舎まゆ
2024-08-20 20:45:47
11066文字
Public 小説
 

【9/8文学フリマ大阪12/新刊サンプル】くじらもどき 上巻

ブース:ブース:け-42
あふたるちか

『くじらもどき 上巻』
文庫172p
800円

内気な少年と大きな人魚が出会うお話です。

文学フリマ大阪12
9/8(日) 12:00〜開催
入場無料
OMMビル2F A・B・Cホール

お待ちしています:)


 薄暗がりの中で、くじらが、くじらの骨が、泳いでいる。
 つやつやとした白い骨がライトに照らされながら、宙に浮いている。
「あれは、クジラの全身骨格標本です。江戸時代の頃に流れ着いたザトウクジラのもので、この博物館が出来る前までは瀰境神社(みさかじんじゃ)で神様の使いとして祀られていました。ここにある展示物は、町の関係が深い海のものばかりです」
 引率の先生の話が終わらないうちに、元気な子どもの何人かが感嘆の声をあげて室内に入っていく。まだ年端もいかない子ども達にとっては、天井に吊されたくじらの骨は怪獣のようなもので、ある子どもは興味深そうに眺め、ある子どもは怖い、とぐずりだしていた。
 数分前までは静寂に包まれていたであろう資料館の玄関ホールは、元気で雑多な声で賑わっている。

 ――ザトウクジラ 全身骨格標本 七メートル

 くじらの喉元あたりを見上げる位置に設置されたパネルを少年は読んだ。所々読めない漢字がある解説文を暫く眺めて、そしてふと、顔を上げた。
 肉を喪い、頑強な骨のみの姿となったくじらはそれでも大きく、生きてさえいれば少年を飲み込むことさえ容易いのだと思えるような圧があった。これが海の中で泳ぎ、時に海面を飛び出し、波を作るのかと想像して、少年は思わず手をきゅ、と握りしめたのだった。
「では部屋に行きましょう」
 先生の声が室内に響く。ふざけあいながら、あるいは早くここから離れたいと足早に、子ども達がぞろぞろと室内から出て行けば再びホールは静寂を取り戻していく。少年は列の後ろに着いて、出る前にもう一度くじらの骨を見上げた。
 胸の内、ざわざわとした心地が水底の砂のように舞う。しかしそれでも少年は、くじらから目を離せずにいた。

 肉をもった、生きた、これを見てみたい。

 そういった願望を自覚した。



 
 くじらもどき



 1

 壁にとりつけられたスピーカーから、ひび割れたチャイムが鳴り響いた。
「なあ、釣り行こうぜ! じいちゃんが今日は魚が来る日だってよ!」
「はあ? お前のじいちゃんはアテになんねーだろ」
 斜め右隣で、クラスメイトが放課後の過ごし方を相談している。それを横目に、ランドセルに手早く教科書とノートを詰めて、薄いカフェオレのような色のそれを背負った。
 授業が終わったという開放感からか、お喋りに夢中になる同級生から逃げるように、少年は出口へ向かう。
「りくー、お前も来るよな?」
 友人を釣りに誘っていたクラスメイト――平田の声が聞こえた気がしたが、聞こえないふりをして足早に去る。ばいばい、と廊下で別の学級の誰かが交わしている。そんな中を一人、歩いて行った。

 小学校から家へは十五分、海を臨むゆったりとした坂を下っていく。小学校の校門からは町と、小さな漁港、そして一面の大海原が一望出来た。少年は殆ど毎朝この坂を上り、毎夕同じ道を下る。
 学校が終われば真っ直ぐに家に帰るというわけではなく、坂を下りきったあたりの三叉路で、家とは反対の道を歩いて行くのだった。
 海沿いの道をのんびりと歩く。
 頭の中ではつい数日前に資料館で見たくじらの骨格標本が、白く艶やかな〝肌〟を淡く輝かせながら鰭を動かすことなく泳いでいる。
 ざん、ざん、と寄せては引く波の音が、果ての無い大海原で泳ぐ生き物についての想像を、かき立てた。

