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2024-08-08 22:56:03
5556文字
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けだまものがたり

人型の黒猫に育てられている小さなけだまのものがたり ししさめ


 けいいちには、けいいちという名があります。これは、生まれた時からけいいちが知っているものでした。
 こういった名を持っている獣は、時を経ると人間の姿をとることがあります。けいいちはししがみという狐の族ですから、いずれは、人の姿をとる狐になるかもしれません。
 しかし、人のはびこるこの世において、そこまで長生をする獣は、まれです。けいいちもまた、うす汚れた世の片隅で、ピィピィと世を恨み啼きながら、死んでゆくさだめにありました。
 それを拾い上げたのは、しん、という生き物です。人の姿をとってはいますが、これが真に何であるのかは、けいいちにもいまだにわかりません。
 しんは何かを拾うことこそあっても、何かを育てることはありません。だから今回も、しんはけいいちを、仲間のもとに放り捨てました。
 仲間は人の姿をとっていますが、猫の族で、黒くしんなりとした尻尾が、二股に分かれています。人型の猫はいかにも嫌そうに、指先でけいいちをつまみ上げ、汚れたけだまを扱うように、ぶらぶらと振って言いました。
「あなたはししがみの族か。私はむらさめの族だ」
 猫は肉食なので、こんな小さなけだまは丸呑みにしてしまうことでしょう。けいいちがものも言わず震えていると、猫はまたいかにも嫌そうに、冷ややかに溜息をついて言いました。
「まあ、このけだま一つ、場所をふさぐということもない。私の家に来なさい、ししがみ」
 そのときから、けいいちはししがみに、猫はむらさめになりました。

 きれいに洗われたししがみは、きんいろのふかふかのけだまに、きんいろのふかふかのしっぽがついている姿でした。むらさめはししがみの手ざわりが気に入ったのか、手の中でよく、ふわふわと揉んでくれることがありました。
 むらさめの手は大きくて、指がほっそりとしていて、冷たく、しんとした静かな匂いがします。それはきっとお医者さんの匂いだな、と、れいめいが言いました。
 れいめいは天をつくように大きな、人型の生き物です。ししがみのことを本当にただのけだまのように扱って、お手玉をしたりするので、ししがみは「やめろ」と啼きました。
「ピャーピャー言われてもなーオレには狐の族の言葉はわからないんだ」
 手紙でも書いてくれたらわかるかも、とれいめいは笑います。手紙とはなんだ、と思っていると、れいめいはくわしく説明をしてくれました。
「紙に字を書いて、気持ちを伝えるんだ、字は礼二君に習ってるんだろ? 礼二君にも気持ちを伝えられるぜ」
 きもち。むらさめに伝えるきもち。
 ししがみが考えていると、たとえば、とれいめいは言いました。
「大好きって気持ちとか」
 大好きって気持ちを、伝える。それは問題だ、とししがみは思いました。
 なぜなら、わざわざ紙に書いて伝えるということは、ししがみの「大好き」は、むらさめには伝わっていないということになるからです。
 むらさめはすらりとして、しゃなりとして、目は人間が道路に飾っているピカピカの、みながそれを見上げて立ち止まるアレのように光っています。丸いめがねもつやつやしていて、手の中に抱き上げられるといつも、ししがみはけだまの手を伸ばして触れたくなるのでした。
 食べ物も毎日取ってきて――お金を払って買うのです――、ししがみをいつも身ぎれいにして、「一人で生きてゆくすべ」をていねいに教えてもくれます。(別に一人で生きてゆく予定はないのですが、一人で生きてゆけるようになれば、きっとむらさめの助けになることでしょう!)
 それらすべてをひっくるめると、「大好き」という気持ちになります。しかし言われてみれば、むらさめは「ごはん」も「さむい」も「ねむい」も聞き取ってくれるのに、「だいすき」と言ったときだけ、少し難しい、へんな顔をします。
 狐の族の「だいすき」は、猫の族には伝わらないのかもしれません。
「また私のけだまによからぬことを教えているのか」
 部屋に入ってきたむらさめが、ふまんげにそんなことを言いました。ししがみはピャー!とうったえます。
……なに?」
「手紙が書きたいんだってさ。レターセット、分けてあげたら」
「手紙を? 誰に?」
「さあ。そこらへんのプライバシーは尊重してやるべきだろ」
 ニヤニヤと口が裂けるように笑いながら、れいめいは朱塗りのお盆のように大きな目を、ぱちぱちとまたたかせました。


