シノハラ
2024-08-09 22:27:01
12544文字
Public アベンシオ
 

死体埋めアベンシオ

スコップとシャベルの呼び分けについてはJIS規格に則ってみました

 君にできないことってあるんだろうか。そう、アベンチュリンは助手席でシートベルトを着けながら、運転席でエンジンをつけようとしているレイシオに感心しながら口にした。いつもなら放っておいているシートベルトをわざわざ着けたのは、単純にレイシオに咎められそうだからである。
 彼はたしか、そこそこ使う機会があるのだと説明してくれたのだったか。大学や大規模な実験施設を持つ研究所はどうしても郊外にあることが多く、訪ねる際には自分で車を借りるようなこともあるらしい。それでなくとも大量に古書を買い込む時や、多少の器具を移動させる時などにもあると便利とのことだった。
 趣味も兼ねていそうな古書の件はともかく他の用件については助手辺りにお任せするものではなかろうかと思うのだが、アベンチュリンは異論を挟まないことにした。既に動き出していた車の運転にはどこも危なっかしいところはなく、わざわざ真偽を疑う必要はない。
 大きめのトランクがある車に自分が揺られている理由をアベンチュリンは良く知らない。日が暮れた頃に近くにいるだろうと呼び出された先でこの車に乗せられて、専門店で焼かれたらしいパンをいくつか渡されて食べたら寝るように言いつけられた。目的地は遠いらしい。
 助手席で眠るのはマナー違反ではなかろうかなんて、どこかで聞いた話題を持ち出して見たものの、レイシオは全く気にしないらしい。それどころか早く寝ろとばかりの調子なのが少し気になった。どこに向かうのかも教えてもらっていないのを思えば、レイシオはアベンチュリンにどこに向かうのか知られたくないのかもしれない。
 山のてっぺんで置き去りにされたらどうしよう、なんて思いながらも高速道路の単調な景色を眺めるうちに眠気を感じ始めてしまった。その上、レイシオが追い打ちとばかりにラジオのこもった音を流しはじめる。
 しばらく流れる音に耳を澄ませていたところ、どうやら高度な学術系のチャンネルらしいことが分かった。共感覚ビーコンがあったとしても専門用語はどうにもならないので、アベンチュリンは内容の理解を諦めて雑音として捉えることにしてビーコンの機能も切ってしまう。
 車のタイヤが転がる音に混ざってしまいそうな異国の小さなお喋りは、入眠に丁度良いようにも思える。おそらくレイシオも似たような効果がアベンチュリンにもたらされることを期待しているのかもしれない。
 意識が途切れて、再び目覚めるまで多分夢は見なかった。エンジンが止まったのを契機にして、アベンチュリンは暗闇の中で目を醒ます。眠りに落ちる前までは車道を照らすオレンジ色の明かりがあったはずだけれど、今見えるのは車の天井にある控えめなライトだけだった。
 ヘッドライトの明かりが照らす先は鬱蒼とした木々で阻まれていて、山道の脇に止められているのは明らかである。おお、マザーフェンゴ、僕は置き去りにされそうで困るなと思っただけで、別に山に連れてきてほしかった訳ではなかったのですが。
 レイシオが先に車から降りたので、アベンチュリンも習って外に出た。アベンチュリンはかつて野を放浪して暮らしていたはずなのに、鼻先に香る匂いにはあまり親しみが感じられない。雨が降る直前の祝福を思わせる匂いには少し似ているかもしれないが、それと比べると不純物が混ざり込んでいる気がした。
 すんと鼻を鳴らして匂いを確かめていたら、土の匂いだとレイシオが教えてくれた。彼の暮らす地域の話を詳しく聞いたことはなかったが、気軽にこの匂いが嗅げる程度には潤沢な土地と木々と、それを支える水があったのだろう。
