一瞬、拒むようにぷかりと浮力の反発があったのをぐいと踏みつける。あっという間に水を吸い込んだ靴下の不快感も無視して葉佩は更に足を踏み入れた。
足下にあるのは、遺跡の中にその姿を隠していた狭い偽りの海である。水の中に沈み切っている石造りの階段をひとつ降りると靴の中に残っていた空気が次々に浮かび上がっては弾けた。壁の灯りに薄ぼんやりと照らされて、しかしなお暗く見通しのきかない水の中へ、葉佩は口元に微かな笑みを浮かべたままその身を沈めていく。
冷える夜にこの水は冷たすぎる。それでも葉佩は躊躇う様子も見せず更に階段を降り、やがて腿の辺りまですっかり浸かってしまったころになってようやく振り返った。
「これ以上は銃が濡れるな」
腰のあたりに回していたホルスターを軽く押さえて岸辺へと立ち戻る。
およそ現代日本に似つかわしくないものを、無個性な制服に身を包んだ青年がなんともない風に携えている、それをとりたてて恐ろしいとは誰も思わない。恐怖を抱くには、この男は多少毒気に欠ける。邪気なく物騒で感情豊かだけれどウェットではない。彼以上にそういったミスマッチを飼い慣らして無害の顔をしている者もいないだろう。
この寒い日にこんなことをしているおかしな男の、ふとこちらを見上げたその顔が思っていたよりも穏やかなことにどうしてか焦って、本日の同行者である皆守は葉佩の腕を掴んで引いた。バランスを崩した葉佩の足が水の中で重たそうにもつれ、一瞬空中を彷徨った手は支えを探して反射的に皆守の服を掴む。
このままだと一緒に転ぶ、と感じた瞬間、皆守は浅く吸い込んだ空気の中の塩辛さをとても嫌に思ったのだった。
♦︎♦︎♦︎
ただの雑談のひとつである皆守の言葉を聞いて、葉佩は「ふぅん」と鼻歌のような返事をした。淡水の地底湖と決定的に違う磯の香りを嗅ぎながら記憶を辿り、自分も彼と同様にしばらく海を見ていないということに思い至る。
だからと言って何というわけでもないな、と平らかに思ったその表情は大きくは変わらない。
「海、どうだった?」
「どうって言われてもな……。ただ波の音がやかましくて、風が強くて、何があるって訳じゃない。それだけさ」
「ふぅん」
今度はさっきよりもはっきりとした感嘆の相槌。皆守は怪訝そうに葉佩を見つめた。質問の意図がさっぱり掴めない様子だが、そもそも質問に大した意図など持たせていなかった葉佩はその無意味な考察を打ち止めるようにふと笑う。
何か思い立つ時にごちゃごちゃと手を加えた思考なんて必要ない。少量掬った水が身体に害のないただの塩水であることを分析し、それから自身の体に傷がないことを確認すると、葉佩は水の縁に立った。
「波も風もない海の底には何があると思う?」
「……おい。そのまま潜って探索するなんて言うんじゃないだろうな」
「まさか」
葉佩は後ろ手にひらりと手を振った。皆守が安堵したのも束の間、そのまま彼の足はとうとう水の中へと踏み入れられたのだ。ザブリ、と音が立ったのは最初の二歩。その後に水面の揺れる重たい音が続き、水の中からはごろごろと気泡が生じては弾けている。眠そうな目を少し見開いて皆守はそれを見た。
「さっきお前が『まさか』と言ったのは俺の聞き間違いだったか?」
「潜ってはいかないよ。こうして届く範囲に何かあればラッキーって思っただけ」
「それにしても、靴を脱ぐとか裾を捲るとか、何かあるだろ。普通」
「ああ、そうかも」
葉佩は濡れた衣服に視線を落として脱力するように笑った。同意したのは嘘ではない。皆守の言う通りだとは思ったが、後で火でも焚いて乾かせばよいとその些細な後悔を追いやった。
合理的ではないこの行動を、無駄であることを、それでも選ぶのは葉佩の感情に御しきれない余剰のあるせいだ。
