ふーこ
2020-07-24 12:46:14
4960文字
Public 小説
 

皆守と葉佩。皆守は未来を想像できない。ややネタバレを含むワンシーンです。

今のクラスに進級した時から俺の机には一本の線が彫り込まれていた。いつの代のどんな生徒がつけたかも分からない、彫刻刀で削ったような線だ。教師や用務員に言えば新しい机を用意してもらえただろうが、どうせロクに使いもしない机だからと黙ってそれを宛てがわれた。



「本当のことも書けない、あんまり荒唐無稽だと雛川先生が他の先生から嫌味を言われちゃうかもしれない。ときたら、これは何を書いたらいいんだろうね」
わざわざ人の机に持ってきて何を書いたらいいかなんて聞くようなもんじゃないだろ。そう俺が文句をつけたのも、もっともなことだろう。ホームルームで配布された進路希望調査のプリントを片手で振りながら九龍は机の横にしゃがみこんだ。少し傷んだストレートの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら眉を下げて、どうしたものかと口を曲げたその顔はどこか幼い。
九龍が手にしているのと同じプリントを、俺は机の上に置いたままにしていた。「大切な配布物があるから、皆守くんにも出席してほしいの」と前日から念を押されて渋々出てきたはいいが、こんなもんのために呼んだのかとため息が出てしまった。特に何を期待していたわけでもないくせに。教師が将来のことを考えるのは大事だと口をすっぱくして言うのなんて分かっていたことだ。九龍のプリントを取り上げて、記入欄に書いては消してを数度繰り返したような跡が残っているのを苦笑いで眺める。
「本当のことを書くっていうのと荒唐無稽なことを書くっていうのが実質イコールになってんだから、お前も先公泣かせな職業だよなァ」
「おいおい。生き証人を前にして荒唐無稽な職はないだろ」
「お前、自分が冗談みたいな格好をして、冗談みたいな戦いや探索をしてること分かって言ってるか?」
「冗談みたいでも生きてりゃマジだもん」
俺が心底呆れていることにこいつは気付いているのだろうか。くたびれた頭でそんなことを思いながら、九龍が親指で自分の胸をトントンと指して笑ったのを眺める。己が身ひとつをここまで誇ることができたなら、生きていくことの舵取りはどんなに心躍るものだろうか。羨ましいような、そんなことに思いを馳せるのが馬鹿らしいようなで、ほとんど嘆息のような笑いが漏れた。
「そうだな。どう考えてもお前はホンモノだ」
「なんか引っかかる言い方だけど……それはいいとして、本題だ本題。いい案ない? 俺の将来について」
将来について。そう言われて九龍の行く末のことを少しだけ考え、ポケットからアロマパイプを取り出した。ライターの火を付けるのはなんだか躊躇われて、ほのかな香りの残っているそれを指先に挟んで気を紛らわせるに留める。どう転んだって自分がいない未来のことを想像するのは心がむなしい。寂しいとか言うよりも、ただ空虚だ。
「お前の将来ねェ……
「これに書いても『なるほど、そうなのね』って見過ごされそうなヤツな。先生的に」
ああ、そういう。そりゃそうか。今は本来の意味で「ありそうな」九龍の将来について考える必要はないんだった。だとしたら、進学か、会社員にでもなると書いておけばいいんじゃないだろうか。それで教師が納得するかは分からないが。なんといっても素行が素行だ。サボり、校則違反、窃盗、深夜徘徊。それらをなんの躊躇いもなくするような人間が突然殊勝なことを言ったところで、雛川はともかく他の教師どもは『なるほど、そうなのね』とは思わないだろう。いや、面倒ごとには我関せずの姿勢を貫くかもしれない。向こうがどう転ぶかは俺の知ったところではないが、ともかく記入内容の白々しさは拭えないだろう。つまりこの男は何を書いてもとやかく言われるに決まっているのだ。もう諦めるしかないのではないだろうか。こんな小さな紙きれに、たとえ嘘であったとしてもこの男の将来展望を書かせようなんていうのは。九龍の真実も嘘も薄っぺらになってしまう気がする。プリントを九龍につき返して、脚をゆったりと伸ばした。
