ふーこ
2021-05-16 19:55:41
10432文字
Public 小説
 

スラーにて

スラーに救援に向かったリュートが主にコキュウと会話をしている話。同じようで違う使命感。
※D・Sの話と同一世界線にしましたが単体でも多分大丈夫。
※リュートが14歳(仮定)のころ、ホルン様ご懐妊が分かる前あたりを想定してます。
※いろいろ想像・捏造です。

スフォルツェンド友好国 東の機械文明大国スラー
 


 高度に発達した機械の作用はほとんど魔法のように思える。
 ここスラー共和国の都において、機械の仕掛けを目にしない瞬間はほとんどない。荷を引く車は動物に引かせずとも自力で車輪を回転させるし、遠くの湾岸には数百年の大木ほどに巨大な機械が煙を吐きながら動いているし、城の門は人手もなくひとりでに開閉する。
 スラーは魔法や精霊の力を使うことにこそ長けてはいなかったが、補って余りある程に機械文明が発達している国だ。扱うのに生まれ持った素養が関係ないぶん機械による恩恵は民らにも広く与えられ、いつしか東の大国と呼ばれるほど国は豊かになっていった。

 とは言ってもスラーの技術が最も発達しているのは軍事兵器の分野で、民間はその余沢にあずかっているに過ぎない。
 兵器は、厚い装甲に覆われ巨大な武器を手にする兵を模したものから、戦車のように人間が乗り込む類のものまで多岐にわたる。命を持たず痛みも感じぬそれらは時に恐ろしいまでに無機質に、そして確実に兵器としての役割を果たした。
 神官服を身に纏う少年――次の誕生日には大神官に就任することが決まっているスフォルツェンドの第一王子、リュートがこの日スラーで見た機械技術は、しかし恐怖を孕むものではなかった。最初に彼がたどり着いたのは、スラーの兵と魔族が睨み合う戦場だったにも拘わらずだ。
 リュートがやって来た時、その区域に配置された大型機械兵は動きを止めていた。既にそれは魔族によって破壊されていたのだ。
 機械兵を多く配置していた区域で人的被害が少ないことがせめてもの救いだったが、予算と物資と時間を投入した兵器を落とされたことは大きな痛手だ。敵方が力をつけていることを見せつけられた結果にもスラーは衝撃を受けた。

 数年前と比べて魔族の進攻は頻度も精度も上がっていた。壊滅に追い込まれた小国も出始めている。魔族に対抗する力を持っているスフォルツェンドには、本来なら最高機密である各国の防衛に関する知らせが集まるようになっていた。中には庇護を求める声も少なくない。
 そういった情勢を鑑みて、数年先に予定されていたリュートの大神官就任も前倒しに行われることになったのだ。彼は齢十五にして、数万の兵を指揮し自らも前線で戦う身分となる。
 しかし実質その任は既に彼に託されている部分も大きい。大神官になるのは形式が実情に追いつくというだけだ。リュートが諸国に救援に向かうのも初めてのことではなかったのだが、わざわざ魔法で空間を越え海を隔てたスラーにまでやってきたのには理由がある。スラーは大魔王を封じる《箱》を守護する国であるからだ。
 人類は魔族から《箱》と《鍵》を守らなくてはならない。《箱》が開いて大魔王が解き放たれた時、魔族は永遠の命と強大な力を得て、全ての人類を尊厳なき餌とするだろう。
 スラーが魔族に攻め入られ大型機械兵を破壊された区域が出ている、という情報はスフォルツェンドにもすぐに届いた。距離を無視して駆け付けられる転移魔法を使うことができて、その後も戦いに向かえるほどの法力を持つのはリュートくらいだ。そうして彼は単身スラーへと向かったのだ。

 リュートが戦場にもたらすのは人類の勝利ただひとつ。けれど、それは人々が――もちろんリュート自身も、みな無傷であるということではない。
 魔族は無事退けたものの、今回の戦いでリュートは足と肩に傷を負った。肩の傷は魔族の攻撃を受けて、足の傷は慣れぬ鉄の瓦礫を踏み損ねてできたものだ。
 国防の任に当たっていたスラー軍の要、スラー聖鬼軍と呼ばれる五人兄弟のうち、リュートが戦った防衛区域の一番近くにいたのが長女のリラだった。
 彼女は傷ついたリュートのもとに駆け付け、破れて血の滲んだ服や体の傷の数々を見て、湖のように澄んだ色の瞳を潤ませた。「どうか手当てをしていってください」と申し出て連絡係を先に走らせようとしたところに合流したのが聖鬼軍の長兄コキュウだ。
 彼は二人の無事を認め、それから苦々しく周囲の光景を眺めた。都を離れた郊外、避難も完了した地区ではあるけれど、人々の暮らしが破壊された跡を見るのは心が痛む。

