ふーこ
2023-05-18 21:07:28
4994文字
Public 小説
 

葉陰のてのひら

マグネス。ちょっと昔の話。授業とかあるのか?いつ会ったのか?どんな子たちだったのか?知らなくて苦汁。

「後で追いつくから、先に行ってて」と言ったその表情に焦りの気配が一切なかったのを、もっと厳しく見咎めるべきだった。なんて今さら思ったってどうしようもないことだが。
 教室の窓の隙間から柔らかく風が入り込み、机の上に置いた分厚い歴史書のページがふわりと浮かんだ。
 あたたかい季節の膨張した空気は木々や花の香りを乗せて流れている。外を歩き回る訳でもないし、僕はこの麗かさを大げさにありがたがったりはしないが、心地よい天気だということにはもちろん理解を示そう。しかし今日ばかりは気力が削がれもするのだ。ここにいない弟弟子のせいである。
視線を前に戻して一瞬前と何も変わらない光景を目に入れる。老年の講師が顔から遠ざけて本を持ち淡々と召喚術の歴史を説く様は、何かの呪文の詠唱のようだ。僕にしてみればこの本に書いてあることの大半は既にある知識の答え合わせに過ぎない。けれど、だからといって今それを態度に出すべきでもあるまい。
 再び窓から吹き込んだ風がいたずら者のように僕の取り繕った集中を解きほぐす。隣の空席に目を向けて、本当ならそこに座っていなくてはいけないはずの弟弟子のだらしない顔を思い出すといよいよ情けなくなった。ラウル師範が指導をしてくださる日はマグナもおおむね顔を出すのだが、そうでない日は油断するとすぐこのありさまだ。もっとも、首根っこを掴んで引っ張ってきてあの男に何かを説いたところで、それを受け止めるだけの頭の器を用意してくるかというのも怪しいところなのだが。その気の無い者に学を与えるのは困難を極める。
 今ごろどこで何をしていることやら。なんて思いながら、居場所の目星くらいはすぐにつくようになってしまったのは素直に受け入れるべきことか、嘆くべきことか。
 授業の終わりの合図を聞き、本を閉じて木の椅子から立ち上がると、僕の足は苛立ちに弾かれたように動き出す。「どこへ行くんだ」という問いの答えは言わずもがなだ。
 マグナが授業を抜け出して好き勝手に過ごしているのは以前からのことだが、僕がわざわざその様子を見に行ってやろうなんて思い始めたのはごく最近のことだ。
 僕たちが授業を受けている棟の入口を出てしばらくも歩くと、硬くてひんやりとした石造りの道を抜け、柔らかな芝の地面と日向の元に辿り着く。今日のような天気は特にマグナ好みだ。授業にも顔を出さず、木の上でうつらうつらとするのに適しすぎている。
 何人かの派閥の召喚師や、その見習い、そのほか雇われている者たちとすれ違いながら庭園を抜ける。人の気配よりも鳥の気配の方が多く感じられるようになった辺りがあの困り者の隠れ場所だ。
 到着地は敷地の隅の方、人が立ち寄るべき用もない場所である。そこには大きな枝に青々とした葉を茂らせ、緑の芝に色の濃い影を作り出している大樹があった。所々に生っている実は大きさもばらばらで、一応人間が食べられるものではあるが、この場所においてはそれは人よりも獣が好んで食べる。ここ、蒼の派閥本部で野生の果実をもぎとって食べる人間がそうはいないからだ。
 その例外にあたる一人がマグナである。
 眩しくないよう、木の枝で太陽を遮りながら気をつけて見上げると、二股に分かれた枝の根元をベッドにして体をくつろがせているマグナを見つけた。腹の上に乗っているのはどう見ても召喚術の勉強の本ではなさそうだ。
……せめて自習でもしているのならと期待したんだが、無駄だったみたいだな」
「うん? ……あ、ネス。おはよう」
 いつからここで眠っていたか知らないが、この男は僕が声をかけてやっと目が覚めたようだ。寝ぼけ眼で伸びをしようとするものだから見ているこちらがヒヤヒヤする。
 マグナは最近ぐんと背が伸びた。まだ僕よりも身長は低いけれど体に厚みも出始めている。それなのに小さな子供のような仕草で動くから、いつかバランスを崩すんじゃないかと見ているこちらは気が気でない。
