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千代里
2024-08-16 12:57:20
16816文字
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リーブラ13話
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リーブラの針は問う・13話・その38
「ね、ねえ! ノエ兄ちゃんたち、置いてきてよかったの!?」
自分の背後から響くコーディの問いかけに、オランローは奥歯を割れんばかりに噛み締めるしかなかった。
先頭を走っているオランローの角にも、ヤルマルとノエのやり取りはしっかりと届いていた。
オデットが残っている以上、ノエがその身を投げうって道を開くような選択はしないだろう。それでも、不安は尽きない。ひょっとしたら、という気持ちが生まれるたびに、オランローは弱気の虫が巣食う自分の心を蹴飛ばさねばならなかった。
「ノエなら、ちゃんと後で追いつくってさ! だから、君が心配する必要はないよ。それより、道案内をしっかり頼むからね。君だけが頼りだよ!」
わざと作ったとわかるヤルマルの軽快な声は、それでもコーディを元気付ける力はあったらしい。彼は勢いに押されるように一度頷くと、
「えっと、角の兄ちゃん。たしか、この辺りをそろそろ左
……
だから、こっちから見たら右に曲がってたと思う」
「分かった。右だな」
先頭を走る自分が惑っていてはいけないと、オランローはノエのことを一度振り切り、手綱を捌いてチョコボを右へと誘導する。
岩と瓦礫で作られたような山道には、目印にできそうな樹木もなく、ともすればどこを走っているのかすら分からなくなりそうだ。ヤルマルが用意した地図を頭に叩き込んだ上で、コーディの道案内で都度修正をしていなかったならば、すぐに迷子になっていただろう。
「ね、ねえ。さっきの竜ってなんなんだ? 俺、ここにきてから色々歩き回ってみたけれど、竜なんて見たことなかったぞ」
「おおかた、麓の竜が昇ってきたんだろう。おしゃべりは今は後にしろ。舌を噛むぞ」
オランローに叱られて、コーディは押し黙ってしまった。短く聞こえる道案内の声以外のおしゃべりが消え失せ、流石に厳しくしすぎたかと反省が走る。
だが、ノエの元に向かってきたのが、あのランドンであるという事実が刻み込まれた以上、子供のお喋りに付き合ってやる余裕を用意することなどできなかった。
ランドンが絶望的な強さを誇る竜であることを意識させられるたびに、オランローの胸にはナイフを突き立てたような痛みと、喉を掻きむしるような焦燥が走っていた。
(大丈夫だ。あいつらなら、きっとすぐに戻ってくる)
これまでも絶望的な状況に何度も置かれてきた。そのたびに、ノエもオデットも奇跡的な確率の幸運を拾い上げてきた。
ならば、今回だって彼は成し遂げるだろう。万に一つの運を掴んで、こちらの心配が杞憂だったと笑いかけて見せるだろう。
「だから、戻ってこなければ、承知しないからな
……
!」
奇しくも、ヤルマルと同じ言葉を呟きつつ、オランローはチョコボを前へ前へと急がせた。
***
進行方向の道が崖崩れで塞がっただけでも、この上ない不運であるというのに、どうやら運命の女神は更なる気まぐれを起こしたらしい。急斜面を無謀にも落ちるように降ってくるランドンの気配を察しながら、ノエは知らず知らずのうちに歯を食いしばり、生まれそうになる不安の声を飲み込んでいた。
ノエやオデットが決死の思いで滑り落ちた、ほぼ崖と言ってもいいほどの斜面。しかし、それはあくまでヒトの基準ではそうである、というだけだ。
その証拠に、竜であるランドンはちょっとした段差を滑り降りるような勢いで斜面を落ちてくる。
その動きは降りるというよりも、まさに『落ちる』または『転がる』という表現が相応しかった。ヒトならばまず間違いなく途中で勢い余って怪我をするような無茶な動きも、竜ならなんの痛痒にもならない。それを象徴するかのような大雑把な挙動だ。
「兄さん、わたしたちはあそこに行けばいいのでしょうか!?」
「ああ、そのまま真っ直ぐ走ってくれ!」
薄靄の向こうに迫り来る鈍色の竜から視線を逸らし、ノエは先行して走るオデットの進路を指示する。
向かう先にあるのは、ぽっかりと開いた自然の空洞だ。願わくば、その空洞が向かい側に続いていることを祈って、ノエたちは一目散に空洞の入り口へと駆けていた。
ぐんぐんと迫り来る洞穴は、ノエが予測していたよりもいくらか大きい。だが、流石に巨体を誇る竜を飲み込めるほどの高さも横幅もなさそうだ。
「よし、これならランドンも入ってこられないだろう」
幾許かの安堵を混ぜながら、ノエはオデットから数秒遅れて洞穴を潜る。
出口こそ見えない上に、灯りらしい灯りもない空間ではあったが、岩壁の輪郭が見える程度にほんのりと周囲が明るい。自然が生み出したクリスタルの発光が、天然の照明となって辺りを照らしてくれているからだ。
