はっけ
2024-08-10 00:21:11
11477文字
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ことば足らず

一浦/コインランドリーの現パロ、一護誕話
2024.07.19

「今日、なんの日か知ってっか」
 肩口に感じる重みに泡まみれの手が止まる。朝ごはんに使った食器たちから意識が浦原の後ろにいる恋人へ向けられた。
 一護のTシャツを借りた、浦原の肩の山にとんがった顎が沈められていた。とんがったと言っても世間一般的に鋭利な輪郭という分類ではなく、無駄な贅肉のないすっきりとしたもので痛みはない。少し重いくらいの存在感。
 一護と浦原の身長差を考えれば、おそらく少々苦労して顎を乗せられている現状にかわいいなァと思いつつ、回答が容易でありそうで難しい質問にこころの中で首を捻った。
 その間にもいたずらな手がするりと腰の周りを取り巻き始めて、背中の布越しに逞しい胸板が伝わる。いくら朝から贅沢にエアコンをつけているとはいえ、情事でもないのに密着されれば、くちから飛び出すのは文句だけだった。
「あつい」
「質問に答えてよ、ね?」
 浦原の不満を無視して一護は耳元近くで答えをねだってくる。縁日のかき氷のシロップみたいな甘さをはらんだ声色がくすぐったくてたまらない。
 弱い耳への刺激にぴくりと震えるからだをよそに一護は答えを聞くまで逃がさない、といった様子で浦原のへその上あたりで手まで組む始末。抱きしめるというには逃げ場のない拘束に、そんなところに手を置いたら濡れるし、お皿を洗うのにちょっと邪魔だなァと思考が現実逃避していく。
 お釜にこびりついたご飯の跡に空になった時点で水に漬けておけばよかったと後悔してももう遅い。へたってきたスポンジの固い面で擦って、どう答えようかと思い悩む。
 一護が求めてる答えはわかっているから、ボクの計画通りにするためにあえて言わないでおこう。これは戦略的な方法のはずだ。一護サンの悲しそうな顔を見てもうっかり口を滑らせないようにしないと。
「海の日っスよね?」
 重い肩の方に頭を回しながら何気ない風を装って答える。かわいい恋人はその答えを予想していなかったのか、ぱちくりと目を見開いた。
 驚きの表情から一変、至近距離で見た一護の顔ははっきり言ってがっかりした、という表情がありありと見てとれる。申し訳ないと思いつつ、サプライズはサプライズじゃないと意味がないと自分に言い聞かせた。
 浦原の肩から顔を離した一護は口をとがらせてそっぽを向いている。
「うんまぁそだけど」
「海行きたいの?」
「いや、こんな暑い日に行くのも」
「ココ最近の猛暑は殺人的っスからね」
 でも1回は行きたいなぁ、なんて願望は開いたくちから出てくれなかった。今言わなくてもいいと思ったからだ。
 はるか遠い記憶の、家族旅行以外でとんと行ってないから恋人とふたりで海辺を歩きたいし、こんがり日に焼けた一護サンも見てみたいなァ。付き合う前より逞しくなった妄想力にこころの中で笑いをもらしつつ、一護のスケジュールを考える。
 7月は一護サンも仕事が忙しいだろうし8月になったら連休のときに行けるか聞いてみよう。だからまだ言わなくていいや。
 そう結論づけるのにわずか数秒。
 その間に回されたときと同様にするりと手が解かれて離れて、背中の温もりが薄まっていく。ひっつかれると暑いけれどないのも寂しく思えたりするものだった。
 もうすぐ三十路に差し掛かるというのに、一護はかわいらしく甘えてくる。自分の持ちえない素直さを出されるとどうしても憎めない。惚れた欲目とわかっていてもこの姿の恋人を見たら、見た人すべてがくちを揃えてかわいいと肯定しそうなのだ。若々しくて人当たりのいい青年が顔よし器量よしでモテないはずもなく、なんてひとり想像してこころに黒いもやが広がる。
 一護サンはアタシだけのものじゃないからなァ。……アタシはきっと一護サンだけのものなんだろうけど。
 そう思うとなんだか癪で目の前の蛇口のコックを上に上げた。どちらかといえば望む答えがもらえなかった一護の方が不満だろうけれどそんなことは関係なかった。
 たちまち飛び出す水の勢いは強く、すすぎ待ちの皿にぶつかっては跳ね返った水しぶきに思わず一護が声を上げる。
「うわっ、飛んだんだけど」
 こっそりしてやったりの笑みを浮かべて、手拭き用のタオルを泡つきの指で指す。一護は納得のいかない唸り声をさせながら動いていった。
 朝っぱらから恋人のテンションで過ごすのは甘すぎて困るのだ。だからほどほどにしてほしいなんて。十二分に穏やかで柔らかい空気をゆるしているのだけど。
 一護の誕生日だってことは何週間も前からわかっていたし、プレゼントも用意した。夜には料理を振舞ってお祝いする手はずは整っているし、すべては浦原の計画の通りに進められる予定だ。もちろんぜんぶ一護には秘密にしている。
 
