AZUMA Tomo
2024-08-17 00:53:21
4042文字
Public じじまご
 

雨露と甘露と甘味・5

梅雨の時期にじじまごが邑神さんの実家に帰る話。なんとなくぎこちないふたり。

「これが最後か……助かった。ありがとう、千葉恵吾」
「報酬が出るからウィンウィンやろ。こちらこそ貴重なボドゲ、おおきに」
 千葉は三箱のボードゲームを顔の横に掲げながら邑神に満面の笑みを見せる。その様子を見てあの柔らかい微笑みが再び向けられ、千葉はまたもくすぐったい思い――しかし、今は居心地の悪さの方が優位かもしれない――がした。邑神は微笑みながら数秒沈黙し、そして廊下へ足を向けた。
……カサネさんに買ってきてもらった茶菓子を頂こう。甘い物は疲れに効く」
「せやな、休憩してから帰ろ。晩御飯も一緒に食べる……やんな?」
「勿論。どこに食べに行くか今から考えようと思っていたところだ」
 邑神の数秒の沈黙が疲労から来るものなのか、それとも何か別の原因があるのか。その段階では千葉に判断することは困難だった。

 広い中庭を思う存分満喫できる広い縁側。まだまだ雨は止まないが、綺麗に整備された紫陽花がたくさん咲いており、その光景は壮観という表現がぴったりだった。無人の家にこれほどまでの絶景があるのはもったいないようにも思えるが、この美しさを保ち続けることこそ邑神のこだわりなのかもしれない。千葉はそのように感じた。
 邑神は美しいものをこよなく愛する。その性質を思い起こすほどに先程のキャンバスが脳裏を過ぎるが、それは気のせいということにしておいた。
 縁側に設置された籐の安楽椅子に座り、目の前に広がる人工的な自然を堪能していた。家主に「客人にこれ以上働かせるわけにもいかない」と言われたためだ。家主はというとティーポットとティーカップを二組、そして皿に乗せたマドレーヌとフィナンシェを用意し終えているにもかかわらず、まだどこかで用事をしていた。ガラス製のティーポットの中に抽出されるゆっくりと漂う赤い液体が時間のゆったりとした流れを表現しているようだった。
 近づいてくる足音。つられてゆっくりとそちらを見れば、何やら水を張ったガラス製のボウルを両手で慎重に持ってきている邑神の姿があった。
――何それ?」
「水盆だ。せっかくなら手元でも紫陽花を楽しめれば良いかと思ってな」
 ティーセットを置いたテーブルに不自然に空いた空間は水盆のために用意された場所だったらしい。その空間へそっと水盆を置くと、邑神は薄手の上着のポケットからペンチに似た用具を取り出し、取手側を千葉へ向けた。
「お前さんの綺麗だと思う花を、切ってきてくれないか」
 目の前に差し出された道具はペンチではなく花鋏だった。
 千葉は家主からの思いもよらぬ申し出に呆気に取られて、しばらくそのハサミを凝視することしかできなかった。
……えっ、俺が?」
「ああ、お前さんが良いと思うものを、ぜひ手元で鑑賞したい」
……こんなに綺麗やのに、切るのもったいなくない?」
「こんなに綺麗でも、数日も経てば同じ景色はほとんど残らない。今できる楽しみを甘受することも、この景観を保つことと同じくらいに大切だと思わないか?」
「うーん……カミサマがそこまで言うなら。文句はなしやからな」
「文句を言う人間がハサミを渡すわけもないだろう」
 言い訳がましい千葉の言葉に笑い声を漏らす邑神。そして笑いながらナノマシンデバイスを起動し、千葉の頭上に橙色に光る障壁を築く。
「ほら、傘も作ったぞ。両手で作業ができるから一番綺麗なものを持ってきてくれ」
「まったく……責任重大すぎるなあ」
 ここまでされては千葉も動かざるを得ず、縁側のそばに置かれていた中庭用のつっかけに履き替えて歩き出した。

 家主がティーポットから茶葉を引き上げているのを遠くに見ながら、千葉はどの紫陽花が良いか決めかねていた。赤色や水色に咲く花はどれも最盛を誇っている。そもそもこの小さな花ひとつだけを切れば良いのか、花の塊になっている部分を茎から切れば良いのか、それすらわからない。
 千葉には一般的な教養はあるが、任務に必要だから身につけたものだ。自分の生活を豊かにするために身につけた教養の方が少ない。所謂華道に通じそうなこの試練は千葉にはかなりの難問だった。
 ――水盆の大きさ的には小さい花を持ってこいってわけやないやろうし……やっぱり塊ごといくしかないか。
 千葉は結局頭を悩ませながら、水色が主体の、しかし紫色の花も咲かせているグラデーションを楽しめそうな部分を選び、花鋏で茎を切断した。