微かに前方から漂ってくる風は、この洞穴がどこかに通じていることを示している。袋小路に自ら飛び込む結末にならなかっただけ、まずは良しといったところか。
「兄さん。この後、どうしましょうか」
少し先で足を止めていたオデットの問いかけに、ノエは彼女に近寄りながらも、洞穴の入り口から少し離れたところでチョコボを止める。
「そうだな。ひとまず、ここから出る方法を探そうか。もし、出口が無さそうなら、ランドンが諦めて遠くに行くのを待つか
……
」
ノエがそこまで言いかけたときだった。
ズン、と洞穴そのものを崩しかねない嫌な振動が響く。同時に、ノエたちの周囲がふっと暗くなる。
その理由が、入り口から差し込んでいた日の光が消えたからと気付き、ノエは渋面を作る。
わざわざ振り返るまでもない。ノエたちが潜り抜けてきた洞穴の入り口を、塞ぐもの
――
それは、洞穴の入り口いっぱいに埋まったランドンの顔だった。正確には、鼻面と口に当たる部分が入り口に詰まり、窮屈そうに口を開けたり閉めたりしていた。
そうして無理矢理体を動かしているせいで、今もぱらぱらと岩壁から小石がこぼれ落ちている。まるで、洞穴そのものが悲鳴をあげているかのように、嫌な振動が幾度もノエたちを覆う。
「あいつ、入り口を無理やり広げるつもりだ
……
!」
通常見かけるような大柄な魔物だったならば、自らの体が入らないような入り口に獲物が逃げ込んでしまえば、獲物が出てくるのを待つか、諦めるはずだ。たった一つの食事のために、そこまで労力を割く意味がないからだ。
しかし、ランドンは諦めなかった。そもそも、ランドンにとってノエとの接触は食事以外の意味を持つからだろう。だが、彼は素直にノエたちが姿を見せるのを待つほどに我慢強くもなかった。
「そんなことをしたら、洞穴そのものが倒壊しませんか?!」
「その可能性は十分にありえる。どうにかして、あいつに諦めさせないと
……
!」
以前のように、言葉をかけて引き返すように頼むか。しかし、それならば今ここでノエとランドンが問答をすることになる。
(この前、会話をしたときだって、あの竜は途中から感情任せに吼えていた。もし、この場所でそんなことが起きたら、僕もオデットも生き埋めになってしまう。でも、それなら、どうしたら
……
)
天から助けが降りることを祈るかのように、視線を上に向けてノエの頭にある閃きがよぎる。
同時に、洞穴全体に破城槌をぶつけたような轟音が轟く。チョコボが悲鳴をあげるほどの振動に襲われ、ノエは慌てて手綱をしっかと握り、その両足でチョコボの鞍を挟んだ。
「オデット、先に行っていてくれ。魔法で照明を灯して、奥で待っていてほしいんだ」
「でも、兄さんは、どうするつもりなんですか!?」
「思いついたことがあるんだ。もしかしたら、ランドンに手傷ぐらいは負わせられるかもしれない。簡単に入れない上に怪我までしたら、流石の彼も退却してくれるだろう」
もっとも、ノエのこの推量には何の根拠もない。ただ、そうであってくれたらと願っているだけだ。けれども、今はその一縷の希望にすら縋らなければならない状況でもあった。
オデットは手元に魔法で灯りを作ると、ノエに言われた通り、道なりにチョコボを走らせてくれた。不服そうに顔を歪めていたものの、今ここにいても自分にできることはないと分かってくれたのだろう。
その間にも、ランドンが無理やり広げた洞穴の入り口は、耐えかねたように竜の首を受け入れ始めている。しかし、竜の全身を受け入れるほどに入り口を広げる頃には、洞穴全体に致命的な損傷を与えるのは間違いあるまい。
ノエはランドンの顎がすぐには届かない位置に陣取り、動揺するチョコボを宥めながら、その身の内に流れるエーテルを一つの魔法の形へと整えていく。
(
……
もう少し、惹きつけないと。とどめをさせるとは思っていないけれど、これで一旦引き返してくれれば
……
せめて、コーディたちを連れて下山できるまでは大人しくしていてくれないか)
そう思いながらノエは、片目でランドンを見張りつつ、もう片方の目で天井を観察する。
ノエの手では容易に届かず、ランドンの体でも全身の中でもっとも高さのある部分
――
すなわち翼ならば届くかどうかというほどの高所にある、いくつかの輝き。それは、ノエが洞穴に入ったときに照明のように感じた、灯りの正体
――
巨大なクリスタルの群れが、洞穴の天井部分をびっしりと埋め尽くしていた。
氷柱のような形で密集する自然の恵みに向かって、ノエは片手を上げる。自身の全霊で練り上げたエーテルの剣を、クリスタルの群れに照準を定め、
「
――
今だ!」
更なる地響きと共に、ランドンが首を捩じ込んだ瞬間。
ちょうど、クリスタルの塊の真下にランドンの頭がたどり着いたタイミングを見計らって、ノエは紡ぎあげていた魔法の引き金を引いた。
彼の手から放たれた光の剣先は、クリスタルの塊を根本から砕く。岩盤の軛から解放された塊は、自らの重みに従い、すぐさま落下を始める。
――
その下にある、ランドンの頭部に向かって。
「よし、これなら
……
!」
