yuiazetsu
2024-08-13 04:35:13
7345文字
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あの日をもう一度。

織部さんがイエスタデイ・ワンスモアのあの洗脳技術を手に入れて狂ったIF。
暴力描写と織部さんの奥さんの捏造描写があります。

自分の薬指には印がある。それだけで、何もかもうまく出来そうな気がした。
「創くん」
「分かってるよ。大丈夫」
彼女の目はやはり優しくて、優しく微笑む口が愛おしくて。
失っていた情熱だ。人の為に一生懸命になれる感情だ。
失っていた事すら忘れる程、自分は真剣であった頃に戻れていた。
中途半端な未来は要らない。苦しみを乗り越えるなんてクソ喰らえだ。
自分だって、幸せを掴んだままで良いはずじゃないか。
良いはずだ。
だって、彼女がこんなに笑ってくれているんだから。

この技術を、力を手に入れてから、真っ先に自分は自分を狂わせた。
いや、正しく戻しただけだ。そうに決まっている。
あの頃の記憶が薄れるにつれ、多幸感だけが残っていった。
目を開けば、目の前に彼女がいた。
あの頃のまま。いや、いつもの笑顔で、「いつまで寝てるの?」なんて肩を竦めながら。
身体を起こすと、そこはいつもの寝室。
いつも、彼女と寝ている寝室。
いつも通りだ。全ていつも通りだ。
自分と彼女の薬指に光る指輪を眺めて、いつも通りの幸せを噛み締める。
「朝ごはん出来てるからね」
「今行くよ」

──────────

「纚川さん」
……はい」
ああ、火傷跡が痛々しい。
「辛い過去って、忘れられた方が良いですよね」
……どう、しました」
「いえ、ふと思ったんですよ」
……はい」
纚川の目の奥に、一筋の不安が見えた気がする。
ああ、何て痛ましい。あなたがそんな目をするのは、きっと。
「我々は、幸せになっても許されると」
その火傷のように、深く深く跡を残して消えない苦しみのせいだ。
「纚川さん、私はあなたと似たところがあると思ってるんです」
……
「我々には、抱える苦しみが大き過ぎる」
……織部さん」
「そうですよね」
彼の顔が引き攣る。
「大丈夫ですよ」
あなたを怯えさせるような思い出は、捨ててしまって良い。
「戻りましょう」
……織部さ」
心からの笑みを湛えて、自分は取り出したハンカチで纚川の口と鼻を素早く覆う。
少し藻掻こうとした彼の腕も、余りに非力で気にもならない。
「落ち着いて息をして下さい」
……
「すぐですよ。すぐに戻れますから」
纚川の目から、怯えも、困惑も、全て消えてしまって。
「幸せに、戻りましょう」
四肢の弛緩した彼の身体は、自分より高い背が嘘かのように軽かった。

──────────

「にいちゃん」
ここは?
「にいちゃん、おきてよ」
遠くに波の音が聞こえる。
……おはよ」
「もー、アイスとけるよ」
侑生が眠い目を擦ると、侑羽がこちらにアイスキャンディーを差し出していた。
「ごめんごめん」
ああ、そっか。
いつも通りの秘密基地だ。
既に宿題も終わらせてしまった夏休み。
「きょうは、おまつりだよ」
受け取ったアイスを一口齧る。
「そうだったね」
「きんぎょすくいしよ!」
「スーパーボールすくいも!」
「「まけないよ!」」
双子二人でにいっと笑って、雫が落ちそうなアイスをまた一口齧る。
酷く懐かしいような、それでもいつも通りのような。
「よるには?」
「はなびがある!」
口を開けば、阿吽の呼吸で弟から言葉が返ってくるのが嬉しくて。
「じんじゃにいこ」
「いしだんのところ」
「そこがいちばん」
「よくみえるからね」
少しずつ小さくなっていくアイスが少し勿体なくて、それでもゆっくりだと溶けてしまう。
ズボンのポケットには、貰ったお小遣いが入っている。
今年は、今年こそは弟に金魚の数で勝つのだと思いながら。
外に見える海はやけに穏やかで、真夏なのに少し涼し気な風が秘密基地を抜けていった。

