ふーこ
2024-08-17 18:41:24
8651文字
Public 小説
 

白色光に踊る

壬生主です。ロビさんとの合作です!【イラスト:ロビさん、設定・小説:ふーこ】
ロビさんのイラストも、このページ内でご覧いただけます!

鎮魂歌と、黄龍後の龍麻の話です。酔っている龍麻の戯れにいたって真面目に付き合う壬生。
ジュヴFES2 展示作品の共通お題『ギャップ』で書いてみました。

 人生には、思いもよらなかった出来事というものがままある。
 例えば東京を守ること、なんていうのもその一つだが、そんなことをしてのけた彼らのその後の人生にもまた、予想外の出来事というのは続くものである。
 例えば同級生と一緒に家業を展開させていくだとか、国外に修行に行くだとか、世間に知られず妖怪退治をしているだとか。変化の中にいるときは自覚していなくても、後から振り返れば、自分のそんな未来を予見できた者など一人もいないだろう。
 
 夜半にもなれば、指先がかじかむほどに冷える季節だ。冷たく乾燥した空気の中、マフラーに鼻まで埋めて足早に帰路を急ぐ姿もあれば、着崩したスーツもそのままに赤ら顔を冷ましている者の姿もあった。そんな繁華街の明るい通りから、路地に抜け出した影が二つある。
 一人は髪の一本から爪先まで神経が行き届いた身のこなしの男だ。黒いロングコートの裾をゆったりと遊ばせながら、その動きまでも計算づくに見えるほど隙が無い。
 わずかに耳にかかる長さの黒髪が風に煽られると、静かな眼差しの鋭さがいっそうよく分かる。研ぎ澄まされた刃のような威圧感を持つそれは、しかし隣にいる男に対しては和らいでいた。
 隣の男もまた、もう一人の男と性質は異なれど勘の鋭さがうかがえる体捌きをしていた。酔っている様子ではあるが危うさや弱々しさは感じられない。マフラーを軽く緩めて長い前髪を片手でかきあげると、優しげな目元が現れた。おおよそ、人に警戒心を抱かせない風貌をしている。
「楽しかったけど、ちょっと飲みすぎたかな。まだ暑いや」
「龍麻……。君は言葉に詰まると、酒に口をつける癖がある。それなのに話をせがんだ方も悪いさ」
「はは、それもそうだ。なんて、冗談だよ。深刻な顔しないで。何をどこまで話そうか悩んじゃって」
 酒が入れば普段より口も回る。
 気心の知れた友人たちを相手にしていればなおさらであるし、良いか悪いか、本日彼らの参加した会合は波乱万丈を語らせれば話の種に事欠かない面子が集まっていた。
 龍麻たちが酒の席でそんな話に花を咲かせる中で、極めつけなのが「人違いをされて、《宝探し屋》として高校生活を送ることになった」というものだった。
 その話をするとき、龍麻はいつもより多く、意味をなさない繋ぎの言葉を差し込んでいた。酔っていたせいでもあるし、話しづらい内容のせいでもある。
 あれこれと言葉を探しながら語った後、最後には神妙な面持ちで「あの時の俺は、すごく、すごく微妙な立場だった」と締めくくった。それを聞いておかしそうに笑う骨董品店の店主が一人、少々気まずそうに目を伏せる退魔師が一人。
 
 人違いでロゼッタ協会のハンターとして扱われた男が、東京の高校に編入することになった。彼はもう二十代半ばに差し掛かっていて、高校生活は二度目である。
 彼の知人はどうして、裏稼業の関係者が多い。ロゼッタ協会の対立組織である《M+M機関》のエージェント《鎮魂歌》こと壬生紅葉とはとりわけ親密な仲であるとなれば、怪しさに関してはどこに出しても恥ずかしくないほどだった。
 幸いにも身分に関することでは大事にならず學園を去ることができたのだが、龍麻は二度とこんなことはあってほしくないと思ったものだった。
 
