芝居の経験なんてほとんどなかった僕が映画の主演を務めるなんて、当然、簡単な話ではなく。僕だけがみんなの足を引っ張って迷惑をかけていることは明白で、だから僕にできる精一杯のことをやった。それだけだった。みんなには呆れられたし心配もされたけれど、そのおかげでコツを掴むことができたのだから、やって良かったと思う。
ただ。
「どうして俺はともかく、一彩くんにすら連絡の一つもよこさなかったんですか?」
演技のことで頭がいっぱいになりすぎて、それ以外の大事なことが綺麗さっぱり抜け落ちていてしまっていたことに気づくのが大分遅くなった……というか言われて初めて気づいたのは、我ながらまずかったと思う。
「面目ないっす……」
腕組みをして僕を見下ろすひなたくんに、素直に頭を下げる。どうして僕の方が視線が低いのかと言うと、部屋に戻るやいなや待ち構えていたひなたくんに正座させられたからだ。数日ぶりに部屋でゆっくりできるっていうのに、ソファにも座らせてもらえないなんて……とか言う権利が今の僕にはないことはわかっていたから、黙って従うしかない。
「一彩くん、毎日泣きそうな顔してたんだから!」
いや、弟さんの性格的にそれはないんじゃ?
「いや、そんな顔はしてないと思うけど」
ほら。
ひなたくんの隣で、弟さんが律儀に訂正する。それに比べてひなたくんの物言いは大仰だ。僕を責めている……というよりは多分、僕の反応を面白がっているのだろう。悪戯好きの彼らしい。
「でもすご〜く心配してたよね」
「それは、その通りだよ」
頷いて、弟さんが僕を見下ろす。その眼差しはどこかか弱げに揺れているようで、本人は否定していたけれど、本当に泣きそうな顔をしていたのかもしれない、なんて考えがふと頭をよぎった。
だとするなら心配をかけてしまってとても申し訳ないけど、正直、嬉しくもある。
僕に特別な好意を寄せてくれているからこそ、と思うとどうしたって。
「何笑ってるんですか」
「ごめんなさいなんでもないっす!」
慌てて謝った僕をひなたくんは半目で見つめて、はあ、とやっぱり大袈裟にため息をついた。
「うーん。椎名さん、あんまり反省してないみたい。どうする? 一彩くん」
「どうする、と言われても」
「そうじゃなくて! ほら! アレだってばアレ!」
「…………あっ!」
ひなたくんに肘で脇腹を小突かれた弟さんが、何か思い出したのか小さく声を上げて、こほん、と咳払いをひとつ。
「というわけで、椎名さんがもうどこにも行けないように、この部屋に閉じ込めることにしたよ!」
「……はい?」
多分それは純真無垢な笑顔で言うところじゃないと思いますよ、弟さん。
仕事があるからあとはよろしく、とひらひら手を振るひなたくんを見送って、やっと、ソファに座る。弟さんが許可をくれたからだ。というか、先に座った弟さんに、隣に座るよう促された。
弟さんはそれきり、何も言わない。
「ええと……やっぱり怒ってるっすよね? ごめんなさい」
沈黙に耐えられなくてつい口走ってしまったけれど、多分それはない。弟さんは怒っているのではない、とは、思った。でも、言えるわけがない。
心配をかけてごめんなさい、なんて。
自分が、心配してもらえるくらいに弟さんにとって価値のある人間だ、と自分で断言するようなものなのだから。
弟さんが心配してくれていたことを疑いはしないし、きっとそう謝るのが正しいんだろう。それはわかっているけれど、罪悪感が僕から言葉を奪ってしまう。思い上がった発言だ、という意識がどうしても振り払えない。
ふっ、と右腕が温かくなる。
弟さんが僕の腕に腕を絡めていた。
「もう二度と、どこにも行かせないからね」
「え……」
顔を伏せているから、弟さんの表情は見えない。
いつもとは違う、声の温度や湿度、硬度から、想像するしかない。
弟さんは怒ってはいない。でも、こんな声、初めて聞く。
土地神とは比べものにならない、もっと高位の、絶対的な神さまに威圧されているような、そんな声。
「……いや〜、まだ映画の撮影が終わってないですし、他にもアイドルやら料理人やらの仕事があるんで……なはは……」
素直に、はい、と話を合わせておけばよかったのに。
でも、部屋の空気がなんだか重くて、冗談めいたことの一つでも言わないと息が詰まってしまいそうだった。それに。
頷いたら本当にここから出してもらえないような気がしたから。
けど。
「椎名さんは何か、勘違いをしてるようだけど」
弟さんが僕の膝を跨ぐようにして乗り上げて、僕を見下ろす。
すらっと伸びた腕が、僕に絡みつく。
ああ土地神さま。僕は、間違えてしまったみたいっす。
