つ。
拳撃を得意とする龍麻には、蹴撃を得意とする壬生の型は読みづらかった。素早く、しなやかで、届く範囲が想定するよりも広い上に打点の位置も多彩だ。そのうえ気配の察知にも優れていて、龍麻の死角からの攻撃も対処されることが多かった。使う技は異なるが、学ぶところが多い。
日が暮れるまでやりあって、最終的な勝敗を五分に持ち込めると、龍麻にとっては上出来と思えた。
本気を出されたら君には敵わないと言われるが、龍麻はその言葉にいまひとつ納得ができない。この手合わせも本気でやっていたつもりだが、そういうことではないらしい、と首をひねる。
動きを止めて休んでいると額から汗が流れ落ちてくるので、龍麻は鞄に突っ込んできたタオルでそれを拭った。
隣で壬生はすでに呼吸を整えて、片膝を立てて静かに座していた。いつでも立ち上がって戦える、あるいは身を守れるようにしている。即座に動に転じられる姿勢での休息だ。
「壬生って隙がないな」
思いがけない言葉に、壬生の眉がわずかに動いた。
「そんなものがあったら、今頃ここに僕はいないよ。ろくな死体も上がっていないだろうね」
「死体、って」
龍麻の表情を見て壬生はふいと視線を逸らした。そんな顔をさせようと思って答えたのではなかったのに、と思うが、壬生には他にどう言っていいか分からなかった。
「生きていくために重要なことだったというだけさ。それももう、不要になっていくのかもしれないけれど
……
。外が、暗くなってきた。今日はもう終わろうか」
立ちあがった壬生の背中に、龍麻はうんと答えることしかできない。
外では傾いた陽が大きな暗雲の端を赤く染めている。窓から鈍く差し込んだ光が、壬生の輪郭を赤暗く滲ませて潰していた。
二人が帰路に着く頃には、外はすっかり夜になっていた。強い風が吹いているが、空を覆う厚い雲は晴れそうにもなく、星も月も見つけることができない。規則的に並んだ街灯が道を照らし、ビルの灯りが模様のように遠くの暗がりに浮かび上がっていた。
「空模様が怪しいな。壬生は、傘持ってる?」
「いや。
……
降ってきても走ればすぐに着く。君は?」
「俺は忘れた。帰るまでに降らなきゃいいんだけど」
稽古あがりの体にはちょうどいいと寒気を享受していたのも束の間、鼻の先に雨粒が落ちてきたかと思うと、すぐに音を立てて激しく雨が降り出した。
学ランや鞄を雨傘代わりにしてみたものの、大粒の雨は容赦なく二人の体を濡らし夜風が体温を奪う。龍麻は眉根を寄せて口をへの字に結んだ。
「
……
言ってるそばからこれだもんな。あーあ、全身びしょびしょだ」
額に張り付いた髪を煩わしそうに撫でつけながら、龍麻は開き直るように笑った。もうどうにでもなれ、と水たまりを踏みつけまでしている。壬生は彼のやけくそを戸惑いながら見つめた。
家に寄って行けと言おうか。
雨粒が龍麻の頬を伝って顎に流れていく。頭上にある街路灯の光のせいか、顔色がよくないように見えて壬生は浅く息を吸った。
「龍麻。僕の
……
」
雨音が邪魔をして壬生の声は龍麻に届かなかった。一瞬の躊躇いの後、壬生は龍麻の腕を掴んだ。濡れたシャツがぺったりと張り付いていて、布越しに触れる肌の感触がやけに生々しく感じた。
「どうした?」
雨の中、龍麻は律儀にそこに立ち止まり振り返った。先ほど見えたよりも健康そうな顔色だったので壬生は安堵しながら、けれどもここまで出かかった言葉を今さら飲み込むこともないだろうと決心する。
「もしよければ、僕の所に寄っていきなよ。駅に着いても、その恰好じゃしばらく電車にも乗れないだろう」
雨音に負けないよう声を張ったのが気恥ずかしく、腕を掴んでいた手をぱっと放した。龍麻もぽかんとして見つめてきたので、壬生はさらにいたたまれなさを感じる。
しかし、龍麻はすぐに眉を下げて「いいのか」と笑いかけた。一歩踏み出された距離にはっとして、壬生は足早に龍麻の先導を始めた。
雨はいろいろなものを洗い流して持ち去る。血も、臭いも、音も、視界もだ。それが好都合なこともあれば、不都合なこともある。
壬生は、念のため自分たちを追っている者がいないかをいつもより用心深く確認して、龍麻とともに住処へと向かった。
玄関の扉を閉めた途端、ざあざあとうるさかった雨音がふっと遠くなる。そのせいで、濡れた靴の中から、ぐぷ、と不愉快な水音がしたのが目立った。龍麻は水たまりを踏んだことを後悔する。
