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えぬを
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怪物
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jwds_20240728
7/28追記
jwds馴れ初め小話、鋭意創作中です
書き終えたら本にできたらいいな、の、
巡る季節を一緒に過ごして色々を育んでいくjwとdsのお話です
明日からは誰も死なないはずの今日の先にはハン・ギファンがいて、結局ナム・サンベとチョン・チョルムンが殺された。
時折ジュウォンは夜中にうなされて飛び起きる。
父──あの男の完璧な人生に対するこだわり、地位への執着と狂気の血が自分にも流れているのかと。そうして母の弱さ、脆さと優しさを思い出し、少しの安堵を得て、ドンシクの最後の笑顔を思い出して泣くのだ。
──ドンシクさんに会いたい。
うまく息ができていたはずなのに。
◇
「ハン警部補、お疲れ様です!あなたに来客が」
「来客?」
「すげー大御所が来てますよ」
巡回から戻るや否や、派出所のカウンター越し、同僚が食い気味に告げてきた。
アポイントメントの記憶はない。
ジュウォンは〝あの男〟の長官時代の知り合いが自分を訪ねて来たのかと警戒した。〝大御所〟に心当たりがあるとすれば、あの男に係る関係者しかいない。
ジュウォンは眉を顰めた。
いやいやのていで、殊更に時間をかけて更衣室で脱帽し、巡回時の装備を解いて所長室へ向かう。
ノックを二回。所長の入室許可の返事を待って、ジュウォンはこれ見よがしなため息を吐いてから、ノブに手をかけドアを開けた。
「やぁ、ハン警部補。お久しぶりですね」
ジレを着込み、前髪を撫で付け、額を晒して。無精髭などない、つるりとした年齢不詳の肌を晒して笑う、ドンシクがそこにいた。
あまりの予想外の出来事に、ジュウォンはドアに手をかけたまま固まった。
顔に笑いを貼り付けたままのドンシクと、その対面に座る、全開の笑顔の所長に促されるまま、手と足を同時に動かしてジュウォンは入室した。
更衣に時間をかけた自分自身を殴りたい。
ジュウォンと目が合うと、ドンシクは他人向けではない口角の片方だけを上げた笑みを浮かべ、自分が座るソファの横を叩いた。
〝一般人〟の隣に座るよりも、本来であれば所長の隣に座るのが正しいのだろう。ちらりと所長の顔を見遣れば、異常なほどの機嫌の良い笑顔でドンシクの隣に座るよう、顎で促された。
その気安い雰囲気に、自分が来るまでにドンシクと所長の間でどんな会話が交わされたのか。尋ねたいことが山ほどあるのに、結局ジュウォンは他人行儀な貼り付けた笑顔で所長と会話を続けるドンシクの顔ばかりを見ていた。会話の内容は一切耳に入らなかった。
──だって、なぜ、どうして、今日なのだろうか。
なんでもない日に一年越しの再会を果たすなどとは、ジュウォンは予測していなかった。
──一年前からずっと、起床の度に、あなたを思い出して会いたいと思っていたけれど。
いつの間にか終話していたドンシクと所長がテーブル越しに握手を交わしていて、所長はドンシクを駅まで送れと言う。
「あなた車で来なかったんですか」
一年越しに交わすドンシクとの会話の第一声がこれとは。反射的に口をついた言葉を取り消す術はない。
ジュウォンがなにか言葉を重ねる前に、ドンシクが愉快げな顔で『車検中で』、と答えた。これまた一年越しの会話とは思えないほど、どうでもいい内容で返された。
所長室から出る間際、所長の下手くそなウィンクで送り出されたジュウォンは、入室時と同様にこれ見よがしのため息を吐いた。
◇
ドンシクはパトカーのウィンドウを下げ、走る風に髪を靡かせている。整えられていたヘアスタイルは最後に会った時よりは幾分か伸びていた。
ウィンドウ枠に頬杖をついた行儀の良くない有様が妙に似合い、自然だった。前髪が風に乱れている。それをかき上げる。
「ハン警部補、前見て運転してくださいね」
ジュウォンは慌てて前を向いた。ちらちらと横目でうかがっていたのがばれている。
ジュウォンのあからさまな視線に動揺する様子もなく、ドンシクは気持ち良さげに風と戯れている。ジュウォンは訳の分からない苛立ちと共に、駅への道を殊更にゆっくりと運転する。
社交辞令的な会話を交わす間柄ではない。ジュウォンは車内で何を話すべきか迷ったけれど、結局ドンシクとは会話がなくても苦にはならない。
「この季節にあなたを見るのは初めてだから少し新鮮」
不意の発言の意味がわからなくて、横目でドンシクに意を問う。
「半袖」
そう言って、ドンシクはジュウォンが着用する制服の袖口を、ちょこん、と摘んだ。
ドンシクの指の背が二の腕の表面にわずか触れ、その冷たさに、ジュウォンは大袈裟に跳ねた。ぞわ、と二の腕に鳥肌が走る。同時、信号が変わり、慌ててブレーキを踏んだ。それほどスピードが出ていたわけではないから、体が前方に傾ぐようなことはなかったけれど、ジュウォンは思わずハンドルに抱きついた。
「な、ん」
動揺のまま怒鳴りつけるつもりでドンシクを見遣れば彼は停車すると同時、パトカーのドアを開けて外に出た。
「え、ドンシクさ、」
ジュウォンは下がったままの助手席のウィンドウと鳥肌の立ったままの二の腕に混乱し、空席となった助手席に思わず腕を伸ばした。
「今日はありがとうございました、ハン警部補。俺はここからタクシー捕まえて帰ります」
腰を折って下がったウィンドウから覗き込むように、ドンシクが唐突に告げる。
「なん、なんでですか、送ります!」
「ジュウォナ、信号青だよ。またね」
「イ・ドンシクシ!」
前方とウィンドウを交互に見る。パトカーに乗車している以上、違反をするわけにもいかず、ジュウォンはアクセルを踏んだ。
ジュウォンはバックミラー越し、ひらひらと手を振るドンシクの後ろ姿を見送るしかなかった。
突然やってきて、通り過ぎた後は何事もなかったかのような、まるで台風のような勢いでドンシクは来て、去った。
連勤明けのようにぐったりとした疲労を感じるまま派出所に戻れば、所内が俄に騒がしい。忙しなく動き回る同僚に、なにかあったのかと尋ねた。
「お、ハン警部補、戻ったか!」
「何事ですか」
「半年前から追ってた例の件のメンバーの身元が割れたんだよ」
「え」
「情報提供者は個人情報保護の観点から言えないけど礼言っといてくれ」
同僚の肩越し、これまた忙しなく動く所長が、矛盾する言葉を投げてきたことで、ジュウォンは理解した。
その情報提供者は、派出所の有様の予測がついていたのだろう、だから途中で車を降りた。そうして早々にジュウォンが派出所に戻るよう促したのだろう。
脳内で、見覚えのある、挑発するかのようなあの顔で笑うドンシクが浮かぶ。まるで声までもが聞こえるようだ。
一年越しでも、脳内再生が容易いあの声色。
再び二の腕に鳥肌が立ち、ジュウォンは頭を振って目の前の状況を分析した。
聞いた話によると、ドンシクは探偵サービスを始めたという。昔の伝手が多いらしいドンシクはどこまで顔が広いのか。
例の件とは、半年前から頻発している強盗事件に端を発するものだ。人数も複数人いて、個人なのかグループなのか不明、発生現場も不規則で、犯人逮捕に至っていない。それこそ数多ある防犯カメラで犯人を追うも、不自然に逃走先が途切れる。依然、犯人の行方は掴めないままだ。
江原道の管轄内で起きたのは一件だけだったけれど、ソウル庁でも頭を悩ませている本件の手がかりを、この小さな派出所が一番先に見つけたのならば、所長が浮き足立つのもわかる。だからこそ、所長は安易とドンシクを派出所に引き入れたのだ。
ジュウォンはその情報を持ち込んだドンシクの人脈の広さと能力に、改めて複雑な思いを抱く。それは彼の今までの人生に係る全てだ。
ジュウォンは頭痛のするこめかみを揉んだ。
由々しき事態だ。
頭痛がする心地よりも、これで再度ドンシクと会う口実ができたのだと、職務放棄にも等しく、不謹慎な想いを抱く己の思考回路に、ジュウォンは呆れた。
『またね』
漬けたキムチでも持参しながらの情報提供ならば、なお一層彼の変人ぶりに拍車がかかるが、イ・ドンシクはそのぎりぎりの線引きの在処をよくよくに理解している。