──────────

傍らで嬉しそうににっこりと笑う纚川を見て、織部はふうと息を吐いた。
こんなに幸せそうな彼を、誰が否定できよう。
「彼はお友達?」
「そうだよ。大事な友達だ」
「私とどっちが大事?」
……困った事を聞くなあ」
舌をちろっと出して、彼女はいたずらっぽく笑う。
勿論君の方が大事だよと言いかけて、何かが喉奥に詰まったように言葉が途切れる。
「どうしたの創くん」
……何でもないよ」
自分が困ったように笑うと、彼女もまた少し微笑んだ。
「考え事なんてらしくないよ。創くんは前だけ向いて進んで行ったら良いの」
彼女の言葉が、一つ一つ頭に染み込んでいくようで。
「創くんは、何も間違ってないよ」
こちらの頬を軽く撫でながら、彼女はいつも通りの声色で語り掛けてくれる。
……そうだね」
「そうだよ。大丈夫だよ」
自分が頷くと、彼女も満足そうに頷いた。
「何にも心配要らないよ。創くんには私がついてるから」
「ありがとう」
「どういたしまして」
ああ、そうだ。
自分は、彼女の為なら、何だって出来る。

──────────

神社の石段に腰かけて、双子は次々に上がる花火を見上げていた。
「きれい」
「きれいだね」
このまま、この夏休みがずっと続けば良いと思った。
思ったのに。
……ゆう」
「なぁに?」
「ぼく……
何かが引っ掛かって、それでも何を言えば良いか分からなくて、侑生は俯く。
……にいちゃ」
言いかけた弟の口が、固まる。
侑羽の視線は、自分の通り越して向こう側。
どうやら、自分の後ろに、何かがいるらしい?
侑羽が何も喋らないまま固まっているので、意を決して、兄たる自分は後ろを振り向いた。
……だ、れ?」
知らない人が立っていた。
いや。それは、人なのか、少し怪しむくらいの白い肌をしている。
「先生」
その誰かは、はっきりとこう言った。
……
視界がぶれる。
「先生。こんばんは」
紫色の目がこちらを見ていた。
じっと、ただ、じっと。
「い、や」
震える口から洩れる声は、自分の物のような、違う誰かの物のような。
「にいちゃん……にいちゃん」
怯えたように弟が自分を呼ぶので、思い切って立ち上がった。
誰か分からないその人と弟との間で、両手を広げて立ち塞がる。
「だめ、ゆうがこわがっちゃう」
「先生」
「せんせいじゃないもん。ぼくちがうもん」
目の前の細い誰かは、自分達に似た大きな上着を軽く揺らした。
「先生は、先生です」
先生と呼ばれる度、鼓動が早くなる。
「ちがうもん」
「先生」
「ちが」
「先生。アゼツです。アゼツを覚えていますか」
視界が、回った。
知らない。知っている。見知らぬ見知った人。
初めて聞く、聞き慣れた声がする。
「アゼツは、先生を見付けます。先生」
視界の右半分が、ぐにゃりと歪んで、ぐんぐんぼやけていく。
背後から聞こえていた弟の声は、もうしない。
「いや、やだ、やだ……やだよ」
「先生」
「ぼくは」
弟の気配は完全に消え、花火の音も消え、顔の肌がやけに引き攣ったように思えた。
「アゼツは、寂しいです」
ぐっと握り締めた自分の手が、何だか骨のように感じられて。
「先生」
背中の辺りに、自分の髪の毛が当たる感触がする。
「アゼツは、先生の教え子です」

──────────

黒いフレームが、僅かにずれている。
息が苦しい。
震える視界がちらちらと明滅して、いつの間にか周りはまるっきり無音。
脳内に、薬品が流し込まれるような感覚。
静寂の中心、頭の中で子供達の声が反響する。
反響する。
反響する。
自分を否定する声だ。
目の前に広がる理科準備室。
彼等は自分の腕を掴んで。
彼等は笑っていて。
彼等は手に掴んだそれを。

──────────

「先生」
目の前にあったのは、白い上着と、そこに走る水色の線。
「先生。アゼツはここです」
床に崩れるように座り込んだ自分は、縋りつくように42375µに凭れ掛かっていた。
殺風景な床。
過呼吸で喉の奥が乾いて、張り付いて、唾液を飲み込もうとして咳き込んだ。
優しく背中を撫でられて、やっと肺に溜まり切った空気を吐き出す事に成功する。
……アゼツ」
「はい、アゼツです」
……大丈夫」
「大丈夫ではないです」
42375µからそっと離れようとしたのに、彼は離してくれない。
「先生は、大丈夫ではないです」
ずっと指が震えている。
虚脱感で脚が動かない。
それでも。
……アゼツ」
「はい」
「行かないといけない」
「難しいと思います」
「難しくても」
42375µの肩を借りて、震える膝を抑えて何とか立ち上がる。
……先生」
「行かなきゃいけないんだ。私の友達がいるから」
「分かりました」
立ち上がった纚川に、42375µが手を伸ばす。
「先生」
「何だい」
差し伸べられた手には、金平糖が握られていた。
「頑張ってくださいの金平糖です」
「ありがとう」
受け取って、それをズボンのポケットに入れる。
しんと張り詰めた空気を、ゆっくりと吸い込んだ。
苦しい。
苦しいけれど、前を向いた。
纚川は、教師の目をしていた。

