ゆい
2024-08-14 21:05:56
4330文字
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遠く茜が満ちるまで

フォロワーさんとタイトル交換企画第二弾です。
先にタイトルをいただいて書きました。テーマは「秋のふたり」、少しだけ距離の近付いた!のふたりです。

 息苦しい夏が終わり、日毎に空が遠ざかっていくこの季節が、僕は案外好きだった。殺人的だった日差しは幾分容赦を覚え、擦り抜ける風も肌を汚すことなく清廉に撫でるばかり。日焼け止めは手放せずとも日傘はそろそろ鞄に控えていることが多くなってきた日和に、帰路を進む足取りも自然と軽くなる。今日は昨日手間取った刺繍も容易く済んだし、煩わしい課題や提出物も無い。強いて言えば次のライブに向けてそろそろ衣装のイメージを固めたいところだが、僕の琴線に触れるモチーフにはまだ出会えていなかった。頭を捻る時間はまだ残されている。だけど、夜霧の中を手探りで進むような思索の時は何度陥ってもやっぱり慣れない。こういう時に深く狭く目を凝らしがちなところが自分の悪癖なのだと、最近少しは認められるようになってきた。手持ちの美意識で満ちた地獄へ沈んでいれば、他の価値観に脅かされる恐れは無い。産みの苦しみを味わう方法としても一番手っ取り早いし、箱庭を真似た堂々巡りは存外心地良くもあった。勿論、このやり方で誕生したかつての芸術達を否定するつもりは無い。だけど、どれだけ懇願されたとしても独り善がりな苦悩に他者の人生を巻き込むべきでは無かったと、今になってやっと思う。賭けるべきは己の命一つだけ。泣いても悔いても一本道に独りなら、恥などいくらでも掻き捨てていける。
 そこまで思い詰めたところで不意に隣で軽やかな鼻歌が始まって、いつの間にか止めていた息を馬鹿みたいに吐き出してしまった。咄嗟に視線だけ動かして見下ろした横顔は前だけ向いて呑気に緩み、歩みの度に癖っ毛が艶やかに揺れる。風に乗った旋律はタイミングと裏腹に美しく伸び、夕暮れの街を寸分の狂いない音程で流れていく。昔は声も音もガタガタで、一フレーズ仕上げるのに半日かかることだってあったのに。幼少期に誰もが口ずさんだであろう秋の情景を一曲歌い上げると、色違いの瞳はやっと視線に気付いてぱちりとこちらを向く。躓くようにして途切れた歩みに合わせて殆ど同じ場所で止まってやれば、伸びる影は一つに溶ける。少し照れ臭そうに笑う顔は、多分出会った頃と何一つ変わっていない。道連れ、と一俊血迷って描きかけた未来図からはまだ頑なに目を逸らす。僕の横を付かず離れずの距離を守って浮かれるような粗忽者に、その肩書きはまだ不相応だ。

「お粗末様でしたぁ。調子乗って全部鳴らしてもうたわ」
「無難な選曲だがまあまあの出来だったね」
「じゃあ次はとんぼとコウロギだったらどっちがええ?」
「尋ね方が美しくないからどちらも却下だよ」

 小首を傾げて聞いてくる声を冷静に突き放せば、麗しの顔は容易く萎れて曇っていく。二人きりの往来の端っこで分かりやすく落ち込む影片を眺めていると、何となく清々しい気持ちに覚えた。僕達が軽口めいたやり取りを交わすようになるなんて、冬の頃には想像すらも出来なかった。ぎこちなくも寄り添うことを許した春を過ぎ、罪悪感に押し潰されそうな夏の夜を駆け抜けた先に、少しだけ距離感を取り直した僕達がいる。この気安さが正解なのかはまだ分からない。たとえ正しくなかったとしても、今はこれ以上選べなかったことは覚えていたい。もし不正解が決まった時には、すぐにここからやり直せるように。結び目や継ぎ接ぎの始まりは、出来るだけはっきり残しておいた方が良い。