ドンシクは丁寧に先を読んで行動することにずば抜けている。手土産に強盗一味のメンバーのプロフィールを持参し、この派出所への通行手形を手に入れた。
ともすればファッショニスタのような、あの人目を引くスーツ姿はなんだ。女性同僚の目が輝いていたではないか。
一年越しであんな小綺麗でスマートな姿を見せられてはたまったものではない。
積年の再会で美化されているのではなく、ジュウォンには自分自身がドンシクに対して贔屓目である自覚がある。その事実に対して、は我ながら愚かしいとも。
ただ服装如何は別としても、事実、ドンシクはジュウォンが所属する派出所に現れ、事件に係る重要手がかりを提供した。
ジュウォンは口元に手をあて、忙しなく動き回る派出所のメンバーを傍観しながら、壁に背を預けた。支えがなければ立っていられない、と思ったからだ。
沸き立つ心とは裏腹に、混乱する。
一年越しの再会でありながら、ドンシクと交わした会話が思い出せない。本当にどうでもいいような会話しかしなかった。
所長室で、車中で、もっと話しかければよかったのだろうか。あのまま車を走らせて、ドアをロックをして、長いドライブをすればよかったのだろうか。
単純な話、ジュウォンは千夜一夜焦がれた彼が突然目の前に現れたから混乱したのだ。
──ドンシクさんに会いたい。
そう夢想しながら、実際に再会したらこの体たらくだ。
突然所内に平手のような肌を打つ音が鳴り響いた。忙しく動いていた所長が、同僚たちが、驚いて動きを止めて、音のする方を見遣る。
両手で自らの頬を叩き、ジュウォンは気持ちを切り替えた。
ドンシクが持ち込んだ情報ならば間違い無いだろう。
ドンシクを侮って見ている者はきっと上辺だけの軽薄な仮面に欺かれるのだろうし、はたまたその面の下の計算高く遥か先を読む洞察力に優れた彼を見て慄く者とに別れるだろう。ジュウォンは両方の洗礼を受けた。
それでいながらにして、彼の弱い面をもジュウォンは知っているし、彼が本気でジュウォンを心配するほど懐深く引き入れてくれていることをも自覚している。
だからこそ、ソウル庁やムンジュ署には持ち込まずに、ジュウォンがいるこの派出所に情報提供したドンシクからの、何某かの情に報いなければならないだろう、と。
◇
自分が所有している三十年の大台に乗ろうかといううさぎのぬいぐるみでさえも、もう少し背筋が伸びているのではないかというレベルで、ドンシクがくず折れるように庭木にもたれていた。
「ヤー!イ・ドンシクシ!?」
色々な言い訳を持参し、ジュウォンはナム・サンベがドンシクに遺した家にやって来た。
そこで、庭木にもたれかかるドンシクを見つけ、ジュウォンは言い訳以外の持参した手土産を放り投げて駆け寄った。
すぐさま手首の脈と呼吸を確認する。
頬が熱く、息も浅い。熱中症の症状だとすぐに判断したジュウォンはドンシクを抱え上げてすぐさま邸内に運び込んだ。救急車を呼ぼうとセルフォンを取り出すと、ドンシクが目を開く。
「ドンシクさん!?今救急車を呼びますからね!しっかりしてください!」
「
……
ぁれ?じゅぅおな?なんでここ、に、」
「熱中症の患者です!男性で、年齢は四十代、住所は──、ちょっとドンシクさん、動かないで!」
「
……
きゅうきゅうしゃなんておおげさ」
「すぐにお願いします!あなたは黙ってて!」
ジュウォンはここまで他人に心を寄せたことがなかった。だから初めて知ったのだ。
救急車を呼ぶ時、セルフォンのボタンを押す指が震えたと伝えたとて、重荷になるのならば、それが愛と名のつく感情に基づいているのだとしても、告げる必要はないのだということを。
◇
「結婚しましょう、」
「ぇえ
……
?」
病院の寝台の上、枕を背に寄りかかり、ドンシクは点滴を受けている最中だ。
軽い熱中症と脱水。そしてあまりの暑さに食事を抜いていたことをドンシクが白状したならば、ジュウォンが真顔で告げてきた。
昔からドンシクは物事に集中すると、食事が疎かになりがちだった。次いで睡眠。
睡眠不足からの聞き間違いかとドンシクはジュウォンが口にした台詞を繰り返した。
「結婚しましょう?って言いました?今」
それは異国語のように、ドンシクの口に馴染まない言葉だった。
ドンシクが首を傾げてジュウォンに促す。
「結婚しましょう。国外で。それでなければ養子縁組を」
「待って待って、なに、なんでそうなるの。あれ?なんの話してましたっけ。保険の話じゃなかった?」
絶賛自営業邁進中のドンシクは、看護師から入院費についての説明を受けたばかりだ。
そういった面も詳しいらしいジュウォンが、医療保険の見直しをほぼしていないというドンシクに、いかに保険が大事かを説いている最中だった。
『公的健康保険は兎も角として、医療保険は小忠実に見直すものですよ』
『はは、俺の奥さんみたいだね、ジュウォナ』
『なら結婚しましょう』
『え、えぇ
……
?』
「どこがどう繋がって結婚しましょうに至るのか全然分からないんですけど、ハン警部補、あなたも暑さでおかしくなってない?」
「
……
今日、僕が訪ねなかったら、あなた死んでいたかもしれない」
口に出して、ジュウォンは改めて背筋が凍った。
「それに関しては確かに運が良かったとしか言いようがないけど
……
だから結婚?ふふ、かわいいね、ハン・ジュウォン」
「僕は真剣です」
点滴パックの残量からして、会話が長くなるだろうとドンシクはため息を吐いた。
「基本的な話ですけど。結婚はね、愛し合う者同士でするものなんですよ、大抵の場合は。知ってます?」
小馬鹿にするようなドンシクの口調に予測がついていたジュウォンは、即座に反論した。
「愛していないと一緒にいられないんですか?」
「
……
一緒にいたいから結婚?極論ですね。あのね、恋愛って相手がキラキラ輝いて見えたり、あったかくて心がときめくものなんですよ。あなた俺に対してそういうのあります?」
「僕にはドンシクさんがキラキラして見えないし、あったかくもないしむしろ不整脈が起こります」
「ぇえ
……
最後のそれは病院行った方がいいんじゃないの。ちょうどいい、先生呼びましょうか?」
キラキラはしてないけれど、群衆の中でドンシクだけを見つけられる、という言葉をジュウォンは飲み込んだ。
「ハン警部補は、今までの経験でないですか?そういう、出会って恋に落ちる、とか」
「僕の人生において、あなた以上に強烈な出会いなんてない」
「俺との出会いじゃなくて。というか、気が早い。二十代でなにとち狂ってるの。十年経ってごらんなさいよ。あなたとんでもなくいい男になるに決まってる。引く手数多だから安心して」
「今の僕では不十分ですか」
「あぁもう、そうじゃなくて」
ドンシクはようやっと軽薄な笑いと口調を収め、点滴から視線を外し、ジュウォンを正面から見据えた。
ジュウォンは今更ながらに、前回の再会からドンシクの髪がまた少し髪が伸びたな、と気付いた。
「あなたが俺のためにしなきゃいけない義務なんて一つもないんですよ。もうすべきことをしてくれたじゃない。だから、自分のために生きなさいよ」
諭すようなドンシクの物言いに、ジュウォンは一瞬怯む。
最たる原因を作った男の息子が自分であることは重々承知しているのだが、先頃不意に現れたドンシクが、ジュウォンの手柄になるような事件の重要証拠を持ち込んだ事実が、少なからずジュウォンに勇気を与えていた。
だからこその訪問だった。
一年ぶりの突然の再会、そしてその再会から、口実を得たとばかりにジュウォンはオ・ジファ経由でドンシクが在宅しているという情報を得てから、ナム・サンベが遺した家へとやってきた。
そして熱中症で倒れたドンシクを見つけて今に至るのだが。
「これは僕があなたにしたいことなんです。いけませんか。わがままですか」
「違いますよ、そういうことじゃないですって。まぁそんな風に口に出せるとこも好きですけどね、ハン・ジュウォン」
ドンシクの言葉を聞いたジュウォンは、嫌そうな顔でドンシクを見返した。見返して俯いて涙ぐんだ。
「なんでそう、そういう。すき、とか、簡単に言うんですか
……
」
ジュウォンの心持ちからすれば、それは人として好ましいという以外の言葉以上でも以下でもない。容易くそれを口にするドンシクとの心の距離を今更に悟る。
