ふーこ
2022-08-03 19:53:11
6358文字
Public 小説
 

背中を追う

クラリュ。髪を伸ばしたリュートと、立場が変わったリフレイン。

 空には雲一つなく、薄青がどこまでも高く遠く広がっていた。湿度の低いからりとした空気が太陽の熱に温められ、心地の良い気温を作り出している。
 遮るものの無い空を悠々と飛行していた鳥が、ふいに羽ばたきを繰り返してそこを避けていった。スフォルツェンド魔法学校の上空に突如として鉛色をした巨大な雲が現れたのだ。雲の中では目にもとまらぬ速さの雷光が忙しく駆け巡り、怪物の唸り声にも似た雷鳴が恐怖を誘う。
 その恐るべき雷雲はひとりの青年の頭上で大きく膨れ上がり暗い影を落としている。
 彼は恐れるでもなく逃げるでもなく、手元の魔導書を瞬きも少なに見続けていた。青年の佇まいには若木のような爽やかさがあり、しかしその顔つきは真剣であった。
 ブレザーの袖から覗く細い手首が重厚な魔導書を支えている。それを読み上げながら魔力を具体的な形あるものへと置き換えているのだ。この学校では、よく見られる授業の光景である。
 活力と知性を秘めた黒い瞳が古代文字を苦も無く追い、不思議と雷鳴にも負けずに通る声が薄い唇から発せられた。
「雷よ、我が声に応え大地をわら、割り……えっと」
 青年の声が硬さを失って揺れる。すかさず、ゴンと鈍い音が響いた。青年――リュートの頭の上に、師であるクラーリィの持つ杖の先端、十字の平面がのしかかったのだ。これはリュートが魔法を失敗した時のお決まりだ。
 暗雲の中で一際大きく生じた出来損ないの雷が、二人の体をかすめて地面の魔法陣に落ち轟音と共に火花を散らした。
 本来はこれよりも大きな雷が強烈に光って、地面を割るはずだった。しかし失敗に終わったとはいえその光は間近で目に入れるには眩しく、雷鳴は耳鳴りを起こすほどうるさい。
 チカチカと目を瞬かせながらリュートが恐る恐るクラーリィの様子を窺うと、金色の髪を上等の布のように美しく肩にかけて、眉間を押さえ俯いている師の姿が目に映った。
 これから発せられる言葉はなんとなく想像が出来た。「噛むな、集中しろ」あたりだろうか。リュートはぎゅっと目を閉じた。
「今日はひどいな」
 想像よりも、もっとだ。
 けれど、それもそのはずである。リュートが詠唱を噛んだのはこれで三回目だ。次こそはと挑んだ強力な魔法を失敗してしまったのである。
 クラーリィがため息と共に指をついと振るうと、地面の焦げ目や砂埃、リュートの描いた魔法陣までもが一瞬でまとめて消え去った。
 もともとリュートの魔法陣の下にはクラーリィの描いた抗魔の陣が隠されていた。衝撃の吸収と後片付けのために敷かれたそれは、クラーリィが事も無げに繰る魔力で完璧な仕事をしてみせたのである。
 はじめから何も起きてなどいなかったかのように、この場はまっさらだ。リュートはその手腕に一瞬呑気に感動してから、我に返った。
「理事長、その……。すみません」
 しゅんと俯いた拍子に流れた前髪が瞼をくすぐり、リュートは煩わしそうにそれを払う。
「髪が邪魔か」
「あ……そうですね。少し伸びてきたなーと思っていたところです」
 撫でつけて耳にかけようとするけれど、それには少々長さが足りない。少年らしい柔らかさを失いつつある真っ直ぐな黒髪が頬の横で揺れている。
「前が見づらいんじゃないのか。だから魔導書の読み上げに失敗する」
「そうかもしれません。切るタイミングを逃していて」
 リュートはちらりとクラーリィの髪を見た。さらさらの、絹のような長い金色の髪が服の黒によく映えている。
 間違いなく美しかった。リュートには髪の手入れのことはよく分からないけれど、自分が同じようにこのまま髪を伸ばしてみたとして、こんな風になるだろうかと考える。
 考えると唸ってしまうが、憧れないではなかった。強大な魔法の発動と共に大きく翻る長い髪。優雅で、気高く、美しい。心惹かれるものの象徴のように思える。
「いっそ伸ばしてみるのもいいかな、なんて……。理事長は昔から髪を伸ばしていたんですか?」
「ん? ああ、子供のころは短かったが、それでも今のおまえよりも長かったかな」
「へぇ。髪が短い理事長か……ちょっと想像がつかないです」
 クラーリィはリュートの無邪気な言葉にほんの少しだけ口の端を上げた。
「オレも、髪が短かったころの感覚はもう思いだせん」
 つられて笑おうとして、案外冗談ではないかもしれないと思い直しリュートは口を閉じた。慣れた手つきで長髪を扱うのを見ていると、本当に思い出せない昔からクラーリィがそうしているような気分になったのだ。
「そんなことより、伸ばすにしろ切るにしろ支障の出ないようにしておくことだ。今日はもう終わりにする」
 クラーリィは身を翻すと、コートの裾が広がる動きに合わせて煙のようにその場から姿を消した。ワープ魔法も気を遣って繰り出せば静かなものだが、今のはその中でもかなり熟練した技だろう。
 リュートはもう姿の見えない師に向かって礼を言って、ひとり、目にかかる前髪をどうしたものかと指先で弄んだ。
  