「僕は、『椎名さんがもうどこにも行けないように、この部屋に閉じ込める』と言ったんだよ。それなのにどうして、ここから出ることばかり考えているのかな」
微笑んでいるはずなのに感情をまるで感じない弟さんの、青みがかった紫の瞳が僕を飲み込む。
……あれ? 弟さんの目の色って、こんなだったっけ? 綺麗だけど、僕が好きなのは……
「そうだ。椎名さんがどこにも行けないように、脚を折ってしまおうか。大丈夫、腕は残しておいてあげる。料理する時に必要だからね」
それなら脚だってあった方が便利っすよ。
と、場違いな考えが浮かんだのは、現実逃避みたいなものだろうか。
武術に長けた弟さんならきっと本当に、折ってしまえる。そう思うのにまるで怖さを感じないのは、彼がそんなことするわけないとわかっているからなのか、恐怖という感情を奪われてしまったからなのか、彼になら何をされてもいいと思っているからなのか。
だって、神さまになんて逆らえるわけないじゃないすか。
自分でもよくわからない、うまく説明もできそうにない不思議な感覚で頭がぼうっとしていたから。
だから、自分が何をされているのか、すぐには理解できなかった。
知っている熱。知っている匂い。
……ああ、弟さんにぎゅっと抱きしめられてるのか。
「ごめんね。これは冗談では済まされないね。悪趣味だった。ごめんなさい」
「いえ……」
ひとしきり謝って僕を見つめる弟さんは、僕がよく知っている、いつも通りの……いつもよりは表情が陰ってはいるけれど、それでも、僕がよく知る弟さんだった。
「ひなたくんが考えてくれた台本を僕なりに解釈して演じてみただけで、椎名さんを本気で閉じ込めようなんてもちろん、思ってないよ。でも」
そこで一度、弟さんは言葉を切る。
夜明けの空から雨粒が落ちてきそうな瞳が、僕をじっと見つめていた。
「今日だけは、ずっとここに、僕と一緒にいてほしいよ」
「……はい。心配かけてごめんなさい」
さっきはためらってしまった言葉が自然と口をついて出て、でも慌てて取り繕うような感情は少しも押し寄せてこなかった。
だってこれは、今こそ言うべきもので、言い逃してはいけないものだから。
僕を責めればいいのか許せばいいのか、なんて返せばいいのかわからないのか困ったように微笑む弟さんを、軽く抱き寄せる。
「いやー、それにしても弟さんの演技力、すごいっすね。僕なんて、断食してみてやっと役の端っこが掴めたっていうのに」
「いくら班先輩がついてくれていたからって、命に関わるようなことはもう、絶対にしないでほしいよ」
そう言って顔を上げた弟さんは僕を軽く睨んではいたけれど、それが怒りから来るものではないことくらいは僕にだってわかったから。だから、ちゃんと真剣に向き合った。
「みんなにも口酸っぱく言われたんで……もうしないっす」
「……ウム」
青空が満足げに輝く。
雨が降らなくて良かった。
……あれ? やっぱり紫じゃない。
「そういえばさっきの弟さん、目の色がいつもと違って見えたんすけど……催眠術的な何かっすか?」
見間違い、と言ってしまえばそれだけなことかもしれないけれど。そう言ってしまうには妙に印象的だったそれについて訊くと、弟さんは含みも裏もない、いつもの底抜けに素直な笑顔を浮かべた。
「そんな特別なことをしなくても、椎名さんにだってできるよ」
「へ?」
「交感神経が優位になると瞳孔が開くんだけど、それは虹彩が縮むからで、そうすると虹彩が持つ色素、というか見え方が変化するんだ。その原理を応用しただけだから」
「はあ……」
君が何を言ってるのかさっぱりわからない僕には、できない芸当だと思いますよ。
と心の中で返事をしながら、にこにこ笑う弟さんに改めて、ほっとする。
もうすっかり、いつも通りの弟さんだ。
いや。
僕の膝から降りた弟さんは、僕の隣に戻ると今度はその身体をぴったりとくっつける。
僕らは恋人同士だから、距離感が他の人たちよりも近いのはそうなんだけれど。普段の弟さんは、ここまでわかりやすく甘えてくることはない。こんな振る舞いをする時なんて限られている。たとえば悩んでいる時とか、疲れている時とか。精神的に少し参っている時ばかりだ。
つまり今の弟さんは、いつも通り、とは言い難い。
こういう時に頼って甘えてもらえるのはとても嬉しいけれど、でも同じくらいに、それ以上に心配にもなる。
「……椎名さんがいない間、いろいろなことを考えたよ」
弟さんが口を開く。僕に聞かせている、というよりは独り言に近い感じだった。
「飢えてどこかで倒れてるんじゃないかとか、何かの事件に巻き込まれて身動きが取れなくなってるんじゃないかとか」