 兄から全区域の交戦が終了したとの状況を聞いてリラはほっと息を吐いた。そして彼女はリュートの付き添いをコキュウに任せ、自らが王城への伝達役となることを買って出る。
 彼女はそこらの兵よりも早く駆けることが出来るし、自分が付き添いをしたとして、道中ずっとリュートと一緒だというのは恥ずかしくなってしまうという思いもあったのだ。魔族を退けて一つ安心したら、途端にそういう気持ちが湧いてきた。

 すくと立ち上がったリラの長い髪が軽やかに揺れる。
「それじゃあ、リュート王子、兄さん。私は先に行ってお待ちしていますね!」
 しなやかに走り出したリラの背中はあっと言う間に小さくなっていった。風に流れる彼女の髪まですっかり見送ってから、リュートは頬をかく。
「すみません、深い傷でもないのに。お言葉に甘えてもいいんでしょうか」
「助けていただいたのは我々の方。手当くらいでは礼が足りぬほどです。参りましょう」
 コキュウはリュートを先導しはじめようとして、はたと気が付いて向き直る。
「足の傷が痛むようであれば、背負いましょう」
 駆動輪のついた機械兵が生きていればそれに乗せて移動することもできたが。苦しい策とは思いながらそう提案したコキュウが、返事を聞く前から膝をつこうとしたのでリュートは慌てて制止する。
「包帯をくれた方がいて、足の怪我の方にはしっかりと巻いてあります。普通に歩く分には困りません。むしろ……スラーの街を歩けたら嬉しいくらいです」
「そうですか? では、少々歩いていただくことになりますがご容赦を」

 そうして歩き始めて、都に入ってすぐ。やはり乗り物を用意すべきだったとコキュウは後悔した。
 リュートは街に存在する機械仕掛けのひとつひとつに「すごいですねぇ」と目を丸くして、かわいらしい程度の無邪気さでそれらに近寄っては眺めた。その度にコキュウは気が気でない思いでリュートを見守ることになったのだ。平気そうにはしているけれども、彼は怪我を負っているのだから。
 やっとスラーの王城にたどり着き、城門が自動で閉じていく様子や配線やモーターをまじまじと見つめて、それで何が分かる訳でもないのにリュートは感心してため息を漏らす。くるりとコキュウの方を振り向いた瞳は、つられて心が浮き立ちそうになるほど輝いていた。
「すごい! まるで魔法の力が働いているようです! こんな仕掛けが街じゅうにあるんだから……誰もが魔法を使えるようなものですね」
「我がスラーの技術をお褒めいただき光栄です。ですが、そのあたりで。リュート王子はお怪我をなさっているのですから……あまり動くと傷に障ります」
「あっ、そうでした。つい感動してしまって」
 リュートは照れくさそうにコキュウの後ろについて大人しくしようと努めた。魔法が国の原動力となっているスフォルツェンドでは見ないような技術ばかりで、目を奪われるのも仕方がないといえば、そうなのだが。