 出会った頃はもっと痩せていて目の光も鈍くぼんやりとしていたのに。ぼうっとしているのは相変わらずだが、あの頃よりはずっと健やかだ。
 食事を吐き戻したりしていないか、固くて冷たい床を選んで眠っていないか。そんな心配をしていた頃を思うと、ちゃんと勉強をしろとか木から落っこちるなとか、そんなことを言うのはまだマシなものだと情けなさを収める。
「おはよう、じゃない。君の言葉を信じて先に教室に行った僕が馬鹿だったよ」
「ちゃんと授業に間に合うつもりだったんだよ。でも、近道しようとしたら、この木の下に鳥のヒナが落ちててさ。巣に戻してやってたんだ」
「それで?」
 棘を持たせたつもりの声色をマグナは意にも介さない。話が嘘ではないことの証明に、この男が寝そべっている枝の先に鳥の巣があるのが見えた。しかしそれはマグナがここで寝こけている理由にはならないのだ。
「それで……。あったかくて気持ちいいから、少し休んでから授業に行こうと……
「もういい、よく分かった」
 マグナは何も僕が苛立っていることに気づいていないのではない。分かっていて、ごまかそうともせず呆れたことを言っているのだから余計たちが悪い。
「つまり君は、そのままここで気持ちよく眠っていたわけだな?」
「だってさ、もったいないよ。こんな日に部屋の中に閉じこもってるなんて……
 悪気もなくそう言ってのける態度の大きさだけは、マグナに敵う者はいないだろう。いつものらりくらりと楽観的な男。裏を返せば、何にも期待をしていないということだ。
 そして僕はきっと、彼の例外である。
 どうしてマグナは僕に何度も笑いかけたのだろう。今さら聞けやしないことだ。わざと冷たくしたことだってあったのだから、それを悪かったと思うと決まりが悪い。
 マグナは僕に何かを期待していた。僕を諦めなかった。だから、僕も僕自身を諦めなくていいのだと思えた。
 遺伝する記憶が懐かしく切ない熱を持つ。僕自身の感情がそれに同調する。確かに今ここにいるという実感と、どこに立っているか分からなくなるような気の遠さが同時に僕の中に生まれていた。
「ネス。ネスってば」
 はたと我に返ると手に持っていた本の重さが急に意識の下に蘇り、僕はそれをしっかりと抱えなおして、返事がわりに彼の目を見た。
「ネスもどう?」
「どう、とは?」
「こっちに来てみないかって。さっきから何度も聞いてるだろ」
 じっくりと目を見つめて、それから視線を逸らしてため息をつくと、マグナはそれですべてを理解したように、僕が返事をする前から眉を下げた。
「遠慮する」
「あはは……。そうだよな」
 小さな子供のように体を使って喜ぶ年でもない。僕は地面から大きくせり出した木の根の、なだらかな部分に腰かけた。茂った葉が影を作っていて、風が吹くと涼しく心地がいい。軽く顔を上げればマグナがのんびりと寝そべっているのが目に入る場所だ。
 このままではマグナはいつまで経っても半人前、人に認められず未熟者として扱われる。せめてこの歴史書を少しでも読んで聞かせてやろうかと思うが、それは意味がないだろうな、とさっき思ったばかりだ。
 それでも手は無意識に本を開いて、知っていることばかり書かれたページを見るともなく目に入れる。
「マグナ。君が読んでいるその本、僕も見たことがあるよ。召喚師というよりも冒険者向きの本だ。それも基礎の基礎、旅の準備をするために市場へ行く人間が見るには役に立つようなものだな。君にその予定があるとは思えないが?」
 暗に君にはもっと他に読むべきものがあるだろうと言ったつもりだ。いつもなら、すぐにムスッとした声で「別にいいだろ」と文句を言われるところだが、頭上からは何の返事も返ってこない。
 一丁前に怒っているのかと枝を見上げると、マグナはいつの間にかうつぶせに寝返って僕のことを見ているようだった。風が吹くたびに葉の陰から覗く太陽が僕の視界を眩ませる。けれど、すぐにマグナがどんな顔をしているか見て取ることができた。
