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Ykanokawa
2024-08-11 11:42:51
9300文字
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クリテメ
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【オクトラⅡクリテメ】蒼穹のゆりかご
・pixiv掲載「翠色のゆりかご」
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=22368812
・こぼれ話その2(本編を読了済みでないと不明な設定があります)
・クリック君の幼少期について盛大に捏造 大捏造
・貴族の世界観は雰囲気
以上を承知の方のみお通りください。自衛ご注意。
朝、目が覚めたときにはすでに憂鬱だった。
空は鬱陶しいほど晴れ渡っていて、忌々しいくらいに陽気な日の光が降り注いでいた。カーテンの隙間から零れる光を見て、それでも諦められずにおそるおそるカーテンの端を捲ってみた。快晴の空と眩しい陽光に絶望的な気持ちになった。
寝る前にざあざあ降りの雨になるよう祈ったのに、幼いクリック少年の祈りはどこにも届かなかった。
まあ、無理もないかと早々に諦める。クリックより熱烈に晴れの日を望んでいた誰かがたくさんいたんだろう。
そんな絶好のガーデンパーティー日和になってしまったので、クリックはあちこち窮屈で息苦しい上等な服を着せられ、揺れる馬車に詰め込まれて運ばれている。どこにと訊かれたら品評会とでも言えばいいか。競売でもいいかもしれない。遠縁の子爵家で開かれる茶会。まだ幼い上流階級の子どもたちを集め、花と飾りに彩られた庭で軽食とお茶を楽しむ。そういうパーティーなのだそうだ。
――
そこで僕らはふるいにかけられる。
金のボタンを留めながら着替えを手伝ってくれたメイドは、よくお似合いですよ、と言った。だから汚さないように、と言外に含めながら。
御礼の品を持たせてくれた執事は、紳士的な振る舞いを忘れぬように、と言った。ウェルズリー家のために、という幻聴が聞こえた。
跳ねた髪を直してくれた母は、気をつけて行くのですよ、と言った。彼女は何を案じているのだろう、と勘繰ってしまった。
こちらを振り向きもしなかった父は、マシな娘を捕まえて来い、と言った。どうやって、と悪態を吐くことも出来ずに、はい、と答えた。
暑そうに太陽を睨んでいる御者だけが、面倒そうな顔を隠さなかった。こんな日照りの日に今にも没落しそうな弱小貴族の小僧を乗せなければならないことに同情した。
――
晴れなければよかったのに。
父の言う〝マシな娘〟とはクリックの家に多額の持参金を持ってきてくれる令嬢を指す。領地が潤っている下位貴族の令嬢、もしくはどこかの栄えている商会の娘。同世代のそんな少女たちのことを言っている。今日のガーデンパーティーの真の目的はそれだ。家同士が家のためになる縁談を求め、相性の良さそうな相手を探す。よりよい政略結婚のための競売場。
別に珍しいことではない。貴族にとって家に有利な結婚をするなんてこと、心得て然るべきだった。上位貴族であればあるほど、家と矜持と本心との間で軋轢に喘いでいる者は多数いる。自分だけ好きになれる人と結ばれたいだとか、自分だけが不幸だなんて思っていない。
でも、クリックと結婚してもきっとその令嬢は幸せになれない。父が虚勢を張って張りぼてばかりを量産していることは、なんとなく知っていた。自分と結婚する人はとんだ貧乏くじだ。父はその令嬢から奪うことしか考えていない。与えることはない。クリックに踏み台にして生きろと言う。