 王城に入ると先に到着していたリラが二人を出迎えた。彼女の後ろにはスラー聖鬼軍の三人、ガイタ、ゴーン、ショウの姿もある。コキュウは張り詰めていた糸の一本が緩むのを感じた。
「ああっ、いらしたわ。リュート王子、あちらの部屋へ」
 リラは二人の姿を認めると姿勢を正した。すらりと伸ばした腕は、治療室の方を示している。
 その肩に肘を置き軽い調子でリュートに話しかけたのは次兄ガイタだ。
「ありがとよ。王子が駆け付けてくれたおかげもあって、今回は負傷者が少なくてな」
「だから、気兼ねなくゆーっくり使って大丈夫だからね、リュート様!」
 末弟ショウもガイタに続いて茶目っ気を含ませてそう言うと、ウインクをして笑った。
 彼らにこうやって話しかけられるのがリュートは好きだった。自分にも兄や弟がいたとしたら、きっとこんな風に話しかけてくれるのだろうと想像をしては、心の知らない部分をくすぐられている気分になるのだ。
「ちょっとガイタ兄さん! 重たいから離れてよね」
「分かってらあ」
 ひらりと身軽にリラの側から離れ、ガイタはリュートに一歩距離を詰めた。
「手当なんかの細かいことは兄貴に任せるけどよ。後で茶でも用意させておくから、楽しみにしててくれよ。オレとゴーンはこれから行くところがあるんで、揃ってもてなせないのは悪いんだけどな……
「そんな。手当をしていただく上にそのようなご厚意まで……。先ほど戦いがあったばかりです。今日は皆さんもなにかと大変でしょう」
「駆け付けてくれた恩人に礼ができないとなれば、我らの気が済まないのです。リュート王子」
 慌てて両手を振ったリュートに返事をしたのは後ろに控えていた三男ゴーンだった。武器の備わった大きな体躯は、しかし人をいたずらに威圧するものではない。彼の言葉は落ち着いた表情と話し方によって、上滑りすることなく相手に伝わる。
 くるりと視線を巡らせて、五人五様の気遣いと期待の眼差しにリュートは頬を緩めた。
「では……ありがとうございます」
 不思議と、リュートが笑うとその場の空気が明るくなる。スラーの五人兄弟も雰囲気を和ませ、それからリュートの治療に付きそう者、戦場の後始末へ出向く者、応接の指示に向かう者とそれぞれに分かれた。

 先ほどリラが示した治療室の中を見渡すと、ガイタの言葉通り、治療を受けている兵の姿は戦の規模を思えば少ないようだった。防衛戦は成功に終わったと言ってよい結果だが、リュートも、付き添うコキュウとリラも、傷ついた者を前にしてはそれを幸いとも言えずにいる。
「ボクの治療は、他の皆さんが終わってから……一番後でいいです。いつもなら放っておくくらいの傷ですから」
 その心遣いの言葉に従えるはずもない。コキュウは入り口で立ち止まったリュートを何とか椅子に座らせ、看護師を呼びつけた。
「お言葉ですが、あなたの傷をこれ以上放ってはおけません」
「そうですわ。大丈夫です、リュート王子。人手は足りていますから」
 続いたリラの言葉に頷いて、コキュウは周りに視線隠しの幕を引いた。肩の怪我の治療も行うのだ。スフォルツェンドの王子という身分の者が簡単に肌をさらすのは避けるべきことだろう。
 心配そうに手を組んでいたリラも、コキュウに視線でそれとなく促されてハッと気が付くと「応接間でショウを手伝ってきます」と言うが早いか、身を翻して出ていった。
……心配してくれたのに、リラさんに悪い事を」
「気にすることはありません。オレが同席することはお許しいただきたいですが」
「かまいません」
 返事をしながらリュートは服を緩めて肩の傷を見せる。血は止まりかけているようだが、長く切り裂かれた傷口は生々しい。
 似つかわしくないと思った。それから、誰ならば戦いの傷が似合うというのかと苦く思う。更に衣服を緩めたリュートの背中に十字の痣が浮かんでいるのが見えてコキュウはそっと目をそらした。
 どうやら縫合が必要なほどの深い傷ではないようだ。傷口が白い包帯に覆われていくのを視界の端に留めながらコキュウは思考を巡らせる。そういえば王子はさっき、いつもなら放っておく傷だと言ったか。女王陛下の治癒の力があれば治療など本当は不要だったのだろうか。

 スフォルツェンド王家の力は絶大だ。家系に宿る強大な法力もさることながら、治癒魔法はもはや奇跡、神の領域である。
 人類を守護する奇跡の力。慈母の神の加護。コキュウはその言葉をどこか自身から遠いところに思い浮かべた。
 もはや体のほとんどが、人の血と肉と骨によっては出来ていないのだ。奇跡の力もこの身には届かないのだろう。我ら五人は同じ父母から分かたれた血を捨て、神の祝福もなく、心のみを一つにして。
 ただ、そう思っただけだ。スフォルツェンドの力に敬服はすれども、その力の恩恵に与れないであろうことも、人の輪から離れた境遇も、悔やみ恨むことはない。スラーの叡智の詰まった体は神の奇跡も及ばぬところで、重く、鋭く、研ぎ澄まされている。
 コキュウは全身に宿る自在な刃の気配を今一度確かめた。使命を果たすための力だ。これを得なかったもしもの世界を考えることは、もうない。