「そもそもこれを真面目に提出する意味があるとも思えないがな」
なんだよノリの悪い奴。とでも言われるかと思っていたが、九龍は隣で神妙に頷いている。
「ま、将来のためにこの學園に来たわけでもなければ、指導が欲しいってわけでもないからね」
いや、≪宝探し屋≫としての実績を積むって意味では将来のためかも? と九龍は腕を組んで続ける。結局九龍も、雛川に多少悪いとは思っているらしいが本気で苦心していたのではないらしい。その程度のことでわざわざ絡んで来たのかよと追い返してやりたくなる。お前な、と言ってみたところでこいつには響きやしないんだが。
九龍はもうこれは用済みとばかりに自分のプリントをポケットにしまいこみ、代わりに机の上にあるそれを指先で繰り寄せた。白紙の記入欄をついと眺めてからくりっと視線をこちらに向けてくる。
「甲太郎は?」
なんとなく、九龍にそういうことは聞かれないものだと思っていた。なにも進路希望が白紙だから注意してやらなくては、なんて押しつけがましい正義感やおせっかいの心が九龍にあるなどとは思わない。だから責められたような気持ちになるのは、どうしてか後ろめたくなってしまう部分が俺自身の中にあるからに他ならないのだ。
将来のことなんて真剣に考えちゃいない。自分という存在はどこかでふいと途切れて終わるものだと思っている。何かを成したいだとか何かになりたいだとか、そういう、いわゆる希望というものがなかった。強いて言うのであれば誰も裁いてやくれない罪を、その罪を手放したことを、果ては記憶の輪郭さえもぼかして見過ごしていることを、許されずに終わりたい。きっとこんなに苦しむからには何かを間違えたのだと思う。けれど何が間違いだったか分からない。過ちを探しながら同時に正当化しようとして、どこにもこれが答えだと思えるものが無くて、過去から連続する今に立ち止まって息が出来ずにいるだけ。
俺の将来のことなんて、誰が目を輝かせて語るだろうか。目の前が真っ暗になってしまったような閉塞感に襲われ、アロマパイプを手の中に握りこんだ。細かな装飾がちくちくと刺さって気分が悪い。
「かったるいんだよ。他人にあれこれ言われるのは」
「ふーん。じゃあ甲太郎も白紙提出か」
「出さないんだよ。白紙じゃケンカ売ってるようなもんだろ」
「出さないのも同じじゃない?」
九龍はけらけらと笑って学生服の胸ポケットからボールペンを取り出した。カチッと音を立ててノックすると黒いインクの溜まったペン先が先端から飛び出る。一瞬停止した思考が眼前の男の悪だくみを前に再び回りだしたのを感じたが、制止する間もなく九龍はプリントの記名欄に俺の名前を書き終えると、いたずらっぽく歯をのぞかせた。
「ココだけの、誰にもつべこべ言われない進路希望調査なら書いたっていい?」
「いいわけあるか。そうやって遊ばれるのも不快だ」
「遊んでなんかないさ、真面目だよ。カレー屋とかアロマ研究者とか夢が膨らむだろ。あ、逆か? カレー研究者とアロマ屋?」
「どっちだって変わりないだろ。どこが真面目だ」
「二つとも第一志望に併記しておこう」
……もう勝手にしろ」
白紙のまま捨て去ろうとしたプリントに無茶苦茶な未来図が記されていこうとしていた。自分自身ではなく九龍の手によって。
ふざけるなよと思っているのに、どこか期待している浮ついた感覚が確かにあった。研究者もナントカ屋さんもくだらない冗談みたいな夢だ。心底アホかと思うけれど、九龍が書くというのなら少しは笑える気がする。今生きている間の慰みに出来る気がした。俺の、将来のことを。

手にしていたボールペンの先が、ぼつ、と軽い音を立てたのと同時に九龍は短く声をあげた。3年C組皆守甲太郎と記名されたプリントの「第一志望」の文字の横には小さな穴が空いていた。