俯いたジュウォンは気づかなかったが、この時ジュウォンのつむじ辺りを見つめるドンシクの眼差しが、万感の愛情に満ちていたことを、ジュウォンはこの先も知らずに生きるのだ。
「
……
あのね。十年後のとてつもなくいい男のウリジュウォニに惚れ込んでる自分が想像できるんですよ。骨抜きになっている状態なのに、ある日あなたから『他に好きな人ができたんですごめんなさい』って言われるんでしょ。嫌なんですよ」
ジュウォンが勢いよく顔を上げ、悔しげな顔でドンシクを睨みつけた。
「
……
あり得ない未来を勝手に想像して僕の恋を無かったことにしないで」
「ジュウォナ、だからそれは、そもそも恋じゃなくて」
「あなたはとてつもなく優しいけれど、時折とてつもなく優しさが残酷だ」
「
……
あなた自身がさっき言ったじゃない。キラキラして見えないでしょ。心があたたかく満たされたりするの?俺といて。むしろそれは義務感や責任感とかの
……
あぁ、とにかく、俺といたらあなたが辛いだけでしょ」
「それはあなたの方が。僕を見たら、その、」
父を──あの男を思い出すだろう、とは、ジュウォンは口に出せなかった。
ドンシクが小さく息を吐く。そうして彼は少しだけ話題を逸らして、再度軽薄の仮面を被った。
「あなたのお兄さんにも顔向けできないじゃない。綺麗で可愛い女の子ならともかく」
「ヒョクさんは『何処の馬の骨ともわからない女よりもイ・ドンシクの方がマシかな』、と」
「恋愛相談してんのかよ
……
いや、あのね、ジュウォニ、これ多分吊橋効果的な」
「言いました。なかったことにしないで」
「
……
恋愛云々置いといて、なんで結婚にまで行き着いちゃったの」
「法的に縛れば一緒にいられるかと
……
」
「あなた頭いいのに馬鹿なんですね
……
」
ジュウォンの鼻を啜る音に、ドンシクは頭痛がする思いだった。自分がいじめっ子になったかのような錯覚を起こす。
「あのね、ハン・ジュウォン。そんなことしなくても、俺はあなたに会いに行くし、あなたもいつでもきたらいいじゃない」
「そういうんじゃないんです」
「じゃあどういう」
「だって」
「だって?」
「
……
下心があるので」
ドンシクがぽかんと口を開けた。
数十秒に満たないほどの永遠とも思える時間、ドンシクに呆然と見つめられて、ジュウォンは再度俯いた。
「
……
ハン警部補、あなた、下心の意味わかってます
……
?」
「
……
馬鹿にしてるんですか」
「いや、そうじゃあなくて」
ドンシクは焦った様に顔の前で手を振って否定した。戸惑っているだけだというのが見て取れて、ジュウォンは安堵する。嫌悪の表情で見られたら、ジュウォンはもうドンシクに合わせる顔がない。
「ハン警部補の口からそんな言葉が出てくるなんて。喜ばしいことなのに相手が俺じゃあそれはむしろ悲しいことだな、と」
ジュウォンの顔がみるみる翳り、蒼白一歩手前であることに気づいたドンシクは、慌てて言葉を重ねた。
「わかりました、わかりました。なら、まずはデートしましょう」
「デート」
異国の言葉かのように、ジュウォンが繰り返す。
「それは以前一緒に食事した時と大して変わらないのでは
……
?」
「ふふ、そう思う?じゃあ、デートという自覚を持って俺とご飯食べましょう。ね」
壊れたスピーカーの様に、ジュウォンが再び『デート』と繰り返した。そうしてもう一回。
「デート
……
」
つぶやきに甘さが増し、ジュウォンの耳の淵が赤く染まるのを見て、ドンシクは口角が上がるのを必死に耐えた。
ハン・ジュウォンはとにかく顔に出やすい。無表情に見えて、ドンシクは彼の怒りや嘆きや喜色が存外に豊かであることを、好ましく思っている。
「少しおしゃれして待ち合わせして、気に入りのお店で食事するとか、ね」
「そ、それなら、僕のとっておきのお店が!」
「じゃあ食事はあなたに任せようかな。そういえばおすすめのお店に連れて行ってもらうのは初めてだね」
ドレスコードのあるお店かな、などとドンシクが笑う。
ジュウォンはドンシクと未来の約束をできる現実を、今は噛み締めた。
時間はある。まずはドンシクの回復を待って彼を送り届ける。そんな少し先の予定にさえもドンシクの隣にいられるのであれば、これほどの贅沢は他にない、と思えるほどの。
◇
デザートを差し出せば、ジュウォンがそれを凝視するものだから、さては苦手なのかとジェイはジファに譲ろうと皿に手を伸ばす。
「え?」
「え?」
ジェイが杏ののった皿を卓上で移動させようとすると、反射のようにジュウォンが手を伸ばしてきた。
「
……
すごい目で見てるから苦手なのかと、思ったんですけど」
「すみません、違います。少し前に、ドンシクさんからもらったことを思い出して、その、」
「杏を?」
横から会話に加わってきたのはジファだ。ジェイとジファは目を見交わし、ジュウォンに続きを促した。
「えぇ。杏ってあまり好んで食べたりしてなかったんですけど、美味しかったな、と。それを思い出していて、手をつけるのが遅くなってしまいました、すみません」
ジュウォンの言葉に〝こちらこそごめんなさい〟、と告げて、皿を返して笑う。ジェイはそのまま椅子を引くと、ジファとジュウォンの卓に同席した。
他に客はいない。顛末を聞く体勢だ。
仕事でたまたまマニャンを訪れていたジュウォンをジファが誘い、マニャン精肉店での食事と相なった。
一通り最近の職務についてや街の人々の様子について、ぽつりぽつりと会話を交わしたのち、近所からの貰い物だとジェイが杏を切って出したところだった。
「あいつんち杏の木なんて──、あぁ、あっちの家か」
ジファがいう〝あっちの家〟は、ナム・サンベがドンシクに遺した家の話だ。けれどジュウォンは首を振る。
「ドンシクさんのあちらの家にも杏の木は。近所の方からの貰いものだって言ってました」
「ふぅん」
「へぇ」
ジファもジェイもただ相槌を打ち、そのままそれぞれが杏に手をつける。
指で摘んだジファとジェイがそれを旨そうに咀嚼するのを見てから、ジュウォンも指で摘んでそれを口に放り込んだ。
それを見てジファとジェイは、ここ一年で随分と〝馴染んだ〟ハン・ジュウォンの様子をある意味微笑ましく見守った。
「話の続きだけど、ドレスコードのある店はやりすぎかってやつ。いいんじゃないの、別に」
杏を肴にジファがソジュを煽る。ジェイもそれに頷く。
「やりすぎかどうかは別として、ハン警部補が連れて行きたいんですよね、アジョシを、そこに。自分の好きな店だから。なら別に。ねぇ?」
〝馴染んだ〟上に、さらにその先を目指しているらしい人間関係構築一年生のハン・ジュウォンの目下の悩みは、ドンシクとの〝お出かけ〟に関してだった。相談されるジファやジェイからすれば、いささか尻の座りの悪い話ではあるが、真摯に話を聞いて、アドバイスを授けている。
そもそもジュウォンがジファとジェイに相談──ましてやそれが愛や恋に係るものの自覚がないままであることの方が問題だと、二人は考えている。ジュウォンとドンシクの関係性につける名はなくて、ジファとジェイはこっそり顔を見合わせた。
ジュウォンがドンシクに抱いている心持ちが恋なのか、責任感なのか。ましてや罪悪感などであれば、相当に根が深い問題である。
マニャンの人々のように、以前からドンシクの人となりを知る者はいい。
けれどジュウォンのような外部の人間からすれば、ドンシクの振る舞いに対しての耐性が無さすぎるのだ。
ドンシクの無意識の振る舞いは、気を持たせるような、それでいて、こちらを揶揄うようなもので。それでいて、不意に寄るべなき風情を見せたりするのだから、慣れない者からすれば混乱して当然だろう。
しかもジュウォンはあらゆる面──特に情と名の付くもの──においてヴァージンだ。
マニャンの混迷極まる人間関係の坩堝にはまり込んで、勘違いをしている可能性もある。
とはいえジファやジェイからすれば、あのハン・ギファンの息子であることは、ジュウォンとっての最大で最悪の不幸であることも理解しているからこそのアドバイスなのだが、そんなものはたかが知れている。
ジェイはアルコールだけでない、ドンシクとの〝お出かけ〟に胸弾ませほんのりと頬を染めた鉄仮面を眺め、話題を変えた。
「そういえばおとといドンシクさんがまた来てくれたんだけど、髪の毛切ってた」
「やっと?鬱陶しいから早く切れって常々言っといたんだけどやっとか」