「思い出すだけで変な汗をかいた。だからっていうんじゃないけど風が気持ちいいな。寒いかと思ったけど、歩いて帰るのは正解だ」
「そうだね。夜の闇に息を殺さず……こうして君と歩くというのも、悪くない」
 そうか、と龍麻は頬を掻いた。いまだに恋人の言葉に逐一照れていることを、一応は隠そうとして失敗している。
 龍麻は今夜、壬生の家に泊まる。自然と帰り道は二人きりになるもので、ぽつぽつと話しながら夜道を歩いているうち、酒気に高揚した気分も落ち着いたり、違う意味で乱されたり。
 しかし概して、酔い醒ましを兼ねての徒歩の帰路は龍麻にとってすがすがしく気持ちがいいものだった。シャツの襟元に指をかけると冷たい空気が入り込んで、火照った体が心地よい。
 対する壬生はずっとすました顔で、足取りも乱していない。もともと人前で調子を崩すことなど滅多にない男であるし、今日も彼はそれほど酒に口をつけていなかった。ただ、龍麻が体を冷ましているのを気づかわしげに眺めていた。
「帰ったら水でも飲んで、一度休むといい。君も酒に弱くはないと、分かってはいるけれどね」
「ありがとう。もうだいぶ醒めてはいるんだ。大丈夫」
 壬生も彼が前後不覚に酔っているとは思っていない。けれど、いつもより上機嫌な彼の足取りがふわふわと浮いているようで、放っておく訳にはいくまい、なるべく早く帰らなくてはと思うのだ。
 
 そんな心配をされているとは気づいていないだろうが、龍麻は道中の公園に差し掛かると足元の小石を軽く蹴とばして、「中を突っ切って近道をしよう」と誘った。壬生にはそれを断る理由がない。あとに続き、舗装された遊歩道を進む。
 昼間は賑わう園内も、今は暗く静まりかえっていた。ところどころ外灯に白く照らされてはいるけれど、光の当たらない木々は黒い影になってひとかたまりにざわざわと揺らいでいる。歩くたびに細かな石くれを踏む音がやけに大きく聞こえた。
「みんな、いろいろあるもんだよな」
 独り言のように龍麻がそう言ったので、返事をしようか迷って、壬生は結局黙って龍麻を見つめた。龍麻は木々の黒い影の向こうに見える街の明かりを眺めながら、口を窄めて息を吐く。
……俺も、思ってもみなかったことばっかりだな。それが良いか悪いか、ひとつひとつ考えたって分からないことも、まだ多いけど」
 地面を擦るように足を踏み出して、視線を落とす。遊歩道の端には雑草が伸びていた。蹴とばされた砂利がそこを少しだけ揺らして、また、すぐに凪ぐ。
「紅葉と一緒にいられるのは、いいな。いいことだと思う」
 ぱっと顔を上げて壬生と目を合わせると、龍麻は少年のようにはにかんだ。不意に懐に潜り込まれたようなくすぐったい感覚が壬生を襲う。
 きっと、龍麻のこれまでには自分が知らない、良し悪しを決めかねるたくさんの出来事があったのだろうと思った。その中の一つである自分が、大切なもののように掬い上げられて慈しまれたようで、嬉しいような悪いような、妙な気分だった。
「僕が君たちの前に姿を現したのは、君にとって思いがけないことだったかい」
「それもそうだけど、こうしてずっと一緒にいられることも。不思議だよな。そうなるべくしてなってるって言われたら、そうかもって思うのに……。それでも、いつも驚くよ」
 ふと頬を緩ませて、壬生は龍麻の髪をなでた。瞬きをした龍麻の瞳がきらりと光る。それは星を映したように、小さくも力強く、壬生を真っすぐに眼差している。
 まばゆい。壬生が目を細めると、それを笑ったのだと思って、龍麻も満足そうに笑った。
 
