雨鳴りあと

作中一部表現が大路様の「昵懇」と類似した箇所がございます。
相談の末、そのまま書き表すことといたしました。ご了承のほどお願い申し上げます。

若旦那からの依頼の途中、急雨にみまわれ雨宿りをしていたふたりの前に、何者かが立ち塞がる。
幾合と斬り結ぶうち追い詰められ満身創痍。切り抜けるためにふたりがとった秘策とは――
というお話。
伊織が淫夢をみます。シーンも短く主題ではないため成人指定にはしておりませんがご注意ください。
セイバーの性別はどちらでも。
幽霊屋敷の攻防のあと、向日葵畑の決闘前ぐらいのエピソードになりますが、セイバーがもじもじしているので伊織は手を出すのを我慢している設定、と思って読めば問題ありません。
なんかこう、すごいつよつよな敵とのアクションシーンがあったと思いねぇ。



 降りしきる雨のなか、セイバーと伊織はふたり、身を隠すように小屋の物陰に潜み気配を絶っていた。
 昼だというのにあたりは暗い。空には厚い雲がかかり、激しい雨が降っている。雷鳴の轟きが遠くから聞こえ、時おり稲光が瞬くほど。
 視界どころか音すら拾えぬ雨足に、軒下とはいえ双方濡れ鼠であった。
 ただの雨宿りならばよかったが、ふたりして手には抜き身の剣を持っている。
 追手を警戒しているのだ。
 荒い息をこらえるものの、外気は下がり息は白い。
 
 若旦那の使いの帰りである。
 用地を巡り頼まれものを回収していく、いつもと変わらぬ使いであった。
 鄙びた道を行く途中、急雨に見舞われ雨宿りをしていると、いつの間にやら目の前に黒き影がふたつほど佇んでいる。
 ほかに行き交う人もなく、影と己らだけがその場に切り取られていた。
 怪異……ではない。いや、それすらもわからない。
 人の形ではあった。だが形こそあるものの、顔もなにもぼうとしてはっきりしない〝のっぺらぼう〟だ。
 黒影が揺らぎ立ち昇ることで輪郭を得る影法師。
 ただ――こちらを見ている――そのことだけははっきりとわかった。
 刀の柄に手が伸びた。

 セイバーと伊織はふたり、幾度となく刃をくぐり、斬り伏せようとはした。
 が、この影がめっぽう強い。サーヴァントもかくや、いや、サーヴァントと同等の強さを持っていた。
 撃は届く、だがどうにも手応えが薄い。伊織はともかく、英霊であるセイバーがここまで手こずるとはいったい何者なのか。
 幾合と斬り結ぶうち次第に追い詰められ、一旦退却と相なったのである。
 おかげさまでふたりして満身創痍。雨泥をかぶり服は裂け、体の方々ほうぼうからは血が流れている。
 しかし敵もぬるくはない。
 いまなお、ふたりのあとを追ってきている。

「なぁイオリよ、ここから先どうとしようか。なんとも惨めな様子だが、死ぬわけにもいくまいよ」
「さてな。妙案もなにもさっぱり浮かばん。とはいえおまえの云うよう死ぬ気もない。ひとまず……互いの手持ちを出し合うか」

 いまできることはなんなのか、傷はいかほど負ったのか。互いの状態をあげ確認していく。
 セイバーは大技を続けて放ち魔力切れ。残りの魔力であと一度ひとたび、宝具を撃てるか否かという。
 対する伊織はどうかというと、こちらはいささか問題があった。
 なにしろこの雨である。水を吸った衣は重く体にのしかかり、外気の冷たさは次第に温みを奪ってゆく。
 手持ちの貴石は僅かばかり。セイバーの続く大技に魔力を持っていかれ、体のあちこちに血の止まらぬ傷が開いていた。
 とくに左上腕の傷は深く、錆納戸の衣の色さえ変えている。
 
「セイバー、若旦那の使いの品に焼酎があっただろう。そいつをくれ」
 
 伊織は傷口を見つめたままセイバーに請うた。そして渡された焼酎の封をむしり酒精を大きく煽ると、傷口に勢いよく吹きつける。
 とたん、強い酒気が周囲に満ちた。あまりにも濃密なそのこうは、匂いだけで酔えるほど。
 ぱたりぱたりとこぼれる雫は伊織の血と混じり合い、赤く色づき滴り落ちては、地面へと吸いこまれていった。
 伊織は裂いた手拭いの片端を口に咥えると、傷口を強く締めあげてゆく。
 酒もたいそう滲みるのだろう、あぶら汗を浮かべる顔は苦痛に歪み――