 そういえば、つい数週間前の夕飯時、父が焼き鳥を手にぼやいていた。
 ――クジラが港近くの〝いたる浜〟にあがったらしい。
 まだ夏前とはいえ死んだクジラは臭くてかなわん。父の言葉を母は聞き流しながら、ぽり、とキュウリの漬物を囓っていた。
 くじらはどれぐらい大きいの、と少年が聞けば父は顔をしかめて、そんなことを聞いてどうすると、逆に聞かれたので返事に窮してしまったことも、思い出した。
「陸、はよ食べなさい」
 母に短く咎められ、慌てて小さな茶碗の白米を口に運ぶ。はあ、とやけに大きく響いた母のため息も気にとめず、父は小さなグラスに注がれた発泡酒をぐっと呷った。
「五メートルぐらいだと。まだ若そうだな」
 五メートル。いざ数字で言われれば、ぱっと想像がつかない。
「見にいっていい?」
「陸」
「もう夜のうちに砂場に埋めるらしいぞ」
 ひらひらと手を振る父に、そう、と残念な思いで頷く。母がもう下げるで、急かしながら空いた皿を片付けだして、少年はあわてて串から外された鶏肉を箸で摘まんだ。
 どこか居心地の悪い食卓はいつも通りだった。
 海沿いを十五分ほど歩いて行くと、下におりるための階段がある。
 青いペンキで塗られたそれは所々、赤茶に錆びていた。入り口を塞ぐ為にかけられているチェーンをまたぎ、階段をおりた先は小さな浜辺になっている。
 港の隣に位置するいたる浜とは違って、町民の殆どがこの浜の名前を知らない。少年が父に聞いても首を傾げて「なんだったかなあ」と返されるだけであった。
 チェーンがかけられた階段からしか来られないので、立ち入りを禁じられた場所であることは理解している。階段をおりてすぐの浜辺には空き缶や花火のごみなんかが落ちているので、自分以外にも立ち入っている不届き者はいるのだろう。
 波の音が耳の中でいちだんと大きくなるのを感じながら、砂を踏み、更に奥へ。
 浜辺の端にある鬱蒼とした茂みの隙間に潜り込めばこれは自然が作り出したのだろうか、小さな獣道が通っている。手入れの届かない茂みに隠された道を知るものはいないらしく、道中にも岩場の隙間にも潮だまりにもゴミは見当たらない。梢に覆われて涼しげなその道を進めばやがて、岸壁に囲まれた小さな磯へと辿り着くのだ。
 ここは少年のお気に入りの場所であった。
 いつもここで、波が掛かるか、掛からないかぐらいの岩に座ってぼんやりと海を眺め時間を潰す。潮だまりで微睡む蟹をつついたり、岩場の眼下、ゆったりと泳ぐ魚影を眺める。潮の匂いに包まれながら借りてきた本を読む。
 同級生と釣りをするよりも、家でチャンネルの変えられないテレビを見るよりも、ずっと、少年の心を安らげたのだった。