少しだけ慮るところがあった。ここ数年皆守は海どころか少しの遠出もしていないらしい。活発でない男だからそれが彼にとって悪いことという訳ではないのかもしれないが、しかしこの場に張られた根は少々頑固なようにも思える。
都会のせわしさの中にぽっかりと穴を開けたような所にあるこの學園に、世界から隔絶されたここに、三年間ずっと留まっているというのはどんな心持ちがするものだろう。
暗い水底を眺めながらもう一歩階段を下ると、闇を吸ったような暗い水の層に隠れた爪先が視認できなくなった。
淀である、とは、言い切らない。
葉佩は頭の中を塗り潰すように思考する。皆守が呆れてため息をついた気配は、鈍く揺れる水音に紛れさせてやり過ごした。
これまでに踏破した区画にも池のような水場はあったが、此度のこれは明確に海を模しているらしい。黄泉の浜辺の名を冠する部屋でこの海の中をゆくことは果たして何を意味するだろうか。
昨晩読んだ本には、たしか。葉佩は波紋を射抜くように見つめながら頭の中を混ぜかえす。
「水底にすすぎたもう時に成りませる神の名は……」
目の前にある本を熱中して読み上げるような調子で、思い返した一節を口の先で小さくつらつらと呟く。
探るようにすり足で地面をこすると名も知れぬ海藻の類いと靴の底に付いた泥が巻き上がり水を濁らせながら漂った。これは禊であるか。それとも、海の底、あるいは向こうにある死の国への旅路であるか。
後ろでカチャリと金属のぶつかり合う音が聞こえた。皆守がアロマの火をつけ直したのだろう。くだらないことで待たせるなと怒られるかもしれないな、という懸念が葉佩の頭の中を通過したけれど、もう少しだけと独り言の言い訳をして一段分深くへ進む。この無駄を切り上げるにはまだ収まりきらない。どこか、苛々とざわめくものが残っている。
そうして逆立つ心の底を宥めるように想起と思考を続けながら暗い水底を見つめるうち、葉佩はそこに何か光るものを認めた。屈折し、波に揺らぐその色には覚えがある。壁でほろほろと光っているものと同じ光源が沈んでいるらしい。
葉佩は黒い瞳でじっとそれを捉えた。暗い暗いと思っていたこの冷たい水の中で、明かりの火が灯されているかのようだった。
「……一つ火燭して入り見たもう」
思い浮かべたのは黄泉の国。しかしこの塩水の湛えられた仮初めの海の底を見て、少し性質の違う世界を葉佩は思う。縫い付けられたように外れない視線の先で、光の粒が水の中にぼわぼわと広がって揺れていた。
皆守が何でもなさそうに放った一言を思いながら体を浸すこの海に、何か安らぎがあれば良いと思った。
彼がいつかのことを思い出しながら眺めたこの偽りの海に。
いま一緒に見ているこの海に。
それは葉佩の無意識の下にある意地で、勝手で、気まぐれだ。
仮にこの底に死の国があるとして、それは。
葉佩がここに感じたのは黄泉の不可逆ではなく根の国の回帰だ。根拠もなく突飛なその想起は、悪あがきでデタラメな強度を持たせただけの願望であると自分でも分かっていた。けれど差し迫った危険もないこのひととき、正しさはもう少しだけ後回しにされてしまう。
この海に見出せるものが禊であれ根の国であれ、いずれにせよたどり着くのは《再生》だ。
気分が良くなって葉佩は口元にはっきりと笑みを浮かべる。そして、もう脚が全て水の中に入ってしまう程の深さにいたことを今はじめて認識したかのように肩をすくめた。
「これ以上は銃が濡れるな」
振り返って岸辺へと迷いなく戻っていく。わざわざ服を濡らしに行くとは馬鹿なことをしたとか、乾かした後は布地が固くなってしまうだろうとか、塩が浮かぶかもしれないとか、そんな取り留めのないことばかりが思い浮かんだ。