「これでまだ持つ」

 伊織は己に言い聞かせるよう白い息を吐いた。


 そのときだ、雨の滲む地面が赤黒く光り、何者かがずるりと這い出したのは。
 朽ちた幽鬼に似たそれは、鋭利な爪を掻き鳴らすと、黒々としたからの眼窩をこちらへ向ける。
 数はひとつ、ふたつ、みっつと続き、都合とおあまりよっつ。いやそれ以上か。
 おそらくは斥候だろう。
 現れたからには居場所が割れた。じきにあの、影法師が現れよう。
 
「セイバー、やつが来るまえに数を減らすぞ。残られると厄介だ」
「こいつらだけなら、どうとでもなるんだがなあ。まったくきみは、えらいものに目をつけられたものだ」
「俺のせいのように云うな」
 
 変わらぬ軽口を叩くとふたり、雨の下へとおどり出る。
 耳障りな怪異の咆哮が轟き、爪と刃で火花が散った。視界を遮るほどの雨中にありて、その花は鮮やかに咲いては散るを繰り返す。
 魔力を乗せた技は使えない。頼みは剣の技巧のみ。
 伊織は幽鬼の鉤爪を一髪の差でかわし跳ね上げると、唸る剣先を叩き込む。
 発した気合が、雨の森に負けじと響いた――

 
 ◇◇◇

  
 程なくして数ある怪異の躯体は消え、あたりに残るは雷鳴と降りしきる雨の音のみ。
 蛇行剣を振り払えばついた血糊が雨に散り、水を吸った三つ編みが重くしなった。
 これならば、いくらかなりとも易く影法師と渡り合えよう。
 振り向き伊織に目をやれば、揺れる姿が目に入った。

「イオリ!」

 駆け寄り伊織を抱き止めると、支えた体はひどく熱い。
 雨に打たれた体が冷え発熱しているのだ。縛った左腕の手拭いは血で染まり、あふれた血液が滴り落ちている。
 乱れた髪は雨に濡れ、伊織の青い顔にべっとりとはりついていた。
 いま雨に当たるのはまずい。ふらつく伊織を支え軒下へと移動する。

「きみ、熱があるではないか! これではまともに戦えん。私がやる。きみは休んでいろ」
「しかし、相手があれではおまえとて――
「大丈夫だ。なんとかする」
「なんとかとはなんだ。具体的にどうするか、案もくそもないだろうが!」

 珍しくも伊織の語気が荒くなる。
 支える拳に力が入り、瞬きもせず無言で見つめ合ったまま、譲らぬ時間が過ぎてゆく。
 稲光に互いの姿が浮かび上がったかと思うと、追いかけてきた雷鳴が炸裂する。冷たい外気と耳鳴りのような雷雨だけが、その場を支配していた。

 なんでもいい、なにか打つ手がひとつ欲しい。

 目まぐるしく次の一手を探すなか、伊織は、紅玉の老爺がもらした言の葉を思い出していた。
 
 身体、および粘膜の接触。そして体液の交換。
 喚び人マスターからサーヴァントに急ぎ魔力を移す法。

「セイバー、魔力があればあと一度、宝具が撃てると云ったな? それで倒しきれるか?」
「おそらくは」
――わかった。この勝負、おまえに預ける」
  
 いうや否や、伊織はセイバーの腕を掴むと、強く壁に縫い止める。
 突然のことに振り払おうにも、怪我人相手に加減ができず、セイバーはされるがままに受け入れるしかなかった。
 唇を合わせるだけの性急な口づけののち、伊織は離れてこう告げた。
 