 くじらが、うちあがっている。

 少年は、錯覚した。
 波を砕く岩場、その隙間に白く巨大な尾鰭がくったりと横たわっているように見えたのだ。つい数日前に見てみたいと願望を抱いたものがこんなにも早く叶うとは。
 どこか後ろめたいような、しかし誤魔化しようのない高揚感が少年の心を包んだ。
 陽の光を受けて白く輝く鯨を近くで見るべく、恐れを失った少年はひょいひょいと手慣れた様子で岩場を渡った。
 そうして辿り着いた先に横たわっているくじら――と思ったものを少年はまじまじと見つめ、目を丸くさせた。
「くじらじゃないや」
 近くで見たそれは、まさしくクジラのような尾鰭を下半身に持つ――大きな男であった。
 もし、人々がそれを見たならば人魚と呼ぶだろう。
 常識的な考えを持つ大人ならば、おとぎ話でのみ語られる生き物だと断じるような存在である。
 しかし実際、少年の目の前に人魚は横たわり穏やかにそそぐ初夏の陽気の中で濡れた肌を淡く輝かせていた。
「くじらに見えたかい」
 少年の独り言に応えるように、人魚は穏やかな声を発した。
「うん」
 子どもというものは恐れ知らずなものらしく目の前の未知の存在にはまったく恐怖を抱かない。つまらなさそうに傍の岩にしゃがみ、もう一度横たわるものを眺めた。
 父親よりも、ずっと大きい。
 大きさだけは、ちょっとしたくじらだと言ってもいいのだが、人間の身体に足の代わりの尾ひれがついているのだから、くじらではない。
「くじらもどき?」
「はは、くじらもどきか」
 くじらは喋らないが、くじらもどきは言葉を流暢に話した。海水が時折かかるような岩場に横たわりながら、くじらもどきは愉快そうに笑い、肩を揺らしている。肩先まで伸びた髪は淡い紅色でその一房ががっしりとした首筋に、はりついている。
「君は、くじらを見たかったのかな」
「うん」
 人魚――くじらもどきと少年が呼ぶことにした生き物の問いかけに、少年は素直に頷いた。そうか、と困ったように微笑めば、くじらもどきは薄い色素の、不思議な色をした瞳を少年に向けた。
「それは期待を裏切ったね。騙してしまったような気分で、申し訳が立たないよ」
「くじらもどきは、くじら、見たことがある?」
 別にくじらもどきは、自分を騙そうとしていたわけではない。少年はそう思っていたので、代わりに別の質問を投げつけた。
 するとくじらもどきはこくりと頷き、瞬きをさせた。
「あるさ。思慮深いやつら。いるかのように気さくといったものではないが、あれらの気分が良いときは唄を聴かせてくれるものでね。僕は好きだ」
「ふうん」
 少年はくじらには興味があったが、くじらが歌うらしいという事にはあまり興味をそそられなかった。生返事をしながら、くじらもどきの尾鰭に眼差しを向ける。
 鱗の無いすべすべとした尾ひれは黒くごつごつとした岩肌の上で白さを際立たせていた。時折、飛び込んできた波の飛沫がかぶる。くじらもどきは、その波飛沫のおかげで陸にいてもつらくないのではないかと、少年はふと思い至った。
「くじらを見つけてどうするつもりだった?」
 今度はくじらもどきが質問を投げかけてきた。少年は小さく瞬きをさせてから、ううん、と軽く唸り考え込んだ。――しばらくして。
「みんなに自慢する」
「困ったな」
「どうして?」
「誰かを、呼ぶのかい」
 くじらもどきの声は、困惑を孕んでいる。まるで誰かをここに連れてこられると良くない、と言いたげな調子である。
「呼ばないよ。お前はくじらじゃないもの」
 少年の正直な返答に、くじらもどきはほっと安堵したようだった。そうか、と頷いてから目を伏せ、尾ひれを小さく揺らした。
「静かでいさせてくれれば、嬉しいよ」
「静かって、ここは波がひっきりなしに鳴っているじゃないか」
「それがいいんだ。それだけが、僕にはいいんだ」
「へんなの」
 くじらもどきの言葉の真意を汲み取れず、少年は呆れた顔で彼を見上げた。むくれた表情がくじらもどきにとって可笑しいものであったらしい、薄い色素の双眸をすっと細める。
「そう言わずに聞いてごらん。目を閉じて、何も考えずに、すべての音に意識を預ければ静かだと思えるから」
 促され、素直に目を瞑る。ざん、ざん、ざあ、と遠いようでいてしかし近い、波のさざめきに意識を預けた。暫く、そうしたままでいたのだが、やがて少年はそっと目を開いた。
 向こうから、夕方五時のメロディが聞こえたのだ。
「帰らなきゃ」
「そうか。もう日が落ちるだろう。気をつけて帰りなさい、小さな人間くん」
「陸だよ。天貝陸」
「あまがいりく。りく、君が踏みしめているものと同じ名前だね」
……明日もここにいる?」
――おそらくは」
 くじらもどきが肯定すれば、そっか、と少年――陸はランドセルのベルトをぎっと握った。
「じゃあ、また明日」
「ああ、さようなら、りく」
 ばいばい、と陸が手を振り、岩場をひょいひょいと渡り獣道へと消えていく姿を巨躯の人魚が見送る。それからふと沈みつつある太陽を眩しげに眺めたのち、自らの肌に食い込む岩場に横たわればそっと目を瞑ったのであった。