 くるりと前に向き直って再び歩みを進めながら、龍麻は縁石に滑らかな動作で上り、壬生を振り返った。
「もうひとつ思い出した。仮面舞踏会だ。話してもいいかな」
 言い終わるが早いか、先ほどまで上機嫌に踏み出していた足を丁寧に揃えて、かしこまって小さく礼をする。
 龍麻はいつも手合わせの前にも礼をするので見慣れているはずだが、いつもと違ってたおやかなものだから、壬生にはそれが初めてみる仕草のように思えた。
「あの學園でダンスもしたんだ。想像つかないだろ。はじめはこうだよ。俺と踊っていただけますか」
 指の先まで揃えて、しかし柔らかく差し出された手のひらを見つめて壬生は固まった。
 背後の外灯が点滅し電気質の音を立てた後、正気を取り戻したように再びはっきりと灯る。龍麻の顔は人工的に白く照らされるが、頬は、まだ赤い。やはり、と壬生はポケットに手を入れて僅かに眉を下げた。
「龍麻。君は僕が思っているより、だいぶ酔っているみたいだね」
「引かないでくれよ。これも、俺のびっくりした話の一つなんだから」
 縁石から下りた龍麻が壬生の腕を軽く引いた。ここで引きさがらないのは、やはりいつもと違うところだ。近道どころか、とんだ寄り道にする気だなと壬生は眉根を顰めている。
 壬生が渋々という体でポケットから手を出して肩をすくめると、龍麻はもう一度手を差し出だしたので、今度はそれに応える。ダンスの作法など知らないから、壬生は龍麻の真似をしてできるだけ所作が美しく見えるように心がけた。
「そうしたら腕を組んで、ホールの中央に向かう」
……それは今の場合、どこのことなんだい」
 龍麻が視線をさまよわせた先にここと決めたのは、芝生の広場だった。シャンデリアとは程遠い錆びた外灯が立っているだけのその場所に、ごく短い芝をさくさくと踏んでたどり着く。
 龍麻は壬生を正面に見据えてにんまりとした。機嫌がいいみたいだけど、後で恥ずかしがるのは君の方だろう、と壬生は思う。そうと分かっていて付き合ったことを責められるだろうか。そんな理不尽までも可愛く思うようであれば、どうしようもない。
「どんな風だったかな、確か、こう」
 龍麻はぎゅっと目を閉じてホールドを思い出す。
 天香學園の夜会で初めてダンスを踊ってそれっきりなのだから、龍麻は到底それを人に教える段階にいない。所作が何度も迷いを繰り返しているので、そのことを壬生も分かっていて話半分に講義を受けている。どうでもいいのではなく、いたって真面目に戯れを受け入れているということだ。
 しばらくして、うろ覚えと見様見真似でありながら、二人はなんとか形にこぎつけた。目の前の恋人からは陽気な酒の匂いがして、壬生は少々調子が狂う。
 龍麻は繋いだ手に力を込めたのを合図に、そっと足を踏み出した。
「紅葉は足を後ろに引く。そっちから見て、右、左、右……って感じでね」
「君がリードをする側か」
「だって俺、こっちしか知らない」
 なるほどね、と返事をしながら壬生は密かに笑った。龍麻の些細な自分勝手がおかしい。



 いざ動き始めてみると、ぎこちない足さばきではあるが、壬生は龍麻に合わせて動くのが上手だった。重心がどちらに傾くかを察知して、龍麻が踏み出すのとほとんど同時に足を引くことができるのだ。
 何度かそれを繰り返しているうち、やがて龍麻は目を丸くして動きを止めた。
「待って、ストップ。上手くないか? 俺はもっとふらふらしてたし、足元ばっかり見てた気がする」
「そうなのかい。僕も、ぜひ君のその姿を見たかったな」
「だめ。見せられたものじゃないって言ってるんだ」
 龍麻はいつもみたいに手の甲で小突く代わりに、額を壬生の肩口にうずめて怒った。今日はずいぶんと子どもみたいにはしゃいでいる。そうすると壬生にも、つられて楽しんでみようかと思う心が生まれる。
「僕は君に合わせて動いているだけだよ。上手いも下手もない。こういった社交的な教養には、明るくないしね」
「そんなの、俺だって」
「先生ともあろう者が何を言うんだ。さあ、早く続きを」
 壬生が口の端を上げると、龍麻は大口を開けて「先生だって」と笑った。崩した姿勢で揺れる肩が壬生の胸元に触れる。
「いや、そうだな。紅葉がからかうのも無理ない。今日の俺はちょっと教えたがりだ」
 龍麻は再び足を前に出す。ホールドしたままなので、壬生も合わせて足を引かなくてはならない。
 繋いでいる手の指の先で手の甲を撫でられて、ぞくりとしたくすぐったさを堪えながら壬生は龍麻の表情を窺った。どんなことを思い出しているのだろうか、瞳は遠くを見ているようだった。
「その夜会はね、ダンスがどういうものだとか、そんなことを知らなくたってよかったらしい」
「と、……言うのは。どういう意味だい」
 ステップを続けるうちに、壬生の足元には外灯の土台が差し迫っていた。龍麻がターンを仕掛けると、壬生は多少強引な動きで方向を変え、爪先で少しだけ地面をえぐった。
 コートの裾が広がって外灯の下に黒い影を落とし、周囲に漂った破邪の香が場の浄化を促している。龍麻は、昔は壬生から何の香りも感じられなかったことを思い出した。気配や痕跡を断つ習慣が、彼を見失うことに繋がりそうで、ほんの少し心配だったことも。
「鎮魂祭なんだって、そう言ってた」
「鎮魂祭、か……。僕の知っているものになぞらえているなら、十一月二十二日。ちょうど君の在学期間中だったわけだ。おおよそ、學園のダンスホールでは聞きそうにない言葉だが……華やかな舞踏会は、反閇の隠れ蓑というところかな」
「ヘンバイ、って」
「霊を鎮めたり、邪気を払ったりするために用いられる歩行法……呪法の一種だよ。僕の憶測だが、その夜会とやらが鎮魂祭だったというのなら、そう的外れでもないと思うが」
 龍麻が気の抜けた感嘆の声を上げたので、思わず壬生も思考を一度打ち切る。
「一を言ったら十が返ってきたみたいだ。ちなみに俺が知ってるのは多分、せいぜい五くらいかもしれないんだけど」
……君は、いろんなことを知っている人だよ」
「そんなことないよ。でも、ありがとうな」
 龍麻はステップを止めてポーズを作ると、ゆっくりと体を離して恭しくお辞儀をした。
 