「少し、耐えろ。口を開けてくれ。飲み込んでほしい」

 云われるままに薄く口を開くと、再び唇が触れる。
 すると此度は伊織の舌が割り入り、小さな舌をたちどころに捉えてしまった。
 咥内をくまなく撫でられ、舌先を擦られたかと思うと絡みつきじゅく、と吸われた。甘く噛まれるととたんに唾液があふれだし、注がれ、なかは伊織の匂いと厚い舌に隙間なく満たされてゆく。
 たまらず伊織の濡れた衣にしがみついた。
 すると伊織の手がこめかみの湿った髪をかきあげ、そのまま耳朶にそっと触れ――舌で上顎のくぼみを撫でられると、ぶるり、と痺れに似たなにかが駆け上がり背が震えた。
 
「ふ……
 
 その気もないのに鼻にかかった息が漏れ、外気の冷たさに互いの吐息が白くけぶる。
 ぴたりと合わさった口からは、混ざり合いどちらのものともつかぬ唾液があふれてつたい落ちてゆく。
 飲み込めと云われた唾液を、セイバーは極力口に含むよう動いた。

 これはただのつばきだ。

 だのに、飲み込む伊織の体液は、喉奥が焼けつくように熱かった。

 
 幾らもしないうちに伊織のほうから口を離した。
 口元を手荒く拭い、残った唾を吐き捨てる。
 セイバーを見れば、含んだ唾を飲み込まんとしているところだ。
 こくり、とセイバーの喉元が鳴ると、その白い喉を見つめる伊織の双眸がすう、と細くなった。

「やってくれたな」

 飲み込んだセイバーは恨めしそうに口を拭う。
 薄紅色に染まった頬には伊織の血が一筋。
 唇には拭いきれぬあけが散り、薄く紅を引いたように色が乗った。
 
「血の味だ。きみ、口の中もだいぶやってるだろう?」
「すまん。だがこれしか方法はないと思った。で、どうだ? 魔力は満ちたか?」
――一撃ぶんは」
「それでいい」

 とたん、伊織はその場に崩れ落ち地面に膝をついた。

「イオリ!」

 魔力を渡し、いよいよ気力も体力も尽きたのだ。
 肩で大きく息をして、荒くついた呼気は周囲を白く染めてゆく。その体はより熱く、あまり時がないことを告げていた。
 疾くも伊織を連れ帰り、治癒と休息が必要であるのは自明であった。
 一刻も早く影法師を仕留める。
 伊織を壁に寄り掛かるように座らせると、セイバーは駆け出すために背を向けた。
 渡された魔力は多くはないが、伊織が賭けたこの勝負、しくじるわけにはいかなくなった。
 魔力の馴染みはとてもよい。唇がゆるりとあがり、小さな舌が残る伊織のあかを舐めた。
 
「セイバー、この戦い、絶対に勝て」
――承知」

 返答とともに地面を蹴って疾駆する。
 駆けるその白妙は凛として、雨にうたれてなお優雅な白鳥のよう。
 だが伊織はそれを見ることは叶わない。
 伊織はここで意識を放した。

 
 ◇◇◇

 
 夢を見た。
 セイバーを組み敷き、思うがままに貪る夢だ。
 伊織が動くたびにセイバーの白い背がしなり、甘い嬌声があがる。
 結われている三つ編みはほどけ、絹糸を思わせる髪が広がっていた。その黒髪は汗で湿る肌にはりつき、しなやかな肢体をなまめかしく浮かびあがらせている。
 髪をかきわけ背中に顔を寄せるとむわりと汗の匂いが届き、たまらず唇でその背をんだ。舌でなぞり、吸いつき、朱い焼印を散らしてゆく。
 
「あっイオ、リ……うぁ! やっ、やめっ……ひっ」
 
 散々啼いたあとであろう、掠れる声でやめてくれと乞われるも、聞き入れずに蹂躙する。
 セイバーの中は熱くぬかるみ、うねって伊織を離さない。伊織自身に吸いつき纏わりつく肉の襞は、奥へ奥へといざなうように蠢いている。
 その蠢動にいざなわれるまま、奥の肉壁をこじ開けるよう怒張した熱杭をねじ込んだ。