 ◆
 
 どうやらリュートは髪を伸ばすことにしたらしい。と、クラーリィが知ったのは数日後のことだ。
 校内を巡回していたところにリュートの姿を見かけた。それがあまりに変わっていたので、一度は目に入った影を彼と認めず意識の外に出したほどだ。
 リュートは背中まで伸びた髪を耳にかけて歩いていた。
 知らない生徒を見たと思った。聞けば、髪を早く伸ばす魔法なんてジョークみたいなものがあるらしい。
「本に書いてあったのを試したんですけど、意外とちゃんとした魔法だったみたいで」
 笑うと、扱いなれない長髪が揺れる。黒髪は肩の下まで真っ直ぐに伸びて、毛先の近くでふんわりと広がり、再び収まっている。
 クラーリィはリュートの中に認めていた面影をほとんど無意識のうちに探して、それを打ち止めた。
「邪魔にならないのなら、それでいい」
 聞く者が聞けば素っ気無いと文句を言われそうな返事だ。しかしリュートも褒められるのを期待していた訳ではないので、けろりとしている。
 クラーリィは見た目が変わったことに逐一言及してくるような人でもないとリュートは理解していたし、あなたに憧れて真似をしてみたんです、などと言うのは浮かれていて恥ずかしい。返事が簡潔だったことにむしろ安心すら覚えていた。
 クラーリィからの評価が変わるとすれば、それは今度こそ詠唱を失敗せずに魔法を成功させた時だろうと気を引き締める。リュートは前髪もまとめて簡単に髪を一つ括りにすると、頬を両手で軽く叩いた。
「バッチリです! 今日の授業、頑張りますから」
 間違いもするが、ひたむきな子供だ。リュートが「頑張ります」と言えば、無条件に応援と期待をしたくなる、そんな不思議な力があった。
 クラーリィもまた彼に期待をする一人である。
 リュートには厳しく指導をしているつもりだ。敬愛する王家の血筋であることも関係ない。それを越えて彼がめげずに立ち上がるたび、楽しそうに魔法を覚えるたび、クラーリィの内には喜びが湧き、彼の成長を願った。
「楽しみにしておこう」
 短い言葉を何度も噛み締める。リュートは胸を高鳴らせて準備へと向かった。