 
 今日はなんの日? そりゃあ黒崎一護の誕生日だ。浦原はきっと知っているはずで、朝起きて一番に祝ってくれるはずだった。はずだったのに一護のたのしい誕生日の計画は朝から崩れ去ってしまった。
 キッチンの天板に無造作に置かれていたタオルで指先を拭いながら、一護は内心ぼやく。
 もしかして忘れられている? いやいやそんなことあるわけがない。浦原ともあろう男が、1週間前の朝ごはんを覚えているような記憶力の持ち主が、一護の誕生日を忘れるなんてそんなことは。
 もしかして誕生日なんてどうでもいいのだろうか。浦原は経験豊富だろうしめんどくさいとまで思っているかもしれない。それならこれから記念日も祝えないのか。そんな寂しすぎるのは嫌だ。
 どんどんと思考はマイナスに傾く。
 浦原は自分のことを本当に求めているのだろうか。週末は一護の部屋にやってきて一緒に過ごしているけれど、最後に肌を重ねたのは1ヶ月も前でそれ以降隣で眠るだけだ。
 一通りのことはやっても、恋人としてどこまで浦原が求めているのかがわからない。名前呼びまでゆるされているのはたしかなのだけれど、これ以上求めて拒絶されるのが怖いというかなんというか。浦原はいつもいいタイミングで誘ってくれて手馴れているのがよくわかる。
 そんな人相手には幻滅されないよう、余計なことは言わないように口をつぐんでしまう。7歳差は意外と大きくて、言いたいことなんて言えやしない。
 さっきの話でも海だって行きたいと言いたかった。浦原の色白の肌を焼こうとする太陽から守ってあげたいし、思いっきりイチャつきたい。すっかり出不精な2人が海に行って何をするのか考えたらぎこちなくて笑ってしまうだろうけど。
「一護サン? 濡れたのそんなにイヤだった?」
「いや考え事してただけ。郵便受け見てくる」
 心配そうな浦原に背を向けて逃げるように玄関に向かう。一人暮らしにしては広めの部屋とはいえ大股で歩けばすぐ着いて、こころを落ち着かせる時間もない。
 小さい隙間にねじ込まれた朝刊と、チラシ、ダイレクトメッセージ。ジムの誘いも怪しげな健康食品の紹介も要らない。廊下を歩きながら紙束を仕分けてピザ屋のチラシは冷蔵庫の脇に入れておくかと右手に持ち替えたあと、足が止まる。誕生月用の特別なクーポンがついたダイレクトメッセージの表面には、整然と並んだ「お誕生日おめでとうございます!」という10ptの文字列が添えられていた。登録されたデータで名前だけ変えられた簡素な一文でさえ望むものを一護にくれる。
 言ってほしいひとにはまだ言ってもらってないのになんて、目覚めのいい朝なのに目尻がにじんだ心地がした。

 
 ふたりで一護の部屋にいるといっても平日前の日曜や祝日は一護がバタバタと家事をしているのを、浦原が本を読みながら眺めているという構図だ。
 連日の猛暑で溜まった洗濯物を片っ端から洗濯機に放り込む。まだまだ新品の洗濯機は調子もよく、元気に回っている。
 最近はほとんどコインランドリーに行かなくなったけれど、浦原は相変わらず通っているらしい。会う頻度を増やすならそこしかないなぁとぼんやり考えた。