 年代物のスピーカーから鳴るチャイムは、聞き心地のよいものではないものの、陸が待ち望んでいたものだ。今や遅しと席から立ち教室の後ろにある赤色と黒色のランドセルが並ぶ棚に向かい、薄ぼんやりとしたベージュに近い色――カフェオレ色だと買った時に告げられたそれを引っ張り出した。
 ずっと使ってきたそれは、所々に小さな傷がついていた。陸は、間違いなく己の所有物であるそれを背負うたびに、慣れぬ憂鬱をその重みに感じている。
 そそくさとベルトに腕を通して、陸が帰路につこうとすると。
「おい、陸」
 背後から声をかけられ、びくりと肩が跳ねた。咎められたような気持ちで陸がおずおずと振り向けば、そこには同級生が数人、こちらを見ている。
「なに、平田くん」
「釣り行くぞ」
「え、おれも……?」
 同級生からの突然の誘いに陸が戸惑いながら聞き返せば、呆れかえったように同級生――平田が睨みつけてきた。生来持つ気の強さが宿った眼差しに、陸は思わず目を泳がせ、言い淀む。
「あの、おれ」
「昨日も呼んでやったのに、お前、シカトしただろ」
「あ、そう、なんだ……ごめん、聞こえてなかった……
「耳悪いなお前……ほら行くぞ」
 急かす平田の背には黒いランドセルが背負われている。今から一緒に遊ぶのだろう他の同級生たちも帰りの支度を終えているようだった。
 ――とはいえ、彼らが背負っている傷だらけのランドセルはほとんど空っぽであること、おそらくは底の方に一週間前のプリントがくしゃ、と置き去りにしてされていて中途半端な長さの鉛筆が転がっているだけということも陸は知っていた。
 平田は放課後になると、友人達とともにほぼ強引といってもいい勢いで陸を連れ回した。彼らは毎日のように漁港近くの堤防で釣りをし、家から父か祖父の者であろう銛を持ち出しては、浅瀬に潜って魚を仕留め、遊んでいる。
 陸はというと、あまりそういった遊びをすすんで楽しむ気質ではない。
 好んでいるのは本を読むことで、海辺でいるならば生きた魚を眺めているほうが楽しい。しかし、そんな我が子に父は渋い顔をする。
 お前も平田くんみたいに外に出て遊ばんか、としょっちゅう叱りつけては部屋の中で読んでいた文庫を取りあげてしまう。それが嫌で仕方なく――一年ほど前に見つけたくだんの磯でひとり、過ごすのを好むようになったのだ。
 六年生になってから同級生となった平田が執拗に陸を遊びに誘うようになったのは、父と平田の父が同級生だからだろう。
 何かのきっかけで父がウチの息子と遊んでやってくれと頼み込んだに違いない。
 それを平田の父が快諾したのだと、陸はなんとなく、理解していた。
 きっと平田だって、いい迷惑だろう。すでに遊び仲間がいるというのに、そこに気質の合わない〝友人〟を入れろと親が言ってきたのだから。
「いや、その……
「なんだよ」
 陸が煮え切らない声を出したのが気に入らないのか、平田は顰めっ面をさせた。どうにかして、彼らから離れたい一心で陸は一度息を飲み、口を開いた。
「おれ、今日は用事があって……
 とっさに出た言い訳と共に、昨日、あの磯で出会った大きな生き物の姿が脳裏によぎる。
 また明日。そう約束した、筈だ。
「用事?」
……うん、用事」
「なんだよ、用事って」
 いやに、食いついてくる。なんのって、と口をもごもごとさせればいよいよ平田は不機嫌になって、眉間に皺を作った。
「人に言えねえ用事なのかよ」
「そういうわけじゃ……知り合いに会うだけだよ」
「知り合い?」
「うん。ごめんね、もう行かなきゃ」
 これ以上の詮索をさせないように早口で告げ、カフェオレ色のランドセルを揺らしながら陸が立ち去る。ぱたぱたと逃げるように教室を出て行った同級生の後ろ姿を平田はしばらく睨みつけていたが、もう行こうぜと待っていた友人の声に、そちらに向き直ったのだった。
 