愛や恋が存在しなくとも、夫婦というものは何かを与え合っていくものじゃないだろうか。政略結婚でもそのように過ごしている紳士と夫人はたくさんいると聞く。そんなふうになりたいのに、そんなふうになれる気がしない。
貴族は家のためを思って政略結婚に臨むものだが、クリックにはクリックの家が守るべきものだとは思えなかった。
パーティーで気の合う令嬢ができたとして、クリックはその人から奪うことしか出来ない。クリックには与えられるものがない。そもそも、そんな奇特な令嬢がいるだろうか。
見た目は見苦しくはない程度だと思う。衣装は一着だけ備えられたプレタポルテ。教養もマナーもそれなり。強いて言うなら武芸は向いている気がする。平民からすれば貴族の体面は保てているだろうが、きらきらしい貴族主催のパーティーに出ればたちまちクリックなど埋没する。
憂鬱だった。今日も手ぶらで帰宅するクリックを両親は落胆の眼差しで見るに違いない。
――
どうするのが正しいんだろう。
首元に巻かれたクラバットがずっと緩やかに締まっていくような錯覚を憶える。でも、錯覚なので本当に息が止まってしまうこともない。息は止まらず、ずっとずっと、苦しいまんまだ。
かぽ、かぽ、という牧歌的な蹄の音に合わせて車窓の景色が緩やかに変わる。街路樹の隙間から漏れる木漏れ日はあんなに眩しいのにクリックの心を照らさない。まだら模様に染まった樹木と石畳が流れていくばかり。
いっそのこと、台風でも来てすべてを台無しにしてくれたらいいのに、とちょっと思う。ちょっと思うだけだ。実際にそんなことが起こったら、クリック以外の令息令嬢が困るだろうから本当に望むことはしない。
気分を変えようとそっと身を乗り出して窓の外を見た。
街路樹の間を年嵩の夫婦が並んで歩いているのが見えた。年頃の恋人たちのように細やかに微笑み合ったり手を繋いだりはしていないけれど、仲睦まじく歩いている。婦人が持っていたバスケットを紳士がさり気なく取り上げて小さく微笑み合っていた。
苦しくなって見るのをやめた。
たぶん、クリックはあんな風になれない。なるための魔法をクリックは知らなかった。
薔薇は繊細な生き物なのだという。
隅のテーブルでティーカップを受け取ったクリックは、ぼんやりと知識の一片を思い出した。
ホストである子爵家の夫妻と令息たちに挨拶をし、招待の御礼を渡した時点でクリックは役目を終えてしまった。屋外に設置されたテーブルの上、瀟洒ではあるが遊び心がある動物や植物を象ったティーセットが披露され、宝石のような菓子とサンドイッチが載ったティースタンドがいくつも立てられている。
どうやら形の違うティーセットごとに違う茶葉が蒸されているらしく、令嬢たちがはしゃいでいた。令息たちは中央のテーブルに置かれた贅沢なショコラファウンテンに夢中だった。付き添いの夫人たちはクロスに編まれた目の細かい流行のレースの柄について語り合っている。
クリックはあまり人気のない一角に留まりそれを眺めるだけだ。時折、顔見知り、ぎりぎり友人と呼べる令息たちが声をかけてくれるのでそれに礼を返した。今日は誰もが忙しい。斜陽に差し掛かっている家の木っ端にかける時間はないのだろう。解っているからクリックも簡単な挨拶だけをして、無駄話をすることなく、彼らを輪の中へと送り返した。
みっともなく泣いて喚いて腹の底に溜まった不満をぶつけたら、誰かひとりでも手を引いてくれたかもしれない。そんなことを考えるが、当然、できるはずもない。自分の手が泥沼から伸びている餓鬼の手だと理解していて、ここから助け出してくれ、なんて言えるわけがない。
助けてほしい。
助けられたくない。
助かりたい。
どれも本音だ。
品の良い彼らの笑い声を聞きながら、既に羨ましいとも思えなくなったクリックの心は枯れてしまっているのだろう。全部がどうでもよくなってしまう前に、何とかできたらいいのだけど。