 今、龍麻の中の曲が止まったんだなと、壬生はふとそんなことを思った。先ほどまで傍らにあった温度が名残惜しく、手慰みにコートの襟を正す。
「ああ、はは。紅葉を驚かせてやろうと思ったけど、俺の方が驚いてばっかりだった」
「僕も十分驚いているよ。君はこんなこともできるのか、とね」
 壬生は、自分が会っていない間に龍麻が過ごした時間のことを思いやった。どんな経験をして、それが彼の心をどう動かしたのだろうかと考えると果てのない気持ちになる。
 けれど龍麻はいつもその答えの一端を、自分をほどくように、熱を移すように、手渡すのだ。それをどういう風に受け止めたらよいのかと、壬生はいつも考える。できるだけ丁寧に、彼の何かを損なわないように。大切に受け取りたいと願いながら、嬉しさと緊張に戸惑いながら。
 
「龍麻」と、思わずその名を口に出していた。名を呼ぶと彼の瞳がこちらを真っすぐに見上げてくれることや、顔が優しく綻ぶことが愛おしい。
 今日はもう少し彼の高揚に付き合ってもいいだろう。壬生は品のある仕草で礼をすると、指先まで揃えて手を差し出した。
「生徒の出来を確認するのも、先生の仕事だろう」
 ぽかんと固まってから、壬生の言葉の意味を考えて、龍麻は眉を下げて笑った。
「嘘だろ。本当に?」
 気楽にその手を取ると、壬生は力強く、けれども強引ではない優美さを伴って龍麻の体を引き寄せた。龍麻は笑いすぎで、耳まで赤くなっている。
「あはは、本気だ。待って、俺こっちの方は分かんないよ」
「大丈夫。君はいいお手本になってくれたよ。僕に合わせてくれればいい」
 繋いだ手に力を込めたのを合図に、今度は壬生の方がゆっくりと足を踏み出した。龍麻は驚き慌てながら、眦の涙を拭う間もなく動きを合わせる。
 まさか仕返されるとは思ってもみなかった。ぎこちない動きでフォローのステップを踏み、すぐ近くにある壬生の顔を見上げる。涼しい顔をしているのが憎たらしいから、文句をつけてやるのだ。
「おい、いきなり先生を超えるのはどうなんだ」
「生意気な生徒で、すまないね」
「その通りだ」
 龍麻が反論できないくらいには、壬生の動きは様になっていた。平らではない地面の上であっても滑るように足を動かしているし、体幹は安定していて、杓子定規にならず流れの中で動きを調整するのが苦ではないようだった。
 できないことなんて何もないんじゃないのか、と思いそうになる。龍麻はたどたどしく初めてのステップを踏みながら、感心すべきか拗ねてみせるべきか、それとも素直に惚れ直せばよいか、決着のつかない心境だった。
「悔しいけど、格好いいな。紅葉が夜会にいたら引っ張りだこだっただろうな」
「僕に近づくような物好きは、そういないと思うが」
「ああ、そうか。あんまり完璧すぎると気後れしちゃうものかも」
「そういう意味では……。いや、なんでもない。素直に褒められておくことにしようか」
 裏のない称賛は反応に困ってしまう。壬生は「これで終わり」のお約束のように咳ばらいを一つして、違う話をしかける。
「そういえば、僕も仕事で高校に入り込んだことがあるよ。さすがに学生ではなく、用務員に扮してだけどね。それもあまりないことだと思っていたけれど……君の話の前には霞むな」
「なんだ。仲間がいたかと思ったのに」
 龍麻はわざとらしく口を尖らせてみせた。そんな境遇に仲間がいたからといって、お互いに慰みにはならないだろうと分かってはいる。これは単なる軽口だった。
「仮に学生として潜り込んだとしても、僕は普通の学生生活を知らないから、とても馴染めなかっただろうね」
 自嘲めかしもせず、当然の事実として壬生はそう言った。
 ちょうど外灯が壬生の背後に隠れ、影が落ちた顔からは表情が窺えない。力強く、洗練された美しさも備える体の動きだけが龍麻に伝わっていた。
 