「コキュウさん」
 名を呼ばれてはたと顔を上げると、治療を終えたリュートが椅子に掛けたままコキュウを見上げていた。肩の傷は着なおした服にすっかり隠され、足元からは爪先の方まで緩みなく巻かれた包帯が覗いていた。
「ああ、終わりましたか」
「とても丁寧に診てくださいました。ありがとうございます」
 傷が痛まないことはないだろうに、リュートはけろりと笑っている。健気にも痛々しくも見えた。コキュウは看護師を幕の外へと退出させ、リュートに小さく笑い返す。
「女王陛下の治癒の力を思えば、余計な手出しだったかと心配していたんですよ」
 思わずそう口にしたのをコキュウはすぐに悪手だったと悟った。リュートの柔らかな表情が僅かに陰ったのだ。
「そんな! 感謝しています……本当に、いつもはちょっとの傷なら何もしないんです」
 リュートは小さな椅子の上で膝を抱えた。彼の子供っぽいしぐさにコキュウは更に心を焦らせる。
 子供っぽいもなにも、事実リュートはコキュウよりも幼い、子供と言って差し支えない歳だ。それでもそう感じさせない明るさと芯の強さが彼にはあった。それを剥いでしまったような気がしたのだ。
「治癒の力も無尽蔵ではありません。だから……
 リュートが小さな声でそこまで言ったところで、コキュウは俯いた。その先を聞かなくても続く言葉を想像できる気がしたのだ。人が神の奇跡を起こす時、その者は何を捧げるか。
「申し訳ありません、王子。オレは、その……無神経なことを」
「えっ? あっ、ち、違うんです! ボクが変な態度をとってしまって……
 コキュウが詫びると、今度はリュートが慌てる番だった。この狭い空間で一国の王子という立場の者が二人、居住まいを正して項垂れて、ぎこちない空気が流れる。
「ただ、心配をかけたくなくて」
 おずおずと話を続け、リュートは恥ずかしそうに髪を触って体を縮めた。
「それに、治癒の魔法を使うと母さんにはボクの心がちょっとだけ分かっちゃうみたいで。ボクがもっと小さいころなんて、痛くて泣いたのがバレちゃったこともあるんですよ。そういうのが恥ずかしいからっていうのが本当の理由です」
 リュートが深刻めかしてそう言ったものだから、思わず笑みをこぼしてしまう。コキュウは彼の気遣いに感謝して肩の力を抜いた。この少年の心のどこに知られて恥ずかしい部分があろうか。まるで淀がないだろうと、そう思う。
「ですが、あまり怪我を放置していてはいけませんよ。最近の王子の活躍ぶりは噂がスラーにも届くほど。いくらあなたでも毎回無傷ということもないでしょう」
「ええ、お恥ずかしいことに」
「何をおっしゃいますか。此度は助けられた身ではありますが……同じ王子という立場として、そして同じく魔族と戦う者として。我らはあなたを尊敬し、力になれたらと思っています」
 改めて言う必要もないかと思うほどコキュウにとっては当然に抱いている気持ちだった。リュートはその言葉を丁寧に受け取って、胸の内に溶かすように小さく背を丸める。
「ボクも同じように思っています」

 力になりたいと思うこと、守りたいと思うこと。それがうまく伝えられないと思ったこと。掴みどころの無い思いがふとリュートの中を巡った。
 清潔に保たれた白い床が明かりを反射しているのを見るともなく眺めながら、水に一滴のインクを垂らすように、リュートはぽつりと言葉を零す。
「ボクもダル・セーニョで、そう言えたらよかったのかな」
 突如持ち出された国名にコキュウは虚を突かれた。ダル・セーニョと言えば大陸北部の剣技の国。スフォルツェンドの守護国にふさわしい、魔族に立ち向かう国力を持っている大国だ。記憶の中から情報を手繰り寄せて、かの国に関して王子と十分に会話ができるか考えを巡らせる。
 独り言のような声の大きさではあったけれど、聞こえなかったふりをするのが正解という話題でもないだろうとコキュウは口を開いた。
「ダル・セーニョはスフォルツェンドの守護国でいらっしゃる。そのお立場なら、むしろあちらが王子の力になりたいとおっしゃるでしょう。我々と同じように」
「それは、頼もしい限りです」
 リュートはにわかに顔を上げコキュウと視線を合わせた。
 何かを言おうとしているのだと思った。けれど、しばし沈黙が流れる。言おうとしたのをやめたのか言葉を探しあぐねたのか、それが分からなくてコキュウもしばし黙ってリュートを待った。