そうして、何か暇を潰せるものを探して視線を彷徨わせたとき、ふと目に入ったのが木陰にひっそりと咲いた白い薔薇だった。羊の絵が描かれたティーカップを持ったまま、クリックはそっと立ち上がった。子どもばかりの交流を目的としたガーデンパーティーだから、それくらいのマナー違反に目くじらを立てる者はいなかった。
数歩だけ歩いて木漏れ日に咲く白い薔薇を見つめる。木陰にも関わらずぴんと背筋を伸ばした茎と生命力に溢れる青々しい葉。戴く花はシミひとつなく真っ白で何者にも染まらない力強ささえ感じられた。
ただ死んでいないだけのクリックよりも生き生きとしている。しかし、今日は日が照っていて地面が乾いていた。ほんの少しだけ、わずかだけ、花の頭を重たげにしていて元気がないように見えた。
――
お茶をあげたら、元気になるかな。
クリックの手元にあったのは、これまた人気のない羊のティーセットで蒸された人気のない苦めの
薬草茶
ハーブティー
であったからそれもいいかな、と思ってしまったのだ。これはこれで可愛らしいと思うのだが、貴族の令嬢たちはやはり身近な家族である犬や猫といった小動物が好みらしい。
そんな安易で浅はかな思考のもと、ティーカップを傾けかけたときに、不意に浮かんだのだ。
薔薇は繊細な生き物なのだという。
するすると絡まった糸が解けていくように、薔薇に纏わる知識が引きずり出される。曰く、堂々と大輪を咲かせてみせる代名詞にも関わらず、その性格はひどく繊細なものなのだとか。美しく咲かせるには植え付ける土から吟味しなければならない。剪定と施肥は絶対に必要で、丁寧にそれを行ったとしても今度は害虫や病気にかかる可能性がある。ものによっては温度管理がされなければ生きていけない。
人間みたいだな、と思ったことをよく憶えていた。どこから生まれるかにその後を左右され、伸びた髪や爪を切って定期的に食事をする。何かに襲われたら身を護らなければならないし、病気になったら薬を飲む。暑すぎても生きていけないし、寒すぎても生きていけない。我儘で気難しい生き物だと笑い合った。
――
誰と?
そもそもそんな知識はどこから手に入れたものだろう。庭師はクリックが物心つく前に首を切られているので、クリックの家の庭はいつも老年の執事が世話をしている。庭ばかりに感けていられない執事は面倒な花壇はすべて適当なオブジェに変えたと言っていた。
貴族の教養には花を贈る意味や注意すべき花言葉はある。が、薔薇がどのように育てられるか、なんて記載はない。それを生業にしている一部を除けば、花は貴族にとって買うものか庭師が育てたものを鑑賞するものだ。
では、クリックはいつ、どこで、誰と、そんな会話をしたのだろう。思い出せない。思い出せないのがどうでもいいことだと思えない。木漏れ日しか届いていないはずなのに胸の辺りがじりじりと焦げていく。
背中で上がる歓声も、お喋りも、甘いお菓子も香り高いお茶も、どうでもいい。そんなにも多くのものがどうでもいいのに、それだけがどうでもよくなくて食い入るように薔薇を見つめ続けている。
力んだ指先でカップが揺れて、中身のお茶が零れそうになる。慌てて両手で抱えるように支え直したところで、クリックの身体を焼いていた木漏れ日が遮られた。
「おや、悪い子がいる」
涼やかな声がそよ風となってクリックの髪を撫でた。
そんなことがあるわけはない。ないのだけれど、その声が空気を震わせた瞬間に、柔らかく清涼な風がクリックの髪を攫った。そんな気がしてしまった。
大人の声だった。おそるおそる、そうっと面を上げたところで目を見開いた。
木漏れ日に照らされて柔らかそうな銀糸の髪がさらさらと揺れる。長い睫毛に縁どられた翡翠色の美しい瞳がクリックを見下ろしている。薄めの唇が緩やかな弧を描いている。肌はこんな晴れの日に外に出ていてよいのか心配になるくらいに白くて綺麗だ。中腰になった膝に置かれた手は骨ばっているし、背丈だって高い。顔の線は細いけれど、それでもはっきり男だとわかる。でも、綺麗な人だ。