 何が悲しゅうて誕生日に自ら掃除機をかけなければならないのか。そう自問しても答えは返ってこない。ルーティンワークがたまたま誕生日に被っただけであるし、昨日やらなかった自分が悪いのだ。
 1LDK、都内の単身者にしては比較的広めの間取り。ちょうど1年前、浦原とあのコインランドリーで出会ったころに引っ越した部屋。当時は洗濯物もコンビニ飯のゴミも郵便物も本も滅茶苦茶に置かれていた。寝床もソファで、今の寝室までたどり着くことなんてなかった。
 そんな惨状が、浦原が部屋に上がるようになって変わり綺麗に保たれるようになった。毎週きちんと掃除機をかけるという努力はここ数ヶ月継続している。日中はほとんど居ないのだから汚れることもないと思いきや、週末になると浦原が訪ねてきて部屋にいる人数が倍になるのだからそこそこ埃は溜まるのだ。

「はい、足上げて〜」
 直接冷房の風が当たらないソファの端で浦原はだんだんと溶け始めている。
 寝室から戻ってきた一護は手繰り寄せたケーブルと掃除機片手に浦原を見やった。片足を床に投げ出しクッションを下敷きに本を置く浦原は、楽なのか楽じゃないのかわからない姿勢でのめり込むようにページをめくっている。
 それでも一護の声は聞こえているようで、「ん〜」と気の抜けた返事を返しながら足を折りたたむ。本人としては最大限足をどかしているつもりなんだろうけれど、夜を思い出す構図でごくりと喉が鳴ってしまった。
 こんな真っ昼間からろくでもない方向に突っ走る脳内に頭を抱えつつ、無自覚の浦原が悪いと責任転嫁しておく。しまいには、そこらの電柱に張りついて鳴くセミと変わらないじゃないか、なんて自虐的な思考が頭をよぎって、煩悩を振り払うように掃除機のスイッチを入れた。

「それ新作じゃん」
 カゴいっぱいに入れた洗濯物を抱えてリビングを通る際に、浦原の読んでいるタイトルを見れば気になっていた作者の新刊だった。思わず窓の近くにカゴを放置して浦原の元に向かう。
「んふ、いいでしょ」
「読み終わったら貸して」
「いいっスよ〜」
 本から顔を上げた浦原は自慢げに笑う。ようやく気づいたのかとも言いたげな顔がずるくてたまらない。それだけたのしそうなのだからきっと今回も面白いのだろう。早く浦原と感想を言い合いたかった。

 ベランダの物干し竿は重量オーバーなのか少したわみ始めた。かかっているのはすべて今日洗濯したものばかり。数の減った一護の部屋着のTシャツやワイシャツ、一護と浦原の下着。数が減っているのは浦原が着て帰ってしまうせいだ。
 数度しか訪れたことのない浦原の部屋に一護のものは増えていくのに、一護の部屋に浦原のものは増えていかない。
 朝から浦原が読み続けている文庫本だって浦原が一昨日持ってきた数少ない荷物のひとつで、もっと持ち込んでくれていいのになぁと独り言ちる。
 どうにも暑さで頭がばかになっているらしい。室外機がかき混ぜる熱風にそよがれながら、額のきわからしみ出す汗と共に悶々とした考えが顔を出す。誕生日なのにまたネガティブだ。よくないよくない。頭を振ってマイナス思考を追い出し、空高い太陽を仰ぎ見る。この陽射しならすぐ乾くだろう。悩みなんてちっぽけに感じさせる夏の空だった。