今のクラスに進級した時から俺の机には一本の線が彫り込まれていた。いつの代のどんな生徒がつけたかも分からない、彫刻刀で削ったようなその線は、触れれば血を流す生傷のように思えた。ボールペンの先がプリントを貫通して溝の中を突いているのを見て、年度のはじめに新しい机を要求しなかったことを少し後悔する。こんなのはとてつもなく小さな、何でもないことだというのに。
「ごめん、紙やぶいちゃった。っていうか何この傷、これ放置して授業出てたわけ?」
九龍が今気が付いたとでもいうように机の傷を指でなぞる。馬鹿なことと自分でも思うが、初めてその傷が真に迫る痛々しいものに見えた。抉れたままで、轍のようにそこばかりなぞられ、覆い隠そうとしても無駄どころか、覆ったものまでもろともに傷つけるような。誰がこんな傷をつけて誰がそれを見過ごしたのだろうか。疑問の答えも、問う意味すら、どこにもない。
……ノートなんかとらないからいいと思ったんだよ」
九龍は無礼にも「それもそうか、まず授業に出たら奇跡ってくらいだもんな」と納得した後、一呼吸分うーんと唸ってポケットをまさぐった。あのごついベストもないのに色んなものを詰め込んでいる。出てきたのはパテと、紙やすりと、それから絵の具だ。例え何に詳しくなくとももう分かる。
「でも直せるんならやっとこうぜ。俺最近技術と美術の成績上がったんだ、任せとけよ」
早口言葉みたいな宣言をして、九龍は断りもなくパテを机の傷に塗り込み始めた。いつもこうだ。なんだか、感傷的になる間も与えられないという気になる。
「おいッ! 勝手に始めるな。もうチャイムが鳴るだろうが。このまま放置されても迷惑――
見計らったように始業の鐘が鳴る。教科の担当が教室のドアを開けると、そこらで集まって談笑していた奴らがサッと自分の机に戻っていった。憎たらしいことに、九龍も例外ではない。人の机に許可なく補修材を塗るだけ塗って退散しやがった。どうするんだ、これ。席に戻った九龍を睨みつけると、奴はノートの切れ端に書いた粗末な手紙を丸めて投げてよこした。
『固まると調整困難。柔らかいうちにカッターで成形されたし』
馬鹿か。みぞおちのあたりからふつふつと苛立ちの立ち上ってくるのが分かる。ただ塗りこめられただけの歪な形をしたパテを睨みつけ、お経みたいな数学の公式を聞きながらこれを平らにする時間はさぞ虚しかろうと思うと自然と肩が落ちた。次の休み時間にやってきて呑気に俺の手腕を褒めた九龍を蹴飛ばすと、多少溜飲が下がったけれど。

貴重な睡眠の時間を削ってまで労力を払ったものの、この机の修繕によって受ける恩恵は言ってしまえばほとんどゼロだ。勉強がしやすくなって良かったとか、学校の備品を大切に使えて良かったとか、そんな感情がわいてくるはずもなく、ただ九龍と俺が何かした痕跡があるなと思うだけだった。痕跡と言っても、彫りこまれた傷のあった場所は丁寧にやすりがけと着色を施され遠目には分からないほどになっている。
あんな大きな傷、もうどうしようもないと思っていた。ずっとあの轍に邪魔をされるか捨ててしまうしかないのだと。簡単なことだったのだろうか、と思う。抉れた傷を何度も辿るのと同じように、直すこともまた簡単なことだったのだろうかと。そうは思いたくなかった。

そうは思いたくない? 簡単じゃないだなんて、いったい何が?
質感の違う傷跡に手の平をきつく押し当てる。机に傷があったとしても――多少馴染みのない行為ではあったかもしれないが、修繕が可能だということは考えれば分かることだ。同情、あるいは同調か。傷ついたものが直らないのを自分と重ねて憐れんでいたのだとすれば、あまりにも救いようがなくて、どうしてよいか分からなくなってしまう。モノは哀れだ。人に傷つけられる。だけどモノは良い。誰かが直せばもとに戻ることができる。なんの問題もなく以前と同じ役目を果たしてみせるだろう。

あの時、ペン先が傷跡をなぞらず、プリントに穴が開かなければ。馬鹿馬鹿しくて苦笑いの一つも出てしまいそうな未来が書かれていたなら、なにか心が晴れただろうか。それはそれでどうしようもなく救いようがないことだ。