かっちりと着込んだ緑青の服と羽織った白い外套に意匠が見える。あれは見たことがある。聖火教の
紋章
シンボル
だったはず。では、この人は神官なのだろうか。
そんな美しい人がクリックの側に立っていて、何故か心臓がどくんと跳ねた。
――
さん。
口から何かが零れそうになってクリックは戸惑った。今、口から出そうになったものはなんだろう。誰かの名前だったような気がする。おかしいな。クリックはこんな綺麗な人を見るのは初めてだったはずだ。名前を知っていたら忘れるはずがないのに。
ぼうっとしているうちにその人はクリックの隣に腰を落とした。意匠が誂えられた法衣の裾がふわりと広がって地面についてしまう。クリックはその金の刺繡が土に塗れてしまうのがどうにも気になってしまうのだが、着ている当人は何も頓着していないようだった。
「よ、汚れてしまいます」
「洗濯くらい自分で出来ます」
そういうものなのだろうか。クリックは自分の服を自分で洗ったことなどない。手のかかる絹の服だけではなく、普段着にしている平服さえも。洗い方を知らない。貴族としては当たり前のことなのだけれど、何だか無性に恥ずかしくなって目線を落とした。
「いけませんね」
風のような軽やかな声がクリックを咎める。白く細い指がひたりとクリックのカップを指して、ぎくりとした。
「ホストの注いだお茶に口をつけずに零してしまうのは失礼です。あと薔薇は」
「繊細な生き物だから、他人が勝手にお世話をしてはいけない
……
ですよね」
翡翠の瞳が瞬かれ、ふっと微笑を含んだ吐息が漏れた。わかっているじゃないですか。飲み込まれた言葉を、どうしてか理解することができた。
わかっている。わかってはいるけれど、白い薔薇はなんとなく元気がないまま、目の前にある。目の前にあるのに何も出来ていない。
「どうするのが、正しいのでしょうか」
それが白い薔薇に対する問答なのか、それとももっと別の何かに対するものなのか。自分でも判然としなかった。そんな茫洋とした問いかけにしたら、隣の彼は呆れてしまうだろうな。何故だかそんなことを思った。
隣にいてくれる綺麗な人が、長く細い息を吐き出した。
「
……
さてね。自分で探すことです」
冷たく突き放す言葉だ。身も蓋もない。けれど、不思議なことに棘はまったく感じなかった。クリックの胸はちいとも痛くないし、泣きたくもなっていない。相変わらず途方には暮れているけれど。
クリックを突き放したはずの人は、そうとは思えない穏やかな表情をしてクリックの隣にいる。離れていく気配はない。
「本当に正しいものなんて、そうは転がってませんけど。でも」
とく、とく、と心臓が動く。死んでいないだけだったはずの心臓が、鮮やかに音を立てている。
どうして。なんで。知らないはずなのに、クリックは、僕は、この鼓動の意味を知っている気がするんだ。
冷めた湯に浸かっていた頭が冴えてくる。風が靄を払っていく。風に梢が揺らされて、木々の擦れる静かな音が降ってきた。子どもたちの喧騒がさっきよりも遠くに聞こえる。とても、とても、遠い。自分とこの人と白い薔薇しかこの場にいないかのよう。
助けてほしい。
助けられたくない。
助かりたい。
――
違う。僕は、本当は。
助けたい。
助けられる人になりたかった。
自分のことも、他人のことも、自分で助けられる強い人になりたかった。その想いは、願いは。
「君はもうとっくに知っているはずでしょう」
手のひらを開いてみる。幼く、どこか丸っこく、白パンのようにふわふわした頼りない手だ。あかぎれもささくれさえない生白い手。
――
違う。こんな手じゃなくて。