 彼の文化レベルや思想を思うに、その環境に支えられた彼の幼い日々が平穏であったのは想像に難くなかった。少なくとも、神様なんてご大層なものに愛されなければ生きのびられないような世界ではなかったのだろう。
「しばらく歩くから靴をこれに履き替えてくれ。今のそれよりかはましだろう」
「ありがとう。助かるよ」
 後部席から出てきた靴はいくら汚しても胸が痛まない量産品の運動靴だった。おそらくここで使い切りの靴になるだろう。よくよく見ると、彼が履いている靴も似たような代物で、普段のサンダルとはかけ離れたものを履いている。
 それからレイシオは後部座席から大きな袋を取り出して、アベンチュリンに寄越してきた。がらがらと中身が音を立てるそれは一応リュックのように背負えるようだが、リュックとは言いがたい長細い形状をしている。 
「それで、そっちは?」
「穴掘り機とスコップだ。重いだろうが持ってもらえると助かる」
 レイシオほど分かりやすくではないものの、アベンチュリンだって鍛えてはいるのでこれくらいどうというほどのものでもない。入っている物の問題か背負うと時折背中が痛かったが、現状を考えると些細な問題である。本当に。
 アベンチュリンが袋の位置を調整しているうちに、レイシオは更にトランクを持ち上げる。まあ、穴を掘るのだからそこに入れる物があって然るべきではあるのだ。深夜の山奥くんだりまでやってきて掘って埋めなければならないようなものが。
「それを埋めるんだ?」
「ああ、深さが二メートルは必要だから覚悟しておいてくれ」
 出てきた細長い袋は大体長さが一八〇センチないくらいだろうか。ちょうど大の男が一人いれば抱きかかえられるくらいのサイズで、レイシオも肩に重さを預けながら抱える体勢を取っている。ちょっとというか、大分想像していたものの、こうも思った通りのものが出てきてしまうときゅっと心臓を掴まれるような心地がした。
 彼が必要だと判断すればある程度手段を選ばない人だと思ってはいたが、まさかこんなことをしでかすとは。そして、まさかアベンチュリンを巻き込んで来るとも思わなかった。
 自分はすでに死刑囚の身分なので、死体遺棄罪が追加になったところで大した違いはないと考えれば共犯者に適した人材ではあるかもしれない。一方でバレてもバレなくても一緒なのだから、他の誰かよりもずっと罪の秘匿へのモチベーションが低い可能性だってある。
 そうでなくても人を増やせば、そこから情報が漏れる危険は増えるのだ。そんな簡単なことが分からない男ではないはずなので、ますますアベンチュリンを呼んだ理由が分からない。
 一つ二つと動機になりそうな案を上げては棄却しているうちに、レイシオが車も停車しないせいで草が生している当たりに足を踏み入れた。彼から呼び出しを受ける前に、アベンチュリンは彼の後に続くことにする。
 剥き出しの土の上を歩くうちに、青臭い匂いが充満してきた。その匂いに鼻が麻痺してきた頃になって、アベンチュリンはこの空間が少しばかり恐ろしくなってくる。
 レイシオが用意していた光はすぐに闇夜に掻き消されてしまって、振り向けば真っ暗な空間しか知覚できない。暗闇に転がされることなんか珍しくもなんともなかったので、ライトだけでなんとか切り取られた空間に身を置いていることが恐ろしいわけではなかった。
 ただ、樹木と青草が生い茂り、時折自分達以外の生き物の気配を感じる山はアベンチュリンにとっては全くの未知の領域だったのだ。おそらく、真昼にいても似たような緊張を覚えていたのではないかと思えてならない。