「だけど、本当は……誰にも傷ついてほしくない、って思ってるんです」
 やがて区切りながら続けた言葉は、優しく勝手だった。
 この時代に人類の希望たる強大な国の王子として育ち、並外れた力を持つ少年。人を愛し、人に愛されて生きている少年。誰も傷ついてほしくないと願ったのはスフォルツェンドの王子か、それともリュートという一人の少年か。そっと話し出したことは、彼の心のどこにある思いなのだろう。
 リュート自身も今きっとそれを量っていて、また自分も聞き方を量っているのだとコキュウは感じていた。
「軽んじるつもりはありませんが、たとえば盾になると言われた時、ボクは悲しかったんです。人には命がある。生活や、愛するものや、幸福があるのに」
 リュートは膝に置いた手で神官服をぎゅっと握りしめた。真っ白な装束は所々が血や泥や煤に汚れている。
「でも、悲しかったことをどう言っていいか分からなくて……
 この少年は行く先々でこんな風に傷ついては帰ってくるのだろうかと、コキュウは彼の日々を思いやった。
 自分の傷には無頓着なくせに他人のことには敏感に心を痛めて、我が身を呈することも厭わない。傷が癒えないうちから歩みを進めてきたのだろう。彼は人々の幸福を、笑顔を交わす何気ない日常を愛しているのだから。
 自分がただの一人の青年で相手もただの一人の少年であったなら何か違う言葉をかけられただろうか。そんなことを考えそうになって、不毛なことだと思考を打ち止めた。

「時に使命は生きる理由となり、生き残ることよりも大切なものとなりましょう」
 そうでなくては立っていられない。戦い抜けない。引き下がることはもうできないのだ。
「恐れながら、リュート王子。為すべきと定めたことを果たせない方が、それを取り上げられてしまうことの方が。……よほど恐ろしいことではありませんか。悲しむことはありません。皆には皆の使命があるというだけのこと」
 どこかから風でも吹き込んだか、周りを囲う幕の裾が力なく揺れ、わずかな衣擦れの音が緊張を伴って耳に届く。
 リュートは黙っている。けれど何かを思っている。真っ直ぐな視線をコキュウも黙って受け止めた。

 悲しかったのだと言う少年の心を救えはしないだろうと分かっていた。
 魔族の進攻が激しさを増し、小国は壊滅に追い込まれる世界。彼の心の傷や消耗が癒えるのを誰が待ってくれようか。彼に希望を託し彼を生かすために戦う人間がいなくなることも無いというのに。その全てをたった一人の人間が守ることは出来ないのに。
 さっきまで目を輝かせて街中を歩いていたような、素直な少年の心を慰め掬い上げる言葉は用意されていなかった。

「幼いことを言いました」
 リュートは落ち着いた声で恥じるように、しかしはっきりとそう返す。
 もう、このことに関する感情を隠してしまうのだろうと思った。簡単に寄り添うこともできないのであれば、それを悔やむのもおかしな話だ。コキュウは据わりの悪さを落ち着けるように腕を組んだ。
「幼さではなく、それはあなたの生まれ持った心でしょう」
「呆れましたか」
「いいえ」
「そうですか……よかった。これも呆れられないと良いのですが」
 リュートはコキュウの真正面に立ち、拳で自分の胸を軽く叩いた。瞳の奥で光が瞬いたような錯覚が起こってコキュウは目を細める。
 細い腕に薄い胸板。まだ成長の余地がある体の中にどれほどの力と感受性を持っているか。彼に満ちているものを幼さだと一蹴することなどできない。