体から滴る水はあっという間に床に水たまりを作った。二人で身動きをとるには狭い空間で、壬生は靴下を脱ぎ制服の裾を絞ると、龍麻をそこに待たせて部屋の中に入っていった。
ほどなくして玄関に戻ってきた壬生は、龍麻にタオルを手渡した。真っ白なタオルは清潔で、けれど洗剤の香りが分からない。
「脱いで、体を拭くといい」
「悪いな。ありがとう」
龍麻はその場でシャツを躊躇なく脱ぎ始めたので、壬生は少し驚いた。自分が知らないだけで、これくらいは人前で普通にすることなのだろうか。
知らないだけ、といえば、友人を家に招いたことなど一度もない。自分一人ならこのまま服を洗って、シャワーを浴びるだろうが、友人がいる時はいったいどうする。
難しく考えず、自分が大切と思う相手にするようにしてみたらいいのだろうか。そうは言っても、母にも館長にも、こんなことをした経験がない。壬生は戸惑ってしまった。
龍麻は濡れた服を、同じくぐっしょり濡れた鞄の中に仕方なく入れて、髪や体を拭き始めた。体に残った無数の傷跡は、猛々しくも痛々しくも見える。
「
……
よければ、風呂場と着替えも貸そう。好きに使ってくれ」
「それはさすがに悪い
……
と、思ってるんだけど。正直に言うとすごく助かる」
龍麻がぎゅっと目を閉じて両手を合わせたので、壬生は、これでいいのか、と思った。
「僕が招いたんだ。君が悪く思う必要なんてないさ」
「いいや。俺、本当は雨に濡れて一人で帰るのはちょっと空しいと思ってたんだ。だから
……
ありがとう」
龍麻はそう言って、図々しいか、と耳を赤くして笑った。壬生もやっと肩の力が少々抜けた気がして、口の端でふと笑いをこぼす。
それから龍麻も濡れた靴下を苦労しながら脱ぎ去り、床を濡らさないように気を付けながら廊下に進んだ。玄関扉の向こうには、まだ激しい雨音が響いていた。
◇
知らない間取りの、知らない形のカラン。小さな鏡の中に映る自分が違う人間のように見えた。
換気窓の向こうでは雨風の吹き荒れる音が鳴っていた。今夜は嵐なのだろうか。天気予報をちらりとも見てこなかったことが悔やまれる。
先ほどまで壬生が使っていた浴室は床がまだ濡れていた。龍麻はすでに冷えて水になっているそれを足の裏で踏んで、シャワーの栓をひねる。すぐに熱い湯が頭に降り注ぎ冷えた体が温まった。
備え付けの棚の上には新品の石鹸がぽつんと置いてある。そういえば借りたタオルも新品だったような気がして、龍麻はつくづく申し訳なく思った。
濡れた髪を適当に拭きながら部屋の扉を開くと、中にはベッドに腰かけている壬生の姿があった。先にシャワーと着替えを済ませていた彼のいずまいは、雨に降られたことなど嘘のようにきちんとしている。
この一室は、壬生がずっとここで生活をしているというには簡素だった。水道や電気こそ通っているものの、清潔にして凍えず眠るための最低限のものしかない。
「ありがとう。本当に助かった」
「別に
……
。君が先に使ってよかったのに」
「そんな訳にいくか」
龍麻は壬生の傍らに立つと、服の裾を軽くつまんだ。
「これも洗って返すよ。申し訳ないついでに、今日は傘も借りていってもいいか?」
壬生は窓の方を一瞥してから、龍麻に視線を戻した。極めて冷静なそぶりでありながら、瞳は少しだけ迷うように揺らいでいた。
「
……
今夜は、一晩中荒れるようだよ。君がまた濡れ鼠になったんじゃ、甲斐がない。ここを使いなよ」
壬生はベッドを下りた。ここを使えと言うが、それはたった一つしかないベッドだ。おまけにこの部屋にはソファもクッションも、カーペットやラグすらもない。龍麻は困惑する。
「壬生はどうするんだよ」
「僕は
……
」
壬生は言いかけて、一度口をつぐんだ。
人がいるところでは、どうせ深く眠ることもないからと。緋勇龍麻という人間はそう伝えられて、それならばと他人の寝床を貰い受けるような性質ではない。むしろ意地でも立ち去って壬生をここで眠らせようとするだろう。
君はここにいればいいという、ただそれだけなのだ。それだけのことを、壬生はとてもじゃないが上手に言える気がしなかった。
「僕は
……
眠くないから」
とうとう龍麻から目を逸らして、そう続ける。内心は「いったい何を言っているんだ」と己を責めたが、澄ました顔にはその動揺を一切表さない。