「あ! あ! んん! やめぇっっ……だ、めだっ! ぁぁ、う、っく……!!」

 繰り返される抜き差しに、肉の穴はぽってりと膨らみめくり返らんばかり。伊織からは互いの体液で濡れそぼる穴のひくつきがよく見え、嬌声とともにいたく獣欲を刺激する。
 
「は、ぐぅ……っっ」 
 
 強い快楽に奥歯を噛み締めると、セイバーのしなる背中にぱたりと汗が落ちた。
 
 俺の、俺のセイバー。
 
 余裕などどこにもなかった。
 細い腰を逃げないように押さえつけ、もっともっとと打ちつければ、高くよがった声があがり、伊織はいっそう昂ってゆく。
 
 止まれ、やめろ、いますぐやめろ。
 
 そう認識するも夢の中の己には届かず、セイバーを穿つことをやめなかった。
 このままではまずいと感じたとき、意識が浮上し覚醒した。

 

 伊織が目を開けると見慣れた天井が目に入った。
 雨漏りでできたしみが残る、いつもの長屋の天井だ。
 息苦しさから大きく息を吐くと、ようやく新しい気が胸に入る。どうやらずっと、息を詰めていたらしい。
 気づけばしとどに汗をかき、走ったように息は荒い。吸うては吐きを繰り返し、胸は上下に大きく動いた。どくりどくりと鼓動の音のみが耳に届く。
 目覚めたばかりだというのに、強い疲労を覚えた。

 酷い夢だ。
 背中を預ける相棒を、壊して汚し好きにした。あのまま目が覚めなければ、今ごろ下帯を汚していただろう。股ぐらは痛いほど猛ったままだ。
 申し訳なさでいっぱいになるも、なにゆえかような夢を見たのかよくわかる。
 あの口吸いだ。
 必要にかられてしたことで、そこに下心はないものの……すがりつき唾を飲み込むセイバーの姿に、よからぬ思いを抱いたのは確かだ。
 互いの距離を詰めるのを、待つと云った、耐えると誓った。
 だが、浅ましい欲を覚え不埒な夢まで見てしまっては――ましてや、俺のセイバーなどと。
 セイバーは自由だ。それこそ空を飛ぶ白鳥しらとりのように。
 そこを好ましいと思っているし、囲い込む気もさらさらない。だが、毛の一筋ほどもそれがないかといえばそうではなかった。そこが、出た。
 それにしても待つと云った手前でこれとは、先がおおいに思いやられる。
 伊織は己の抱く想いから、目を背けるしかなかった。
 

 大きく息を吐き出ししばしのあいだ、呼吸を整え熱を冷ます。
 ときのころは昼をいくらか回ったところであろうか。すでに雨は上がり、長屋には陽が差し込んでいる。
 見渡せばいつものようにセイバーは、枕元に目を閉じ座していた。
 障子越しのやわらかな陽の光をうけ、ぬばたまの黒髪に光の輪ができている。
 合わせる顔もないところだがそうもいくまい。
 セイバーと掠れた声で呼びかければ、琥珀の目が開いた。

「起きたか。体はどうだ?」

 言の葉をうけて伊織は、横たわったまま手を上げて、掌の閉じる開くを繰り返した。
 寝起きで力は入りにくいが、動かぬところはなく痛みもない。

「大事ない。おそらくな」
「そうか、よかった」
「あれからどうした?」
「きみがここにいるのが答えだ。打ち滅ぼしたとも。塵すら残さずな」
……おまえに賭けた甲斐があったな」
 
 頼もしい答えに安堵の息を吐き、上体を起こそうと体に力を入れる。

――っっ……これは、なかなか、きつ、いな」
「当たり前だ。雨に打たれて熱を出し、傷もあちこち多くあった。あまつさえ魔力を渡したのだ。きみ、丸一日意識がなかったんだぞ」
「丸一日か……

 セイバーからことの仔細を聞きながら、伊織はふと違和感を覚えた。
 先ほど握った手の甲を見ると、そこにあった傷がどうにも薄い。はたしてこの程度だっただろうか?
 体もそうだ。
 疲労感こそあるものの、あちこちに傷があったというわりには、籠るような火照りもない。
 傷を負った箇所に触れてはみたものの、痛みを感じることすらなく――
 左腕に巻かれた手拭いをとってみれば、その傷は明らかに浅くなっていた。

――セイバー、俺はたしか、だいぶ深い傷を負っていたと思うのだが」
「そうだな」
「なぜこんなにも回復が早い。なにがあった?」
……きみも使うだろう、傷を治す魔術を。あれをやったんだ。なに、渡した魔力が返ってきたから治った、と思えばいい」