「せめて十五夜の歌にしたまえ」
「‥兎が跳ぶやつ?」

 上目で恐る恐る確認する影片へ一つ頷きを返せば、ぱっと喜色が頬に満ちる。何度も縦に揺れる首を見届けてから再び歩き出すと足音はすぐに重なり、橙の中を別々の歩幅が不揃いに往く。また気負いも迷いも無く自由に抜ける鼻歌に合わせて、今度は骨張った両手が胸の前でぱたぱたと揺れる。手遊びをアレンジして即興に動く指先は誰も居ない薄暮でも美しさを忘れずに翻り、彼が今まで身につけた芸術を雄弁に語る。行き先と手元を横目で交互に見守りながら、澄んで広がる音楽に耳を寄せた。先程まで軽快だった足取りはほんの少しだけ速度を落とし、涼しげな空気の中をまた二つに分かれた影が揺れながら進む。別に誰かの為の鈍行では無い、今日はたまたま急いで帰る用事が見つからないだけで。
 閑静な住宅街を抜け、朝夕だけ車通りの多い交差点に出る。車道の向こうにはいくつかの人影が佇み、こちらの岸には僕と影片が変わったばかりの信号を待つ。流石に人目を気にしてか、横断歩道の手前で少し駆け足に迎えた曲の終わりと共に踊り子の指はすらりと止まる。行儀良く身体の横へ下りる両腕を何故か名残惜しく思いかけると、急に目の前の雲が晴れて西陽が僕達に向けて一目散に差してきた。唐突な光から思わず目を逸らした先には、同じように目を細めて眩さに戸惑う影片の横顔。不健康に白く淡い肌が、今は降り注ぐ茜を存分に吸って鮮やかに燃えている。産毛まで金色に染めて整った輪郭を輝く波に変えた光を色無き風が弱く揺らす。スポットライトや昼光の下で見る時とはまるで異なる彩度に、吐き出すつもりだった二酸化炭素が喉の奥に詰まった。濡れ羽を思わせる黒髪もたなびく度に薄い赤を毛先から零し、瞳を隠す睫毛すら秋の気配に塗れていた。全身に季節を浴びて佇む影片は未だ落日に目を焼かれ、心なしか不機嫌そうに眉根を寄せて赤信号を睨んでいる。赤く染まった爪で長いセーターの袖口を神経質に弄りながら紅色が移った制服を揺らす様は、瞬きの度に感嘆に値して視線が外せない。まるで一枚の絵画のように茜と化した姿に不甲斐なく目を奪われながら、そういえばここまで明るい色で染まった影片を見たのは久しぶりだと今更気付く。何を着せても合わせても無難に似合う子だとは分かっていた。何でも好きだと笑う裏で、自分の為なら毒々しかったり奇抜な色を選びがちなことも。だけど、僕が目指す芸術に相応しい色彩ばかり手放しで褒めて纏いたがるものだから、いつしかそんな簡単なことすら忘れていたのだ。
 視線の先で信号は青へと変わり、同時に影片は歩き出す。数歩進んで隣が空なことに気付いて横断歩道の途中でくるりと振り向いた顔は、もう何時もの青白さを取り戻している。動かない僕に影片は少しだけ首を傾げるが、すぐにせっかく進んだ横断歩道をあっさりと引き返して再び横一列で並ぶ。問題無く横断し終えた人々が不審げにこちらへ目を向けようがまるで気付かない様子で、気遣いの瞳はあからさまに僕だけを映す。

「お師さん?どっか痛い?もうすぐお家やけど頑張れそう?」
「‥体調は問題無いよ。ただ、見惚れていただけ」
「んあっ?」
「君って、意外と赤も似合うんだなって。あまりに綺麗で驚いてしまった」