 天気予報よりも先に梅雨明けを告げているような青が、海と空を明確に分けている。
「やあ、りく」
……こんにちは」
 くじらもどきは昨日と同じく、磯にいた。岩に囲まれた潮だまりに大きな身体を横たえる姿は、さながらひなたぼっこをしているアザラシかなにかだ。
「今日も来たのだね」
「また明日って言っただろ」
 背負っていたランドセルを波飛沫のかからない高い岩場に置いて、陸はくじらもどきの傍らにしゃがみこんだ。その巨躯をまじまじと眺めると、くじらもどきの濡れた肌はゆっくりと上下しているのが見てとれた。
「ああ、ただ……君は怖がってしまって、もう来ないかもしれないと思っていたんだ」
 ざぱりと水音を立てて、くじらもどきが上体を起こす。たちまち少年に影が落ちて、大粒の雫が岩場を濡らした。
「怖いもんか」
「はは、ちいさいのに勇敢なんだね、りくは」
「うるさい、お前にとっては誰だって小さいだろ」
 可笑しそうに笑うくじらもどきの言葉に、陸は口をへの字に曲げた。ごめんごめん、とくじらもどきが澄まし顔で謝罪をすれば、そうだ、と右腕をゆっくりと動かし、その手のひらを少年の眼前へと差し出した。
「おいで」
「なに?」
「おいで、手のひらにのるんだ」
 そう促され、陸は戸惑った。
 自分よりも大きな生き物が、己に触れようとしている事に今さら、本能的な畏れに襲われたのだ。しかし陸が動くのを待つくじらもどきの淡い色の瞳は、変わらずに穏やかである。
 意を決して、陸は靴と靴下を脱いだ。それをランドセルが置いてある方向へ放り、濡れたくじらもどきの手に、素足をのせた。足裏から冷たさが伝わってくる。しっとりとして、温度は感じられないものの生きているものの皮膚であることは理解出来た。
 自分の足が、彼の手のひらに僅かに沈み込んだのを見るなり陸はあの、と声を上げた。
「重くない?」
「まったく。落ちないようにね」
 くじらもどきの声に従い、彼の手のひらに腰掛ける。するとぐらりと揺れたので前後不覚に陥って目を瞑っていると、すぐに揺れは収まった。
……
「これでりくの顔がきちんと見える。あそこにいると潰してしまうかもしれないからね」
 頭の上から振ってきた声に、陸が顔を上げる。
 少年を乗せたくじらもどきの手は、彼の胸の高さにあるようだった。遠くなった地面を見下ろし、それからもう一度、目の前の生き物を見上げる。まるで自分が、生まれたばかりの子ウサギか子犬か、小さな動物になったような心地に目眩を覚え、陸はのろのろとくじらもどきの指に、もたれかかった。
……りく?」
「びっくりした……
――すまないね、おろそう」
「待って」
 眉を下げ、手を動かそうとするくじらもどきを引き留め、陸は彼を見上げた。小さな子どもの言葉に律儀に従うこの大きな生き物を見ていると、鼓動が早くなる。
 それが畏れなのか、それとも別の、そう、ついこの間に博物館で見上げたクジラの骨格標本に抱いたそれ――童心の興奮に近い感情なのか、幼い子どもには判然としない。落ち着くべく深呼吸をすれば、磯の匂いが肺を満たした。
「なにか話してよ」
……このままでいいのかい?」
 陸の言葉にくじらもどきが囁く。気遣わしげな柔らかい声にひとつ瞬きをして、陸は頷いた。
「おれはお前に会いにいきたんだ」
――そうだったね」
 くじらもどきが肩を揺らす。足を揺らしつつ、それで、と陸は彼を指さした。
「お前はここに住んでいるの? おれ、ここを見つけてから一年経つけど、お前なんか知らなかったよ」
「ここは僕の住み処ではないね」
 陸の問いにくじらもどきが否定する。
「なんだ、迷子か」
「まいご?」
「帰る場所は?」
「海のあるかぎり、どこでも」
 さも当たり前のこととすまし顔で答えるくじらもどきになんだそれ、と陸は呆れ声を出した。たしかにクジラの中にも海を何千キロも移動する種類があると聞いたことはあるので、このくじらもどきもそういう生き物なのだろうと、己を納得させつつ、更に問いかけた。
「じゃあ、今までどこにいたの?」
「ここより少し冷たいところ」
「じゃあ北海道とか、ロシアとか、アラスカ?」
 冷たい場所と言われ、思いつくかぎりの場所を上げればくじらもどきは、さて、と首を捻るだけだ。分からないのか、と陸は少々つまらなさそうな顔をさせた。