 夏は少し外に出るだけで汗だくになる。つっかけたサンダルをベランダに脱ぎ捨て、ぺたりぺたりと掃除したばかりのリビングを歩く。すぐに出迎える冷房が涼しくて最高の瞬間だった。
 ふと見るとソファで本を読んでいたはずの浦原がいない。サイドテーブルに栞を挟んだ小説が放置されている。
 テレビの上にかかった時計を確認してキッチンに顔を出せば、浦原がエプロンをつけて昼ごはんの準備をしていた。
 もうもうとした湯気を上げる両手鍋の中でぼこぼことお湯が泡立っている。換気扇が一生懸命働いているけれど、外の熱気と涼しい室内の空気がかき混ぜられて、どうしようもなく蒸し暑かった。
 まな板の上でつるつると光る、大ぶりのトマトが半分、また半分と切られていく。均等にくし切りにされた断面は昨日見た半月のように綺麗な形をしている。
 包丁の切れ味がいいのか、浦原の技量なのか、わからないけれど、自分には到底できないなぁと数ヶ月前の部屋の惨状を思い起こす。自分のために料理を作ってくれる恋人の腕前を誰かに自慢したくなった。
「何束食べる?」
「3!」
 ごそごそとシンクの下に潜っていた浦原が素麺の袋を片手に立ち上がる。いつ買ったのかわからないけれど賞味期限は切れていないようだから大丈夫なのだろう。
 素麺が茹でられて冷やされる間に、一護は箸や麦茶をテーブルに並べていく。
「麺つゆの水どんくらい?」
「たしかつゆ1、水3っスね。ラベルに書いてあるかも」
 と冷蔵庫を開いた男はノールックで渡してくる。当たり前のように一護が受け取るとわかっている仕草にむず痒くて、ふたりでごはんの用意をすることにも慣れたのが嬉しかった。
 きっちり計ったつゆの仕上げに氷をひと粒ふた粒と浮かべれば、ぱきりぱきりと小気味いい音を立てる。夏らしい音に思わず浦原の方を振り向けば、「いい音っスね」なんて。視線はやらないくせにちゃんと一護に気を配る恋人が愛おしくてたまらない。何気ないことが幸せだった。
 浦原は黙々と大きなタッパーから昨日の夕方から作っておいた揚げ浸しを素麺の上に盛っている。茄子にズッキーニ、パプリカ、さやいんげん、はたまたかぼちゃまで、うっすらとつゆの色に色づいた夏野菜が鮮やかだ。漂ってくるのはほんのりとした酢の匂い。暑苦しい夏を忘れさせる涼しさをまとっていた。
 向かい合うように座って、ふたりで「いただきます」と手を合わせる。食材に感謝と、用意してくれた浦原に感謝を。
 忙しなく家事を勤しんだからだに冷たい麺と濃い味付けの野菜がしみる。噛みしめるように箸を運ぶ一護を見ながら、ちゅるりとひと塊を飲み込んだ浦原が思い出すように告げた。
「冷蔵庫に残ってた野菜ぜんぶ使っちゃったからスーパー行かないと」
「マジ? もう何もない感じ?」
「うん、空っぽ」
「じゃー夕方行くか。この時間は外出たら危ないし」
「買ったものダメになりそうっスもんね」
 氷でしめられた白い麺をすくって汁につけては口に運んで、を繰り返しながら言葉を返す。トマトが甘酸っぱくていいアクセントだった。
 いつぞや近所からおすそ分けしてもらった箱入りの素麺もおいしかった。でも浦原の作る、夏野菜入りの素麺は格別で、ずっと浦原の料理だけ食べていたいなぁと思う。きっと言葉にはできないけれど。

 昼ごはんが終われば再び思い思いのことをして過ごす。浦原はまた本を片手にソファに陣取っている一方で、一護はスーツの埃を取ったりとやることがまだある。
 実は連休明けの明日、一護は有給を取っている。誕生日の翌日だしゆるされるかと思って申請したら通ってしまって、連休が増えたのだ。でも、未だに恋人に言えてはいない。どう切り出すかと悩みながら無心でスーツにブラシをかけるしかなかった。
 やることを終えた一護がリビングに戻って浦原の隣に並んで座る。すると、ソファでだらけていた彼がもぞもぞと居住まいを正して距離が縮まった。無意識の行動だろうけれど、こころがぽかぽかする。
 クッションを抱いて友人や家族にメッセージの返信を打ちながら、真剣な顔で読み進める浦原をこっそりと覗き見る。
 彫りの深い輪郭を彩るような薄いくちびる、男にしては長いまつげ、眇められたひとみ。すべて一護が好きな部分だ。色っぽいと一言でまとめるのも惜しくて、でも他の修飾語が思いつかないから「好き」としか言えない。
 浦原は自分よりも7歳も年上なのに、年上だからか、いつも一護を魅了してやまない。今日で6歳差に縮まったとはいえ一向に適う気がしなかった。