ジェイのささやかなマウントに気づかず、ジュウォンが純粋に瞳をぱちくりと瞬かせた。
──あんたとのデートのためでしょうよ。
ジェイは心の声とは裏腹に、にっこりと笑ってジュウォンを見つめ、年上らしく余裕の体で別の種明かしをして見せる。
「変な輩に目をつけられてたし、ちょうどよかったです」
途端、ジュウォンの三白眼が据わる。ジファもそれに気づいて愉快げに笑い、震える口元をソジュのグラスで隠した。
「
……
ヌナ、詳しく教えていただけませんか」
「上手になりましたね、お願いの仕方が」
ご褒美です、とジェイは残りの杏の皿を全てジュウォンに差し出した。耐え切れずにジファが吹き出す。
「アジョシね、無精で髪伸ばしてたらしいんですけど、つい先日、首まで伸びてた髪を掴まれて引き倒されたんですって。あ、ちょっと、グラス割らないでくださいよ」
瞬時に血管の浮いたジュウォンの手の甲を見やって、ジェイがその手からグラスを取り上げる。
「だれに。どういう状況で」
「詳しくは本人から聞いてください。くれぐれもドレスコードのある高級店で問い詰めたりしないでくださいね」
杏に一喜一憂し、素手でグラスを割りそうなジュウォンの有様を、ジファもジェイもある種感慨深く思う。
ジェイの返答から、もどかしげにポケットからセルフォンを取り出したジュウォンは、結局画面を見つめたままなにもせずにそれを再度仕舞った。
密度濃くも、瞬きほどの時間の中で、季節が移り変わるように変幻した青年はとても好ましい。それはドンシクもで、ジファとジェイはそれを喜ばしく、そして少しの複雑な感情と共に歓迎した。
◇
ちらちらと横目でうかがい、また正面を向いてを繰り返す。
今更ながらに、こんなに目を引く人だったろうかとジュウォンは再度ドンシクを盗み見た。
自分の贔屓目を存分に受け入れながらも、すれ違う数人が、ジュウォンの隣を数秒凝視する。気のせいだと思っていた。思いたいだけだった。
数ヶ月前に派出所に突然現れた時以上に、ドンシクの格好は洗練されていた。
〝デート〟の待ち合わせ場所に辿り着き、その風態にジュウォンが言葉を失えば、『ただでさえハン警部補は格好いいからね。俺も頑張りました』などと嘯くのだ。
ドンシクは細身に見えて、その内側は筋肉がみっちりと詰まった体をしている。
マニャン派出所ではジュウォン以外のメンバーは特に頓着せず着替えをするものだから、上半身裸のドンシクにも遭遇したことがある。派出所の誰よりも鍛えられた体をしていて、ジュウォンは素直に感心したのだ。
ドンシクの格闘技の腕前からすれば予測はつくが、ジュウォンとて職業柄、鍛錬を怠ってはないない。
けれど、ジフンと軽口を叩きながらの雑談で打ち明けていた、ドンシクの体脂肪率には驚かされたものだ。あの腹のどこに内臓が収まっているのだろうか。
だからこそ、ドンシクは既製品のスーツでのサイズ選びが大変だろうとも。
一般的な警察官の制服などは、それこそ万人向けに作られたもので、その辺りの量販店のスーツ専門店とて同様だ。
だから、ひと目でオーダーとわかるスリーピースのスーツを纏うドンシクの魅力的な立ち姿に、ジュウォンは度肝を抜かれた。
そして、同時にドンシクとの年齢差を歯痒くも思った。重ねた年月分の燻された大人の男の風情は、今のジュウォンには決して手に入らないものだからだ。
若さというものはそれだけで武器にもなるが、こうして正面から経験豊富さを醸されたのでは太刀打ちができない。
ダークグレーのオーダースーツには、目を凝らさなければわからないほどの細いストライプが施されている。ジレを着込み、ブラックに近いボルドーのネクタイに、新品ではない、けれど手入れされたストレートチップ。
横皺のないスーツで、腕にジャケットをからげたまま、短くなった髪を後ろに撫で付けたセクシーな壮年の男が、ジュウォンを待っていた。
ジュウォンは眩暈がする心地だった。
車を停めた駐車場に辿り着くまでの視線の数の多さは、見目のいい壮年と青年が並び立つ姿へのものだったが、ジュウォンはドンシクが笑う口元の皺に見惚れていて気づかなかった。
ジュウォンの運転する車で訪った郊外の隠れ家的な店は、ドレスコードも定められている分、男性二人切りでも、給仕の視線がうるさくない。客のプライベートに踏み込む無粋さもなく、個室もあることから、ドンシクとひと目を気にせず食事ができると思っていた。
なによりも単純に、偏食のきらいがあった自分が唯一あれこれと注文をつけず、喫食を楽しめる店だった。
だから、静かに食を楽しみたい時に訪れていた秘密の場所。
それを共有することだけを考えていたから、ジュウォンは今更ながらにドンシクが〝デートの自覚〟と宣う二人きりの食事の意味を理解した。
食と性は紙一重だ。人前で食事をする──食べ物を口に入れる行為。食事は生きる上での摂食だが、根底は飢えだ。
次々に運ばれる食事をドンシクは絶賛したし、ジュウォンもまたそれを素直に喜んだ。
裏腹に、腹に溜まったはずのそれらは空腹を満たすものではなく、ジュウォンはますます飢えた。
店の入口で、手慣れた様子で給仕にジャケットを預けるドンシクに。
ジュウォンのエスコートを易々と受け入れるその様子に。
並べられた食器と、豊富なカトラリーを過たず順番通りに使うマナーの良さに。
そして、給仕が差し出すアルコールへの、グラスの傾け方に。
一般的なマナーを身につけているという話ではなく、ジュウォンが知るドンシクはまだまだ一部だというもどかしさだ。
年の差は埋められるものではない。
ドンシクは面倒見がいい。
懐深くジュウォンを受け入れ、こうして食事の同席を許可してくれるのは、年下であることも影響しているのではないかと、不意に羞恥のようなものを感じた。
田舎の派出所務めで、無精髭もそのままで。
先頃、暑さに弱いくせに、食事と睡眠をおろそかにしたまま、庭の草むしりをして熱中症に罹った。
少し伸びた髪を掴まれ、引き倒された結果、髪を切ったらしいと聞いた。
寒い部屋で、地下室で、声を殺して謝罪して泣いていた。
ドンシクの深淵を知るからこそ、彼の全てを知っている気になっていた。
違った。彼には重ねた年齢分、出会った誰かとの経験分、ジュウォンの知らないドンシクがいる。
焦がれて死にそうな想いというものがあるのだと、ジュウォンは自覚し、狼狽えた。
食事をして、飢えを満たすレベルのものではない。自分の知らないところで、ドンシクの人生が進むことを心底嫌だと思った。
よくぞ一年も会わずにいられた、と、ジュウォンは機械的に食事を口に運びながら、そんな様子を露とも見せず、ただ、今はドンシクとの時間を堪能するのだった。
◇
ジュウォンが突然車を止めた。
デートという名の食事の帰り、繁華街を抜ける道での急ブレーキに、ドンシクの体は傾ぐ。
「ハン警部補?」
ドンシクの訝しる声色は素通りし、ジュウォンは大通りの明るいネオンから、薄暗い横道に逸れていく若い女性の二人組を凝視した。
あの奥にはクラブがある。
倣ってドンシクが体を倒し、ジュウォン越しに目を細めて様子を伺う。
「
……
ははぁ、管轄内の子?」
察しのよいドンシクの言葉に頷く。
「あのクラブは危険だと三日前にも補導したばかりです。彼女たちはまだ未成年で」
当該のクラブは未成年へのアルコールの提供に加え、ドラッグによるいざこざが度々起こっている。
正直なところ、こういった状況は日常茶飯事であり、彼女たちが特別対象というわけではない。
ただ、二人組の少女のうちの片方の祖母は、警邏巡回の度にジュウォンを引き留めて茶だ菓子だと手厚くもてなし長話に興じるし、もう一人の方は片親で、体が弱くなかなか定職に就けない父親がいる事情を知っている。
つまり、ジュウォンの中で、守るべき江原道の住民なのだ。
「どうするの?今から突入?」
「
……
入口にスキンヘッドの守護神がいまして。数日前にも押し問答したばかりです。僕の顔を覚えられている可能性が。警戒されて中に入れてもらえないでしょう、その間に彼女たちは裏口から逃げてしまう」
顔立ちの端正な正義感溢れる青年は確かに目立つからこそ覚えられているだろうし、恐らくはジュウォンが職務外でここを訪れたのだろうことも、ドンシクには推測できた。
──元から身も心もお巡りさんだったけれど、なお一層磨きがかかっているようで。