 どうにも歯切れの悪い答えだ。
 だが傷の治りが早いのはありがたくはある。
 あのままであったなら、儀からの離脱も考えねばならぬところだ。

「そうか」
「そうだ」 
 
 なにかがあったと感じながらも、互いに踏み込まないでいた。
 これはこのまま、流してしまうのがよかろうか――
 
 そのとき長屋の戸口が開き、見れば鶯色の衣を着た娘が立っている。
 カヤが入ってきたのだ。手にはたらいと洗い物を抱えている。

「あー! 兄ちゃん起きた! どう? 体に痛いところは? 熱はありそう? 調子は? 水は飲む?」
「カヤ。大丈夫だ、大事はないよ」

 駆けよりながら捲し立てる妹に、伊織は穏やかな声で答えを返した。
 妹が不安であったであろうことは、その顔を見ればよくわかる。

「よかったー! もう! 今回みたいなのは二度とごめんなんだからね!? 雨のなかセイバーさんが兄ちゃんおぶって帰ってきたときは、どうなることかと思ったんだから!」
「すまない、心配をかけたな」
「そうだぞイオリ。我々がここに着いてからのカヤの働きは、実に見事であった。湯を沸かし部屋を温め、傷の手当てまでやってのけたのだ。まさにイッキトウセン、ハチメンロッピとはこのことよ」
「セイバーさんちょっとほめすぎ!?  だいたいあの兄ちゃんとセイバーさんを見たら、私が頑張らなきゃって思うでしょ」

 これから長屋を辞そうとしたとき、セイバーが意識のない伊織を背負って帰ってきたのだ。
 ふたりともずぶ濡れで、衣からはぽたぽたと雫が滴り落ちるほど。だというのにセイバーの白い衣は、赤い血でひどく汚れていた。
 ひと目見てよくないことが起きたのだと理解した。

「それほどであったか……カヤ、おまえにも世話をかけた。ありがとう」
「どういたしまして! だけど気をつけてね? いくらいくさの最中といっても、あんなのを見たら心配するんだから」

 そう云い伊織を覗きこんだカヤの顔からはいつもの明るさが消え、その目は憂いに揺れていた。
 カヤとて武蔵に育てられ、武家の子女となった娘だ。心構えこそあろうが、続けて近しい者の傷ついた姿を見れば肝が冷えよう。
 心配のあまり言い募る妹と、平謝りの兄との気の置けないやりとりは、肉親の情がほの見える仲睦まじい応酬だった。

 そんな伊織とカヤを見て、陽のあるうちに長屋の周りを確認しておいたほうがよかろうと、セイバーはひと言告げて外へ出た。
 踏み出したところで戸の隙間から、言の葉を交わす兄妹にそっと目をやる。
 その目は兄妹を収めてはいるものの、遠くにいる別の誰かを探すよう眇められていた――
 
 
 ◇◇◇
 
 
 あのときカヤの働きが一息ついたころ、纏う空気が変化した。
 どこか碧海を思わせるその佇まいに、セイバーは大きく息を吸う。
 オトタチバナが出てきたのだ。

「来て、くれたか」
「お待ちどうさま。この子の中から見ていたわ。すぐに術をかける」
……すまない」
「ごめんはなしよ。この子にとって大切な兄さまだし、それにあなたにとってもね。大丈夫、必ず助ける」

 そう云うとオトタチバナは伊織に向かい、回復のための術をかけ始めた。
 外は小雨になりつつあるが、未だぱたりぱたりと、雨が戸板に当たる音がする。すでに陽も落ち、夜の帳が下りていた。
 行燈からは橙色が漏れ出すも、その色に交わることなき碧い光を、彼女は纏いつつあった。
 その碧に彼女の姿が浮かびあがると、唇は上古の音を奏でだす。
 その言の葉は、命を言祝ぐ唄いの響きを持っていた――
 
 オトタチバナとて逸れのサーヴァント。喚び人マスターからの魔力供給があらずとも立ててはゆける。だが彼女には霊地がない。
 浅草の魔力をいただいているとは彼女の言だが、間にカヤを挟むのだ。掬い上げる魔力の量は格段に落ちよう。
 オトタチバナが伊織を助けるのはこれで二度目だ。彼女の魔力がそこまで持つか……