 だんだんと日が傾いてくるのが薄いカーテンの向こうに見えた。
 思っていたよりも長い時間読みふけっていたらしい。途中浦原が持ってきてくれた麦茶のグラスはサイドテーブルの上に水たまりを作ってしまっている。
 一護の肩に預けられた浦原の頭を軽く揺すって起こせば、小さく声を漏らしてまぶたをゆるりと開ける。緑灰色のひとみがぱちぱちと幼げに瞬いて一護に焦点が合う。一護を見つけてふにゃりと笑いかけたあと大きく伸びをして、まるで猫みたいな仕草だった。
「そろそろ買い出し行くぞ」
「じゃあ洗濯物取り込んでこっか」
「俺やるよ。喜助さん準備してて」
 リビングの窓を開ければ一気に熱気が押し寄せてくる。数時間前よりはマシになったのだけれどまだまだ暑い。
 手際よくハンガーを物干し竿から外していく。アイロン要らずと謳い文句のワイシャツは文句通りぱりりと仕上がっているし、太陽のおかげで湿っている洗濯物はひとつもない。からからに乾いたTシャツたちはシワにならないようソファの上に広げて重ねて、帰ってきたら畳むことにする。
 スマホと財布を引っ掴んで玄関に向かえばちょうど浦原がサンダルを履いているところだった。
 ふたり並ぶには狭い玄関に座り込んで、履き古したスニーカーに足をねじ込み靴紐を結ぶ。金曜の夜に脱ぎ散らかした革靴はいつの間にか靴箱に仕舞われていてまた喜助さんにやらせちゃったかなと後悔ひとつ。
 先に準備のできた浦原は玄関扉に寄りかかって、妹が旅行先で買ってきてくれた置き物を手持ち無沙汰にいじっている。右手に下げられた空っぽのド派手なエコバックとのミスマッチが面白かった。
「あ、そうだ」
「なに忘れもん?」
「じゃなくて、まぁあとでいいや」
「ふ〜ん」
 ガチャリ、と鍵を回して部屋の扉をしめる。今週、ふたりでこの部屋を出るのは多分今日が最後。
 浦原はいつも一緒に買い出しに行ってくれて自分の部屋に帰っていく。2人でよく行くスーパーが浦原の家に近いからだ。
 部屋を出た途端カウントダウンが始まった気がして離れがたさがこころに巣食う。別れ際でもいいから誕生日おめでとうって言ってくれたらいいのに。淡い期待をして一護は鍵穴から鍵を引き抜いた。
「エレベーター呼んどきますねン」
 そう言って浦原は一護を置いて歩き出す。西日の差す廊下に少し引きずるようなサンダルの音が響いていた。

「何足りないっけ?」
「卵と牛乳だな。あと肉も野菜もないからテキトーに見繕ってくれたら」
「オッケーっスよン」
 先導する浦原に従ってカゴを片手についていけば、浦原は鮮度のいいものやお得なものを即座に見分けてカゴに入れていく。いつの間に仲良くなったのか肉屋や魚屋の店主と親しげに話す浦原にも驚くものだけれど、大型スーパーの店内図を把握して効率的に買い物を済ませる手腕はよく回る頭の無駄遣いにも思える。
「一護サン、明日の朝なに食べたい?」
「アジの干物と、わかめのみそ汁、あと明太子」
 豚肉のパックを両手にグラム数を比べる浦原が片手間に尋ねてくるので、素直に答えて手渡されたパックをカゴの中に重ねていく。何か大事なことを聞き逃したような気がするけれど、一護は商品の整理に忙しくて気づいていなかった。
 カゴに入っている商品たちは想定よりも多い。冷凍するにしても一護の部屋の冷凍庫に入り切るか怪しい量だ。それでも、そんなに買ってもふたりで食べるわけじゃないし俺ひとりじゃ食べきれないだろ、なんて言えなかった。折角浦原が選んでくれたのを無下にしたくなかったし、反対意見を言うのが怖かったのだ。
 結局ひねくれたくちから出たのは「夏だし腐るぞ」とだけ。不機嫌な台詞にも浦原は笑って「腐らないように早く帰りましょうねン」とのたまい、次の瞬間には贅沢に大きな明太子がカゴに突っ込まれていた。本当にずるいと思う。
 浦原に連れられるままレジまでやってきて背中をぼんやり見ていたらいつの間にか会計が終わっている。持ってきたエコバックをふたりで広げながら、ああでもないこうでもないと買ったものを詰め込んでいく。途中「買いすぎちゃったっスね」なんて浦原が笑うものだから、迫る別れのさびしさも少し薄らいだ気がした。