ドンシクはクラブの入口を睨みつけるジュウォンを顧みて、口元だけで笑った。
ジュウォンは官僚組だ。本来なら現場や派出所勤務に就くことはない。
その彼がマニャンの事件を解決に導き、今もこうしてドンシクの言葉だけでなく、父の亡霊に苛まれるだけでなく、ただ一人の正義感溢れる青年として、住民を憂う。ドンシクが彼を好ましいと思うのは、そういうところだ。
ドンシクはタイに指をかけ、素早くそれを外す。
しゅる、とタイを解く音に、ジュウォンが振り返った。
ドンシクはルームミラーを鷲掴み、自分の方へ向きを変えると、ドリンクホルダーに入れてあるミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばした。キャップを回して逆さにすると、中身を手の平の上にぶちまける。
ドンシクの突然の行動にジュウォンは目を見開いた。車内で何を、と叫ぶ前に、ドンシクがルームミラーで確認しながら、濡れた手で前髪をかき上げた。風に流れて無造作に乱れていた髪を撫でつければ、再度秀でた額が晒される。
その時点でジュウォンは予測がついた。
いつの間にか解かれているネクタイと、第二ボタンまで外されたドンシクのシャツの胸元に、額から滴る雫が吸い込まれていく。ジュウォンはその水の軌跡を無意識に追って、我に返った。しかし、ドンシクの行動の方が早かった。
「ちょ、」
ジュウォンが声をかける前に、ドンシクは車のドアを開けて外に出てしまう。ジャケットを腕にからげたまま、シャツの袖口のボタンを外しながら。ジュウォンが掴んだなら指があまりそうな手首がちらちらと袖口から見える。
ドンシクの腕時計に反射したネオンの光がジュウォンの目を射抜き、ジュウォンは眼前に星が散った心地がした。
「駄目です、ドンシクさん!」
ドンシクの意図はありありと分かる。クラブに乗り込むつもりだ。
ジュウォンの焦る声に、ドンシクが軽薄な笑みを浮かべて煽るように振り返る。わざとだ。
ドンシクは髪だけでない湿った空気を纏ったまま、車の前面からジュウォンの運転席側へと移動してくる。ジュウォンが外へ出ようとドアを開ける前に、ドンシクは膝でドアを押し返してきた。
ドンシクを睨みつけたまま、仕方なし、ジュウォンはオートウィンドウを下げる。ドンシクが腰を折って、窓から覗き込んで来る。
その態度に、ジュウォンはこめかみを引き攣らせた。
「ハン警部補、面の割れてるあなたが行くわけにいかないんでしょ」
「だからあなたが行くと?今のあなたは一般人です。それに、その格好は
……
」
なんと伝えるべきか言い淀んだジュウォンの言葉を促すように、ドンシクは小首を傾げた。ジュウォンがその先を言葉にできないことを分かった上での仕草だ。
(腹立たしい)
怒れるジュウォンの様子に、ドンシクは肩をすくめ、自らの胸元辺りに手を添えて、見せつけるような仕草で尚も煽る。
「俺の格好のどこに問題が?」
「それ、は」
ジュウォンが詰まる。〝魅力的すぎるので心配だから〟とは、死んでも言いたくなかった。勿論言えなかった。
返答のないジュウォンに対し、いっそ場違いなまでの優しい笑みを一瞬だけ浮かべたドンシクは、そのまま身を翻した。ドンシクのジレの背を見送るしかないジュウォンは、苛立ちと焦燥に駆られるまま、ハンドルに額を押し付けた。ハンドルに懐いたまま顔だけをぐるりとクラブの入口に向ける。
以前のジュウォンならば、こんな仕草をすることもなかった。
職務としての協力者を、自身の心持ちで送り出すことを歯痒く思う日が来るなんて。
入口のガードマンと会話を交わすドンシクの貼り付けた笑顔がもどかしい。
ネオンに照らされたその横顔。
比較的若者が多いクラブではあるけれど、服装と場慣れした雰囲気に上客と判断されたらしいドンシクは、ガードマンが恭しく引いたガラス扉の向こうに消える瞬間、見えない位置からわずか後ろ──ジュウォン──を振り返ってうっすら笑った。
派手で淫靡なショッキングピンクのネオン越し、流し目を送られたジュウォンは再度ハンドルに突っ伏した。
こんなデートでは心臓が保たない。
セルフォンが震える。
──『潜入成功』
ドンシクからのメッセージが送られてきた。
ジュウォンは悔し紛れに返答をスルーした。魅力的だから行かないでと言えなかった代わりに。
「性悪」
人生で初めてジュウォンはその言葉を口にした。
◇
大音量のBGM、目が痛くなりそうな光の洪水。ドンシクは色とりどりの灯りで顔色が変幻する人々の合間を縫うように進む。
目的の二人組の少女達はすぐに見つかった。顔や服装は一瞬で覚えられたし、何より少女達の背格好はドンシクの心を抉る。
短いスカートに、派手な化粧とアクセサリー。
混同するつもりはない。けれど、早くこのいやらしく蒸した熱気から少女達を連れ出したい。贖罪のつもりなど毛頭ないけれど、誰一人取りこぼしたくなくて、ドンシクは踊る人々の合間を早足で進んだ。
すれ違いざまに数人に尻と太ももを触られた気がしたが、今は腕を捻り上げて犯人を床に引き倒す暇さえ惜しい。
しかもどうやらそれらの手の主が、若い男性に加え若い女性だったように見受けられた。ドンシクのような中年にも食指が動くらしいこのクラブの雰囲気からして、アンダーグラウンド感が強すぎる。なるほどドラッグだけでなく、そういった嗜好の者がいるクラブであるならば、ジュウォンが少女達を心配するのも最もだ。
江原道に住む都会に不慣れな未成年の少女達が、気軽に訪れる場所としては物騒すぎる。
件の少女たちは、タチの悪そうな男達に絡まれていた。ドンシクはすぐさま少女二人と男たちの間に割って入った。
ふらりと現れたクラブの層よりもいささか平均年齢が高めの男の突然の行動に、その場にいた全員の動きが止まる。首にタトゥーの入った男がいち早く我に返る。
なんだよおっさん場違いなんだよ邪魔すんなよと、まるで台本のような台詞を吐いて、タトゥーの男がドンシクに掴みかかろうとする。ドンシクは伸びてきた男の右腕の手三里を思い切り押さえつけた。ぎゃあ、と悲鳴があがる。もう一人の男がそれを見て、勢いよく拳を振り上げてくる。その胴にドンシクの膝が入った。えずくようなうめき声が上がる。BGMに紛れた不協和音に、周囲の人々が踊るのをやめ、騒ぎの元を辿る。
肩を寄せ合って震え、涙目の少女二人にドンシクは近づくと、人好きのする笑顔を浮かべてみせた。
「こんばんは。さぁ、おじさんと一緒に店を出よう」
突然現れた男に対し、少達ちは困惑を露わにし、なお一層警戒を深めているようだった。当然だ。
「あなた達を心配して、江原自治道派出所のハン・ジュウォン警部補が外で待っているよ。分かる?ハン・ジュウォン。つい最近も補導されたんだって?」
成敗した男二人は、クラブの客達の注目を浴びたせいか、いつの間にか消えていた。
少女達は顔を見合わせ、困惑から僅かな安堵を垣間見せる。ドンシクはジュウォンの名前を出すことに、ほんの少しの誇らしさを感じながら、再度告げる。
「俺はハン警部補の友達」
「
……
ハン警部補の
……
?」
「うん、そう、ハン・ジュウォン警部補。良かった、彼のことわかるんだね?」
少女達が同時に頷く。きっとジュウォンは、少女達に向け、名乗り、困ったことが有ればいつでも連絡するように、とでも告げていたのだろう。結果、少女達は反発しながらも、ジュウォンの名をしっかりと覚えていた。それはジュウォンが少女達に信頼されていることの証左だ。
──胸を張れ、ハン・ジュウォン。あなたの優しさと労りは、こうして今日もしっかりと息づいている。
ジュウォンにそれを告げることはない。ドンシクだけが知っていればいい。ジュウォンは警察官として、きっとそれを当たり前のことだと捉えているだろうから。
正義を履き違えた父の背を、最も身近で見てきたはずのジュウォンが真っ当な正義を貫いていることを、ドンシクはとうに知っている。
──僕だけはイ・グムファさんを忘れてはいけないから。
ジュウォンはドンシクと出会った当初から、事案を数字ではなく、個の人間が関わっていると捉えられる警察官だ。
ドンシクは少女達を促し、クラブの出口に向かう。
「あの、」
少女のうちの一人がドンシクに声をかけて来る。
「うん?」
なるべく優しく聞こえるように、ドンシクは意識して返答し、僅かに首を傾げて促してみせる。