少しの沈黙。壬生は龍麻の視線を感じていながら、目を合わせようとしなかった。こんな子どもじみたこと、何年ぶりにしているだろう。ひどく滑稽だと思った。
「本当か?」
龍麻が顔を覗き込んだので、とうとう壬生は観念して視線を寄こした。確かめるように真っすぐに壬生を見据える黒い瞳を、壬生もまたじっと見つめ返す。
先に目を逸らしたのは龍麻の方だった。
「じゃあ、一緒に起きていよう。俺も眠くないんだ」
「
……
まァ、構わないよ」
龍麻はベッドを指さして、ここに座ってもいいかと尋ねた。壬生は、もちろんと返事をして、自身もそこに腰かけ直す。二人並んで座ると、鉄製のベッドフレームが軋んだ。
龍麻ははじめに、今日の天気には驚いたと、心底参ったような声色で言った。それから、ここに招いてくれたことに改めてありがとうと伝えた。世話になってばかりで申し訳ないと頬をかいたりもしていた。
壬生はそれに、ごく短い言葉で返事をする。落ち着いているが冷たくはない。隣の龍麻の気配を心地よいものとして受け止めようとしながら、それを受け取るだけの素質が自分には無いような気にもなった。
龍麻は膝の上で手のひらを組んで、そこを見るともなく眺めている。
「壬生ってここに住んでるのか。俺も真神に来るとき部屋を借りたけど、こんなにきれいじゃないから。驚いた」
「いや。生家と、主に過ごしている家は別にある。一度、下手をして家を突き止められそうになってね。ここはその対策でたまに使うんだ」
龍麻はかつて自分にも敵の影が付きまとっていたことを思い出して、壬生の気苦労を思った。休める場所を失うかもしれないというのは、神経のすり減ることだったろう。
「そんな風に黙り込む必要はない。これももう、不要になる。この部屋の最後の仕事が僕らを雨風から匿うことなら、それも悪くないんじゃないかと、そう思うよ」
「卒業したら、違うことを?」
「きっとね。
……
どうあれ、殺しではないよ」
付け加えられた言葉に龍麻は短く息を吐いた。それを悟られないように咳ばらいをして、壬生を窺う。
隣に腰かけている姿は相変わらず一分の隙もなく、機能美と称すべきにも似た冷たい美しさがある。他愛無い会話をしている最中のようには見えなかった。
それが彼の生き方で、当然に身についているものだ。硬い土に頑丈な根を張っているようなもの。
今は、技をぶつけあっているときのような激しさや、唸りを上げるほどの昇華は望まない。何かひとつでも、側にいることで和らぐものがあったらいいのにと龍麻は思う。目を伏せて、そうか、と呟くように返事をすると、短い沈黙が訪れた。
「
……
僕は、そんな風にしか生きてこなかったから」
やがて、暗闇で手探りをするように、考えを迷わせながら壬生が言葉を発しはじめた。続きの言葉を探しながら、乾燥した薄い唇を舐める。
「分からないんだ。これまでのことを背負いながら、変わっていくというのは
……
そうして生きていくというのは、どんなものだろう。君のことを見ていると、なにか分かりそうだと
……
そんな気もするのに」
窓の向こうで風が甲高い音を立てた。
強く、冷静で、孤高な青年はいま、嵐の中に在る。道しるべとなるのは、星の光のように輝く片割れの精神か。気高く汚れのない精神がほころんで、脆さをほんの少しだけ打ち明けることを許した。
「今日、君に
……
。ここにいてくれと、その一言さえ上手く言えなかった」
龍麻は目を丸くして、ひとつ瞬いた。
「壬生が、俺にここにいてほしいって?」
「
……
嫌なら、もう引き留めはしないよ」
「なんだ、そんなこと。いる、いるよ。今は俺の方が迷惑かけてるんだから、こんなこと言うの変だけどさ」
龍麻は前かがみに脱力してから、乱れた髪もそのままに勢いよく起き上がった。
「壬生も、俺の側にいてくれただろ? 同じだよ」
「そう、なのかな」
「そうだ」
手の甲で気楽に胸を小突かれ、壬生もまた目を見開いた。簡単だろ、と眉を下げて笑う顔を見ていると、胸の内が熱くなってくる。
壬生は情動に少しばかり心を預け、考えてみた。
龍麻もこんな風に弱気になっただろうか。勇気を出して、言葉を発したのだろうか。僕が側にいたことは君のためになっていたのだろうか。今、僕が君に望んだように、ただそこにいるだけで。
揺らぐことが無いように心を沈めていた、その重しをひょいと持ち上げられたようだった。なんだ、そんなこと、と龍麻が笑うと、壬生は自分も同じように振舞える気がした。