 一歩間違えたら取り返しのつかないことになりそうだなんて、仕事で覚える感想と同じくせに全くひりつきがない妙な気分になる。それから数歩歩いて、それこそが彼の目的ではあるまいか、なんて良からぬ想像がアベンチュリンの脳裏にちらついた。もっと赤裸々に誤解を招かぬ表現するのであれば、レイシオの目的がアベンチュリンの殺害にあるかもしれないという情景である。
 ちらりと斜め前で先導する彼を見て、もっと早く気づいてもよかったのではないかとアベンチュリンは考える。いや、山に置き去りにされるのではなんて思った時点で、そういう可能性だってあると本当は分かっていたのかもしれないのだけれど。
 きっとそれを無意識に排除するような、そんな驕りがアベンチュリンの内に芽生えてしまっていたのだ。いつか、なんて問いはするまでもなく、あの一瞬に。
 世界の誰もがアベンチュリンの死を期待したとしても、彼だけは眉を顰めてくれると思わされてしまっていた。けれど、同時にそれが必要であり、回避不可能だと思うのなら彼はしっかりとやり遂げるだろう。そういう公平さをレイシオは持っている。
 重たさをごまかすために肩に掛けている紐を引くふりをして、アベンチュリンは震えそうになった手をごまかす。レイシオがそのつもりであれば、アベンチュリンはここから決して逃げ出せない。彼はアベンチュリンの幸運を過大にも過小にも評価しておらず、その一つ一つを潰すために適切な準備をしているはずだからだ。
 幸運とは正しく天から与えられるものではあるが、それを自覚していかに輝く環境を整えるのかが肝要なのだ。アベンチュリンはそういう姿勢をレイシオに見せて来たはずだし、だからこそ彼も無謀に見える賭けに打って出るビジネスパートナーをいつも見過ごしてくれていた。
 故に、彼はアベンチュリンの最大の力を無効化する術を知っている。その時に至るまで一つの準備もさせず、それ以降にも何もできないようにすればいい。
 調べるつもりにもなれないが、いつもスマートフォンを入れているはずのポケットにはもしかしたら何も入っていないかもしれない。そっと震えそうになる息をついて、今度こそ死ぬかもしれない自分というものを改めてしっかりと認識した。
「随分奥まで来た気がするけど、帰り道は分かるのかい?」
「アンカーはつけているから心配は不要だ。あともう少ししたらギャップ――樹木が生えていない空き地だな。そこに着いたらあとは数分も歩かない」
 彼の様子を窺いたくて声をかけると、暗闇の向こうを見ているレイシオが視線を前に向けたままアベンチュリンに説明してくれる。それを良いことにアベンチュリンは彼が抱える袋をまじまじと観察する。
 一体全体、何が入っているのだろう。人間の死体であれば、むしろかわいい方なのかもしれない。彼の頭脳があればもっと恐ろしくおぞましい何かを作り出すことなんか、別に全然難しい話ではないはずだ。自らを凡人と称し、その名に相応しい倫理観や道徳心でもって押さえ込んでいるだけで。
 自身の最後の花道かもしれない夜道を、アベンチュリンはゆっくりと進む。何も抵抗をしているわけではなく、進行を阻む物がそこそこあるせいだ。たとえば自由奔放に伸びている下草や枝だったり、やたらふかふかした腐葉土とかいう土であったり。
 そういう難所をいくつか越えて、自分達はようやくレイシオがギャップと呼んだ場所に出た。彼曰く、こういうところができるには様々な要因や経緯があるらしい。
 しばらくぶりの空を見上げると半分くらいは曇っているのか何も見えず、もう半分にはそこそこ星が見えていた。彼の言を信じるのであれば――こんな状況になったとしても疑う理由もないのだけれど――この星は衛星を有していないらしい。
 黙って夜空を見上げていたベンチュリンをレイシオは急かさなかった。思えば彼がアベンチュリンをせっついたのは、出張先のホテルに併設されるカジノで長々と居座ろうとしたときくらいだったように思う。