さしずめ、人間ならばシャンデリアが真上から落ちてきたようなものだろう。ノエが渾身の威力で放った魔法は、一際大きなクリスタルの塊を天井から切り離していた。
クリスタルの塊に潰されて、ランドンの頭が一瞬見えなくなる。だが、これで竜を倒したなどとは到底思えない。故に、ノエはすぐに手綱をとりチョコボを走らせ始めた。
予想通り、クリスタルの塊の向こう側から、竜の咆哮が低く響いている。
頭部にクリスタル塊が落ちてきたとなれば、流石に無傷とはいかなかったらしい。だが、たったそれだけの攻撃で絶命するほど竜は柔ではない。微かに漂う血臭から、硬い鱗に響くほどの衝撃は与えられたようだとはわかるが、傷口を確かめる余裕はノエにはなかった。
ランドンは、すぐに頭にのしかかった障害物を押しのけて、洞穴の開通を急ぐだろう。彼が無理に洞穴を通ろうとすればするほど、中にいるオデットとノエの元に落盤の危機が増すことになる。
「アランさんが言っていたように、ランドンが愚直で単純な思考で動く竜というのは本当みたいだな
……
」
もし、ノエに話があるのならば、洞穴に逃げ込んだノエを殺してしまっては意味がない。
少し考えればわかりそうなものだが、頭に血が上ったランドンは冷静に物事を俯瞰して考えるということができないらしい。
そんなことを考えているうちに、ノエは先を行く小さな灯りを見つける。魔法で照明を灯し、先行して洞穴の奥に向かって待機していたオデットだ。
「兄さん、無事ですか! 先ほど、物凄い音がしましたが、いったい何をしたんですか?」
「ランドンの頭に、クリスタルの塊を落としたんだ。随分と硬そうなクリスタルだったから、ランドンにも効果があるかもしれないって思ってね。足止め程度にはなったはずだよ」
並の魔物ならば間違いなく圧殺されていただろうが、竜であるランドンには精々軽い目眩を与える程度の攻撃に過ぎなかっただろう。それでも、彼が躊躇する理由になってくれればと、ノエは心の内でそう祈っていた。
「もしかして、そのまま倒せたのですか?」
「いや、流石にそれは無理だった。まだ、あいつの声が聞こえている。また動き始める前に、僕たちも急ごう。オデット」
オデットに代わって、今度はノエが先陣を切る。洞穴自体は一本道であり、幸い分かれ道も存在しなかった。空気の動きが途切れることもなかった、ノエにとっては僥倖だった。
だが、洞穴の奥に行けば行くほど、視界はどんどん暗くなっていく。照明代わりのクリスタルのかけらも、今はほとんど表出していない。
闇一色の世界に包まれ、このまま外に出られずに生き埋めになるのではないか。暗闇がもたらす不安は、二人の心を確実に蝕み、そんな悲観的な予測が彼らにひたひたと押し寄せる。
おまけに、距離は遠くなったものの、竜の咆哮は依然として洞穴にこだましている。
地響きと共に天井から降り注ぐ石の欠片たちが、このまま悠長に迷子になっている時間はないと示していた。
(息苦しさは感じない。空気の流れも掴んでいる。だから、このまま走っていけば出口はあるはずだ)
師匠でもあるウヴィルトータから教えてもらった知識を総動員して、ノエは己自身とウヴィルトータがくれた知識を信じ、前へ前へと突き進む。
地震のごとき地響きが何度も響き、背後で何かが崩れるような音がしても、足を止めずに進むことを選んだ。振り返り、足を止めるために時間を費やすよりも、出口を求めて走り続ける方が有益な時間の使い方であると判断したのだ。
そして、永劫にも見える暗渠の旅路にも、ついに一筋の光が差し込む。
「兄さん、光が
……
!」
「ああ。あれが出口だ!」
オデットが指差した先には、針でつついたような細い光が差し込んでいる。無事に出口を見つけられた安堵に、喜色が顔に浮かぶ。今度こそと、手綱に力を込めてノエはチョコボに急げと急かす。
だが、一目散に駆け出したい気持ちを引き留めるかのように、一際大きな振動が洞穴全体を揺るがした。
「やっぱり、諦めてくれるわけがなかったか
……
!」
よもや、本当に入り口を広げて、あの巨体を捩じ込んだのではなかろうか。この揺れは、奇跡的に竜が洞穴への侵入を成功させてしまったという知らせかもしれない。
だとしたら、尚更急がねば。そう思った時だった。
「兄さん、天井が!」
オデットの悲痛な叫びを聞いて、ノエはすぐさま首を上へと向ける。
微かに差し込んだ陽光が照らし上げた、頑丈そうな岩盤。その一部にヒビが入り、今まさにノエの目の前で瓦解を始めた。
「!!」
魔法では、到底間に合わない。
剣を振るっても、巨大な岩石を真っ二つにする技量などノエにはない。
一瞬、世界中の時が止まったかのような間延びした感覚がノエを覆う。けれども、それは窮地を前にして瞬間的に感覚が鋭敏になっているだけに過ぎない。
ノエが回避を諦めた瞬間、ノエもオデットも岩石の下敷きになる。運よく生き延びたとしても、もはや動くことのできない重傷を負うのが目に見えている。
――
だったら、今のノエに何ができるか。
間延びした思考が、急速に現実へと結びつく。瞬き一つする間に、二人を押しつぶすだろう岩雪崩を前にして、ノエは一つの結論を出す。