「ちょうど良いくらいの大きさだな」
「思ったより水盆ってでかいんやな……紫陽花が小さく見える」
「花を手折る瞬間はその花の存在感を一番感じるからじゃあないか?」
 邑神は紫陽花の見え方を調整しながら千葉に問いかけた。
 時折、この男は哲学的なことを口にする。これは共通の友人である東雲も同じだった。どちらがどちらにそのような影響を与えたのか千葉には知る術もないが、付き合いが長くなればやはり思考は似てくるのだろうかと、胸がつきりと刺された気分だった。
「あー……命の儚さ的な?」
「どうだろうか。紫陽花に人と同じだけの命の儚さ――言い換えれば重さがあるかどうか、自分には判断がつかないな……己の手で美しいと思うものを切り取るという行為、選択の問題だと思うが」
……自分で選んだから、大きく見えるってことか」
「そんなところだ」
 邑神は花を弄ることに満足したらしく、ふうと溜め息をつきながらやっとティーポットからカップへ紅茶を注いだ。自然と千葉もおあずけを食らっていた形となっていたため、やっと水分と糖分を補給できると思うと本能的な安心感を覚えた。
「今日は茶菓子があるからダージリンにした……が、どちらにせよお前さんは砂糖を入れまくるんだろう」
「御名答。砂糖用意してくれておおきに」
 普段から紅茶に砂糖を入れない邑神と砂糖を極力入れる千葉。家主は客人のためにしっかりと砂糖を用意していた。千葉はテーブルに置かれた容器からカップの中へ何匙も砂糖を加えて十分に甘くなった紅茶を啜る。これぞ紅茶という王道の香りが鼻腔を通り抜けると同時に砂糖の甘みが口の中に広がった。
「まったく。甘いものと甘いものを組み合わせても甘いだけだろう」
「大概甘いもの好きのカミサマにだけは言われたくないわあ」
……大昔の人間には紅茶にマドレーヌを浸して食べるヤツも居たらしいぞ。お前さんほどに砂糖を加えた紅茶につけたらどうなることか」
「ええ……そんな食べ方するん? カップに油浮くやん……見た目も悪なるやろ、そんなん」
「そこに関しては完全同意だな」
 そんなことを話しながら、ふたりは件のマドレーヌに手を伸ばし、それぞれ頬張る。豊かなバターの香りと砂糖、小麦の甘さが疲れた体をじわりと癒していくのを感じられた。
……なにこれ、めっちゃ美味いやん」
「そうだろう。自分のお気に入りの店のものなんだ……元は和菓子屋なんだが、焼菓子だけは洋菓子も取り扱いがあってな。帰ってくるときは必ずカサネさんに頼んで用意してもらっているんだ」
「これ、また食べたい」
 美味しい食べ物に対して素直な願望を口に出す千葉を愛おしく思っているのだろう。邑神はまた柔らかい微笑みを向けて千葉に提案する。
「ふふ……そんなに気に入ったのなら帰る途中に店に寄っていこう。クッキーも美味いぞ。日持ちもするから買って帰ろう」
「あ……うん、そうしよ!」
 なぜこんなに居心地の悪い気分になるのだろう。否、理由ははっきりしていた。少なくともあのキャンバスを目の当たりにするまではくすぐったさ、幸福感の方が上回っていたのだ。
 ――ああ、俺にもまだこんな……「くだらない」感情が残っていたのか。
 その「くだらない」感情を相手に悟らせるのはスマートではないという美学が千葉にはあった。それは千葉が自然に身につけた処世術であったし、自分で消化すべき感情だと考えていたためだ。
 しかし、相手は鑑定士だ。それは物に限らず人も見抜く目を持つ。
 千葉がほんの僅かに作った間を見逃すわけもなかった。
――思っていたよりも、疲れてしまったか?」
 あの優しい微笑みのまま、邑神は千葉の瞳を覗き込む。大きな黒目は闇の色なのにその色で心の奥底まで暴き出そうとする。今、それをされてしまうと「くだらない」感情が浮き彫りになるような気がした。が、目を逸らすことこそ、その「くだらない」感情の存在を肯定することになってしまう。千葉は戸惑ったまま邑神の視線を一身に受けた。
……疲れた、かも」
「『かも』、か。歯切れが悪いな」
「あの……いや……えっと」
 千葉は一生懸命話題を探した。己の醜い感情を一旦見て見ぬふりをするには、何か別のことで気を逸らすしかないと思った。
「あのさ、カミサマって――もしかして高校のとき美術部やったりした? 美術商やってるし、絵の具とかも置いてあったし……
 不自然でない話題選びだと思った。己の感情を悟らせないためには、相手に自身のことを語らせるのが手っ取り早い。が、千葉の思うように事は進まなかった。
 千葉が美術部というワードを口にした瞬間、邑神の顔からサッと血の気が引くのがわかってしまった。顔面蒼白で、しかし動揺を取り繕うようにカップの紅茶を一口飲む。だがそれでも顔に血の気は戻らず、千葉は覚悟した。それは「まずい」話を選んでしまった結末を受け入れる覚悟だった。
 邑神はカップをソーサーに置き、そわそわと手をふらつかせた後、口を覆った。そして真っ黒な瞳は千葉を見つめたままどこか切実そうな色を浮かべていた。
――もしかして、『あの絵』を見たのか」
 ――もしかして、カミサマ、自爆したか。これ。
 千葉は一応、言葉を選んだ。あのキャンバスの存在に触れなかった。だが、邑神の動揺は凄まじかったのだろう。男は自ら布で覆い隠していたキャンバスの存在を語ってしまった。