 ◆

 緊張と高揚の先に、静かに凪いだ極地がある。
 必要なのは焦らないことだけ。魔力が体から離れても、しっかりと手綱を握って自分のものとする。頭を垂れるように、それでいて従えるように、数日前と同じ呪文をなぞって唱える。同じところを噛まなかったのを、クラーリィは頷きながら聞いた。
 以前より数倍も大きな暗雲が學園の空を覆い、風に木々がざわめき、獣は身を潜めた。
 リュートは静かにそこに立ち続けている。このままやれるだろうか、いや、やってみせる。瞳が揺らぎそうになるのを抑えつけて最後の一文字を読み上げたとき、雲の中から白く大きな光が走ると同時に大地が揺れ土煙が上がった。光と衝撃に一瞬遅れて、戦神の咆哮かと思える雷鳴が轟く。
 落雷で地割れが起きている。それも想定よりも大規模で、抗魔の陣だけでは対抗しきれないほどの。
 このままでは立っていることもままならない。クラーリィは杖を突き立てて法力で地面を支えた。大小の雷の気配が凶器のようにそこら中を駆け巡っている。その一つ一つを無力化しながら、土煙の中にこの魔法を使った青年の姿を探す。
 術者に害を成す魔法は基本的に存在しないことになっている。正しくは、存在しているが禁じられているのだ。リュートが成功させたこの魔法も代償を必要とするものではないのだが、規模が大きければ、術の結果に巻き込まれて害されることもある。
 授業中にもかかわらず生徒達が教室という教室の窓から身を乗り出して外を見ていた。そのとき一陣の風が土煙を押し流し、まるで砂漠の砂嵐のような様相を見せ始めたので、今度は一転してバタバタと窓が閉められていく。
 
 次第に開けていく視界で、クラーリィは風の発生源がリュートであるのを見つけた。土煙をおさめようとしたが、雷気に水気は危険と判断して、水よりも風を呼んだのだろう。
 リュートの髪を束ねていた紐が風に耐えられず千切れて飛んでいった。黒髪は砂嵐の中でうねりながら靡いている。目は伏せていたが、砂の粒が彼の頬や額を打ち、小さな傷を作っていた。
 クラーリィは急ぎ歩を進めた。リュートは今、自分が傷つかないように結界を張れば良いということにも頭が回っていないのだ。リュート自身にとってもこの魔法の威力は想定を超えていたのだろう。
「リュート。無理に砂を押し流すな」
 肩を抱き、周りに結界を巡らせると、襲い掛かるように舞っていた砂礫の感触がぱったりと消えた。
 リュートは瞼を開いて丸い目でクラーリィを振り返る。その表情からは高揚がぶり返していることが窺えた。
「舞い上がった土と砂を集めて、地割れを修復しろ。集めて型に流し込むようにだ。地盤の崩れは抑えてあるが……穴埋めがまだ済んでいない」
「ハ、ハイっ!」
 リュートは手のひらを空に翳し、魔力を用いて念じる。砂の一粒一粒に。草の根に。小さな虫に。土くれの中の石や苔や湿り気に。みんな、然るべき場所へ返してあげると語りかけるようにして。
 砂嵐はその呼びかけに、荒れ狂うことを止めた。
 時間を巻き戻していると錯覚しそうな動きで大きな地割れは塞がっていく。仕上げとばかりに花が一輪根づいたところで、リュートは膝を付いた。
 さすがに消耗しているらしい。小言は置いて助け起こしてやるのが先決だろうとクラーリィが屈むと、リュートはパッと顔を上げ瞳を煌めかせた。
「あぁ、良かった! あの、また失敗したら恥ずかしいから言わないでおこうと思っていたんですが……
 そう前置いたのを聞いて、クラーリィは妙に納得してしまった。そうか、少々威力が強すぎだが、これはけして失敗ではないなと。リュートは先日失敗した魔法を成功させたし、後片付けもしてみせたのだ。
 クラーリィの勢いが削がれたことなどつゆ知らず、リュートは続ける。
「ボク、髪は伸ばさなくたっていいなと思ってたんです。でも……やっぱり、クラーリィ理事長に憧れて真似をしてしまいました」
 恥ずかしそうな笑顔の中に、クラーリィは敬愛した王子の姿を思い起こせずにいる。
 代わりに浮かぶのは幼い頃の自分だ。あのとき、王子を愛し、憧れて背を追った子供の自分。まだ無力さを知らず期待と愛情の中にいた。
 