「おじさんも、ハン警部補の友達なら、警察の人
……
?」
「いや、俺は違うけど
……
」
そこまで答えてドンシクは脳内で少女達の様子と、先ほどの男達との不穏なやり取りを思い出す。
そして言い直した。
「俺はね、元警察官なんだけど、今は探偵サービスしているおじさんだよ。なぁに?何か相談したいことでも?ハン警部補には言いにくいこと?」
優しげな口調でありながら、誘導するように答えを導く言い方で促す。前方には、自分達を迎えるために、ジュウォンが車から降りようとしているのが見えた。
間違いなくドンシクはジュウォンの知り合いだという裏付けになっただろうし、少女達が躊躇う話の内容は、警察に告げたならば、何がしか自分達が不利になる行いか、もしくは大ごとになる可能性のある情報だ。
ドンシクの促しに、少女達は躊躇いながら口を開いた。
先頃同クラブからジュウォンが少女二人を連れ戻した時、二人はえらく不機嫌で、車に同乗させて自宅まで送り届ける間に、ジュウォンは後部座席から延々足蹴りをされ続けた。つい先週の話だ。
それがどうだ。
少女二人組は、素直にドンシクの左右に張り付いて、大人しくクラブから出てきた。
よほどの怖い目に遭ったのかもしれない。
クラブから出て、ジュウォンの車を見つけると、明らかに安堵した様子だった。ジュウォンも肩に入っていた力を抜いた。
ドンシクと会話を交わしながらこちらに向かって来るのを、ジュウォンは車から出て迎えようとドアに手をかける。ふと思い出して、助手席を見やる。ドンシクのネクタイが、座席に残っていた。
光沢あるボルドーのネクタイが、黒い革張りの座席に落ちている。
ジュウォンは身を乗り出してネクタイを掴んだ。しばしその体勢のまま思考し、それをダッシュボードに放り込んだ。
身を起こしてドアを開け、今度こそ、ドンシクと少女二人を迎える。
少女達はジュウォンの車に近づくと、顔を見合わせた。その隣でドンシクが少女達を優しい笑みで見守っている。一瞬だけそれに見惚れかけたジュウォンの耳に、少女達の小さな謝罪と感謝が届く。頭を下げた彼女達をドンシクが促し、二人は後部座席に座る。
半ば予測していたが、ドンシクはそのままタクシーで帰ると言い出した。
「ドンシクさん」
「しっかり送り届けてあげてね」
職務を優先することをこそ、ドンシクは望んでいるし、ジュウォンもそれを重々に理解している。ただ、本来であれば、このままドンシクの住処へ送るつもりでいたジュウォンからすれば、デートの時間が減ったこととイコールだ。わかりやすく顔に出ていたのだろうか。ドンシクが吹き出した。
「ジュウォナ、次の休みいつ?先約していい?」
ドンシクの言葉にジュウォンはいちもにもなく頷いた。
「じゃあ俺から連絡します。ほら、早くご家族を安心させてあげて」
ドンシクが大人しく後部席に座る少女二人を指差す。その指先の行方に倣って、ジュウォンも後部席に目を遣る。
未成年の少女二人。派手な化粧にアクセサリー。飾りのついた爪。
ドンシクの心情がありありとわかり、ジュウォンは唇の端を噛んだ。振り返れば既にドンシクは道の反対側へと歩き出していた。軽く振り返ってこちらに向かって手を振る。こんな時、ジュウォンはどういった反応をすればいいのかがわからない。手を振ることはないし、ただ、躊躇ううちに、ドンシクは笑って背を向けてしまう。
これで会えなくなるわけではないと言い聞かせ、ジュウォンは自らの職務に戻る。
後部席に乗せた少女二人は口数少なく、今回ジュウォンは座席を蹴られずに済んだ。
◇
──メッセージ受信
『俺、タイ置いて来ちゃいましたよね?』
──既読
──メッセージ送信
『はい。預かってます。人質です』
──メッセージ受信
『人質?』
──既読
──メッセージ送信
『そうです、人質です。返して欲しかったら、次のデートは僕の家で』
◇
マニャン精肉店で、プデチゲに舌鼓を打つ。
最近始めたらしい配達に出かけたジェイは、そろそろ車を買おうか、などと言い出すので、ジファとドンシクは揃って首を横に振っておいた。頬を膨らませながら配達に出かけたジェイを笑って見送る。
しばらく互いの杯をソジュで満たしあって近況を報告すれば、ジファが早々にドンシクに釘を刺して来た。
「ドンシガ、あんた、ハン警部補とまだ続いてんの」
「
……
どれを指して続いてるなんて言ってんの」
「一ヶ月くらい前にハン警部補が、ドレスコードの店にあんたを連れてくって辺りから、私はアップデートしてないからその辺」
「あの人
……
方々に相談してんのか
……
」
ドンシクが頭を抱える。ジファはそれを無感動に見つめながら、再度釘を刺す。
「その気がないなら思わせぶりなのは良くないと思うけど」
「思わせぶりも何も。これ始まってんのかどうか、俺もまだわかんなくて」
「一つ確認したいんだけど」
「なに」
「ユヨナの件の報復じゃないよね?」
「
……
ジファ、」
ジファの言葉に、ドンシクがすぐさま怒りを滲ませる。それを見て、ジファは両手を上げた。
「悪い、最低のこと聞いた。わかってたけど確認したかっただけ。ごめん」
ジファがそう思うのも無理はない。ドンシクは怒りの眼差しを解いて、箸を置いた。
「そもそもあの人自身の心持ちが、罪悪感から来てるものだったら、そっちの方が救いようがないだろ」
ドンシクの言葉に、同じことを考えていたのか、ジファが頷く。
「罪悪感かどうかはあんたの方が見てて分かるでしょ」
ジファの言葉にドンシクは、ジュウォンの『下心』という言葉を思い出した。思い出して年甲斐もなく頬に血が昇り、アルコールで熱った体温に感謝した。ジファはそれに気づかず、言葉を続けた。
「あんたがいないと息もできないようにしたのはジョンジェもハン警部補もそうだけど、ハン警部補は外から来たまっさらな人間だからさ」
「吊り橋効果かもだろ」
「だとしたら余計に思わせぶりな態度取るなってこと」
三度ジファに釘を刺され、仕方なしドンシクは頭をかいて、白状した。
「始まったら終わっちゃうだろ」
「ドンシガ」
ジファが目を見開く。
「あんた、終わりたくないの?」
ドンシクは腕を組んで、思考するように視線を斜め上、天井に向けた。雨漏りのシミを見つけて、不可思議な紋様を意味なくじっと見つめた。横顔に、未だジファの驚いた視線が刺さっているのを自覚しながら、二十年来の友人に吐露する。
「
……
あの人俺が勧めたら杏食うんだよ。あまり好きじゃないって言ってたのにさ」
「あぁ、それ、私も聞いた。ここで一緒に食事した時に、あんたのとこで食べて美味しかったって」
「ふふ、そうなんだよなぁ。目を閉じてれば気付かなくて済むのに」
「
……
ハン警部補が色々なことに興味を持って世界を広げてくのはいいことだと思うけど?」
じっと見ていると酔いそうな天井のシミから視線を外し、ドンシクはジファに視線を合わせた。
「 見えてるのに見えてないふりばかりする人間の方が多かったろう、俺の周りは」
ドンシクの言葉を、ジファは口を挟まずに聞いてくれている。ドンシクは続けた。
「
……
あのな、ジファヤ。ハン警部補が相談したっていうドレスコードの店で食事した帰り、ハン警部補の管轄内の女の子二人が、治安の悪いクラブに入って行くところを見つけたんだ」
ドンシクは少女二人を保護し、家まで送ったジュウォンとの顛末を話した。
「あの人、理想のお巡りさんだよな、つくづく」
ジファは変わらずの表情で、静かにドンシクの話を聞いている。
「
……
ハン警部補に志を託すなんて崇高な気持ちはさらさらないんだけどさ。ただ、困ってる人がいたら、損得なしに助けてくれるのがお巡りさんだろ。警察組織ってそういうものじゃないか。それだけの、地位と権力と金があるはずなのに、そうじゃない人間が多すぎたから」
「
……
ドンシガ、あんたのその感情って何?ハン警部補が人格者で魅力的だってこと?あんたどうしたいの?どうなりたいの?」
「
……
わかんないけど。種を蒔いたら違うものまで芽吹いちゃったみたいでどうしようかな、と」
「それハン警部補のこと?それともあんた自身?」
「どっちだろう。でも相手が俺じゃあなぁ。ハン警部補が可哀想で」
「ばか」
ジファはソジュを勢いよく煽ると、音を立ててグラスを置いた。