 反対にレイシオが興味を完全に失ってしまうと、ふらっとどこかに消えてしまうようなこともあるにはある。幸いというか当然というか、レイシオはまだアベンチュリンを山中に置き去りにするつもりはないようだった。
 アベンチュリンが夜空に飽きて一歩足を踏み出すのに合わせて、レイシオが踵を返した。そのまま戻るのかと思いきや少々逸れて、獣が作ったのだろう藪の隙間を掻い潜る。
 それから彼の宣言通り少しだけ歩いて、ようやく必要な面積を確保できそうな場所でレイシオが立ち止まって袋をゆっくりと下ろす。どうやらここが終の棲家になるらしい。
 鞄を寄越すように指示されたので抵抗せずに手渡せば、彼はまず穴掘り機とやらを取り出した。ねじねじと螺旋を描くそれを地面に押し付けて起動すると、がりがりと音を立てて土を抉り取っていく。
「それ、結構力いらないかい?」
「ああ、そうだな」
 ぐっと腕の筋肉を隆起させて引き抜いたレイシオが、思いの外きつそうだと無感動に感想を漏らす。鍛えていてもレイシオには無論劣るのでまずいかもしれないと今更ながらに思う。まずいのはもうずっとのはずなのだけれど。
 動作確認を終えたそれを手渡されて観念し、アベンチュリンは指示の通り黙々と筋肉を酷使し始める。手持ちの道具ではどうやっても一度に二メートルは掘れないので、まずは広めに一メートル掘ってから追加で長細い穴を掘るとのことだった。人を埋めるのって、思ったよりも簡単ではないらしい。
 汗水垂らして一段目を掘っている間は無性に悲しかった。ろくな死に方をしないだろうとは思っていたが、まさか自分で墓穴を掘っているかもしれない状態に陥ろうとは想像もしたこともなかったのだ。
 何度も何度も考えてみたが、こんなことをして、レイシオがアベンチュリンをただで返すとは思えなかった。死体か何かを処理するついでに埋めておきたいと思われていたと思うと、ちょっとどころかだいぶん胸が痛んでしまう。なにせ前述の通り、アベンチュリンは自身の生死に関してレイシオに全幅に近い信頼を置いてしまっていたのだから。
 必要な荷物を考えると二人いるのがちょうどよかったが、彼であれば一人でも十分対処できたはずだった。それでもアベンチュリンを呼んだのはちょうどいい人材だったからとしか思えない。そう、何度も何度も考える。
 レイシオにとって、アベンチュリンが有象無象の生徒の中でもちょっとだけ、ほんの少し交流の比重が思い程度の存在であるだけなのはアベンチュリンだって承知していた。アベンチュリンをはじめとした有象無象の生徒からすれば、彼が決して替えの効かない無二の存在である一方で。
 星とは。指し示す人とはそういうものなのだ。そう、アベンチュリンは納得していたつもりだった。けれど、納得しきれてはいなかったのだろうと、ようやく納得した頃には波打っていた恐怖だとか失望の類は影を潜めている。
 早期の収束に至れたのは複雑な感情と単純作業の相性の悪さが第一の理由として挙げられるだろう。そしてもう一つの要因として、この死に様はアベンチュリンの想定外であったものの、ろくでもないものとも思えなかったことがあるかもしれない。
「色々してきたつもりだったけど、こうやって穴を掘るのは初めてだ」
 筒に詰まった土を押し出してアベンチュリンが口にすると、レイシオが手を止めてこちらを見る。真意を測るような眼差しを受けて、アベンチュリンは少し笑って見せた。
「意外かい? でも本当だよ。ツガンニヤでは大岩をえぐり取ることはあっても、土なんて掘らない」
「水が少なくて粘り気のない土では、掘ったところですぐ崩れる」
「そう。僕らにとってほとほと無駄な行為なんだ。だからからかな、人が亡くなるようなことがあっても、風通しのいい一番乾燥したあたりにおいておくのが普通の事だったんだ。それで獣がやってきて、全部綺麗に食べていつかその獣も死んで食われてぐるぐると血肉が巡ることを良しとした」