声を出すとみっともなく震えてしまいそうだと、一度小さく深呼吸をする。
「
……
実はもう一つ。さっき、君に言わなかったことがあるんだ。僕はきっと、誰かの前で眠ることができない。だから君がこれを使えばいい」
「眠くないんじゃなかったのか」
「そうだ」
稚拙な言い訳を復唱されて決まりが悪かった。ぶっきらぼうに答えると、龍麻は困り気に続ける。
「目を閉じてるだけでもいいから、ちょっとは休めよ。今日もかなり付き合わせちゃったし」
「目を閉じるだけでも、か」
言われるままに壬生が目を伏せる。
そのいずまいにすら居合のような緊張感はありながら、それでも珍しいところを見ているなと龍麻は思った。刺すような眼差しを隠した壬生の顔はいつもより幾分か柔らかく幼い印象を抱かせて、つい、目が離せなくなる。
「
……
龍麻。こうしていても、君の視線くらいは何となく分かるよ。そんなに面白いかな」
「あ、悪い。そもそも、壬生に限らなくても人の寝顔ってそんなに見る機会もないよなって」
「そんなものかな。以前、君は授業中に居眠りをしたと聞いたけど」
「それも、誰もまじまじと見つめてはいなかったと思う」
龍麻は照れくさそうに頭をかいた。どうして壬生にそんな間の抜けた話をしてしまったんだろうと恥ずかしくなるが、当の壬生は龍麻の恥じらいになど思いも至らず、何やら考えに耽っている。
「僕の寝顔か
……
。例えば君が僕を気絶させでもすれば、見られると思うけどね」
「物騒なこと言うなよ。するはずないだろ、そんなこと」
龍麻が体を傾けて肩を当てると、壬生は目を瞬かせた。「するはずがない」と言われると「それもそうか」と素直に納得する心があったことにも、気楽に体が触れたことにも驚いたのだ。
「違うんだ。今ここで寝てみろとか、そういうことを言いたいんじゃなくてな
……
」
龍麻は放り出した足の爪先を見つめながら言葉を探した。
きっとなら、小さい頃からそうだったんじゃないだろうかと思った。彼の強さも鋭さも、損なわれない高潔さも、果たさなくてはならない責も、苦悩も、すべて彼の中に根差しているものだ。
「いつか変わることもあるのかなって、思ったんだ。今じゃなくても、そうできる時が」
土の下から草花が芽吹くように、硬い木の芽が開くように、変わる時がくるのだろうか。龍麻は目を閉じて、暗闇の中で考える。
それは彼にとって喪失だろうか。それとも、何かを得ることだろうか。その変化が何をもたらすのかを考えるとき、どうか彼の背中をあたたかく押すものであって欲しいと願う。そうだったらいい。きっと、そうなる。
壬生がその柔らかな変化の中にいることを思っているうちに、じんわりと目の奥が熱くなり体が沈んでいく感覚が龍麻を襲った。
「
……
龍麻?」
ふと黙り込んでしまったものだから、壬生は名前を呼びかけてみるが、返事がない。代わりのように龍麻の頭が肩口にこつんとぶつかったのでそっと首を回すと、どうやら眠っているらしい脱力した体が目に入った。
「君も、眠たくないんじゃなかったのか」
さっき言われたのと同じセリフを返してみる。眠っている龍麻は、それを聞いて恥ずかしそうに笑うこともしないと分かっているけれど。
今動いたら、龍麻を起こしてしまうだろうか。恐る恐るベッドに寝かせてみると一瞬目を開いたものの、手のひらで瞼を覆うと再び眠りに落ちていった。
ほっとしてから、こんなに単純でいいのだろうかとも思う。今の場合はいいのだろう、などと大雑把な結論に至ろうとしている自分に気が付くと、おかしい。
肺が膨らんではしぼんで、小さな寝息が規則的に繰り返されている。壬生はその隣にそっと寝転んで、目を閉じてみた。
いつか、変わることもあるのだろうか。
龍麻の呼吸に合わせて、息を吸っては吐いてみる。これですっかり安堵して眠りに落ちるなんてこともなさそうだけれど、なにか、胸の内に陽光が差しているような心地がした。
相変わらず雨音は激しく、風も唸って木々を揺らしているが、この嵐も明け方には去るらしい。
壬生は体を起こしてベッドの端に腰かけた。やはりすぐには変われそうもないけれど、明日の朝、いつか夢で見たように眠っている龍麻を揺り起こすのだろう。そんな想像ができたのが不思議で、壬生は口の端で小さく笑った。
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