 むらさめは「ぷらいばしー」を尊重して、何もきかずに、まっしろいさらさらの封筒と、便箋を分けてくれました。
「あなたには大きなサイズのものだが、本当にこれでよいのか」
 確かにレターセットは、けだまなししがみより大きなものでしたが、だいじなのはむらさめのサイズであるということです。
「筆記具も私のものしかないが……手にインクをつけて書くか?」
 むらさめはいくつかの筆記具を並べてくれたので、ししがみは一本の筆を選びました。それがいちばん、親しみのある形をしていたからです。なにせそれは、ししがみのしっぽにそっくりでしたから。
「書くのを手伝ってやろうか」
 むらさめはししがみの作業を見たそうにしますが、書き上がるまでは見られるわけにはいきません。ししがみはていちょうにそれを辞退して、むらさめがお仕事に行くのを待ちました。
 ガラスのおちょこに入った墨と、ふさふさのしっぽのような筆と、真っ白い便箋。これが、ししがみに与えられたお部屋――ししがみには果てないほどに広いお部屋です――の床に、きれいな布をしいて置かれています。
 ししがみは両手で筆を抱きしめ、のけぞって持ち上げると、どぶん、と墨につけました。はねた墨がべったりと顔にかかりますが、いさましくしっぽでごしごしと拭いて、便箋に筆をたたきつけます。
 ししがみはかしこいけだまなので、自分の技術ではまだ「だいすき」はうまく書けないことを知っています――事前に墨のついていない筆を走らせてたしかめたのです――。しかしこの便箋いっぱいに「すき」と書くことなら、ししがみにもなんとかやり通せますし、めがねをかけたむらさめにもよく見えるでしょう。
 すき、むらさめすき、だいすき。
 その気持ちを、雄々しく仁王立ちして筆を走らせ――途中で、線をどちらにかたむけるのかよくわからなくなりましたが――、「す き」と書き終えてししがみは、便箋にポタポタと、墨がついていることに気づきました。
 これは、ししがみの肉球の跡です。
 しかし歩きながら筆を走らせるわけですから、肉球は墨でよごれますし、跡もつきます。お手紙とはそういうものなのではないでしょうか。
 おそらくそういうものなのだろう、と納得してししがみは、筆を筆置きに寝かせ――そこではたと、黒けだまと化したじぶんの姿に気づきました。
 帰ってきたむらさめにお手紙を渡すのに、この姿はいただけません。
 ししがみは考え込んだあげく、洗面所へと向かいました。むらさめはししがみのために、通ってよい部屋の扉はすべて開け放って出かけてくれます。ししがみが入ることのできる水場は、洗面所だけです。
 洗面台への道のりはししがみのために、床からはしごもかかっています。むらさめはししがみのために、ここの水を、おいしい水に――水道にもおいしいとおいしくないがあります――してくれました。何かあって、用意されたお水では足りなくなったときは、ここの水を飲めばよいのです。
 そんなにおいしい水ならば、身体を洗うのにも問題はないことでしょう。
 ししがみは水栓を持ち上げると、洗面台の中にどぼんと飛び込みました。
 どぼどぼと水が叩きつけられた、恐ろしさの余りピャー!ピャー!と啼きわめきます。しかも洗面台はつるつるとして、なかなかのぼることができません。
 しかしむらさめは――なんとかしこいのでしょう――、おそらくししがみがここに入ったときのために、水栓からひもを一本吊り下げてくれていました。ししがみは必死にそれで水栓へとよじのぼり――その過程で水は止まりました――、ぶるぶるふるえながら、洗面台のふちにたどり着きました。
 ふるえの勢いのまま、身体をぶるんぶるんと振りそうになるのを何とかこらえ、まずは置いてあるタオルの上で寝ころがり、水気をとりのぞきます。ぶるんぶるんするのはよくない、とむらさめに言われたことを、ししがみはきちんと覚えているのです。
 そして落ち着いてはしごを下りたところで――ししがみははたと、おそろしい事実に気がつきました。
 黒けだまのししがみは、しっぽも肉球も墨で汚れていましたから――ししがみはふるえる身体でころげんばかりに走ります――、やはり、ししがみの部屋からこの洗面所まで、肉球と尻尾の跡がてんてんと続いています。
 たいへんなことをしてしまった、とししがみはけだまの手でけだまの頭をかかえました。
 家をよごしても、むらさめはししがみを叱りません。ただ、まず心を込めた「しゃざい」をしてから、次はどのようにすればよごさずに済むか、ということを考えさせられます。ししがみはその場にうずくまり、むらさめが帰ってくる前に「かいぜんさく」を用意しようと、うんうん考え始めました。
 しかしこれは難しい問題です。
 床をよごさずに済むためには、身体をきれいにしなければなりません。しかし、そもそもししがみは、よごれた身体をきれいにするために洗面所に向かったのです。身体をきれいにするためには洗面所に行かねばならず、洗面所に行けば床が汚れます。
 もしやこれは、おねしょと同じ「ふかひ」の汚れでしょうか。むらさめがししがみを自分のベッドに入れて一緒に眠ってくれるようになってから、ししがみはよく眠りすぎておねしょをしたことがあります。きっと自分は追い出されるのだろう、と泣いていたししがみに、おねしょは「ふかひ」の現象だから、謝って、それでしまいでよい、と教えてくれたのもむらさめでした。
 家をよごしたときは、むやみに直そうとせず、むらさめの指示を待つことになっています。ししがみは気を取り直して、自分の部屋に向かいました。
 むらさめが帰ってきたら、まず心を込めた「しゃざい」をして、それから、今回のよごれが「ふかひ」の現象だったかどうか尋ねるのです。そして「かいぜんさく」を教えてもらえたら、それをよく覚えるのがよいでしょう。