 何がおかしいのか嬉しそうに笑っている。もしかして、とうとう嫌味まで通じなくなったのか。
「念のため聞いておくが、その本の感想を君と喜んで語り合いたいと思っているように聞こえたなんて言わないだろうな」
「なっ……。ネスは、俺をいつまでも能天気な子供だと思ってないか?」
「違うか?」
……もういい」
 マグナは眉を下げて不本意そうにじっとりと僕を見てから、最後にもう一度頬を緩めた。マグナが笑う理由は分からないが、それに噛みついて喧嘩をしようと思うまで腹は立たない。
 再び手元に視線を戻して、見てもいないページをめくった。部屋に戻って別の勉強をしてもいいかと思ったけど、なんとなく、ここでマグナと一緒にいようという気分だった。彼の言う通り閉じこもっているにはもったいないような天気であることを心のどこかでは認めているのかもしれない。
「俺はけっこう面白いと思うんだけどな。市場に買い物に行ったことも、ほとんどないし」
 マグナが独り言のように呟いた言葉がチクリと胸に刺さる。さっきのは失言だっただろうか。マグナは派閥本部の外のことをほとんど知らないのだ。
「当たり前みたいに知らないことが書いてあったりするよ。なあ、この本に書いてあることって全部本当なのか? 市場ではいろんな木の実や薬草を売ってるとか。それも効き目がいろいろあって、高値なものもある」
「それが嘘なら僕は即刻その本を君から取り上げているさ」
「この木にだって実が生ってるのに、みんなこれを食べたり売ったりしないよ」
「この木の実でも腹は膨れるだろうが、市場に回っているものと比べて質が劣るだろうな。薬草や、武器や防具も、悪質な店でなければ一定以上の品質のものが並んでいる。好んで粗悪なものを食べたり買ったりする人はいないということだ」
 マグナは、ふうん、と曖昧な鼻歌を返した。
 市場に並ぶ木の実や薬草の束、行きかう人々の喧騒、屋台の食べ物と旅人の香水の混じった香り。泥水のようにゆっくりとした人の流れ。思い出すと少し酔いそうになって、ますますここが心地よい場所に思えた。静かだしマグナの他に人もいないから気を遣わなくていい。僕は周りに人がたくさんいるのが好きではない。けれどこの頃は一人きりも少し寂しい。
 この世界に、たった一人だった。僕も、マグナも。たった一人だった。それにヒビを入れたのは何だったのだろうか。回りだした歯車は僕らを巻き込んで潰そうとしているのか、それとも遠くへ運ぶ気なのか。
 いずれにせよ勝手だ。そんな勝手の中に喜びを与えられるのは、辛くて、苦しくて、それなのに痛いほど嬉しい。これだけを抱いて生きていけると思うほどに。このために生きていけると思うほどに。
 不意に思考が弾けて消えた。コン、と頭に小さな衝撃を受けたのだ。ほんの小さなその衝撃はまるで猫だましのようだった。
 視界の端に何かが落ちていくのが映って辺りを見回すと、小さくて形もいびつな木の実がころころと転がって、木の根にぶつかって動きを止めたのが目に入った。それと同時に頭上でマグナがふきだす。顔を上げるが眩しくてよく見えず、睨みつけてやれないのが少々悔しい。
「マグナ。木の実を落としただろう」
「ごめん、まさか頭に当たるとは思わなくて……。今度はちゃんと受け取ってくれよ」
 やっぱり、俺はこれも十分おいしいと思うからさ。と付け加えて、マグナは手を開いて木の実をぱらぱらと降らせた。
 見上げると眩しくてうまく受け取れる気がしない。そもそも、これを食べるだなんて僕は一言も賛同していないのに。
 大小の木の実が地面に落ちるまで一秒もない。いろんな考えが巡る間もなく、僕はただ影になって見えるマグナの手のひらの形が、ラルムカルムの葉みたいだと思ったのだ。万能の、価値のある葉だ。きっとマグナの読んでいる本にも載っている。
 
 子供っぽくて笑えるだろう? 結局、一緒にかじってみた木の実は酸っぱくて思わず顔を顰めてしまったし、甘い実を見つけるまで僕らは何度もそれを繰り返して、ラウル師範に帰りが遅いと心配をかけたことだしね。