一歩、二歩と重たい衣服をいちいち引き揚げるように階段を上り、膝下の深さまで戻ってきたところで顔をあげる。呆れているだろうと思っていた皆守の表情は、しかし思い詰めたような妙な強張りがあって、よほど機嫌を悪くしてしまったのだと葉佩は思った。苦笑いをしてから気を取り直して口を開く。
「なぁ甲太郎。案外、なにも……」
続きは、短く吸った息に途切れる。
皆守に腕を引かれ、バランスを失った葉佩の体は皆守を押し崩すように倒れこんだ。
♦︎♦︎♦︎
足元からじわじわと這い上がる水の冷たさと打ち付けた背中の痛みに皆守はぐっと眉をしかめた。馬鹿なことをした、そう思ってももう遅いことだ。早くこの男を海から引き上げなくてはと焦ったのだ。寒い海の中にいる当の本人がこちらを見た時のその顔が、とても静やかだったから。
「もー、なんだよ急に引っ張って」
上から降ってくる葉佩の非難めいた声に皆守は返事をしない。確かにおかしなことをしてしまったとは思っているので決まりが悪くて、いいから早く退け、などと憎まれ口を叩いてしまう。
顔を直視出来ずに目をそらしていると葉佩もそれ以上追及することなく体を起こした。
「怪我ない?」
差し伸べられた葉佩の手の甲から水滴がぽたぽたと溢れている。皆守は上体を起こしてその行方を見つめながら、やがて葉佩の手を取ることなく立ち上がった。
「……打撲。それから服が濡れて気持ち悪い。さっさと井戸の部屋まで戻って休憩にしようぜ」
皆守が扉に向かったのに並んで葉佩も歩き出す。
「ズッコケたのも服を濡らしたのもほぼ甲太郎の自滅だけどな」
「お前が俺を掴んで、濡れたまま覆いかぶさってきたせいでもあるさ」
「だからそれもさ……」
葉佩は言いかけて、扉を開きながら、結局続きを言わずに飲み込む。駄々に呆れられたように思えて皆守はますます収まりが悪かった。
葉佩は皆守のそんな心情も知らずに隣で気の抜けた笑いを漏らしている。まだ乾ききっていない手で皆守の背中を二、三度叩いたものだから、水難を逃れていた学ランの背にも手の跡が黒く滲んだ。
痛むと言っているのに無神経なもんだと睨み付けるが葉佩はどこ吹く風で、清々しく自信に満ちた顔で言うのだ。
「まぁいいや。案外なにも、心配いらないもんだよな」
「……この惨状で言ってくれるぜ、濡れ鼠が」
「そうじゃなくてさ」
葉佩はそれ以上言葉を続けなかった。濡れた服を重たそうに纏いながら、しかし足どりも軽く広間の井戸に向けて来た道を戻っていく。足跡の周りにぱたぱたと溢れる雫が丸くランダムな跡を残しているのを、皆守はため息混じりに踏みながら辿った。
死んでしまうのかと思った、なんて、この背中を見ていると馬鹿馬鹿しくて言えやしない。けれどそう思ったのだ。穏やかに微笑んで、しかし最後は唇を震わせて。手の届かない死の国へ行ってしまうような気がして、とっさに手を伸ばしていた。
そうすることが出来たという事実にホッとしたような、体の中身が裏返ってしまいそうな程に嫌悪感が渦巻いたような、言いようもなく気持ちが悪くてたまらなかった。一瞬で身体中を廻ったその不愉快な苦しみが永遠に続くような心地さえしたのだが、しかし気がつけば残ったのは背中の痛みと濡れた服の不愉快さと、葉佩の体の重みだけ。ただそれだけだったのだ。
なんだ。と、拍子抜けする自分と、それを軽蔑する自分と。
「心配いらないなんて、何を根拠に」
葉佩の背中に小さく問いかける声は彼には届かない。ベッタリとまとわりつく潮の香りとすすがれないままの意識を引きずって皆守は葉佩に続く。二人分の足跡が輪郭も不明瞭に重なって、やがて薄れていった。
終
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革靴が濡れたらマジで惨状です。早めに陰干ししましょう。
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