頭に思い描くのはたった一つ
――
懐に仕舞い込んだ、闇色のクリスタルだ。
そして、彼は呼ぶ。
「力を貸してくれ
――
オルタシア!!」
数ヶ月前に契約した、自らの内に眠る妖異の名を。
刹那、ノエとオデットを中心に、強烈な風が生まれた。
渦を成した闇色の風
――
その中心地にいるもの。それを確かめるより早く、突如生まれた風の守りは、破壊の力を帯びた衝撃波となって、二人目掛けて落ちてきた岩をことごとく破壊した。岩に混じったクリスタルは、陽の光を浴びて一瞬輝いたものの、すぐに砂のように細かく分解されてて消えていった。
ほんの数秒の間に、二人を潰すはずだった落石の多くは弾き飛ばされた。残ったのは、無傷の二人だけだ。
目立った傷がオデットにも自分にもないことを確認し、ノエは傍らに舞い降りた『彼』に言う。
「
……
ありがとう、オルタシア。助かったよ」
虚空に翼を広げ、悠然と姿を現した黒い鎧を纏った騎士。本来そこにあるべきではない存在
――
妖異へと、ノエは感謝の言葉を口にする。その姿を見たのは実に数ヶ月ぶりだ。
かつては驚きと困惑と共に見つめていた姿ではあったが、そこに宿っているのが言葉を交わした友であると知っている以上、今のノエはごく自然に『彼』の存在を受け止められていた。
黒甲冑の騎士はノエの言葉に短く頷き返すと、彼が走ってきた方角
――
ランドンがいるであろう方へと首を向けた。まだ終わりではないと促すかのように。
「オデット、先に行っててくれ」
「兄さん。今度は
……
何をするつもりなんですか」
「さっきと同じ、足止めだよ。ランドンそのものを攻撃しなくても、道を塞げばランドンだって諦めざるを得なくなる。いつまでも追いかけてこられても困るからね」
「それなら、わたしが手伝えることはありませんか」
自分の見ていないところで、ノエが竜に襲われるようなことがあったら。そう思ったのか、オデットは手伝いを申し出る。
しかし、ノエはすぐに首を横に振った。
「君を巻き込むかもしれないと思いながらでは、僕が全力を出せない。先に出口の向こうで待っていてくれないか」
「
……
分かりました。兄さんも、すぐに来てくださいね」
念押しの後、オデットはチョコボと共に差し込んだ陽光に向かって駆けていく。ノエに言われた通り、自分にできることはないとわかってはいるのだろうが、納得し切ったとは言えない声音だった。だが、今はオデットの気持ちを十分に汲み取ってやれるだけの猶予はない。
ノエは、自分のすぐそばにいる騎士
――
オルタシアへと首を向け、
「オルタシア、僕は君に竜を殺すために力を貸せとは言わない。代わりと言ってはなんだが、この道を塞ぐために君の力を借りたいんだ」
言葉を交わしている間にも、振動は続いている。洞穴全体が、軋みを上げるようにあちこちで崩落の音が響いている。
このままランドンが自滅してくれればいいが、万が一ということもある。ならば、ノエたちに続く道を塞ぐ必要はあるだろう。
オルタシアは無言で頷くと、その姿を虚空に消した。同時に、ノエの体の内側に、沸々と力が湧き上がってくる。妖異である彼が、一時的にノエの体に憑依し、ノエ自身の力となってくれている証拠だ。
かつて、炎の妖異と相対したときと比べれば、湧き上がった活力はいささか見劣りするものだった。だが、あれは契約が不完全であったために、妖異である彼が全力を出してノエのために力を割いてくれたからだ。
たしかに、あちらの方が発揮できる力としては数段上だろう。だが、もし、ここでオルタシアが当時のように全力を出せば、ノエは体の打ちを巡るエーテルを全て差し出さなければいけなくなる。この場には、妖異であるオルタシアが、活動の糧とするエーテルが見当たらないのだから。
故に、今はオルタシアの力を全て借りるようなことはしない。それでも、普段の己よりも何倍もの活力がみなぎるのがわかる。体を巡る血の一滴一滴に、力の源が溶け込んでいくかのようだ。
「
……
一瞬でいい。道を塞ぐための力を、僕に与えてくれ」
ノエが通常使う魔法では、岩を崩すのに相応に時間がかかる。
故に、普段用いる魔法は使わない。
呼吸を整え、一度瞑目し、できるだけ素早く、それでいて慎重に、自らの中に混じった妖異の力を己が制御できる形に流し込んでいく。
力の手綱を誤れば、ノエ自身すらも飲み込みかねない妖異の魔力。それらを束ね、湧き上がった暗色の輝きを手のひらに集約させた刹那、
「崩れろ
――――
!!」
溢れかけた力の奔流の手綱を放し、天井へと向ける。
岩盤に放たれた夜色の刃は、純粋な破壊の力を纏い、衝撃波と共に岩盤に激突する。さながら、闇色の竜巻のように天井に放たれた魔法は、ノエの魔法では簡単に崩せなかったであろう広範囲の岩盤を、一撃で砕いてくれた。
当然ながら、岩盤を破壊すれば崩落が始まる。自らが生み出した崩落に巻き込まれないように、ノエはすぐにチョコボの手綱を操る。間髪入れず、積み木を崩す音を何百倍も大きくしたような轟音が、ノエのすぐ後ろから響いてきた。
