AZUMA Tomo
2024-08-18 18:03:33
4080文字
Public じじまご
 

雨露と甘露と甘味・6

梅雨の時期にじじまごが邑神さんの実家に帰るお話。まったり会話中。

「『あの絵』って?」
 邑神のこの狼狽え方はやはり何かあるのだ。千葉があのキャンバスを目の当たりにして覚えた迫力は気のせいでも間違いでもなかった。
 しかし千葉は肯定も否定もせずに邑神を見つめ返した。先程までは邑神が千葉の心を暴こうとしていたが、今度は逆だった。ただし、千葉の燦然と輝く星の瞳はただただ邑神の闇色を見つめている。ただそれだけだった。
 邑神は真っ青な顔で、しかし、とうとう千葉から目を逸らしながら言う。
――いや、見ていないなら、いいんだ」
 千葉は輝く星のような瞳で獲物を照らす光であると同時に、それを捕えるハンターでもあった。
「祥ちゃんの絵のこと?」
……やっぱり見たのか」
「別に見たくて見たわけちゃうで……わざわざ布で隠してたし」
「いや、それはわかっているんだ――部屋の奥まで人が足を踏み入れた形跡はなかったからな、自然と布が落ちたんだろう……
 雨音が一段と騒がしく、大きな水滴が中庭の紫陽花を強く叩き、その衝撃でざわざわと庭全体が揺れ動いているような錯覚がした。
 一見、水色と紫色の美しいグラデーションが波打っているようにも思えるほどだったが、その咲き誇る花の下にはいくつものぬかるみが発生していた。
 荘厳で綺麗なものを眺めているのに、千葉にはその些細なぬかるみが気に掛かって仕方なかった。
「あの絵は……なんで未完成のまんまなん。あんなに上手に綺麗に描いてたのに」
 千葉は逸らされた目を追いかけることはせず、中庭のぬかるみを眺めながら温かい紅茶を口に含んだ。梅雨の時期だというのに雨のせいか薄ら寒く、今は紅茶だけが千葉の内面を優しく温めてくれていた。
 一方邑神も、千葉から目を逸らしたまま、しかしまるで不満を口にするかのように唇を曲げて言葉を発した。そしてそれはまさしく不満であった。
「そもそもあの絵は、自分が描きたくて描いたものではないんだ」
……へえ?」
「自分はあの男――東雲祥貴をモデルに絵を描くのは勘弁だとずっと思っている」
……そうなんや」
「意外そうな表情だな」
 いつの間にこちらを窺い見ていたのか、邑神が言う。邑神の方へ視線だけを動かすと、やはりまだ視線が交じり合うことはなかった。一度は千葉を見たものの、邑神も同様に中庭へ視線を向けたままだった。
 男の言の通り、意外に思ったのは確かだった。
 東雲祥貴は芸術の題材にするにはうってつけと言っていいほど、美しい人間だ。千葉は己の容姿や立ち居振る舞いに確固たる自信を持っている。魅了や魅力を持ち合わせていることを自覚していた。そんな千葉でさえ東雲という男に対して「美」という観点では一目を置いてしまう。そんな美しい男を題材に作品制作に取り組みたいと思う人間はごまんといるだろうと予想することは簡単だった。
 なのに邑神は東雲祥貴をモデルにしたくないと言うのだ。
「そりゃ――意外やろ。本人の前ではムカつくから言わんけど……写真に撮ったり、短編映画にしたり、彫刻にしたり……それこそ絵に描いたり。そういう題材にしたくなるような見た目してるやん」
――ごもっともな意見だな」
「やから、カミサマが祥ちゃんと同じ高校で学生をしていたときに、美術部員やったんなら尚更……絵に描きたくなったとしても何も不思議やないやろ」
 カチャリ。カップとソーサーがぶつかって、小さな音を立てる。音につられて邑神を見ると、男は中庭ではなく水盆に浮かんだ紫陽花を鑑賞していた。
 ――せっかく切ってきたのに、俺はこの紫陽花のことをよく見てなかったな。
 邑神につられて、水色と紫色が一房で楽しめるそれを一緒に眺める。邑神は依然、千葉とは目を合わさないが不満そうな表情からは一転、少し落ち込んだような悲しげな顔で水盆の紫陽花を眺めていた。
「千葉恵吾……お前さんはあの絵をどう思った」
……さっきも言ったけど、上手で綺麗やと思ったで」
――それだけか?」
 控えめに問いを続ける邑神。この男が目を合わせない原因はそこにあるのだと千葉は直感した。千葉が感じたあの迫力が原因なのだ。
「あとは……すっごい迫力があったな。未完成なのがもったいないくらいに。描いてる人間の――入れ込み様がわかる」
 千葉はそう言葉にしながら、自分の言葉に胸が締め付けられるのを感じた。この「くだらない」感情は『あの絵』の話をすればするほど大きくなるのはわかっていた。だが、坂へ転び出した石を止められるわけもなく、ただただこの嵐のような醜い感情と胸の痛みをやり過ごすしかないと思った。
「入れ込み、か」
「うん……
 千葉は会話を途切れさせることが怖かった。というよりも、この状況で相手に会話の主導権を握らせるのが怖かった。普段の自分はこんなときどうしてやり過ごしていたのか思い出せなかった。だから言葉を続ける。
「見たらあかんもん見たんかなって思った。カミサマの祥ちゃんへの想いみたいなんがあの迫力になってるんやろな。だから相当入れ込んでたんかなって」
 ペラペラと次から次へ講評を述べる口は、言葉を発するごとに己の胸をキリキリと締め付ける。千葉にとってみれば最悪のループに陥っていたが止めることもできなかった。
「祥ちゃんをモデルに描きたくないって言ってたけどそれもほんまは嘘なんちゃうんかって思えるくらい、未完成のはずの絵やのに既に良い作品になってて、カミサマは、その……もしかして、祥ちゃんのこと」
「待て、千葉恵吾。落ち着け」
 眺めていたはずの紫陽花がいつの間にか見えなくなっていた。邑神の呼びかけによって意識を引き戻された感覚がした。水盆にゆらりと浮かぶ紫陽花から視線を外してほんのわずかに上を見れば、あの切実そうな真っ黒な瞳がこちらをじっと見つめていた。
 メガネの奥の闇色は、方向感覚がわからなくなりそうなのにどうしてこんなにも安心感をこちらに与えてくるのだろう。千葉は不思議でならなかった。
「すまない、お前さんにばかり話をさせていたな」
「いや……ごめん。やっぱりちょっと疲れてるんかな」
「お前さんの不安が緩和されれば良いが……全部言い訳に聞こえてしまったらすまない。だが、高校時代の話を少し聞いてくれるか」
 こんなにも真摯に見つめてくる瞳。千葉がその申し出を断るわけもなかった。