 なるほど、とレイシオが相槌を打ちながらざくりと筒を地面に埋め込む。それから彼は僕の生まれたところでは、と続けた。
「焼いたり乾かしたりせずにそのまま土に埋めていた。君のところと比べると湿度も高いし、地中の虫や微生物に委ねることになるから時間がかかって腐敗による感染症の危険がある。だから、地中深くに埋めなければならない」
 だから、こうやって穴を必死に掘る羽目になっているのかと納得しながら、アベンチュリンはふうんとさして興味もなさそうな相槌を打った。口にはしないものの、随分と贅沢な最期だとアベンチュリンは考える。
 カンパニーによって刑が執行されるなら、アベンチュリンの体は適当に処理されてしまうだろう。もしかしたら燃えるごみ扱いされる可能性だってある。身寄りのない死刑囚など、大事に扱ったところで誰が褒めてくれる訳でもないのだし。
 二段目の穴は一段目の穴と比べると半分程度の規模しかない。故に、折り返しよりはずっと先の進捗ではあるのだけれど、代わりに土の処理が厄介だった。
 今までのように足元に転がしてしまうと一段目の足の踏み場がなくなってしまうので、金属と土で構成された穴掘り機をしっかりと持ち上げて更に腰を捻って地表に土を押し出してやる必要がある。腰の捻りが存外負荷になることに気がついて、足で体の向きを調整するようになった頃には既に腰の筋肉は大分悲鳴を上げていた。まあ、最後なのだし多少酷使したところで、という話ではあるのだが。
……これで最後にしよう」
「了解」
 ざくりと重たい一撃を地中に食らわせたレイシオに告げられて、最初に覚えたのは解放感だった。単純に穴を掘るのは重労働だったし、そんな状況で殺される自覚をし続けるのは色々と厳しい。おしまいだと思うと体に過ぎた疲労を感じて、心身共に早く楽にさせてほしいと思うくらいだった。
 地表に戻ったレイシオとは反対に、アベンチュリンは足場の悪いどころではない二段目に下りる。ぐらりとする体を足首の力で押さえながら上を見上げると、作業の頼りにしていた真っ白な明かりを背負ったレイシオがアベンチュリンを見下ろしていた。逆光になっているせいで、彼の表情はよく見えない。
「はい、どうぞ。あんまり痛くしないでくれると助かるな」
 顔の見えないレイシオを見上げながら軽く広げた腕は存外震えていなかったと思う。その指先と同じく、心は意外なくらいに凪いでいた。
 彼がわざわざアベンチュリンのために綴ってくれた短い言葉を思い出して、仕方がないと思ってしまう。あんな言葉を掛けてくれた人がそれでもやると言うのなら、仕方がない以外にどう決着をつければいいのだろうか。
「この穴は一人用だ。つまらない冗談で邪魔をしてないでさっさと明け渡してくれ」
 ほとほと呆れたように溜め息をついたレイシオの表情はやっぱり見えないままだったけれど、どんな表情をしていたかは手に取るように分かった。それから手を差し伸べられたので一つ目の段を上って彼の手を取れば、乱暴に思えるくらいの力強さで引き上げられた。今まで土を掘り返していた人間の余力とはにわかには思えない。
 アベンチュリンが上がってきたのと入れ違いに、レイシオが袋を抱えて一段下りる。それから袋に合わせてぴったりと掘られていたせいでアベンチュリンの身長よりいくらか長い二段目の穴にゆっくり、過度な衝撃を与えないように袋が下ろされた。
 レイシオはこの穴を一人用だと言っていたから、やはり中には人の遺体が封じ込められているのだろう。腕が何本多かろうが足の指の数が足りなかろうが、少なくともレイシオはこの体を人間だと考えていると言うことだ。少なくとも、彼の仕草からは一定の敬意のようなものも感じられる。