(私は、彼女に甘えてばかりだな)

 セイバーは俯き、そっと瞳を伏せた。

 
 ◇◇◇
 
 
 見回りから戻るとカヤはおらず、伊織だけが残されていた。
 文机には手拭いのかかった皿と紙が一枚。
 手拭いをよけて中を見れば、握り飯に沢庵が添えられている。
 書き置きには「迎えがきたので帰ります。鍋には御御御付けあり」と、流麗な文字で言付けが記されていた。
 
 それにしても戸口が開く音にも目覚めないとは。
 傷はおおかた塞がるも、疲労は強く残るのだろう。すうすうと寝息の音が聞こえ、横たわる伊織の胸は規則正しく上下していた。
 セイバーは安堵し寝顔を見つめたまま、枕元へと腰をおろした。
 オトタチバナの助けがなければ、片腕どころか命を落としていたやもしれぬ。
 
 ふと、命こそ拾いはすれど、腕を落として刀を取れなくなったとしたら、伊織はどう生きるのだろうと疑問がわいた。
 ただでさえ息苦しさを感じて生きている男だ。己を象る刃を失ったとあらば……
 なくすものが片腕だけなら、一刀で戦うよう型を変えよう――では、両腕ならば?
 そう考えたあと、振るえぬ刀を抱えている点で、いまとさして変わりはないと気づいた。
 
(実際のところ、剣を取れるか取れないかの差は大きかろうが)
 
 それでも、あまりにも直向きな剣への姿勢に、セイバーはため息をついてしまう。
 いや、直向きなどとは生温い。焦がれているのだ。己の象を刃へと変えるほどに。 
 伊織が五輪よぶんを切り捨て、幾重にもくるまれていたその身の刃を剥き出しにしたきっかけは、この出会いなのだと思う。そして捨てたそのよぶんこそが、自分が愛してやまないものだ。
 捨ててはならぬと忠告はした。
 だが、その生き方を改めようとは思わなかった。 

(それがきみの選んだ道……か)

 そうとわかっているものの、なんとも難儀な男だとは思う。
 そしてその隣にいたいと願ってしまった自分もまた、似たようなものだった。
 
(おかしな男につかまってしまった)
 
 ゆるい息をついた。

 
 伊織の顔には、差し込む陽で眠りが妨げられぬよう、目元に畳んだ手拭いが掛けられている。
 なるほど、これならたとえ周りが明るくとも、暗闇で眠るのと大差ない。考えたものだ。
 先ほどよりも傾いた陽の光は、横たわる伊織の影を長く引いた。
 光の筋は長屋に漂う埃を照らし、ふわふわと散る様を浮かび上がらせている。

 伊織の寝顔を眺めてみるが、目元が隠されているせいもあり、唇だけが目に入る。
 こうなるとどうにも、先立っての口吸いが思い出されてしまう。
 由あって、必要があっての口吸いだった。ゆえにそこには可否はなく、ただ、そうしなければならなかったという事実だけがあった。それだけのはずだった――
 伊織の口元を見つめるままに、気づけば己の唇を撫でている、

 伊織に好意を抱いてはいるのはたしかだ。触れ合うことも嫌ではない。だがそのくせ、羞恥に逃げだす有様だった。
 ところがどうだ。
 やむなしとはいえ舌まで吸われ、いつもは触れぬところに触れられて……嫌ではないどころかいまなお、唇に触れて反芻している。

 頭を抱えるしかなかった。
 セイバーとて生前は妻帯の身。経験がないどころか高貴な稀人まれびとである自分には、多くの媛が捧げられ妃と子がいたのだ。
 そう、いままで自ら求めることなくとも、望むことなくとも、捧げられた妻を、愛を、黙って受け入れるだけでよかった。
 中でもオトタチバナは傷つき疲れ果てた己を癒し、人へと導いてくれたひとだ。
 蒲穂がまほくるまれた兎のように、あれやこれやと世話を焼かれ、たくさんの、数え切れない多くのものを彼女からもらった。私は彼女に、人としてあるべき土壌と種をまいてもらったのだ。
 もらったものが多すぎて、いまではとんと頭が上がらぬ。
 どの媛も気づけば隣で、愛を与えてくれた大切な人たちに変わりはない。
 だが、伊織とのやり取りは、かつての媛とは異なることに気づいてしまった。
 