視界が霞む。ぶれる。肉刺と胼胝だらけになった、お世辞にも綺麗とは言い難い武骨な手が見えた気がした。
白い薔薇が咲いている。木陰にも関わらずぴんと背筋を伸ばした茎と生命力に溢れる青々しい葉。戴く花はシミひとつなく真っ白で何者にも染まらない力強ささえ感じられた。堂々と大輪の花を咲かせ、他人の目を、クリックの心を惹きつけてくるくせに、しっかりと棘を備えて触れるだけでも一筋縄ではいかない。
綺麗な外見を持ちながら、その実、図太くて面倒くさくて気難しい繊細な花。
「まるであなたのようだ」
するりとそんな一言が喉から滑り出た。自分の口から飛び出た一言にも、その声が数段、低いことに驚く。何故か、その言葉を吐くのが二回目だとクリックは知っていた。
ざあざあと海辺の波が砂を攫うような雑音がした。子どもたちの声が掻き消える。甘く焼けつくショコラも、香り高い紅茶も、お茶会を彩る匂いも届かない。
いつのまにか同じ目線になっていた美しい人の顔を見る。先ほどまでは美しく綺麗だと思っていたのに、クリックの言葉にほのかに目尻を染めたその人が、今はとても。
――
かわいい。
そうだ、彼は、そういう人だった。
「
――
テメノスさん」
そういう美しい名前をした、綺麗な外見を持ちながら、その実、図太くて面倒くさくて気難しい人だ。
名前を呼ばれた彼の人が、それこそ花の蕾が綻ぶように破顔した。少々温度の低い彼の手のひらが頬に触れ、そっと離れていく。見た目の細さと白さに見舞わず、その手のひらは存外に荒れていて肉刺も胼胝もあった。男らしい手だ。確かに男の手なのに、何よりクリックを落ち着かせ、なのに心を乱していく魔法の手だった。
すっと掲げられた彼の両手が、クリックの鼻先でぴったりと合わせられる。
いつのまにかクラバットの閉めつけがどこかにいっていた。もう苦しくない。
薔薇のように微笑んだ白い人が、雲雀が歌うような甘いテノールで厳かに告げる。
「そろそろ目を覚ます時間ですよ、寝坊助くん」
さっさと戻っていらっしゃい。
ぱん、と手拍子が鳴った後、真っ白な光が台風よりも強い力ですべてを攫っていった。
寝台が揺れている。
よくない夢で頭が揺れているのかと一瞬だけ思ったが、違った。本当に揺れているのが正しかった。
とぷん、とぷん、と微かな波の音が聞こえる。徐々に記憶と意識がはっきりしてくる。
そう、そうだ。ここは。
「起こしてしまいましたか?」
冷たいハンカチが額に滲んだ寝汗を拭っていく。拭われた後の爽快感にほう、と息を吐く。少し首を傾けると、柔らかそうな銀糸の髪がさらりと揺れた。彼の手にした濡らされたハンカチが丁寧にクリックの額と頬を拭っている。
クリックが目を覚ましたことに気がついた彼は
――
テメノスはレモンの薄切りが浮いたグラスをクリックへ差し出した。結露の滴るグラスをありがたく戴く。よく冷えたレモン水を一口、飲み干すと口の中が渇いてべとついていたと気づいた。グラスを空にする頃には腹に掬っていた不快感ごと、綺麗さっぱり洗い流されていた。
「フフ、まさか君が船酔いする質だったなんてね」
「ふ、普段はしませんよ!」
「わかってますよ。まあ、ここまで強行軍でしたからね」
ここはトト・ハハへ向かう船
――
商人パルテティオが所有するグランド・テリー号の船室だ。小さく丸く開けられた分厚い硝子窓から外を覗けば、そこには一面の海原が広がっている。傾いた西日が水平線に差し掛かって、赤く空と海とを照らしている。
真昼の光はあんなにも白いのに、夕刻が近づくと真っ赤になる。ちょっと不気味なくらいに。そう思ってしまうのは、赤という色に血を想起してしまうクリックだけだろうか。
トト・ハハの沖合いに聖堂機関の旗を掲げた船が現れた。オーシュットから齎されたその言葉を聞いたのがわずか二日前の出来事だ。
動かないという選択肢は、クリックにも、そしてテメノスにも存在しなかった。