轟音に押されるようにして、ノエはチョコボに急ぐように手綱を打つ。岩を蹴る爪の音が三十を数えるより少し前に、ノエはようやく光が差し込んできた出口へと飛び込んだ。
「兄さん、無事ですか
……
?!」
「ああ、なんとかね」
外に出た直後、ノエを出迎えたのは先行して外に出ていたオデットだった。
ノエは首肯を返してつつ、周囲の様子へと視線をやる。幸い、洞穴を出てすぐに魔物や獣に襲われるということはなさそうだった。
周囲には、変わり映えしない岩だらけの山道が続いている。道は上へと続いているので、このまま登ればいずれはヤルマルたちと合流できるだろう。
「兄さん。あの
……
先ほどの崩落は、妖異の力を使ったのですか」
オデットがおずおずとノエの瞳を覗き込むような素振りを見せたので、遅まきながらノエは自分の身体に起きた変化に気がつくことができた。
視線を自分の体に向けると、彼の体には見慣れない黒い外套のようなものが纏わり付いている。もっとも、それはすぐに緋色の光となって虚空へと消えていった。
オデットが瞳を気にしていたということは、恐らくはノエの目も外套と同様に緋色に染まっていたのだろう。
「オデットの言うように、一時的にオルタシアの力を借りたんだ。でも、以前のように見境なく誰かを襲うようなことにはならないよ。そういう約束を彼と交わしているから」
話をしつつ、ノエは軽い目眩を覚えて、荷物袋からエーテル回復用の錬金薬を取り出し、一息で飲み干した。
妖異であるオルタシアは、己の力を奮うために、エーテルを必要とする。もし、戦っていた相手が生物であれば、妖異であるオルタシアは相手を殺すことで得られるエーテルを活力として戦うことができただろう。本来、妖異の契約とは、そういうものなのだろうとは、ノエも薄々分かっていた。
(だけど、オルタシアは、己の『正しさ』のために生きていたいと望んでいうる。たとえ、自分が化け物になってしまっても。
……
誰かのエーテルを喰らわないと生きていけない体になってしまったのだとしても)
オルタシアと契約するまでの間に、ノエは彼の人となりを知る機会に恵まれた。そして、自分と同じように、自らが定めた正しさを求め、もがき続けた『彼』の声を聞いた。
故に、ノエは単純に障害となる存在を殺すためにオルタシアを『使う』ような真似は避けたいと考えていた。今回、オデットとノエ自身の身を守るために力を借り受けたが、ランドンを殺せと命じなかったのは、オルタシア自身の『正しさ』を尊重したからだ。
「兄さん、やっぱり体に負担がかかっているのではありませんか。妖異は、活動するのにエーテルをたくさん使うのですよね」
「少し、ふらついてしまっただけだよ。オルタシアは、岩の中にあったクリスタルも活動用のエネルギーにしてくれたみたいだから、そこまで体調に影響はなさそうだ」
ノエがいくらオルタシアの意思を尊重したいと願っていても、オルタシアが妖異であるという事実は覆せない。
ヒトが活動するために食事や水分を欲するのと同じように、妖異である彼もまた、エーテルを補給されなければ先ほどのような絶大な力を振るえない。
力をふるう先が生命体ではないのならば、オルタシアはノエ自身のエーテルを借りて戦うしかない。その結果、オルタシアが活動すればするほど、ノエのエーテルが消費され、ノエの体調に影響を及ぼしてしまう。
幸い、岩盤を一息で壊す程度の魔法の行使なら、錬金薬を一本飲み干してしばらく安静にしていれば問題はなさそうだった。オルタシアが機転を利かせて、崩落してきたクリスタルからエーテルを回収してくれたおかげで、この程度の体調不良で済んだようだ。
「ともあれ、これで僕たちが通ってきた道は塞がった。ランドンが追いかけてくる前に、目的地まで辿り着いてしまおう」
「はい。
……
道が塞がって、諦めてくれたらいいんですが」
「そうだね。せめて、彼と接触するのは麓に戻ってからにしたいところだ。こんな場所じゃ、僕だけじゃなくてランドン自身だって、落ち着いて向かい合うことなんてできないだろうに」
ノエは肩をすくめて、わざとランドンを軽く扱うような物言いをしてみせる。オデットも、ノエの意見に頷いてみせた。今は竜の脅威に怯えて足をすくませるよりも、落ち着いて行動するべきだと、二人とも言葉にせずとも分かっていた。
まだ疲労が残るノエに代わって、先行して様子を見てくると、オデットがチョコボを走らせる。逞しい彼女の後ろ姿を見守りながら、ノエが並足で彼女の後をゆったりと追いかけていると、
『
……
ノエ』
「
……
オルタシア? どうかしたのか」
『先ほど感じたのが、竜の気配か』
ノエの内側から、泡のように浮かび上がる声。それは、ノエが先ほどまで目にしていたオルタシアの意識だ。
普段はノエの負担にならないように、意識を深く沈めてまどろんでいるような状態のはずだが、一時的に活動したことで覚醒状態になったらしい。オルタシアは、ノエの周りに起きていることを正確に把握しているわけではない。だというのに、竜のことを知っていたのは、ノエが目にして強く印象に残ったものが、オルタシアにも波及していたからだろうか。