僕に寄りかかる重さが、強くなる。
まるで、縋るように。
「……僕のことが嫌いになってしまって、顔も見たくなくて、だから帰ってこないんじゃないか、とか」
「それは絶対にないっす!」
慌てて否定した僕は見ないまま、弟さんは続けた。
「だから、無事がわかってとても安心したし嬉しかったのに、なんだかモヤモヤした気持ちが晴れなくて、こんなに近くにいたのに気づけなかった自分に腹が立ったのかと思ったけどそんな感じでもなくて。なんだかよくわからない気持ちでいたらひなたくんに悪戯を持ちかけられて、つい、乗ってしまったんだ。僕をこんな気持ちにさせた椎名さんのことを、少しくらいは困らせたっていいんじゃないか、と思ってしまって、モヤモヤをぶつけてしまったんだ。でもそんなの、とても自分勝手な行いだった。ごめんなさい」
弟さんは懺悔のつもりだったのかもしれないけれど。
僕の方がよっぽど、懺悔しなければならないじゃないか。
だって。
「謝るのは僕の方っす。不安な気持ちにさせちゃってごめんなさい」
自分のことで頭がいっぱいになってしまって、こんなにも僕を大切に思ってくれている優しい子に連絡のひとつもしないで、心細い思いをさせてしまったのだから。
僕が弟さんを抱きしめると、少しの間をおいてから、弟さんが僕の肩口でほっと息をついた。
「……そうか。僕は、このモヤモヤは、不安だったんだね」
わからなかった気持ちに名前がついたからか、安心したように笑う音がころころと転がる。
だから、ああ、もう大丈夫だ、と。そう思った。根拠はないけれど。
でも恋人だから、それくらいのことはわかる。つもりでいる。
「もう黙っていなくなったりしないっす。約束するっす」
「……ん」
顔を上げて目を閉じた弟さんが何を求めているのか、それくらいのことはわかる。
恋人なんで。
前菜のキスをして、メインディッシュをいただきま……
「だめだよ、椎名さん」
「え、だめっすか?」
「夕方にはひなたくんが帰ってくるから。今、これ以上キスしたら、その……」
青い目を伏せて、少し早口で口篭った彼が何を思ってどうして恥じらっているのか、それくらいのことはわかる。
恋人なんで。
「あ、そ、そっすね」
キス以上のことはしないつもりでいた僕より、もっと先を期待していたらしいことをほのめかされて、正直、今すぐにでも食べたい気持ちにはなってしまったけれど、さすがにこれ以上はやばい。今は。
それは次の機会のお楽しみとして、大事にとっておこう。
「そういえばひなたくんが、晩ご飯はオムライスとハンバーグがいい、と言っていたよ」
抱きしめる腕を緩めても僕にぴったりくっついたまま、弟さんが言う。
「それって弟さんの好物じゃないすか」
「ウム。ひなたくんは優しいよね」
その口ぶりから、どうしてひなたくんがそんなことを言ったのか、その理由について弟さんには察しがついているようだった。
さしずめ、弟さんへの気遣いと、僕への意趣返し、そんなところだろう。
ひなたくんだって僕を、それから弟さんを心配してくれていた。そういうことだ。それなら、腕によりをかけておもてなしするのが、料理人というものだ。
「じゃあ、デザートにクレームブリュレをつけましょうか……あ」
「どうかしたのかな」
「材料を買うためにこの部屋から出ないといけないんすけど……」
さすがに部屋の冷蔵庫の中にある食材だけでリクエストに応えるのは厳しい。共有ルームのキッチンでつくれるかもしれないけれど、それなら、寮から出ない、という条件にしてもらわないといけないし、それでも足りないものがあるかもしれない。
と内心唸っていると、弟さんがかわいらしく首を傾げて微笑んだ。
「さっきも言ったけど、本気で閉じ込めるつもりはないから、好きな時に出ていって構わないよ。でも」
ふっと右手が温かくなる。僕よりも少し小さな手が重なる。
「今日だけは、僕も一緒に連れていってほしいよ」
「……もちろん」
僕がゆるく……いや、しっかりとその手を握り返したのは、言うまでもない。
今日だけじゃなくて、明日も、明後日も、……弟さんさえ良ければ、これから先もずっと、一緒っすよ。
と、未来のことまで堂々と語る度胸は今の僕にはなかったけれど。
でも、今の僕でもこれだけは約束できる。
「ひとりぼっちにはしないっす」
軽く目を見開いてぱちりとまばたきして、甘くはにかんだ弟さんの瞳は、昼間なのに星がきらめいている空みたいで、とても綺麗だった。
僕の大好きな色だった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.