──────────

妻と談笑しながら、彼女が入れてくれた紅茶を一口飲んだ頃。
ゆっくりと、階段を上がってくる音が聞こえた。
「織部さん」
「どうされましたか纚川さん」
少し不安そうな顔をする彼女の頭を軽く撫でて、椅子から立ち上がってそっと声の方へ向き直る。
「織部さん、やめましょう」
やけにしゃんとした姿勢の彼を見て、織部は首を傾げた。
……纚川さん、大丈夫ですか」
「私は、大丈夫ではありません」
「やはり……
「私は、友人が心配で、大丈夫ではありません」
彼の目は真っ直ぐこちらを見ている。
……纚川さん。駄目ですよ。戻りましょう」
「いいえ」
「纚川さん、どうか話を聞いて下さい」
きりっと結ばれたネクタイの位置を直しながら、織部は柔和な顔で纚川を見た。
「あなたは、あんなに幸せそうだったのに。どうしてそれを手放そうなんて」
「私を望む人がいたからです」
……ああ、私にとっての妻のような」
「それは、同意できないかも知れません」
日頃の彼の何倍も鋭い目で、纚川はこちらを見ている。
「何も違いませんよ。私が今こうしていられるのは、彼女のお蔭ですから」
でも、と織部は一つ溜め息を吐いた。
……私は、あなたもこちら側で生きて下さると信じていたのに」
「難しい話です」
「簡単ではないですか」
上着に通した腕を、優しく広げながら織部は続ける。
「私は、あなたも共に幸せを享受して頂きたいだけです」
「幸せ、ですか」
「はい。幸せです」
目を細めて、織部の口元が優しく笑った。
「愛する妻と暮らす事を、幸せと言わずして何と言いますか」
視界の端で、少し恥ずかしそうに微笑む妻が見える。
「大丈夫だよ。俺は君を愛しているから」
嬉しそうに目を逸らして顔を綻ばせる彼女を見て、思わず笑みが零れた。
「貴方は、既に気付いているはずです」
「ええ、勿論」
「違う」
織部が頷くのを見て、纚川は首を横に振る。
「どうか、目を開けてください」
「何を仰っているのか私には」
纚川は、深く息を吸って、地を這うような、それでも真っ直ぐ耳を刺すような低声で、一言だけ発した。
「貴方の傍らには、誰もいないではありませんか」

──────────

視界が揺らいだ。
僅かに震える手を、強く強く握り締める。
「ああ、纚川さんにはまだ紹介していませんでしたね」
「織部さん」
「妻です。挨拶が遅れて申し訳」
「違います、織部さん」
纚川は、表情一つ変えない。
「帰ってきてください。織部さん」
……何を」
「織部さん。私は貴方が心配だ」
……煩い」
思わず口が歪む。
「幾ら纚川さんでも、流石に許せませんよ」
「構いません」
何をいけしゃあしゃあと。
「彼女に謝ってください。彼女は」
「いません」
次の瞬間、自分の右手は纚川の襟首を掴んでいた。
「いい加減にしろ」
「しません」
「お前」
自分が歯を食いしばるのを見ても、睨みつけても、拳を握り締めても、纚川の表情は変わらない。
「帰ってきてください。織部さん」
「黙れ」
左の拳が、気付けば彼の右頬を強かに殴りつけていた。
殴り倒されて、彼はその勢いのまま仰向けで床に倒れ込む。
「纚川さん、どうして。どうして」
纚川が、僅かに呻いた。
「貴方が、友達だから」
「友達なら尚更、何故俺の幸せを」
「見ていられないんです」
彼は殴られた右頬を庇う事もしない。
「私は、貴方の事を友達だと思っているから、見ていられないんです」
「やめろ」
「貴方が独りになってしまうなんて、耐えられない」
「黙れ」
彼に馬乗りになって、両手でまた襟首を掴んだ。
「俺の妻を」
「織部さん」
纚川がこちらを見たまま、首を横に振る。
「奥さんは」
「黙れ」
左手で襟首を掴んだまま、今度は右拳を振り上げた。
「織部さん、奥さんを大事にしてあげてくれませんか」
思わぬ言葉に、振り上げたまま拳が止まる。
「織部さん」
一寸の怯えも無い彼の視線が、痛いように感じられた。
「"新しい奥さん"がそんなに大事ですか」