「それじゃ――
「ちょっと家に取ってくるものあるから先帰ってて」
「え?」
「重いのたくさん持たせてゴメンね」
 スーパーを出ていつも通り別れを告げようとすれば、普段と違う浦原の発言が飛び出す。
 聞き返す間もなく角に消えた浦原は困惑する一護を置いていってしまった。一護は首を傾げながら来た道を戻る。両手は先週よりも重い荷物でいっぱいだけれど、脳内は疑問でいっぱいだった。

 浦原が帰ってくるまで何をしていたのかはっきりと覚えていない。
 買ってきたものを無心で冷蔵庫と冷凍庫に押し込んでから玄関に座り込み、何も考えず革靴を磨いていた。どうせ磨いても雨予報でぐちゃぐちゃになることと、有給なんだから使わないことはわかっていたのに手が勝手に動いていたのだ。
 そうこうしているうちに息を切らして浦原が帰ってきた。滅多に走らないのに珍しい。大きな紙袋を突き出して「一護サンに返すやつ」と一言。受け取って中を見れば、今までに貸した洋服と本たち。こんなに貸してたっけと驚きつつ、これを返しに来ただけか、と仕舞いに来たクローゼットの横でがっくり肩を落とした。

 おもむろに立ち上がり、玄関に浦原を見送りに行こうとすれば、浦原はキッチンでエプロンの紐を結んでいた。癖のある後ろ髪を結んでうなじまであらわにしている姿にどうしようもなく劣情がかき立てられて、自分の現金な性格が悔しい。落ち込んだりドキドキしたり調子がいいなぁと他人事のように思うしかなかった。
「すぐごはん作るから待ってて」
「なんで」
「何が?」
「もう帰るんじゃ」
「? まだ帰らないっスよ」
 あっけらかんと言ってのける浦原に一護は目を丸くする。今日は予想外のことが多すぎるし、浦原がわからない。飄々とした猫のように一護の部屋にやってきて去ってくれればいいのに。本当に今日の浦原は何がしたいのだろう。疑問でいっぱいの一護の脳内も知らず、 「一護サンお風呂入ってきたら」なんて晩飯に取りかかり始めた浦原が促してくる。今尋ねても浦原は答えてくれそうにない。一護は仕方なく着替えをかき集めて風呂場に向かった。

 風呂から上がって髪を乾かしたあと、不意に着信音が鳴る。洗面所に持ち込んだスマホの液晶に映る名前に笑みがこぼれた。
「もしもし」
『お兄ちゃん/一兄、誕生日おめでとう!』
『いっちごー! 今年はこっち帰ってこなくて寂しいぞー!』
「悪ぃ悪ぃ。またそのうち帰るって」
『日にち決まったら教えてね。お兄ちゃんの好物用意して待ってるから!あ、そういえばね――

 久しぶりに家族の声を聞いて思ったより長電話になってしまった。慌ててリビングに顔を出せば、食卓に並んだ一護の好物たち。固まる一護の元にエプロン姿の浦原がぱたぱたとキッチンから駆けてくる。
「あ、もうごはん食べれそう?」
「っうん」
「じゃあ座って座って」
 背中を押されるまま椅子に座ると開けたばかりのワインがグラスに注がれる。手の込んだたくさんのご馳走から目が離せない。そんな一護を知ってか知らずか、グラスを掲げた浦原が鮮やかな赤色の液体を揺らして、それはそれは嬉しそうに待ち望んでいた言葉を告げた。
「一護サン、お誕生日おめでとう」
……
「一護サン?」
「嘘だろ」
「忘れたとでも思ってたの? 忘れるわけないでしょ、一護サンの誕生日っスもん」
 そう言いきった浦原の顔はとても自慢げで愛おしかった。