 初めてなのだ。
 
 なにもないところから、自ら隣に立ちたいと願ったのは。
 
 伊織を前にすると、どうにもこうにも調子が出ない。
 日の本の大英雄、ヤマトタケルとあろう者がなんたる無様か。
 こんな己がいるなとど、悠久の時を超してなお、気づくことすらできなかった。
 
「なあイオリ、私はな、きみの前ではどうにも臆病者だ」
 
 それでもいいと、きみは云ってくれるだろうか――昏昏と眠る伊織を覗きこみ、セイバーは小さくこぼした。
 言の葉として口に乗せれば、胸の奥が、く、と締め付けられてゆく。
 外から差し込む陽は色を変え、部屋は茜に染められている。伸びる影は暮色を宿し、俯くセイバーの顔にも影を落とした。
 伊織の額に手をのばせば、くせのある前髪が指先に触れ、秀でた額が現れる。
 普段は隠されているその場所に、そっと唇を落とした――
  
  
 ◇◇◇
 
 
「イオリにばかり、頑張らせるわけにはいかんよな」

 先日、伊織との仲を深めるための『努力をする』と伝えたばかりだ。
 いまの自分は己の不甲斐なさを棚に上げ、相手にばかり期待をしている状態だ。
 さすがにこれはヤマトタケルの矜持が許さぬ。
 伊織は待つと云ってくれ、己は励むと告げたのだ。
 ならばしかと、前に進むしかあるまいて。
 
「とりあえずはそう、口吸いあたりからであろうか。それともあれか、体にこう、触れてみるという……
 
 それを口にしたとき浮かびしは、一糸纏わず伊織に組み敷かれる己の姿で――
 とたんに頭に血がのぼり、体が燃えるように熱くなったそのとき
 
「セイバー!」
「ひゃああああああ!!!」
 
 セイバーは座した状態から飛び上がった。
 それはもう、草紙に描かれる絵のように、座ったままで空へと飛んだ。
 口から心の臓が飛び出すかと思うくらいに驚いたセイバーの胸は、どくどくと激しい鼓動を打ち、どっと汗が吹き出してゆく。
 いきなり伊織が起き上がったのだ。
  
「イ、イオリ!? 起きたのか!」
「セイバー一大事だ! 大変なことを忘れていた! 疾く、疾く確かめねば!」
「お、落ち着けイオリ! いや私も落ち着かないといけないのだが?! とにかく! とにかくいまは息を吸おう!」
 
 なにがなんだかわからないが、とにかくいまは落ち着こうと、互いに息を吐いて吸うを繰り返すこと数回。
 ようやく落ち着いたセイバーが伊織を見れば、表情が抜け落ちた顔を向けている。
 差し込む夕陽の色をもってしてなお、その顔はひどく青ざめて見えた。
 
「いったいどうした? どこか体に障りでも?」
「体のほうは大事ない。違うんだセイバー」
 
 伊織はそこで言の葉を切ると、ぐるりと室内を見渡した。
 まるでなにかを探すようなその素振りに、セイバーは訝しげな視線を投げる。
 
「セイバー、貴殿にひとつ尋ねたい」
 
 己を見据えた伊織の改まった言い様に、思わず居住まいを正した。
 
「若旦那のな、頼まれ物は……どうした?」
 
 

 
――――――――――あ」
 
 

 
 その酒は曰くありげな入れ物で、注ぎ口にはなにやら護符で封をされた、一目見てなにかがあり気な焼酎だった。
 それを封を切ったどころか口にして、あまつさえ捨て置いて帰宅したなど——
 
「「あー…………」」
 
 ふたりして肩を落とし、天を仰いで嘆息する。
 己がやったことなれど、このあとなにが起きるのか想像するだに気が滅入る。若旦那のことだ、まぬけだの使えぬだのたっぷりと小言を浴びせたあげく、無理難題を押し付けてくるに違いない。
 その長い長いため息は、長屋の屋根へと消えゆく。
 
 このあと縮緬問屋の若旦那から、案の定それにまつわる無理難題を押し付けられることになるのだが、それはまた、別のお話――