 もうしっかりと安置できたはずなのに、レイシオは手を止めて大きな袋に視線を落としていた。なんとなく彼と視線の高さを合わせたくてすとんと膝を折ると、レイシオがアベンチュリンにちらりと視線を投げかける。
「僕も埋められるんだと思ってた」
「そう思っておきながら自分から穴を掘っていたのか?」
 どうやらレイシオがアベンチュリンがそんなことを考えていたなんて、つゆとも思っていなかったらしい。本当に心の底から怪訝そうな顔をされてしまって、アベンチュリンはへらりと笑ってしまう。
「うん。君相手ならどうにもならないと思って」
 実際に抱いた感想は諦念と受容だったわけだけれど、無駄に怒られそうな気がして引っ込めた。彼がその気になれば欠片も警戒せずにのこのこやってきたアベンチュリンではどうにもならないのは事実だっただろうし、そういう気持ちでいたのも嘘ではない。
「僕がその気でいたなら、君に勘付かせるつもりもない」
 馬鹿馬鹿しい。そんなリスクを前提にした方法を採るはずがない。そんな文句を言いながら、レイシオは穴から上がってきて、放っておいたままだったスコップの片方を寄こしてくる。
「たしかに」
 たしかに、レイシオの言う通りだった。アベンチュリンだってそういうことをするなら、獲物に悟らせないことを第一に考えるはずだ。だというのに、どうしてあんな思いつきを心底信じ込んでしまったのだろうか。
 なんだか肩透かしな気持ちになりながらも、アベンチュリンは彼が求める通りに掘り起こした土を穴に放り込んでいく。ばさばさと袋に土が当たる音が聞こえなくなってから、死なずに済んだのだと実感が湧いた。まあ、今回はアベンチュリンの早とちりでしかなかったのだけれどと考えて、ひょっとしたら知らず知らずのうちに抱いていた願望だったのかもしれないなんて夢想する。
 死ぬつもりでいた時のアベンチュリンは、少なくとも彼に殺されることを悪くはないと考えていたのだ。実際のところ、悪くないとは今になっても思う。命懸けの結果命を落とすことになった時に、まともな死に方である方がよほど道理に反するだろうから。
 死ぬのはいつだって恐ろしい。どれだけ自分を騙して鼓舞しても、握り締める手の震えは止めきれない。そういうものがない死の手触りをアベンチュリンは今まで知らずに生きてきた。
 いつか自分が本当に死んでしまうその瞬間に同じ心づもりになれるなら、それはアベンチュリンにとって幸いなのだろう。
 とんどん土は穴に降り積もり、途中で何度か土を踏み固めた。二段目の穴の上に足が乗ると口にこそしないが、見知らぬ人に謝罪めいた言葉を唱えてしまう。同じように土を踏むレイシオもあまり気分は良さそうではない。
 人一人分の体積が増えていることもあって、土は全て穴には戻らなかった。はみ出したそれをあちこちに散らかしてから、荷物を背負ったレイシオはアベンチュリンを連れて踵を返す。アンカーをつけたと言っていた通り彼の歩みには迷いがなく、少しも迷わずに道路にまで戻ってこられた。空を見上げると、いつの間にか空が白ばんでいる。
 一晩中起きて体を動かしていた現実をようやく理解できたのか、途端にアベンチュリンの体が悲鳴を上げ始めた。穴を掘っていたときはどうせ死ぬからまあいいかと思っていたのだが、全然良くなくなってしまったではないか。今日が仕事の中休みで良かったと思ってから、もしかしたらそういう日をレイシオがわざわざ選んだのかもしれないとも思う。
 二人でばたばたと土を落とせるだけ落として、ウエットティシュであちこちを拭く。レイシオに呼びかけられて顔を向ければそのまま顎を掴まれて頬骨の辺りについていたらしい泥を拭われたので、お返しにアベンチュリンも彼の額を拭き取ってやった。彼よりそれなりに背の低いアベンチュリンを慮って背を丸めてくれた、大きな体の持ち主の優しさを思う。
