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2024-08-17 23:20:44
1848文字
Public movie100
 

076:焼け石に水

映画タイトル100題からおかりしました。
付き合ってる拳コユ


 この空気感に慣れる日は来るのだろうか。
 いつもより少しヒールの高いパンプスの、丸い爪先を見つめながら考える。足が固まって動けない。美しい大理石調の床とパンプスのベージュが溶けて一緒になってしまったのではないかと錯覚するほどだ。この日の為に新調したスカートの裾を弄って気を紛らわせる。
 全てお任せします、と伝えてからまだ数分、彼は何やら手続きをしているらしい。いつか覚えなくてはと思うのだが、恥ずかしさが先に立っていつも彼に任せてしまう。こういう時、彼が場慣れしていることに嫉妬を覚えつつ、安心してしまう自分がいる。
 カチリと小さく音がした。ややあって軽く頭を叩かれ顔を上げる。いやになる程いつも通り、飄々とした四白眼がほんの少し緩んだ。
「だいじょぶ?」
 首を縦に振る。
……やめとく? 帰る?」
 今度は横に振る。我ながらぎこちない動きだが、意図は伝わったようだった。口布の下で笑った気配がする。
 また軽く頭に手が置かれ、その手がそのまま背中に滑り降りて軽く促してきた。先に続くのはエレベーター。彼は「四階ね」と短く言った。即座に開いたエレベーターに乗り込む。ドアが閉じると同時、ヒヤリとした大きなものに手を包まれた。
「あんまし、哀れっぽい顔すんなって」
 そう言って苦笑する彼は、冷たく大きな手に力を込めた。痛みがない程度に握り込まれた自分の手を見ていると、おもちゃのようだ。よく見るとところどころに肉刺がある、女にしては色気のない手も、こうして比べてみると可愛げがある。
「襲われるわけでもあるめえに」
〝おそってくれないんですか〟
 笑い混じりの言葉に反射で答えた。考え事をしていたせいで、全く吟味されず溢れた言葉だった。
 ひどくはしたない事を言ったと自覚したのは、エレベーターが止まった振動で自分の体が軽く揺れてからだ。
〝えと、わたしはその〟
 空いた手で顔を覆う。突き刺さる視線が痛かった。エレベーターのドアが開く。恥ずかしさを誤魔化すように、行きましょうと手を引くと、ぐい、と引き戻された。ぼすり、分厚い体に背中がぶつかる。
 すみません、と謝って顔を上げると、上半身を折り曲げた彼がこれでもかというほど顔を顰めてこちらを見下ろしていた。
「ホンット……どこで覚えてくるんだ。アア?」
 口布を下ろし軽く舌打ちまでしてみせた彼は、ぐわりと牙を剥いて見せた。白く大きい、捕食者のあかし。ギラギラと光るそれが徐々に近づいてくる。焦点が合わずぼやける視界に目を閉じて──鼻先を一瞬、固いものに挟まれた。
〝え〟
 次に目を開けた時にはすでにエレベーターを降りており、赤い絨毯張りの廊下に二人で立っていた。両側の壁には等間隔にドアがある。
 さっきのは何だったんだろう。鼻をさすって考えるがよくわからない。
 差し伸べられた手を取るとほんのり温かくて驚いた。肉厚な掌をぎゅうぎゅう握ると、彼もまた同じ力で握り返してきた。
「俺以外に言うなよ」
〝いっ、いいませんよ〟
「ならば良し」
 いい子だ、と頭をぐしゃぐしゃ撫でられて頭がグラグラ揺れる。整えていた髪がめちゃくちゃだ。慌てて手櫛を入れている間に、一番近い部屋に引き込まれた。
 たたらを踏んで何とか持ち直し顔を上げる。落ち着いたブルーの絨毯が綺麗な部屋だった。どの部屋にしたのか見ていなかったのを少し後悔する。この部屋であってるんですか? と聞こうとしたと同時、背中が壁にくっついたと思ったらなんと身体が浮き上がった。
〝ひゃ、わ〟
 バランスを取ろうと桃色の着物にしがみつく。眼前数センチのところにあった彼の顔が数ミリにまで近づいて、がぶり。くちびるを食べられる。口の中にぬめる大きなものが入り込んできて、喉の奥まですぐに侵蝕された。ずちゅぐちゅ、頭の中を直接引っ掻き回すようなひどい音がする。息ができずに涙が溢れかけたところでようやく解放された。
 ぶは、と間抜けに息継ぎをして、責めるように大きな体を叩くと、顎下に引き下げた口布まで濡らした彼が薄く笑った。ひどく嗜虐的な笑み。ふたりっきり、ベッドの中でしか見られない、ほんの少しの芯の部分。
「襲って欲しかったんだろ」
 低い声が身体に響く。爪弾かれた楽器みたいにぞくぞく震える。いつからこんなにはしたない女になったのだろう。わからない。わからないが、嫌ではなかった。

 酸欠でぼうっとした頭で頷くと、なぜか彼はまた、思いっきり顔を顰めて見せた。