「言葉を借りるなら、ボクの使命はみんなを守ることなんだと思います。……いえ、やっぱり使命というのとも違うかもしれません。ただ、好きなんです。そういうのが」
 リュートは胸の内にこみあげる愛しさに小さく微笑んでいる。
 やはり、慰めることにも諫めることにも、ましてや悲しみを掬い上げることにもならなかった。そのうちに彼はこうして一人で立ち上がり歩こうとするのだ。誰の手も取らずに。
「ボクはそういう大神官になろうと思うんです。そして、みんなの信じるものや信じる想いが……恐れず死を選ぶためでなく、その人たちが生きていくための力となることを祈ります」
「そう、ですね。そうできたら……
 コキュウは言葉を詰まらせた。
 そうできたら良いのだろうか。たとえば自分たちはそれを生きるための理由にし続けられるか。きっとできないだろう、と考えるだけで胸が鈍く痛んだ。
 結局自分たちは、命に代えても責を全うすることを選ぶと確信している。持ちうる全てを賭す覚悟がある。この国に生まれ、この世の人々を想い、戦う力を得た者の使命のために。
 それを悲しいと思うことはもっと寂しい。だから己を奮い立たせる。何も果たせぬことの方が恐ろしいというのも紛れもない本心で、真実だ。

 守護国の意志を軽んじるつもりはないと言ったリュートの思いだって本当だ。けれど彼はそれ以上に他者が傷つくのが辛いのだ。自分の盾になると言われたのなら尚更。幼いと言われるか、呆れられるかと思いながらも、捨てられぬ願いが彼にもある。
 ではリュート以外の人間はみな彼に守られるべき存在で、誰も彼と共に戦うことは出来ないのだろうか。「そんなバカなこと」と皆が声を揃えて言うかと思えば、神にも例えられるリュートの強さは時に人々の目を眩ませて、「彼さえいれば」と言わしめるのだ。彼の強さは、理想に現実味を与えてしまう。
 コキュウもリュートの強さには瞠目する。けれどリュートが傷口から血を流していたことも、膝を抱えて母を思っていたことも、悲しみを忘れぬままでいることも知っている。
 そして何より、コキュウにもコキュウの譲れぬものがある。持っている力は及ばずとも、同じ世界で覚悟を持って戦う者がここスラーにもいるのだと、リュートにだって分かり切ったことを改めて言いそうになる。パンドラの《箱》と《鍵》を守るという責を負い人類のために戦う者がいると。


 それは王子にとって何か力になり得ているか、それともむしろ傷つけているのか。いずれにせよもはや誰も後には引けぬというのに、こんなことを考えても仕方がないのだろうか。
 我々は、同じものを抱えているのではありませんか。


 蔦のように這う思考を内に収めて、コキュウはやっと口を開いた。気持ちばかりが空回ってうまく言葉に形を変えない。そのまま話し出すのは何かが伴わないような気がしたけれど、何も言わずにいるのはもっと良くないだろうと思う。
「リュート王子。皆、心は同じはず。……いつも時や戦場を同じくするということはありませんが、あなたと共に戦っています」
「ええ。……ありがとうございます、コキュウさん」
 リュートは愛すべき少年の顔で、泣き出しそうにも見える笑みを浮かべている。それから一呼吸分の間を置いて、今度は丁寧に礼をした。全身に神経の行き届いている所作だ。細い髪がサラサラと流れ、神官服の生地の揺れまでもが神の計らいのように整っている。

 その美しさが今は寂しかった。彼の心のために、そして自分の心のために、いったい何ができただろうかと思う。
 顔を上げたリュートと目が合って、コキュウは小さくかぶりを振る。
……失礼、つい話し込んでしまいましたね。リラとショウが順調にやっていればもう準備もできた頃。案内いたします」
 会話の流れを変えて辺りの幕を順に取り払った。その言葉に笑ったリュートの表情は、もう人懐っこい子どものそれだ。コキュウはそれに安心してしまったことを苦々しく思いながら歩き始めた。
 廊下を進むと、まだ応接間も遠いというのに聞きなれた言い合いが微かにコキュウの耳に届いた。どっちの紅茶を用意するかだとか、菓子はコレがいいかアレがいいかだとか、絵画じゃなくて花と工芸品を置くのがいいだとか。コキュウはリュートを連れてくるのはまだ早かったと額に手を当てた。

 頭の痛い思いを抱えてゆっくりと歩みを進めながら、コキュウはリュートの祈りと自国の使命を思う。
 我らスラーは、絶対に使命を果たしてみせる。そのためなら鬼になることも厭わない。そのための強さを求めてきた。そうして生きてきたのだ。戦場に出た兄弟の無事を願う心の裏に、いつか全てを失う覚悟もあった。
 生きていくために傍にあるものとしては、あまりにも重い。

 神にも思える少年の祈りを、神を持たない青年だけが聞いていた。行く末を問うべきは己の心の他にない。