──────────

視界がぶれる。
僅かに、拳が震える。
……違う」
「織部さん」
襟首を掴んだままの左手。
纚川は、その左の手首を、両手で掴んだ。
「その指輪は、貴方の奥さんとの契りの証ではありませんか」
……
思わず、左手が緩む。
刹那、纚川がその薬指から指輪を抜き取った。
「や、めろ」
「これは、幻覚との夫婦ごっこの為の玩具ではないはずだ。織部さん」
視界が歪む。
「返せ」
纚川の握り込まれた両手に、強く爪を立てる。
「織部さん」
彼が両手で握り込むのを、必死に抉じ開けようとするのだけれど。
「返せ」
傍らに感じていた、彼女の気配が薄れていく。
「織部さん」
どこにそんな力が隠れていたのか、纚川の手は開かない。
「返してくれ」
大事な指輪を。
「返して」
愛する妻を。
「返してくれよ……
もう、妻も、紅茶も、自分には何も残っていなかった。

──────────

織部は、纚川の両手を掴んだまま俯いて動かない。
……織部さん」
本来の、いつも通りの弱々しい声が、下から聞こえた。
……ごめんなさい、織部さん」
とうの昔に枯れたはずの涙が、眼鏡の奥から溢れては流れていく。
「耐えられなかったんです。私には……私は、私は……
自分の涙でシャツが濡れていくのを止めもせず、纚川は途切れ途切れに言葉を続けた。
「友達が……いなくなってしまう、ようで……霧の中に、消えてしまうようで……怖かったんです」
もう、纚川の目には、先程のような鋭さは何処にもない。
……ごめんなさい。許して、くださらなくて……いい、ので」
纚川の両手が緩む。
手から零れ落ちた指輪を、織部はガクガクと震える手で拾い上げた。
……俺、は」
喉の奥で震える声が、口からとろりと流れ出す。
「確かに、幸福な夢に……ずっと、いたかった」
よろよろと、織部は指輪を握ったままで纚川の横に座り直した。
……はい」
……でも、分かっていました。分かって……分かりたく、なかった」
噛み締めた歯が、涙と共に痙攣する呼吸でがちがちと音を立てる。
「俺の……俺の、望んだ人が、傍に……いてくれる、のが……堪らなく、嬉しくて」
……
……でも、それが、夢だと……幻だって、そんな事」
ズレてしまったネクタイを直してくれる人は、もういない。
「あなたが……あなたが、目の前に来て……はっきりと……分かってしまった」
……はい」
「あなたが……あなたにとって、見知らぬ人が、目の前にいて……何も、動揺しないはずが、ないので」
……そう、ですね」
自分にとって、人生を捧げようと思った相手だったのだ。そのはずだったのだ。
「愛した人、だったんです」
「存じています……そのつもりです」
……それ、でも……あなたの言う通り、でした」
言いたくないけれど、それでも言わなければいけない気がして、閉じそうな口を抉じ開ける。
「俺は……彼女を裏切った」
……そんな事」
……俺は、俺は」
「私は、嬉しかった……ですよ」
……
纚川の零す言葉が、消え入りそうな声が聴覚に滑り込んだ。
「私の……幸福を、願ってくれる人が……いて、それは……それは、確かに、嬉しかったです」
……でも」
「方法は、間違っていた……かも、しれませんが」
彼の塗装の剥げた眼鏡が、鈍く光っている。
「幸せな……夢を、見ました。ずっと、続けば……と、私も……確かに、思いました」
それでも、と纚川は言葉を探しては拾い上げた。
……私がいないと、寂しいと……言ってくれた、人が、いたから……ごめんなさい。帰ってきて……しまいました」
……纚川さん」
……私は、友達が、いなくなってしまったら……寂しいですよ」
手の中の指輪を握り締めて、織部は涙で引き攣る呼吸を、何とか吐く。
……ごめんなさい。纚川さん」
「良いんです……私は、これくらいしか……
涙を乱暴に拭うと、纚川の赤くなった右頬が見えた。
……酷い事を、しました」
「良いんです……私は」
「良くないです。良くない、のに」
色濃く残る火傷跡が痛々しい右頬に、自分はまた傷をつけようとしてしまったのだと。
……織部さん」
……はい」
……過去は、乗り越えなくても、逃げようとしなくても……良いと、思います」
纚川の白髪交じりの長髪は乱れて、汗でじっとりと濡れていた。
「過去は……起こってしまった事は、仕方がない、ので……
……
……それでも、現在が、少し幸せなら……私は、それで……
"貴方と友達である事が幸せですよ"と、彼の言葉の端から聞こえた気がした。
……纚川さん」
……何でしょう」
「すみません……
もう薬指に嵌める自信のない指輪を、硬く握り締めながら、織部は呻くように呟く。
「もう、少し……泣かせて、下さい」
……構いませんよ」