AZUMA Tomo
2024-08-11 13:49:05
4069文字
Public じじまご
 

雨露と甘露と甘味・1

紫陽花の時期に邑神さんの実家に帰るじじまご(邑神×千葉)のお話です

 訪れたことのないはずのこの場所に郷愁を覚えたのは気のせいではないだろう。千葉恵吾は邸宅と呼ぶに相応しい立派な日本家屋を目の前にして、少し間の抜けた声を漏らした。
「はあ〜……立派なご実家やなあ」
 梅雨特有の湿度の高さに真っ黒の髪をうねらせたまま感嘆の声を上げる千葉。車のハンドルに腕を組んで顎をのせ、彫りの深い眼窩に埋まる明るい茶色の瞳は興味津々に視線を巡らせていた。
 あまり背は高くないが人の視線を遮る程度には立派に整えられた生垣と、そこへ容赦なく打ちつける雨。本日の天気は最悪と言っても良いほどだった。雨のおかげで広すぎる屋敷の全容を把握できないくらいだ。しかしそれは言い換えれば、客の認識が天気で左右されてしまうほどには広大な敷地ということだった。
……それほどでもないだろう」
 千葉とは対照的につまらなさそうに家屋に視線を向けながら肩をすくめる男が助手席には座っていた。灰色の重く切り揃えた前髪の下に橙色のアンダーリムメガネをかけて、真っ黒な目がその言葉は聞き飽きたと物語っていた。その視線を後部座席に移動させながら成人男性の平均よりも少し高い声が今度は不機嫌そうに溜め息混じりに言う。
「これだけの本を……移動させるのか……
 トランクに積むことができなかった荷物は後部座席にまで溢れ出していた。その荷物のほとんどは現代では珍しい紙の書籍だった。
 邑神有奇という人間は自分自身は古物商取引をする張本人だというのに大量にある私物の本を手放すことができず、それどころか自身の画廊兼自宅に本を増やしていく始末であった。邑神の生活スペースには通常考えられないような物理法則が働いているのではと勘繰ってしまうほどに器用に本が積み上げられている。しかし、何事にも限度はある。いくら邑神が工夫を凝らして本を積み上げたところで画廊に詰め込める蔵書量は限られている。そのため、定期的に彼は書籍を自身の実家へ移動させているのだ。
「男がふたりもおったらすぐに運び終わるやろ――カミサマ、普段から祥ちゃんにこんな雑用させてるんやなあ」
 千葉は端整な顔に意地の悪い笑みを浮かべて邑神を見る。
 千葉の語る『祥ちゃん』とは共通の友人である東雲祥貴のことであった。邑神は千葉の言葉に表情を大きく歪めて気まずそうに言い訳を並べる。
「人聞きの悪い……あいつにもこちらに用事のある時にしかこんなことは頼まん。仕事にかまけてばかりの東雲祥貴自身の帰省を兼ねてるんだ」
 こちらというのはつまり、彼らの育ったこの場所のことだ。千葉は邑神の言葉にますます意地悪く深く笑みを刻み込む。
「ええ? 本の山が崩れるから車を出せってあんなに慌ててたのに、普段は祥ちゃんの用事が被った時だけなん?」
 邑神は不機嫌さを隠さずに顔を顰めるものの、その言葉に反論もできずに千葉から顔を逸らすだけに留めた。
 千葉の発言に偽りはないためだ。
 