「いい?ドンシガ。あんたは二十年来の付き合いのある私やジョンジェを地獄に道連れにしようとはしなかった。でも、ハン警部補とは一緒に行った。だから、少し、私は寂しかったんだ」
「ジファヤ」
「それがいいとか悪いとか以前に、私やジョンジェの方があんたに近かったはずなのに、いきなり横から掻っ攫われた心地になってさ。腹も立つでしょ、あんたにも、ハン警部補にも」
「それなら俺だって」
「うん、分かってる。私もあんたと同じだった。イ・チャンジンが私を連れて行った。そうだよ、私はマニャンを離れた」
一瞬だけジファが回顧するように遠い目をした。ドンシクも詳細を知らない、イ・チャンジンとジファの思い出だ。想像するだけで腹立たしい心地がして、なるほど、ジファが抱くハン・ジュウォンへの複雑な感情を理解する。
「息苦しくても、あそこで生きていくしかなかった私を、マニャンから連れ出してくれた人間がいた。結局私は終わらせて戻ってきてしまったけれど、あんたはハン警部補と終わらせたくないんでしょ」
「
……
うん」
「ドンシガ、幸せになることは決して悪いことじゃないし、不幸でいることは慰めにならないんだ。周りにも、自分自身にも。月並みだけど、それは自己満足だ」
「
……
うん、ごめん、ジファヤ」
「謝んないで。腹立つから」
ドンシクがソジュの瓶を傾ける。ジファはそれを受け取った。
「さっきのさ、あんたが勧めたら、ハン警部補が杏食べた話」
「うん?」
返す酌を受けながら、ドンシクはジファの言葉の意味を問う。
「杏が好き嫌いどうこうじゃなくて、ハン警部補の興味の矛先はあんただって自覚あるんでしょ」
「
……
」
「その感情にはちゃんと向き合っていいんだよ」
「
……
ジファヤ」
「なに」
「ありがとう」
ジファは何も返答せず、肩をすくめてドンシクにグラスを差し向けた。ドンシクは恭しくそれにソジュを注ぐ。
「ついでにもう一つ係長様に相談したいことがあるんだけど」
ドンシクの言葉にジファは大袈裟に眉をしかめた。
「恋愛相談はもうお断りなんだけど」
「そもそも恋愛話じゃなかっただろ」
言葉遊びの軽口を叩きあってから、ジファは頷いて話の続きを促した。
「ムンジュ署管内で、補導された未成年がこのクラブに行ってないか確認できるか」
具体的な事件の話に、ジファの目つきが変わる。ドンシクが差し出した携帯電話の画面に映る、クラブのホームページ。ジファはドンシクから携帯電話を受け取り、確認する。
「ソウルのクラブ?」
「あぁ。例の頻発してる犯人特定に至ってない強盗事件のこと知ってるか?」
「本庁で追ってるやつ?うちでも2件発生してる。犯人の痕跡がなくて手がかりゼロの
……
このクラブと関係あるの?」
ジファの言葉にドンシクが頷いた。
「このクラブが、ハン警部補が補導した女の子達が遊びに行ってたとこ」
ジファが目を見開いて、ドンシクを見てから再度携帯電話の画面に目を移す。
「未成年が通うにしては流石に
……
」
「うん、それで、ハン警部補が心配してたんだけど」
ドンシクはクラブから連れ出した少女二人を思い出す。彼女達がジュウォンには告げなかったこと。
「割のいいバイトがあるって持ちかけられたんだそうだ」
「割のいいバイト?」
「あぁ。指定された場所に行って荷物を取ってくるだけ。達成できたら金をやるって言われたらしい」
「ちょっと、それって」
件の強盗事件は、人数も規模も不明なままだ。だが、それが組織的な犯行ではなく、強盗一件につき、その場限りのメンバーで構成されたものだと想定したら。
ジファもすぐにそう思い至ったのだろう、クラブのホームページをスクロールして確認している。
「その子達はあからさまな犯罪に加担させられるってすぐに分かったから断ったらしいんだけど、クラブで喫煙、飲酒していたことを学校に通報するって言われたらしくて」
半ば脅迫めいた交渉を持ちかけられていたところに、ドンシクが割って入ったのが先月の出来事だ。
「その子達は喫煙や飲酒の件がハン警部補から家族に伝わるのを恐れて俺に打ち明けてくれたんだけど」
元来は真面目な少女達だった。少し背伸びして踏み入れた都会のクラブが最悪に治安の悪い場所だったのだ。
少女達は喫煙と飲酒、そして、犯罪への加担を促された体験から、ジュウォンへの報告を躊躇った。その心情が、事情聴取や家族に怒られるということよりも、心配をかけたくないという心持ちが見えたからこそ、ドンシクは少女達から聞いた話を、ジュウォンには伝えていない。少女達の様子からして、二度とクラブに足を踏み入れることはないだろう。
「実行役と回収役は別で、その地域に精通している地元の未成年を犯行に使う──って説はどうだ?」
ドンシクの言葉にジファは困惑露わに否定する。
「そんな素人集団、しかも一事案ごとに面子が違う犯行なんて成り立つか?ましてやいくら地元に精通しているからって、防犯カメラを避けて、しかも回収しに行った先で捕まるかもしれないのに」
「行き当たりばったり、その日に初めて出会う面子で構成されてるなら、例えメンバーが捕まっても自分だけが逃げられればいいだろう。万一メンバーが捕まったとしても、その日に初めて会った相手のことを聞かれたとしても答えられないし、いくらでも見捨てられる」
「でもそんなにうまく行くか
……
?」
「あの様子だと、俺が間に入ってなければ彼女達は実行犯として加担させられてただろう。同じようなタイプの他の子達がいて、もしかすると未成年ばかりを狙って回収役にさせてるのかも。だとしたら、これまでに荷物を取ってくるという犯罪行為に加担させられた子がいたなら、口を噤んでいる可能性が高い」
「
……
確かに私達側の先入観もあるかもな。ある程度の人数で構成された犯罪者集団って端から思い込んでるから、全然違う犯人像を追っていることになる。ならこのクラブが本元ってことか?」
「可能性はあると思う。例の子達は少し背伸びして足を踏み入れた先のクラブが物騒極まりないとこだったってことだ。ハン警部補が補導した二人は、元来真面目な子達だったみたいでさ。飲酒と喫煙の件を通報する代わりに仕事をしろ、と言われたらしい」
そこまで聞いたジファが強く頷く。
「可能性があるなら確認すべきだな。なにか分かったら連絡する」
「ありがとう、助かる」
バイクのエンジン音が遠くから聞こえて来る。ジェイが戻ってきたようだった。
話はここまで、と、ジファとドンシクは互いに目だけで同意を交わす。
「それと、ドンシガ」
「ん?」
「無茶するなよ」
「お前もな、ジファヤ」
◇
結局のところ、ジュウォンの家でのデートは実現しなかった。ジュウォンに急な出動要請がかかり、約束自体がキャンセルとなってしまったからだ。
ジュウォンはドンシクとの約束がなくなって、ひどく落ち込んだ。
メッセージで細々とした近況の報告はしていたが、実際に会って話がしたい、顔が見たい、とジュウォンは焦がれていた。
結局ドンシクのネクタイはジュウォンの家にある。〝人質〟は未だ返されず、ジュウォンは次こそはとドンシクを自宅に招く機会を伺っていた。が、それよりも先に双方の都合が合い、ドンシクの家での〝デート〟となった。
今はほとんど忠清道の家にいるドンシクの家まで車を運転し、広い敷地の入口に車を停める。
ドンシクは、表札から〝ナム・サンベ〟を消していない。これからも消すことはないだろう。
ジュウォンはその茶色の表札に、見慣れないものを見つける。
戸惑いつつも中を覗き込んで、それを取り上げるとドンシクの家のドアに手をかける。案の定施錠されていない。
ジュウォンは警戒心のないドンシクの防犯意識と、自分が訪う予定を加味した上での行動かの判断ができない。
「ドンシクさん?」
ジュウォンが声をかける。すると、外と中から〝おー来たね、どうぞ〟というドンシクの応えが聞こえた。
ジュウォンは一瞬迷って、声の出どころの当たりをつけると、ドンシクの家の庭に回った。
ナム・サンベが遺した家の庭には縁台がある。果たしてそこにドンシクはいた。
仰向けで足を組んで、縁台に直に寝転がっていた。
膝丈までのラフなパンツスタイルに、白いシャツ。前回食事に出かけた時との印象の違いとその無防備さに、ジュウォンは一瞬眩暈がした。
思い起こせば、半袖姿を初めて見たなどと嘯いたドンシク自身、着衣における肌面積が多い姿はジュウォンも初めて目にする。