「うん。あれが、竜という生き物だ。暫くは追いかけてこられないと思うけれど、次に会ったときはどう対処すればいいだろうか
……
」
『先に言っておくが、あれは俺がノエに力を貸したところで倒せるか怪しいと思う』
オルタシアの忠告に、ノエは軽い衝撃を受ける。同時に、自分が知らず知らずのうちに、オルタシアに頼ることを考えていたと自覚させられ、己を強く叱咤した。
もしかしたら、自分の意地をねじ伏せて、妖異である彼の力を全力で竜討伐のために使えば勝てるかもしれない。そんな風に考えていた自分がいたことに、否応なしに気が付かされてしまったのだ。衝撃を受けたというのは、彼に頼ろうとしていた自分がいたからこそだ。
(
……
たとえ相手が竜であっても、オルタシアの力を一方的に借りる関係にはなりたくない。そう思って、今まで考えないようにしてきたのに)
強い力が手元にあると分かってしまうと、つい次の機会も、と頼りたくなる。
己の甘さを自覚して、ノエが自省をしているのをよそに、オルタシアは続ける。
『あいつは、身に収めてるエーテルの量が桁違いだ。もし、あの力を手に入れれば、妖異としては凄まじい成長ができるだろうが
……
そもそも、まともに戦って戦える相手じゃない』
「君もそう思うのか、オルタシア」
『遠くから感じるだけで、そう思わされるんだ。ノエ、あなたが何をしているかは俺は全部知っているわけじゃないが
……
これだけは言わせてくれ』
声が、少しずつ遠くなる。ノエの体を休ませようと、オルタシアが意識を閉ざしていくのがノエにも伝わってくる。
彼の意識がノエから離れていく、その最後の一瞬。
『
……
無理はしないでくれ。ノエ、あなたが傷つくような結末は、俺は見たくない』
ノエを案じる言葉を最後に、オルタシアの気配はノエの内側から薄れていった。
妖異である友からも思いがけなく労いの言葉を向けられ、ノエは思わず苦笑いをこぼしてしまう。
「
……
また、心配されてしまったな」
ノエを案じる声は、いつもノエの周りから沢山聞こえてくる。己の為すべきことを成し遂げたいと口にすることは、それらの声を振り解くことにもつながる。
それでも、誰もノエを力づくで止めようとはしない。ノエが間違っているとは言わない。
「だからこそ、僕と共にいてくれる皆も笑えるような結末を迎えたいんだ」
竜に食われるのではないか、踏み潰されるのではないかと怯える気持ちはある。
でも、それ以上に、前に突き進み、定めた目標を掴み取ろうという心がノエを前へと押し出していた。
己の意思を確たるものとするために、ノエはあらためて前方へと顔を向ける。駆け寄ってくるオデットに向けて、まずはいつものように笑いかけようと、ノエは肩の力をゆっくりと抜いた。
***
夜空の黒と、灯りを失った世界が生み出す黒は違う。そんな当たり前のことを、こんなにも強く意識させられる日が来るとは。そう思いながら、オランローは山々の稜線と、今まさに日没を迎えつつある空を見つめていた。
ノエたちと別れて山道を走り続けたオランローたちは、コーディの案内によって、無事に山の中腹にある廃村へと辿り着いていた。
コーディが無事の帰還と新たな来訪者について伝えると、廃墟に隠れていた残りの被害者も、警戒を解いて一行を迎えてくれた。今は、疲労と栄養不足でやつれた様子の二人に、ヤルマルたちがみずや食料を分け与えているところだ。
「オランロー、こんな所にいたの」
「見張りは必要だからな」
澄んだ声が後ろから聞こえて、オランローは声の主に振り向く前に答える。
「オレが顔を出すよりも、今は二人に任せた方がいいだろう。そう思ったから、あんたもここに来たんじゃないのか」
オランローが振り向いた先にいたのは、荷物をルーシャンたちに預けて身軽になったサルヒだった。
フードを目深に被っていても、彼女の側頭部に生えている角と、腰のあたりから伸びている黒い尻尾までは隠せない。そして、それはオランローも同じだ。故に、オランローは被害者たちの前に姿を見せなかった。
「竜に攫われた人の前に、竜に似た姿をした私たちが姿を見せるのは、嬉しいことではないだろうから。今は、顔を出さない方がいい」
オランローと同じ意見を口にしながら、サルヒはオランローが見ていた方角へと視線を送る。彼女が見つめていたのは、オランローたちも登ってきた山道だ。獣道に近い道ではあったものの、今はチョコボたちが下草を踏み鳴らし、小石を蹴り散らしたおかげで、うっすらと通り道が残っているのが見て取れる。
もっとも、この道も日が完全に落ちてしまった後では、オランローの視界から消え失せてしまうだろう。夜の山は、灯りがなければ視界を確保するのは困難だ。
「ノエのことが心配?」
サルヒから投げかけられた問いに、オランローは無言で目を伏せた。日没よりも早く、彼の明け色の双眸が影に染まる。
「
……
心配していることになるのだろうな。あいつのことだから、おおかた、何だかんだと言いながらも戻ってくるのだろうが」
