溶けかけ。
2024-08-19 16:47:32
1955文字
Public ほぼ日刊
 

星の歌劇

宮沢賢治の銀河鉄道の夜を元にしたお話。
ヌヴィレット→ジョバンニ
フリーナ→カムパネルラ    の配役です。


 それは些細な違和感だった。

 グラスに注がれた水は味気なく、見ている景色もセピア色。何かを忘れてしまっているような、最初からなかったもののような、曖昧な感覚に侵される。ぐんにゃりと足元から世界が歪んでいく――そんな違和感。

「ヌヴィレット様?」というセドナの問いかけがなければ、ずっとこうして執務室でぼんやりしていたままだったのではないかと思うと肌が粟立った。「ああ、少しぼんやりしていたみたいだ」と返せば、「ヌヴィレット様にしては珍しいですね」と彼女はほんの少しだけ瞠目して目を細めた。



「やあ、ヌヴィレット。次の舞台が始まるよ」

 ブザーの音が鳴り、ヌヴィレットの隣にフリーナが腰掛けた。

「フリーナ殿」

 僅かな頭痛に頭を押さえる。フリーナはヌヴィレットの声にしーっと口の前で指を一本立てて、「劇の最中はお静かに」といたずらっぽく笑った。ヌヴィレットは渋々、舞台に顔をむけた。
 舞台ではモンド人の冒険者が東奔西走して数多の武勇伝を打ち立てている最中であった。彼は攻略不可能と言われた灰色の荒海を進み、見事に冒険の証として宝箱を持ち帰った。宝箱の中の金銀財宝に観客たちは興奮の声を上げた。

「素晴らしい!」

 隣のフリーナが立ち上がり、盛大な拍手を送る。以前と変わらぬ姿に安堵し、安堵した自身に首を傾げる。ヌヴィレットが口を開くより先にブザーが鳴り、幕間を告げる。

「チケットを拝見」

 劇団員と思しき男性がヌヴィレットの肩を叩いた。困惑する彼を横目にフリーナがチケットを差し出した。「はい、確かに」男性はフリーナに半券を戻すとヌヴィレットに手を差し出す。

「すまないが、チケットは――

 身動いだ拍子にかさり、と軽い音が聞こえた。身に覚えのない音に訝しみながらもポケットに手を入れれば、四つ折りにされた青い紙が出てきのでそれを手渡した。

「これは、これは。失礼いたしました」

 男性は恭しく紙をヌヴィレットに返すと去っていく。

「それはなんだい!?」

 もう待ち切れない、といった表情のフリーナに紙を手渡す。紙を広げた彼女は「おおー!」と感嘆の声を上げた。

「これ、どんな舞台も好きな場所で観られる特別券じゃないか! 何処で手に入れたんだい!?」

「気がついたら入っていた」

 返された紙を改めて見ても、波模様が描かれているだけの紙で、そこまで貴重なものにも思えない。


 演目は続く。悪に堕ちた友人を倒し、娘と幸せに生きる砂漠の民の話。雪山で遭難したが生還し、息子と再会したモンドの冒険者の話。

「ねえ、ヌヴィレット。本当の幸いってなんだろうね?」

 フリーナが唐突に話を切り出した。客席は薄暗く、隣人の輪郭すら朧気で彼女がどんな表情をしているのかは分からない。ヌヴィレットが口を開こうとしたその時、俄に歌劇場の照明が落ちる。

「停電だろうか……? フリーナ殿?」

 気がつけば、フリーナの姿はなかった。それどころか、客席にはヌヴィレット以外の観客がいなくなっていた。なにやら不穏な気配を感じたヌヴィレットが立ち上がる。ふっとステージに灯りが灯った。

「これはある神様のお話だ」スポットライトに照らされたフリーナが宣言する。呆然とするヌヴィレットを置き去りにして、舞台は進む。人が水に溶け、歌劇場を模した舞台では裁判が華やかに行われる――フォンテーヌの結末を模した舞台だとすぐに気付いた。

「ヌヴィレット。どうか、幸せに」

 フォカロルスの姿をしたフリーナがヌヴィレットに微笑んだ。――――――彼女の頭上にあった剣が落ちる。



 目を覚ます。辺りは既に暗く、ヌヴィレットの頭上では星が輝く。

 雲一つ無い空に暗雲が立ち込め、瞬く間に豪雨に変わる。突き刺すような痛みに胸を握りしめた。

「手本になる者がいないというのに、どうやって幸せになれと言うのかね……

 生きていて欲しかった。これは紛れもないヌヴィレットの本音だ。あの日――アビスの襲撃からフリーナがヌヴィレットを庇った日。冷たくなる体を掻き抱いたヌヴィレットにフリーナが言ったのだ。「幸せに生きてね」と。
 忘れていた――否、彼女が亡くなったことを受け入れたくなかった。それがヌヴィレットの中で大きな歪となって、違和感という形で現れた。

「叱りに来たのだろうな……

 先程の劇の意味を理解できない愚か者であるつもりはない。あれは彼女にとっては別れの挨拶であり、腑抜けた自身への叱咤激励でもあったのだろう。

「君たちはいつもそうだ……

 なんでもない顔をして、席を譲る。それが譲られた側にとってどれほど苦しいことなのか、きっと知るよしもないのだろう。