「住んでる国とか、ないの?」
「くに」
「ほら……住んでる場所で、人が変わるんだよ。アメリカ人とか、フランス人とか中国人とか。話す言葉も変わるんだ」
「りくは?」
「日本人。ここは日本っていう国で、日本語を話すから。そういうの、ないの?」
 くじらもどきは少しばかり考えあぐねた末に答えた。
「僕たちは僕たちが使う言葉がある。それと、群れを作っている奴らもいる。彼らは住んでいる海域からは出ようとはしないね」
 くじらもどきの答えに、陸が目を見開く。父や祖父からは、今まで一度も人魚を見ただなんて聞いたことがないにも関わらず、彼らは海に沢山いるのだという。
 もしかすると自分は、世界ではじめて人魚を見た人間なのではないか、と自惚れに似た考えが陸の頭を過った。
「くじらもどきは群れで暮らさないの?」
「うん、昔は群れで過ごしていたのだけど」
……もしかして、はぐれた?」
……
「やっぱり迷子じゃないか!」
 無言を通すくじらもどきに是と受け取ったのか、陸はくすくすと笑いながらからかった。笑う少年にくじらもどきは少しばかり呆気にとられていたが、全く無邪気な様子のこどもにつられて、くじらもどきも笑った。
「そうかもね。でも自分が迷子だなんて思ったことはないんだ。一人で生きていけるから」
……そっか、じゃあ、くじらもどきは自由なんだね。だって何にも気にしないで過ごせるんだろ」
 いいなあ、と陸がくじらもどきをまじまじと見上げる。どこか眩しそうな顔をさせて、次は何を聞こうか迷っていると夕刻のチャイムが鳴った。
 ああ、と陸が名残惜しげな声を漏らす。
「りくの帰る場所は?」
……瀰境町(みさかちょう)尾(お)原(はら)三丁目」
 ぶっきらぼうに答える陸に、おや、とくじらもどきが首を傾げる。
「帰る場所はあまり良いところじゃなさそうだ」
……なんでそう思うの?」
「だって、りくは少し嫌な顔をした」
 くじらもどきの淡い双眸がそっと細められる。どんな生き物のこころであっても見透かしてしまうような眼差しに、陸は一瞬躊躇ったあとのろのろと頷いた。
「そうかも」
「暴れん坊の鮫でもいるのかい」
「いるわけないだろ。ああ、でも……近所にいるかも。でも家は普通だよ。父さんは船に乗って魚をとる仕事をしていて、母さんは市場で働いているんだ。たまに父さんは帰ってこない日があるけど、船に乗る大人ってだいたいそうだし……。母さんは家ではいっつも不機嫌だけど、怒らせなければご飯も作ってくれるし……。怒ったら怖いよ。でも、それっておれが……
 そこまで言って、陸は口を閉ざした。すぐに小さく首を振って、少年が誤魔化すようにはにかむのを眺めれば、くじらもどきはぽつりと呟いたのだ。
「もう少し、ここにいよう」
「駄目だよ、チャイムが鳴ったら帰らないと、怒られちゃう」
 陸の慌てた声に、そうじゃなくて、とくじらもどきは笑みを向ける。
「僕のことだよ。もう少し、このあたりに留まろうと思ったんだ」
「どこかに行くつもりだったの?」
 くじらもどきの言葉にハッとして、陸は不安げに聞いた。うん、と頷きながらくじらもどきは一度、眼前の海に眼差しを向ける。
 まだ会ってたった二日なのに、とひどく落胆した陸の様子にくじらもどきは指でそっと、少年の頭を撫でた。
「そうだな……秋が終わるまでは、いてもいいかもしれないね」
 人魚の指先は濡れていて、そのせいで陸の髪は濡れた。くじらもどきの言葉に、ぽたぽたと雫を滴らせながら陸はほっと安心したような顔をさせた。
「じゃあ、おれがここに来たら、ちゃんといろよ」
「ああ、そうするよ。秋が終わるまでは僕はこの近くにいる。りくの声で呼べば、僕はこの海からやってくるから、りくの声で、呼ぶんだよ」
 くじらもどきは海を指さした。つられるように陸も指された先を見れば、いつもより高い場所から、地平線が見える。もうすっかり初夏らしく日の入りにはまだ早い。沖合から帰ってくる漁船の影が小さく見えた。
……わかった、呼ぶよ」
 ひとつ頷く。なにか重大な、そして誰にも言えない約束を交わしたと思えた。
 けして後ろめたいものではない。大きく、丸い、きらきらとしたものをおのずから飲み込んだ――そんな心地で、陸はくじらもどきの指に触れる。
 呼ぶよ。と潮騒に負けぬよう、もう一度言葉にしたのだった。