オランローは耳の付け根に装着したリンクパールに、指をかける。だが、呼び出し音の後に返事はない。
もとより、この山は地脈の直上にあるからか、エーテルを介した通信に難がある。至近距離ならともかく、少し離れると通信の精度がかなり落ちてしまうようだ。
サルヒも同じように角に指をかけてから、ゆるゆると首を横に振り、
「少し、意外。あなたは、ノエのことをそこまで気にかけていないように見えたから」
「そこまでオレが薄情に見えるのか」
「訂正。私も言葉が足りなかった。昔のあなたを知っているから、尚更そう見えたと、言いたかった」
サルヒはオランローの横に並び、同じように紺藍に沈む夜道を見つめる。
「あなたに出会ったころ、あなたの目にはヤルマルしか映っていないように見えた。ヤルマルは、あなたにとって特別な人。何にも変え難い大事な人。だから、あなたは彼女のことだけを考えていた」
「
……
ヤルマルが言うことも分かる気がするな。他人の口から聞くのは、些か面映いものがある」
肯定の代わりに、オランローは自身によぎった感情を素直に言葉にする。
オランローが気持ちを素直に口にするたび、ヤルマルが「恥ずかしい言葉は禁止」と、珍しく動揺する理由も分かった気がする。自分が口にする分には羞恥は薄いが、他者に口にされると鱗の端がむずむずするような感覚に襲われる。
「だが、あんたの言葉は事実だ。オレは、ヤルマルのことだけを考えていた。あいつが無事で笑っていられるならそれでいい。あいつに出会ってからの五年間、ずっとそれだけを考えていた」
「だけど、今のあなたはノエの心配をしている」
「それは、あんたも一緒だろう?」
ノエを心配する同志としてでなく、同じようにただ一人を思い続けていた者の連帯感として、オランローはサルヒへと問う。
果たして、サルヒは静かに首肯した。
「あなたの言う通り、私も旦那様のことだけを考えていた。十五年間
……
ううん、旦那様と出会ったときからずっと。私の心のほとんどは、旦那様への気持ちで埋まっている」
熱烈な告白とも取れる言葉とは裏腹に、痛みを交えた憂いの表情に、オランローは微かに眉を寄せる。
サルヒがルーシャンに対して恋慕に近い感情を持っていることは、オランローもとうの昔に察してはいたが、ならば彼女はどうしてここまで痛ましげな顔をしているのだろうか。
オランローの疑問など知ることなく、サルヒは言葉を続ける。
「でも、ノエとオデットが心配なのも確か。特に、ノエは、我が身を顧みないところがあるから」
もし、どうにもならない状況に陥った場合、ノエは躊躇なく自分を切り捨てる決断をするだろう。少なくとも、竜の牙の前に身を晒すのは、オデットよりもノエの方が早いはずだ。
これまで共に行動していた相手として、その程度の予想はすぐに打ち立てられる。
オランローも、サルヒの意見に一度頷きを返すと、
「
……
オレにとって、あいつはヤルマルと同じくらい
――
いや、ヤルマル以上のお人よしに見えた。出会った時からな」
だから、すぐに死ぬだろうと思った。そう、オランローは続ける。
「すぐに死ぬか、あるいは土壇場で自分勝手な本性をあらわにするか。そんな所だろうと思っていたんだ。ヤルマルが、あいつとオデットを自分の住処に招き入れたときも、大して長い付き合いにはならないだろうとオレは予想していた」
かけだしの冒険者が、清廉潔白な善人として振る舞おうとするのは、さして珍しいことではない。はなから悪人でいようとする人物の方が、よほど稀有な例だ。
けれども、現実はそこまで甘くない。
新米冒険者を騙そうとする、悪辣な商人。よそ者を毛嫌いする、地元の村人。はたまた、こちらの心構えなど一切気にせずに襲いかかる魔物たち。
それらを前にして、心を真っ白にしたままでいられる者は少ない。
魔物の前に味方を突き出す者。詐欺を働いた商人に闇討ちを目論む者。礼も言わぬ村人と諍いを起こす者。
彼らのような人間が、ことさらに悪人であると責めるつもりはない。善良なままで生きられるほどこの世界は優しくないことを、オランローもよく知っている。
それでも、オランローはそのような二面性のある人間は信頼ならないと思ってしまう。
自分が第二の父親のように慕っていた男
――
セルウィに裏切られたと思っていた当時は、警戒心にも似たこの気持ちがとりわけ強かった。ヤルマルのように、底抜けのお人よしではない限り、どんな人物であろうと信用に値しないと考えていた部分があった。
「だが、ノエは何があってもノエのままだった。たとえ報酬があろうとなかろうと、あいつは困っている奴がいるなら放って置けない。そういう奴だったんだ」
オランローはノエと出会った頃を追想し、彼の常識破りな振る舞いに振り回されていた己を振り返って、思わず笑みを浮かべてしまう。あのときの自分は、さぞかし滑稽な顔をしていただろう。
「信じられるか? あいつは、少しばかり宿を貸してくれただけの相手のために、指名手配をされていた凶悪な魔物の前に飛び出したんだぞ」
「
……
でも、ノエらしい。だって、彼は
……