 まだまだ車に上がるには不十分だったかもしれないが、きりがないとの鶴の一声で乗り込むことにした。車に残していたらしい缶コーヒーを寄越されて、かしゃりと小気味よい音を立てて口を開けてから一気に飲み込む。
 甘ったるい味は一瞬だけアベンチュリンの思考をスッキリとさせたが、車の単調な音が聞こえ始めるとすぐに元の調子に戻ってしまった。自分だけ申し訳ないとぐずるように謝りながらアベンチュリンが寝入ってしまったのは、高速道路に乗って一つ目のサービスエリアを通り過ぎた頃だったと思う。
 それからアベンチュリンが目覚めたのは二つ目か、もっと先のサービスエリアに辿り着いてからだった。日はすっかり上がってしまったがまだ早朝と呼ぶべき時間帯であることには変わりなく、駐車場にあるのは荷を運ぶトラックばかりのように思う。
「僕も少し寝る」
「ん、分かった」
 運転席を後ろにずらして足元のスペースを少しでも確保してから、レイシオは座席を倒して寝入る姿勢を取る。最後まで抵抗していたこともあって、立てたままにしていた背もたれをレイシオに習って倒すことにした。
「起きたら借りている部屋まで行って、汚れをちゃんと落として何か食べに行こう」
「うん」
 予定まで話して満足したのかレイシオが瞼を落として、今更になって普段彼が引いている目尻の色がないことに気がつく。シチュエーションに合わないと思ったのかもしれない。
……君一人でもできたと僕は思ってる」
 作業には時間がかかっただろうが、やっぱりできないことではなかったと思うのだ。それなのにどうしてなんにも知らない第三者をわざわざ巻き込むつもりになったのか、今になってもアベンチュリンは全く分かっていなかった。
 アベンチュリンの声に反応して、うっすらと持ち上げられた瞼の内側にあるまなこがちらりとアベンチュリンを見る。けれど、横目に見られたのはほんの少しの時間で、すぐに瞼の裏側に戻ってしまった。
「もう少しすれば、あそこは雪山になる」
 これはなんにも教えてもらえないやつだと諦めた矢先に、レイシオが目を閉じたまま独り言のように口にした。それから君には、とようやくアベンチュリンにしかできない仕事を頼むつもりになったらしい物言いを続ける。
「この星が春を迎えるまであれが誰にも見つからず、無事掘り返されるよう祈ってほしい」
 レイシオの囁くような言葉自身が既に祈り形をしていた。自己保身の類ではあり得ない響きを帯びるそれに、アベンチュリンは少々息を潜める。
「あれは人間の死体だ。彼が故郷に戻るにはこんな方法を採るしかない」
 レイシオはその人を助けたかったのだ。もう彼は土に戻ることすら叶わない、とレイシオが告げるのを聞く限り、ろくな死体ではないのだろう。そうしてきっと、まともな死に方もできなかった。
 それでも、アベンチュリンには羨ましく思えて仕方がなかった。羨ましさをそのままにレイシオの手に指を伸ばして握れば、振り払われるかと思いきや返された手がアベンチュリンの手を握り返される。
 思いもしない仕草に目を丸めた隙に、振りほどこうにもなかなか難しいくらいに握り込まれていた。そうなってしまっては、アベンチュリンが大立ち回りする時のような震えが彼の手に起きているかは判別できなくなってしまっている。
 祈ってやってくれ。そう目を閉じたままのレイシオが、既に祈りの形をした願いを再びアベンチュリンに注いだ。相槌を一つ打ってレイシオの願いを受け入れれば、彼は満足したのかもう何も言わなかった。