体毛の薄い、綺麗な筋肉のついた足を解いて、ドンシクが身を起こし、うつ伏せになる。けれど立ち上がることはせず、肘をついてこちらを面白げに窺っている。
「やあ、いらっしゃい。前回の食事ぶりですね。お変わりなく?」
「はい」
ジュウォンは急激な喉の渇きを覚えた。
ドンシクがうつ伏せになった時に、背中側のシャツが捲れ、素肌の腰のくぼみが露わになった。ジュウォンは凝視していたそこから視線を外す。
いつの間にか口内に溜まった唾液を飲み込めば、そんなはずはないのに甘い気がした。
取り繕うように、ジュウォンは手の中のものをドンシクに差し出した。
「入口の表札にかかってました」
差し出されたビニール袋を受け取ると、中身に心当たりがあるらしいドンシクが、ほんのりと笑う。
「柘榴だ。初夏には杏をもらいました。覚えてます?」
あぁ、あの、とジュウォンは甘酸っぱい果肉の感触を思い出した。
初夏、熱中症のドンシクを病院からこの家に送り届けた時だ。
ドンシクが近所の住人から貰ったという杏を二人で食べた。
それほど得意ではなかった杏を初めて甘美なものだと実感したあの暑さが和らいだ夕方の思い出。
熱中症からの帰宅、本人が大丈夫だと宣う言葉を信用できなくて、心配で、ドンシクをリビングのソファに座らせ、ジュウォンがキッチンに立った。杏の皮を剥いたのは初めてだった。
そうだ、あれから季節が巡り、今は初秋だ。
ナム・サンベの配慮なのか、遺された家の所有する敷地の面積は広い。
ドンシクが杏と柘榴をもらった〝近所〟というのは同一の家なのだろう。ただ、近所といっても周囲に民家はあまりなく、詳しく聞けば、この辺り一体の土地を所有する地主が畑を持っているらしく、その人物が収穫した野菜や果物を、時折善意で分けてくれるらしい。
忠清道の家の周囲は、マニャンの雰囲気によく似ていて、それでいて全く違う。この場所は、サンベにしか見つけられない土地だろう。
ドンシクが落ち着ける場所。
腰を据えてもいいと思える場所。
なにもかも忘れて心穏やかに過ごせる場所。
きっとサンベは、同じ疵を抱えるジェイがマニャンから出たいと願うなら、同じ様な場所を探してくれただろう。
血よりも濃い、と言ったのはチョン・チョルムンだ。確かにナム・サンベとユ・ジェイとドンシクは、他人でいながらにして家族のようだった。
仰向けになったままのドンシクの横、ジュウォンも縁台に腰を下ろす。
「こんな固いとこに直に寝転がって
……
なにをしてたんです?」
「居眠りしながらあなたを待ってただけだよ。ここは風の通りが気持ちよくてついつい寝ちゃうんですよね」
「風邪をひきます」
「大丈夫ですよ、まだ暖かいし」
「夕方までそのまま寝てた、なんてことあるんじゃないんですか?」
「はは、さすがハン警部補、名推理」
揶揄うような返答にジュウォンの小言が始まるかと身構えていたドンシクは、ジュウォンの反応がないことに気づいて視線を横にずらした。
「ハン警部補?」
ジュウォンは腰掛けていた縁台にそのまま寝転んだ。
「背中が痛いです」
「だろうよ
……
っていうか、え?ジュウォナ、なにしてるの」
「あなたの真似です」
いつぞやの煽り言葉をすんなりと認め、口にしたジュウォンの返答に、ドンシクの口が開く。
「いや、背中、痛いでしょ
……
」
「痛いですし固いです。でもあなたと同じ景色を見たくて」
「
……
随分可愛いこと言うね」
「最初から」
「え?」
「あなたを容疑者として追ってた頃から、僕の興味はずっとあなただったので。だから、模倣すればあなたが見ている景色にたどり着けるんだと、無意識に思っていたんだと思います」
ドンシクは素直に吐露される当時のジュウォンの感情に対しての返答を持ち合わせていなかった。
先日のジファの言葉が頭をよぎる。
『ハン警部補の興味の矛先はあんただって自覚あるんでしょ』
──仕掛けてる自覚も意図も、本人が気づいていない場合はどうしたらいいんだよ。
ドンシクは会話の方向性を手元の柘榴に委ねた。
「ハン警部補、柘榴食べます?」
仰向けになったままのジュウォンが首だけをこちらに向けてくる。
「柘榴を食べるのは初めてです」
「そう、どうする?柘榴って小さい詰まった実の中に種が入ってるんだけど、こう、周りの実だけを食べたら種を吐き出すって言う食べ物で」
衛生面を気にするジュウォンを思っての言葉だった。ドンシクが尋ねると、ジュウォンはすぐに疑問で返してきた。
「ドンシクさんは柘榴好きですか?」
「え?えぇ、まぁ。甘酸っぱくて美味しいから、結構好きですね」
「じゃあ食べたいです」
ジュウォンは顔をドンシクに向けたまま、ほんのりと笑った。
最初に会った頃よりも、ずっとずっと優しくなった笑顔だ。
それを見たら、ドンシクはもうだめだった。
「
……
柘榴ってね、中にパンパンに実が詰まってて、すごく綺麗な宝石みたいな赤い粒が詰まってるんですよね」
気づけば陰陽のように互い違いに寝転んだまま。ジュウォンはドンシクの説明に耳を傾けている。
「この柘榴の色よりも、もう少し濃い色の俺の人質」
「あ」
唐突なドンシクの言葉に、ネクタイ返却の話かと、ジュウォンが身を起こす。倣ってドンシクも体を起こした。
「すみません、あれは」
「前回の食事から今日までって結構日が空いちゃったね。結局〝人質〟の方がハン警部補と過ごす時間が長くなっちゃってるじゃない。妬けるね」
「ネクタイの話
……
ですよね?」
「そうだね」
「
……
ネクタイに妬くんですか?」
「
……
あのさ、中身はいらない?」
「え」
ドンシクが柘榴を好きだから食べてみたいと笑うハン・ジュウォン。
この青年と自分は地獄に落ちたはずだが、まだ共に落ちる先があるのかと、ドンシクは心裡で思う。差し出す手を、青年は取るのだろうか。
「
……
よければ触って」
「
……
いいんですか、僕が触れても」
ドンシクは笑うだけで応えなかった。
ジュウォンは導かれるように手を伸ばす。けれど、どこに触れるべきか、指先が彷徨う。あちらもこちらもとにかくドンシクの全てに触れたかった。結局羽で撫でるかのような触れ方で頬に触れば、ドンシクがふふ、と吹き出した。
「くすぐったい」
その言葉は煮詰めた砂糖のように甘い声色だった。
他人に触れられることを忌避していた自分が、自らの意志と欲でドンシクに触れる現実に、ジュウォンは眩暈がする心地だった。
万感の多幸は酒精による酩酊にも似ていて、それでいて頭の片隅はひどく冷めていて、次はどこに触れようかと期待しているのだ。
「健全な若者の欲なのに、相手が俺だなんて。とても不健全ですよ、ハン警部補」
その言葉に、ジュウォンはいささかの苛立ちと甘い衝動で、ドンシクの頬に伸ばした指を耳に移動して、耳たぶを軽くつねった。
「ぁ、」
甘やかな喘ぎともつかない短い吐息はドンシクの口から発せられたものだろうか。それを施したのは自分の手指だろうか。震えたのは自分の指先だろうか、それとも心臓だろうか。
「キスが、したいです」
「うん、しましょうか」
触れる寸前に、吐息のような声でドンシクが囁いた。
「俺もずっとしたかったんですよ」
ジュウォンはその言葉を吐息ごと唇で塞いだ。ほんの一瞬触れて、火傷したかのように慄いてジュウォンが離れる。
至近距離で目が合ったドンシクが、笑って頷く。ジュウォンは今度は少しだけ顔を傾けて、最初よりも少しだけ長くドンシクに口付けて、離れた。
向かい合ったジュウォンの頬に、ぽ、と花が色づくように、鮮やかな色味が走る。
ただの接触に近いような自分とのキスで、こんな耽溺した表情を見せられたら堪らない、とドンシクは咳払いした。
兎角、顔に出やすく不機嫌ばかりを見てきたけれど、翻ってジュウォンは対ドンシクへの好意もわかりやすい。
育つ環境が異なれば、さぞ表情豊かで朗らかな青年に育ったであろう。
想像してドンシクは唇を歪めた。
──朗らかなハン・ジュウォン。誰だそれは。
青年を形作るのにあの男の影がチラつくのは業腹だ。とは言えこの恋かどうかの判断さえもつきかねる熱量に翻弄される青年の本質を引き出したのは自分だという自負がある。そんな自負は全く役に立たないし、これではジファに殴られる、とドンシクは痺れるような甘さの残る自分の唇を、無意識に噛んだ。
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