幸いにも二人とも、その頃には仲間の足手まといにはならない程度には快復していた。身体を労り続けていた甲斐があったというものだ。すぐに隠れ家を発ち、最小限の休憩を挟んで海へ向かった。
その休憩の間にも締め付けてくる緊張感に悩まされて、クリックはまんじりと出来ずにいた。
仮眠すら取らずに揺れる帆船に乗ればどうなるか。わかっていたはずなのに、海上に出て、後は船の速度に任せるだけという状況になって、クリックの身体に蓄積した疲労は表に出てきてしまったのだった。
「島に着いてからでなくてよかった、と思っていたところです」
「め、面目ありません
……
」
なんだろう。そう仕組まれてでもいるのか、単なる偶然なのか、彼には不甲斐ないところばかり見られている気がする。一番、見られたくない相手なのに。
「お腹は空いていますか?」
「
……
いえ、今は」
「そうですか。では、もう少し眠っていなさい。
……
明朝、島に着くそうですから」
はい、と頷いて従おうとして、真正面から見たテメノスの顔色に、心臓が凍った。
「
――
テメノスさん」
「なんです?」
声が強張っている。窓から差し込む光が赤いから、すぐに気がつけなかった。顔色が悪いのは彼もだった。ただでさえ色白なのに、血の気が感じられないから、蝋のように真っ白に見える。
ハンカチを持った右手を左手が抑えている。小さく震えているのを見てしまった。
――
僕は。
何故、自分ばかりが苛まれていると思っていたのだろう。恐怖も、緊張も、懸念も。失ったものがあるのは彼も同じだというのに。世話を焼くその手がまったくいつも通りだったものだから、見逃してしまうところだった。
半身を起こし、手を伸ばした。組んだ彼の両手を包むように触れる。びくり、と跳ねた指先が冷たい。ハンカチが冷たいから、というだけじゃない。そんな確信があった。
「クリック、君」
「テメノスさん」
深呼吸をする。取り乱すな。やるべきことはひとつだけ。腹は決めていたはずだろう。
そうして、目の前の何度言っても頼ってくれない困った人と、夢の中のかつて何者でもなかった幼いだけの自分へ。一言を。
「僕は、騎士です」
手の中の震えが止まる。翡翠の瞳がきょとり、とクリックを見上げて瞬く。
「新人で、あなたにとっては頼りないかもしれませんが、騎士なんです」
テメノスの唇が何かを紡ごうとして失敗する。きゅ、と引き締められ戦慄く唇から、目が離せなくなる。
騎士になったのは、助けたいからだ。
助けるべき人を、助けて、守りたかったからだった。
――
でも。
守ります、とは言わなかった。心に誓うだけに留めた。言ったら、きっとこの人の思い出したくないものを思い出させてしまうだろうから。クリックに何か起これば、この人は苦しみ思い悩むのだと今さら知ってしまったから。だから、心にだけ誓う。
とん、とサイドテーブルにグラスを置く音がやけに高く響いた。反射的に身を引こうとする彼の肩を捕まえる。絡んだ視線の先で美しい翡翠が、ゆらゆらと揺らいでいた。軽く肩を引くと細い身体がもたれかかってくる。抵抗はなかった。
とくとくと脈打つテメノスの鼓動が身体に伝わってくる。同じように、テメノスはクリックの腕の中でクリックの心音を聞いている。
クリック君。
テメノスさん。
今度は音もなく、互いの名前を呼ぶ。互いの頬に息がかかる。頬に、それから。目を閉じたのがどちらからだったかは憶えていない。ただどうか、胸の中に蟠る恐怖からこの人が救われてくれますように。それだけを祈って熱を分け合った。
手のひらの中の細い指先は、いつのまにか熱を帯び薄っすら汗を掻いていた。
明日、空が晴れていようとも、もうクリックが絶望することはない。
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