 邑神はポットから新たに二組のカップへ紅茶を注ぎ、安楽椅子に座り直した。そして苦笑いを浮かべる。
「アイツをモデルに絵を描きたくないというのは、本心だ」
……それが本当やとして、なんであの絵を描くことに?」
「千葉恵吾……これはお前さんに言うべき話でもないかもしれないが少し我慢して聞いてほしい」
……俺がそんなに器の小さい人間やと思ってんの?」
 千葉が冗談めかしてニヤリと意地の悪い笑顔を作って見せると、目の前の男は一瞬虚を突かれた表情を浮かべ、そして笑い声を漏らした。
「ははっ……そうだな、お前さんは器の大きな人間だったな――ともかくだ。自分は東雲祥貴を題材にした作品は作らないと、アイツに出会ったときからずっと思っていた」
「ちなみにその理由を聞いても?」
「その理由こそが――お前さんに言うべきではないが、話しておきたい内容なんだ」
 まだ湯気の立ち上っているカップから紅茶を一口飲み、邑神は再び水盆の紫陽花へ視線を落とした。
――自分は、どうにも東雲祥貴の押しに弱い」
……いや……まあ、知ってるけど。それがどうしたん?」
「知っていると言われてしまうとどうにも恥ずかしいな。まあ、良い。それでだ。あるとき――具体的には二年次だったな。自分はその学年で唯一の美術部員だったんだ。三年生の先輩は居たが、一年生の部員は居ないという状況だった。これは由々しき事態だった。自分は二年生唯一の部員、そして自分の後を継ぐはずの後輩はおらず、なんとしてでも後輩を美術部へ招き入れないといけない。美術部の存続が不可能になるからだ――正直、美術部が廃部になろうがどうしようが、自分としてはどちらでも良かったが、三年生の先輩方は部の行く末を散々心配なさっていたんだ」
 長丁場になりそうな邑神の話だったが、あまり知ろうとしなかった恋人の青春時代を垣間見ることができて不安と共に喜びがあった。千葉は無駄な茶々入れずに、次はフィナンシェに手をつけながら邑神に向かって頷き、話を促す。邑神は水盆へ視線を落としたままだったが、水面越しに千葉の頷きが見えていたのだろうか。少しだけ微笑みを浮かべた。
「一方、一年生の頃から東雲祥貴という男は校内では噂の止まない人物だった。まあ、あまり今と変わらない……昔の方が少し無茶ややんちゃをしていたかもな。それでもあの美貌や人望や気高さは同じで――だが今の方が少し謙虚かもしれないな。大人になった証拠だろう。今よりも少々不遜で傲慢な男の東雲祥貴は美術部員だった友人の邑神有奇にずっと言い続けていたんだ――『僕の肖像画を描いてくれ』と」
「ああ、ね? それでさっきの押しに弱いって話に繋がんの?」
「いや、まだだ。自分はそれを断り続けていたんだ。絶対に描きたくなかったからな」
――その理由は?」
「これも自分の恥部を曝すようで本当は言いたくはないんだが――まず一点目として、いち画家として東雲祥貴を描ききる自信がなかった」
……なるほど」
「あの男の美しさを一番理解しているとまで思っていた自分は、あの頃のアイツよりももっともっと傲慢な人間だっただろうよ。そして、あの美しい存在を目の前のキャンバスに描ける自信がなかった」
「祥ちゃんのことめっちゃ褒めるやん」
……お前さんのことも同じくらい褒めてやるから、少しだけ我慢してくれ」
「いや、そういうことじゃ……
 あのなんでもお見通しだと言わんばかりの闇色の目は、それでも心地が良い。
 邑神の優しい微笑みがやっと千葉に向けられて、今度は千葉が水盆の紫陽花を凝視する番になった。