自分の仲間のために、高位の妖異を前にしても戦い続けられる人だから」
サルヒと出会ったばかりの頃、ノエはとある依頼のために調査を続けていた。その末に出会したのは、通常の冒険者なら尻尾を巻いて逃げ帰っても仕方ないような凶悪な妖異だった。
それでも、彼は退かなかった。
ノエにとって最も守りたい人であるオデットは自分のそばにいたのだから、彼女の手を引いて逃げるという方策も取れたはずなのに。ノエは剣を手に取って、妖異と真っ向から向かい合った。
「オランローがノエを信じようと思ったきっかけは、その魔物の件があったから?」
「
……
どうだろうな。オレでも、具体的にこの場面からあいつを信頼できると思った、と言い切れるわけではない」
思い出すだけでも、ノエと過ごした日々の思い出は夜空に散らばる星々の如く無数に存在する。
落ち込むノエのために、彼の好物を作ってあげたいとオデットが頼んできたこともあった。あの時は、彼女に助言をする側だったというのに。今ではオデットの方がノエを引っ張っているように見えるときもあるほどだ。
だが、こうして誰かを助けに行くという意思を示すのは、いつだってノエが最初だった。
「だが、そうだな。
……
決め手だったのは、オレがあいつをセルウィたちに売ったときかもしれない」
「そういえば、あの事件の後、あなたたちが無事に戻ってきてからも、そのことで喧嘩しているようには見えなかった。彼らの拠点で、すでに話はついていたの?」
「ああ。もっとも、あいつは最初から恨み言一つ、オレにぶつけてくれなかったがな」
人質となったヤルマルの身の安全のために、ノエを敵へと売った。オランローの選択は、簡潔に言うとそのように表せる。
そんな状況であったのに対して、ノエが何を言ったか。思い出すだけで、オランローは苦笑よりも先に頭痛を覚えてしまいそうになる。
「あいつは、よりにもよって敵の言いなりになっていたオレに対して、どうしてこんなことになったのか、話を聞かせてくれと言ったんだぞ」
「
……
ノエらしい」
サルヒの表情が一瞬唖然としたものに変わったのを見て、オランローは彼女の驚きを目にしただけでも、この話をした甲斐があったと薄く笑みを浮かべる。
「捕虜になっている側が、裏切り者の言い訳に率先して耳を貸すなんてな。セルウィがこんなことをする奴じゃなかったとオレが言ったら、あいつは『ちゃんと話をするべきだ』とまで言ったんだぞ」
そこまで言ってから、オランローは大きく息を吐き出す。
「あの瞬間、あいつは心の芯まで、そういうやつなんだと思い知らされた」
「
……
私も、あなたと似たような感じ。私やヤルマルを助けるために、タムタラの墓所の奥深くまで向かうなんて、普通の冒険者なら断って当然のことなのに。あの人は、きっと迷わなかった」
サルヒ自身は意識がない状態だったために、その時の状況はルーシャンから聞かされただけだった。
だが、彼が珍しく素直にノエへの感謝を口にしていたので、きっとノエはルーシャンがサルヒを救出したいと願いでたとき、躊躇せずに協力を了承したのだろうと分かった。
「それどころか、あんたがいなくなって焦ってるルーシャンを宥めたのもノエだった。救出の段取りを飛ばさないように、ルーシャンに向けて注意していたくらいだったからな」
「それは初耳。
……
旦那様、自分の格好悪いところはあまり話したがらないから」
あとで、追加で根掘り葉掘り聞いてやろうと、サルヒは心の片隅で決意する。
そうこうしているうちに、山嶺にはすっかり日が落ちて、辺りは瞬きをする間に黒一色に染まっていく。夜に目が慣れても、今日の月はやや細く、夜道を照らすには心許ない。
サルヒは片手に持っていたカンテラにクリスタルの照明を入れ、オランローへと渡す。背の高いオランローなら、ただ手に持っているだけでも、夜道では十分に灯台の代わりを果たしてくれるはずだ。
遠くにヤルマルの声がする。今頃、被害者たちに保存食を温めた即席の料理を振る舞っているのだろう。
そうして、彼らに食事を届けられたのも、ひとえにノエが攫われた人を助けに行くと決めたからだ。そうでなければ、彼らはきっと山奥でなす術なく立ち尽くしていただけだったのだろうから。
だから、彼らの喜びの声も、安堵の笑顔も、この道行きを決めた人が聞くべきだ。
カンテラを高く掲げ持つ。できることならば、その灯りが遥か彼方、ノエのいる場所に届くようにと。
「
……
オランロー」
「どうした」
「あそこ。見て」
サルヒが指差す方角に、オランローも視線をやる。遥か東方の草原で生まれ育った、黒い鱗のアウラ族の娘が見据えた先には、針でついたような小さな光が見え隠れしていた。
その光の正体を即座に見抜き、オランローは知らず知らずのうちに固まっていた身体中の筋肉がほぐれたような気がした。
「
……
随分と、遅かったな」
彼らが到着したら、一番にそう言ってやろう。予行演習のようにそう呟いてから、オランローはカンテラを軽く振ってみせた。
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