 もしもレイシオ自身かあの墓を暴く誰かかの不始末が嗅ぎつけられれば、死体遺棄は彼の罪状になるだろう。巻き込まれた形になったアベンチュリンにも共犯として罪が与えられたとしても、かの地母神はそんな些細なことを気にするはずがなかった。
 故にこの案件において、アベンチュリンの幸運はひとかけらだってレイシオによく作用しないのは考えるまでもない。レイシオだってそんなことくらい分かっているはずなのだけれど、ともう何回目になるか分からない思考を巡らせる。
 ただまあ、失敗を前提にするならば、そこそこ好き勝手に動ける死刑囚というのはやっぱりポイントが高いのかもしれない。今更死体遺棄の罪状が一つ増えたところで、あんまりにも今更なのだから。
 けれど多分、レイシオにとってアベンチュリンの身の上なんてものはちっとも重要ではなかったのではないかと思えるようになってきた。異様な状況に取り乱さないくらいの利点くらいしか、彼が評価していない可能性もあるくらいだ。
 彼がアベンチュリンに願ったこと。その響きをじっくりと思い返して、おそらくそのためだけに自分は呼ばれたのだとようやく気がついた。きっとレイシオは失われた命のために自分以外の誰かに祈ってほしかったのだ。たぶん、アベンチュリンの頭上に降り注いでいるはずの、神の愛なんてものとは関係なしに。ただ、誰かに祈ってほしかった。
 その人はレイシオが納得できない形でこの世から退いたのだろう。そうして死後なお安息はなく、蹂躙され続ける形で死体だけが残った。きっとその生涯は万人が憐憫を垂れる有様をしていたに違いない。
 その人への祈りをレイシオは他の誰かに願うしかなった。もちろんこれはアベンチュリンの憶測の域は出ず、祈りの数は一つでも多い方が良かろうという善意の話でしかないかもしれないが――おそらく彼はその資格を喪失してしまっているのだろうとアベンチュリンは思う。
 彼と呼んだ相手をただの肉塊に変えたのはレイシオ自身ではなかったろうか。直接的な暴力でなかったとしても、たとえばサインの一つ書くか書かないかの差で、数値を一つ変えるだけで、彼にはそういうことができるはずだ。
 その決定を下した手と精神で、レイシオは祈りを捧げられなかったのかもしれない。たとえその人にとってその計画が救いだったとしても、それを理由に彼の気持ちが晴れるかどうかは別問題である。
 そこまで考えを巡らせて、アベンチュリンの中に残ったのはやはり羨望の類だった。彼は、結局アベンチュリンが顔も知らないその人は、レイシオの特別になれたのだ。彼らが望む望まないに関わらず。
 いつか来るだろうアベンチュリンの最期が到来したとして、自身の祈りの甲斐なく死ぬ者に対してこの人はいったいどう思うだろうか。たとえば今は山中に眠る人と同じ願いを告げたとして、彼はアベンチュリンのために腐心しようとしてくれるだろうか。あの、石と土しかない星に、自分を連れ帰ってくれるだろうか。
 アベンチュリンがそんな空想に取り憑かれているうちに、レイシオの呼吸が寝息に変わっていた。長く運転をした上にあの重労働をしたのだから、彼だって疲れていて当然だろうと気づかされる深い呼吸が鼓膜を擽る。手は握りしめられたままでやっぱり簡単にはほどけそうにないのを確認してから、アベンチュリンは思考を断ち切るために小さく息を吐く。
……僕には君の願いは叶えられない」
 レイシオの神経を刺激できないくらいの微かな声でアベンチュリンは彼に囁きかける。見知らぬ誰かにアベンチュリンが良からぬ嫉妬をしているなんて、彼は知らないままでいいのだ。
「だから君の幸運を祈らせてほしい」
 きっとそれが一番良いと決めてしまって、合わせた手のひらを意識しながらアベンチュリンは一番馴染む祝詞を唱える。それが一通り終わってから、もっと素朴な言葉でもってレイシオの願いが叶うようにアベンチュリンは祈りを捧げた。