 次の日、登校すると平田がやってきた。その表情は不機嫌そのもので、陸はきゅっと身が固くなるのを感じながら、どうしたのと聞いた。すると低い声で
「今日はすぐに帰るんじゃねーぞ。話があるからな」
「え、あの……話って?」
 陸の問いには答えず、平田は黙ったまま踵を返した。その先では彼の友人達がこちらを睨みつけている。
 どうやっても悪い予感しか抱けず、今すぐにでも帰ってしまいたい衝動に陸は駆られたが、丁度よく担任の先生が戸を開けてやってきてしまった。陸は何かに推されたように席に座り、落ち着かないまま今日一日を過ごすことになってしまった。
「なにウソついてんだよ!」
 罵りと共に突き倒され、陸は尻餅をついた。
 放課後になってすぐ、逃がすまいと平田達に囲まれ連れてこられたのは運動場の隅に建っている体育倉庫の前である。
 自分を突き倒した張本人――平田を見上げながら、震える声で陸は反論した。
「う、うそじゃ、な――
「じゃあ誰と会っていたんだよ。お前のオヤジ、そんな予定知らないって言ってたぞ! 親にも言えねえ人間と会ってたのか!?」
……
 立ち入り禁止の先の海辺で人魚と会っていたなどとは言えない。それこそウソだと彼らの怒りに火に油を注ぐことになるだろう。答えに窮した陸を見て平田は鼻で笑い、嘘つきの髪をぐしゃりと引っ掴んだ。
「いたい!」
「お前、なんでウソついた!? サイテーだな!」
 髪を掴まれ、強引に顔を上げさせられる痛みに涙がにじむ。痛みから逃れようと陸が小さく身を捩れば、それすらも平田の怒りを煽ったらしかった。なおも理由を聞き出そうと、平田は陸の頭を揺さぶる。
 二人を囲む同級生達も、ウソつきヤローと非難しながら、囃し立てた。
「オレらを騙した奴は懲らしめちまえ!」
 調子に乗った仲間のうちの誰かが叫んだ。それを耳にした平田はハッとした顔をさせて、そうだな、と頷き陸の頭を掴んでいた手を離した。しかしすぐに、痛みで動けずにいる彼の腕を掴み、ぐっと引っ張ったのである。同じ歳である筈なのに、平田は陸をずるずると引きずっていく。
「や、やだ! やめて!」
「うるさい!」
「ウソつき! ウソつき!」
「お前がウソをつくからいけないんだ!」
 少年達の罵倒の中で引きずられ、土がざりざりと陸の足を擦る。ガラガラとけたたましい音と共に、ふっと視界が軽くなった。独特な埃っぽい匂いが鼻をつく。
 再び突き飛ばされれば、土ではなく堅いコンクリートの床が、陸の身体を打った。すぐにドサリと何かが投げ込まれる音と、ガラガラとけたたましい音が響くのを聞きながら、陸は蹲り、呻いた。
「一晩そこで過ごしてろ!」
 平田が扉の向こうで叫ぶ。それからクスクスと誰かの笑い声がしたが、少年たちが喋る声は遠くなっていった。