 ああ、王子。誰かが自分の姿を追っているというのは不思議なものですね。想像するのも恐れ多いことですが、もしかしてあなたも、それを愛しく思いましたか。今あなたがここにいたとしても、とても聞けはしないことですが。

 記憶の中で王子は少年の姿をしている。クラーリィはもうとっくに、歳も背丈も、追いつけないままに通り過ぎてしまった。
 うららかな陽射しと柔らかな風とシャボン玉。頭を撫でてもらったこと。まなざしがいつも優しかったこと。幸福な記憶が胸の奥底から滲んで、何か言おうにも喉がつかえた。
「あの、理事長……。やっぱり嫌でしたか?」
 権威があり造形も整っているクラーリィほどの人間が、まじめに黙ったままでいると怒っているように見える。
 この場において、そう思わせるのは本意ではなかった。いいや、と答えようとしたとき、リュートの背後に小さな紫電が閃いた。
 クラーリィが咄嗟にリュートの腕を引いたのと、鋭い稲妻がリュートの首元を掠めたのはほとんど同時だった。全て無力化したと思っていたが、生き残りの雷が消滅の前に暴れて空を走ったのだ。
 腕を引かれた勢いのまま抱きとめられ、リュートはクラーリィの懐から清潔な石鹸の香りと清廉な魔除けの香水の香りを感じ取った。
 それらに混じって、背後から何かが焦げたような嫌なにおいがする。
……雷がまだ消えきっていなかったようだな」
「すみません、庇ってもらって……。クラーリィ理事長、お怪我は」
「いや、オレは大丈夫なんだが……
 妙に歯切れが悪い。リュートは首を傾げて、何やら頭が軽いことに気がついて、後ろを振り返り思わず声を上げた。
「わーっ! 髪が焼き切れちゃってる!」
 憧れて真似をしてみたのだと言ったばかりの長い髪が、バッサリと切れて地面に落ちていた。首元に手をやってみても空を切るばかりだ。先ほどまで豊かに波打っていた髪の重みは、もうない。
「ああ……魔法は収めきれないし、髪型も元通りだし……。恥ずかしいです」
 さっきまで目を輝かせて憧れを口にしていたというのに、一転してしゅんと肩を落としてしまった姿は同情を誘う。
 リュートは地面に落ちた髪に手のひらを翳してそれを消し去った。子供じみた憧れの残滓に過ぎないかもしれない。けれど、まだまだ師には及ばず未熟だと言われているように思えて、納得する気持ちが半分、落ち込む気持ちが半分だ。
「まぁ……なんだ」
 クラーリィの手がリュートの頭に軽く触れた。いつもは注意とともに杖がのしかかるところに、今日は優しい感覚が降ってきたのだ。
「オレはそっちの方が見慣れているから、おまえらしいと思うがな」
 リュートはクラーリィの気遣いの言葉が珍しくて、気恥ずかしくて、少しだけ自分が情けない。クラーリィを見つめたまま、それらをうまく言葉にできずにいる。
 クラーリィにはこの時間が不思議だった。何を思ってリュートはこんなにもしんしんと見つめてくるのだろう。慰めというか、思った通りのことを言ったのだが、何か気に障っただろうか。それにしても、こんな風に黙って見てくるだけなんて不機嫌の示し方をするような性格じゃないだろうに。
 訝しんでいると、やがてリュートが眉を下げて柔らかく笑った。力の抜けた表情は普段よりも大人びて見えたが、いつもの調子を取り戻しているらしい。
「ボク、もっと頑張ります」
「あ、ああ……。今日の様子を見ていると、張り切り過ぎも考えものだがな」
「う……。そういうところも含めて、頑張ります」
 もごもごと決まり悪そうにしているのを見て、クラーリィは密かに笑った。
 
 今晩、リュートは鋏を手にして髪を切り整えながら、相いれぬ思いをかき混ぜるだろう。
 一人前になりたいと願いながら、クラーリィの前で心を自由にさせていたいと思うこと。
 信頼を得たいと思いながら、許されていたいとも思うこと。
 大人になりたいのか、子供でいたいのか。
 サクサクと気味良い音を立てながら、考えることだろう。