 素直に口をついて出た本音は透明な風に紛れることなく影片まで届いたようで、不安げだった二つの星がぱちりと一つ瞬いて動きを止めた。何事も咀嚼に時間のかかる君だから、今も半開きの唇と満月によく似た眼差しは赤らみもせずまだ無防備に呆けている。何時まで経っても手のかかる子だ、ときめきにも旬はあるだろうに。
 視界の端で正誤が反転する気配がするが、やっと熟し出した耳先を観察するのに忙しくて不粋の口は努めて噤む。周囲の影が全て消えて信号も二度目の赤を迎える頃、返答無く逆上せて林檎の頬がぎこちなくとも確かに動いた。つられて泳ぎ出した水っぽい視線や意味無く開閉を繰り返す掌を眺めつつ、耐え切れず溢れる一言目を待った。無い唾を数度飲んでゆっくりと戦慄く舌先の早熟な赤さが目に染みる。やっぱり、明るかろうが暗かろうが君は目に毒なのかもしれない。

「‥急に恥ずかしいこと言わんといてよ」
「勝手に照れたのは君だろう。僕は正直な感想を伝えただけだ」

 照れるように仕向けたのは間違いなく僕なのに、文句の一つもろくに紡げず詰まる泣き顔があまりに愉快で、吹き出さないように頬の内側を強く噛んだ。平然を装う僕の努力など露知らず情けない母音を二、三個零すと、影片は降参するように顔を両手で覆い声にならない不満を叫ぶ。僕に喜怒哀楽を握られて色も人生も目まぐるしいことだ。申し訳無いが、元凶としての自覚はあっても今はまだ責任の取り方が分からない。僕達は青くて、苦くて、頭でっかちの愚か者だ。でも、季節を三つも無駄に過ごした僕だから、そろそろ挽回を始めなければ流石の君にも目を逸らされてしまう。一生僕以外に目移りなんてさせないように。僕も目の色を変えて君と季節を追い越してやろう。
 鋭く冷たい風が不意に僕達の間を抜けて、気付けば随分日も落ちていた。点滅を示す赤が暮れたら、いい加減僕達も家路を急がなければ。季節は何時だって駆け足で、少し気を抜けば寒さ暑さにやられてしまう。隠し損ねた額や耳先の茜はそのままに、尚も呻き続ける名前を出来るだけ堅く呼ぶ。仄かに血の味のする声でどこまで真摯に響くか不安だったが、終わりを待たずに泣き言はぴたりと止まり、闇の向こうに二つの潤んだ光を見た。

「道草はここまでにして早く帰ろう。新しい衣装案が浮かんだから、君の意見も聞きたい」
「‥こっちはまだそれどころやないんですけど」
「恥じらいながらでも耳は貸せるだろう。ほら、手は引いてあげるから」

 もう青になるよ、と差し出した左手を指の隙間から恨めしげに覗いて影片は聞き取れない程の早口で何かを呟く。だけど、先程までの元気は無くて吹けば飛ぶような意地が僕の指先に迷っている。やがて、青が光ると同時に、精一杯不満を詰め込んだ赤ら顔が渋々を装って現れた。やけくそ気味に小指と薬指へ触れようとしてくるからその前に手首ごと攫って握手の形で繋いでやれば、ぐっと近づいた距離の先で悲鳴と乱心の中間みたいな汚い音が上がった。

「いちいち騒がしいねぇ。秋だというのに君にはやっぱり情緒が足りない」
「今のお師さんにも言われたないわ!これでおれに何かあったら、『お師さんの過剰摂取』って答えるからな!」

 意味も筋も通らない文句を喚きながら引き摺られる影片は、もう茹でタコみたいになっていて、全身どこを探しても麗しさなど欠片も見当たらない。秋の空より儚い美だったと落胆はするが、不思議と忌々しさは覚えなかった。やっと役目を果たした青信号が寄り道ばかりの僕達を導くように煌々と灯っている。僕が死因とは光栄だね。そんな呆れた軽口を叩いてやれば、これ以上君は何色になるのだろう。不埒に脳裏を過ぎった「もしも」を今は飲み込んで、ただ重ねた指に少しだけ力を入れる。それぞれの形で離れず共に進む理由を守るように、繋ぎ止める手はお互い同じくらい暖かかった。