 龍麻には、壬生が後悔をしているとも引け目を感じているとも思えなかった。
 普通の学生生活と言われると、きっと自分も、一緒に戦った仲間たちも、そこにはあてはまらなかっただろうと思う。けれど壬生には、自身だけが明確に他と違うと感じている部分があるのだ。それが何であるかは龍麻も知っているところだ。
 暗殺の術なんて知らない方がいいと言っていた。素っ気なく突き放したような言葉の裏に、全てを背負って生きていこうとする孤高な覚悟があった。
 ふと心がざわつく。気づいていないところで彼の傷口から血が流れてはいないかと心配になった。顔をよく見せてくれと、頬に触れたくなった。抱きしめて、息遣いを確かめたくなった。同時に、そんなことをしてどうするんだとも思った。
「なあ、紅葉…………っと、うわ」
 龍麻の足がもつれてよろける。後ろに転びそうになったのを、壬生は片手で背を抱えて助けてやった。
 突然に終わったダンスを、壬生は決まり悪そうに、龍麻はどこか呆けた顔で受け入れた。
「すまない。君は酔っていたんだった」
「いや、俺こそ、考えごとをしてて……
 間近でやっと窺えた壬生の表情には、いたずらが大ごとになって困ってしまった子どものような、途方に暮れたいじらしさが滲んでいた。
 壬生がこんな表情を見せる人だと昔の自分に言っても、すぐには信じないだろうと龍麻は思った。そして、それはきっと壬生にとっても同じなんじゃないかとも。
 そうすると、共に過ごした時間がなおさらに大切なものに思えた。良いことだと思うし、良いことだと思っていてくれたら、それ以上のことはない。
 
 紅葉は、どう思ってる? そう聞いてみようかなと思ってじっと目を見つめていると、壬生の眼差しに愛情深い戸惑いが滲んでいくのを感じた。
 喉の奥にあった言葉を、龍麻は瞬きのうちに飲み込んだ。壬生がわずかに首をかしげたことに気づかないふりをして口を開く。
「それより、今のポーズ。まるですごくダンスが上手な人たちに見えなくもないんじゃないか」
 繋いだ手は高く挙げて、転ばぬようにお互い足を開いて。言葉にすると余計におかしく思えて、はは、と声を出して笑うと、壬生もようやく表情を和らげた。
「いいや。誰にも見られなかったことを、幸運だと思うべきポーズだろう。立って。痛むところはないかい」
「平気だよ。……紅葉は」
「僕も平気だ」
 短く答えながら、壬生は遊歩道の方へ視線を向けた。これでお終いにして帰ろう、と目で合図をしている。
 龍麻はそれに応えて隣に並び、一緒に芝生のダンスホールを発った。
 無人になった広場を白色の灯りがぽっかりと照らしている。誰かを待っているようにも見えるが、こんな寒い夜更けにここでダンスを踊ろうなどという者は、もう他に現れないであろう。
 
 くらくらとする頭を正しながら、再び石くれを踏んで歩く。
 のどが渇いた、と空咳がひとつ。はしゃぐからだよ、と呆れてみせた声。ピアノ曲の鼻歌は、ところどころ曖昧に、乾燥した夜の空気を震わせていた。なんだか物寂しいような、けれど温かさも感じるような不思議なメロディだと思いながら壬生はそれを聞く。龍麻の横顔をそっと窺うと、彼の目元は眠たげに見えて、壬生は身構えるのをやめた。
 先ほどの龍麻の視線には、すべてを彼に明け渡しそうになるような力があった。それは決して、暴いたり、奪ったりする性質のものではない。想われていることが分かるのだ。
 自分の中身を見せることにいまだに慣れない感覚はあるけれど、いつか龍麻に尋ねられたら、壬生はその心をほどいて手渡してみせるだろう。戯れにだって、何度でも付き合って楽しむつもりだ。
 
 目下の問題は、今日のことは恥ずかしいから忘れてくれと言われても聞けそうにないけれど、龍麻はそれを許してくれるだろうかということだ。考えてみるが、その答えはまだ分からない。