 昨日の昼頃、千葉と東雲の勤めるボードゲームカフェバー『ユートピア』に邑神が慌てて駆け込んできた。普段感情の起伏がそこまで激しくない邑神にしては珍しいことだ。しかし、東雲の方も珍しく呆れた表情で(この男は他者に対してあからさまに呆れを向けることが少ない)特に驚くこともなく邑神を受け入れている。千葉は両者の珍しい様子に半ば驚きながらも旧友同士の会話をじっと聞いていた。
「東雲祥貴! お前の出番だ!」
「まったく。だから僕はこの前の買い物でも注意しただろう……ご注文は? どうせ紅茶の砂糖なしだろうけど」
「ぐっ……それで頼む……ともかく、今夜にも車を出してくれ」
「無理だね。僕は今夜からOLC経由の個人任務なんだ。ミーティングでも千葉くんが言っていただろう」
「出発前になんとかならないのか」
「ならないよ。任務直前までここで勤務だ」
「自分の実家まで三十分もかからないだろう、なんとかしてくれ」
「その三十分で僕は任務の支度だよ。わかるだろう、そんなことくらい。君もたまには痛い目を見ることだね」
 普段はユーモアがありながらも活発かつ柔和で何事も前向きに話を受け入れる東雲の、まったく取りつく島のない様子に千葉はいよいよ驚きを隠せずに彼らの会話に割り込むことに決めた。
――祥ちゃん、カミサマに当たりがキツすぎやない?」
 千葉の言葉に東雲は麗しい瞳を少々伏せながらふうっと溜め息を吐き出し、額に垂れ下がった前髪の束をスッと耳の後ろに掛け直した。内側から発光するような美しさを放ちながら、同時に呆れた眼差しで行われた一連の動作はまるで往年のムービースターのような所作で見る者を圧倒する。青み掛かった灰色の瞳は呆れの眼差しを今度は千葉に向けて、男は首を振った。
「良いんだよ、大したことじゃないんだから」
「大したことかどうかを決めるのはお前じゃない、自分だぞ!」
「いいや、大したことじゃないね」
「まあまあ、祥ちゃん……で、何がどうなってんの?」
 千葉は茶葉の入ったポットの中に手際よく湯を注ぎながら、一度東雲の視線を無視をして邑神に問いかける。
 するとあれほど勢いよく捲し立てていた邑神は千葉から視線を逸らし、カウンターの椅子に座り直した。おや、と千葉は内心で呟く。
 灰色の髪の男はいつものぶっきらぼうな顔になると視線は逸らしたまま言う。
……うちの荷物を……実家に移動させるんだ」
……それだけ?」
 邑神の発言に完全に虚を突かれた千葉は己でも笑ってしまいそうになるくらいに間抜けな声で男の発言を確認し直した。その様子に隣に立ってグラスを拭いていた東雲はふんと鼻で笑って千葉を見る。
「ほら、大したことないだろう?」
「いや、確かに……思ってたんとは違ったけど……なんでカミサマはそんなに慌てる必要が?」
「本だよ、本。君も知っているだろう、彼の自宅の有り様を。綺麗なのは画廊だけであとは本の山! それが崩れるとか崩れないとかそんな話なのさ」
「ああ……
 千葉は半ば呻きにも似た声を漏らしながら、邑神の画廊兼自宅を脳内に思い浮かべる。天井に届くかと思うほどに積み上げられた本の山はひとつやふたつで留まらない。本来ダイニングであろう場所にも寝室にも本で塗れていて最低限生活できるスペースしかないのだ。そういう現状があるのは把握していたが、それが今回の邑神の慌てようにいまいち繋がらず、千葉は軽く首を傾げる。
……で?」
「『で?』じゃあないんだ、千葉恵吾……もう今にも倒壊しそうなんだ」
「そんなん今に始まった話やないやん」
「そうじゃなくてだな」
 邑神は千葉の様子にやきもきしながら、しかし東雲の冷たい視線の手前、核心を言い淀んでいるようだった。だがとうとう白状する。
――明後日に注文した新しい書籍が届くんだ……
「んん? 一冊くらいならあの家にも詰め込めるやろ?」
 その言葉に東雲はとうとう冷たいを通り越して満面の笑みを浮かべて「ハンッ」と声を上げた。そして芝居掛かった動作で千葉の肩に手を置く。
……千葉くん、千葉くん。君はまだこの男を理解していないのかい。この邑神有奇の購買衝動がたった一冊で済むとでも?」
「おい、それは流石に言い過ぎだぞ。一冊しか買わない時だってある!」
「それは胸を張って言うセリフじゃあないねえ、有奇くん。今回僕を訪ねてきたのは一冊しか買わなかったから、というわけじゃないだろう。どうせ段ボール箱いっぱいに詰められた本が届くに決まってる」
 ぐうの音も出ないとはこのことで、邑神は悔しそうに顔を歪めてせめてもの反抗で真っ黒な瞳で東雲を睨んでいた。
 何事にも限度はある。確かに、自宅のキャパシティを超えて本を管理することは難しい。だから実家へ今は読んでいない本を送ろうということなのだろうが。それでもまだまだ腑に落ちない点はあった。
「カミサマの実家に本を送るんやろ? そんなん宅配サービスに頼めば良いやん」
 ひとつ年上の男ふたりがごちゃごちゃと揉めている間に出すことのできた紅茶をカップに注ぎ、邑神の目の前に差し出す。男はそれを受け取りながら、恥を忍んでという表情で苦々しげに吐露する。
……それができれば苦労してないんだ、千葉恵吾。両親は本宅に既に戻っていて、譲り受けた実家は無人でな……
「『本宅』ゥ?」
 千葉の声が思わず引っくり返る。東雲はいつもの美しい微笑みでくすくすと笑い声を上げた。
「有奇くんのおじいさまとおばあさまのお宅に呼び戻されているんだよ。だから有奇くんの実家は今は彼の所有物で、でも家主はこちらに住んでいるから誰もいないってわけ」
……カミサマが『ぼんぼん』なのは知ってたけど、本宅って、これはまた……
「地元でも有数の名士だからねえ、有奇くんのおうちは」
「それにしてもカミサマも究極の道楽者やなあ……ってかホームセキュリティで無人受け取り設定とか……
「生憎、彼の性分でそういったサービスも利用してないんだよ。普段の有奇くんの画廊と同じさ。家主が居なければ『領域』に踏み込めない」
「うっわ……めんどくさ……
「おい、目の前で自分の悪口はやめろ」
「悪口やなくて事実やろ……タクシーとかどう?」
 千葉にしてみれば当然の選択肢を提示したまでだったが、邑神有奇は半端に持ち上げていたティーカップをソーサーに置き直すと今までで一番「ありえない」という表情で顔を歪めて千葉を見上げた。
「タクシー? 勿体無い……それに知らない人間と狭い箱の中に詰め込まれるくらいなら歩いた方がマシだ」
「出た出た。極度の人見知り……どう思う、千葉くん」
 東雲はせっかくの美しい微笑みを再び呆れの表情に戻して肩を竦める。
「ううん……めんどくさい……
「だろう?」
「だから目の前で悪口はやめろ……
 万事休すとでも言いたげな邑神は力なく言葉を溢す。自業自得とはいえその落ち込みようは流石に少しだけ哀れに見えた。