「デザートにケーキも用意したんスよ〜」
 お腹いっぱいに手料理を平らげたところに、ロウソクの立ったチョコレートケーキが運ばれてくる。たっぷりのチョコレートコーティングにおいしそうなベリー系の果物たち。食べるのがもったいないと思うほど綺麗なホールケーキだった。
 そして、ケーキを持つ腕には一護も知っているブランドの紙袋がかかっている。「気づいちゃいました?」なんていたずらっぽい笑みでケーキをテーブルに置いた浦原はそのまま紙袋を差し出してきた。
 ありがたく受け取った袋の中には、ラッピングされたえんじ色のネクタイ。送る意味を知っていて送っているのかわからない。でもきっと浦原のことだから知っているのだろう。そこまで本気で付き合ってくれてるとは思っていなかった。どうしようもなく安堵と喜びで泣きたくなるのをぐっと堪えて一護は笑った。それを見て浦原も微笑む。堪えた涙が溢れそうだった。
 
 手料理とケーキ以外にプレゼントまで。怒涛のラッシュで誕生日を祝われてこころもからだも満足の一護に浦原がトドメを刺す。
「そうだ、聞こうと思ってたんスけど、今日も泊まっていい?」
……っ、聞いてねえけど」
「言ってないっスもん」
 至極当然といった様子の浦原に、夕方に言いかけていたのはこれかと合点がいく。しかしながら、言うのが遅い。
 浦原に憤る一方で、一護も話していないことがあるのだ。この際だから言ってしまおうか。投げやりな気持ちで不貞腐れたように一護は言葉をもらした。
「実は俺、明日有給取ったんだよ」
「聞いてないっスけど……?」
「言ってねえもん」
 さっきと立場の入れ替わった応酬に浦原が吹き出す。そんなに面白かったのか一護には理解できなかったけれど笑いをもらす様子が愛おしくて、こちらの曲がったへそも元通りになるもので。
 ひとしきり笑ったあと眦ににじんだ涙を拭って浦原が再び口を開く。
「お互い言ってないこと多すぎでしょ。他に言ってないことないの?」
「ある」
「じゃあ言ってよ」
「今日一番に祝ってほしかった」
「うん、ゴメンね」
「泊まるなら早く言って」
「うん」
「もっとイチャイチャしたい」
「うん」
「抱きしめても逃げないで」
がんばる」
「キスしたい」
うん」
「海行きたい」
「うん。行こう」
「お風呂も一緒に入りたい」
「え〜〜〜それはちょっと、恥ずかしいっスね」
「いつもごはん作ってくれてありがとう」
「どういたしまして〜一護サンも手伝ってくれてありがとう」
「俺の方が感謝すること多いのに」
「そんなことないっスよ。一護サンとお付き合い始めて、こんなに他人のことを考えながら準備するの楽しいんだって初めて思ったから。ボクも一護サンにたくさん感謝してる」
「どういたしまして?」
「んふふ」
「あとさ、喜助さんも言いたいこと言って」
「十分言ってるのに」
「言ってない。いつも色々考えたあとに俺に言うじゃん。俺の都合とか気にせずに言ってよ」
 今日言えなかったこと、今まで言えなかったことをひとつずつ言葉にしていく。浦原は納得していない表情を浮かべつつもひとつひとつ頷いてくれた。
「あと最後に――
 にこにこと一護の言葉を待つ浦原をそっと引き倒して覆い被さる。抵抗よりも驚きが勝るようで、丸く見開かれた大きな黒目に舌なめずりをする自分の姿が映っていた。
 そのままじいと見つめて、つとめて真剣な声色で囁く。
「今日抱いていい?」
……――!」
 ようやっと状況を理解した浦原が力なく一護を押し返す。その行動に拒絶されたと悟って、ゆっくりと離れようとしたそのとき、浦原の腕が一護のTシャツを掴んだ。そして戦慄くくちびるが「ケーキ」ともらす。すぐに目の前に切り分けられた誕生日ケーキのことだとわかっていじらしさに破顔する。
「ケーキもあとで大事に食べるからさ、今は喜助さん食べたい」
「で、でもまだお風呂、入ってないから……
 か細く答えて顔を背ける浦原の、ほんのり色づいた耳とうなじ。年上の恋人がかわいすぎてたまらない。
「入ったら、俺にプレゼントちょーだい」
「プレゼントならさっきあげ、ん」
 いけずな言葉尻をかすめ取るようにくちびるを奪う。残るワインの渋みがキスのスパイスになる。髪を梳いて結わえていたゴムを抜き去って頭を支えればすかさず回される腕に、重ねたくちびるの端をそっと引き上げた。