 封筒に便箋をしまい込み、れいめいに教わったように、封筒のふたのさきに、手につけた墨でハートを書いたところで――これもまた「だいすき」の意味です――、玄関のとびらの開く音が聞こえてきました。ししがみはころがるように駆け出して、むらさめのもとに駆けつけます。
「水道を使ったようだな」
 むらさめの家は、何か変化があるとむらさめに伝わるようになっているそうです。ししがみの身体はまだ少し濡れているので、抱き上げようとする手をししがみは固持しました。
 まず、床をよごしてごめんなさい、と、けだまを丸めてふかぶかと「しゃざい」をします。むらさめは洗面所に向かいながら――外から戻ると手を洗うからです――、よごれを確認し、何の「そざい」でよごしたのか、それはなぜよごれたのか、といったことを手短に尋ね、ししがみがてきぱきと答えたことに満足したのか、静かにうなずいてくれました。
「身体がよごれることをあらかじめ予測して、脚をカバーするものや、身体を拭くものなどを用意しておくべきだろう」
 なるほど! ししがみは感服してしっぽを振り、残った水がぴっぴっと飛びました。
「それで、身体をそれほど墨だらけにしてまで、誰に手紙を書きたかったのだ」
 手を洗い終えたむらさめの声は、少し厳しいものになり、ししがみは少し意外に思いました。しかし、早く手紙を渡したい、という思いがすぐにそれを打ち消します。
 ししがみはまたころがるようにろうかを走って、自分の部屋へと駆け込みました。むらさめはゆっくりと、後をついてきてくれます。
 むらさめが部屋を入ったところで、ししがみは、そこにいて! と啼きました。むらさめは黙って、その場にひざをついて座ってくれます。
 ししがみは両手で、自分の身体より大きな封筒を持ち上げました。部屋の中に流れる風のせいで、封筒は揺れ、身体がしょうしょう――あくまで少しばかり――よたつきます。それでもししがみは脚をふんばり、しっかりと歩いて、むらさめのもとまで手紙を「はいたつ」しました。
 よんで! と啼くと、むらさめはまずハートマークをじっと見つめ、それから、ししがみの肉球のあとがあちこちについた封筒を、丁寧に開きます。
 そして黙ったまま、便箋に目を落とし、なにごとかを考えているようでした。
 だいすき! と、念押しにししがみは啼きます。その声にまるでおどろいたかのように――むらさめがししがみのすることにおどろくはずもないのですが――、ぴくり、と肩を揺らし、それからむらさめは、膝の上に便箋を置いてししがみを見ました。
 人間がみな立ち止まるあの色です――狐には見えない色ですが、人のさがを秘めたししがみには見える色です。その色の目でじっとししがみを見て、むらさめは「ありがとう」と言いました。
「ていねいな手紙をありがとう。時間はかかるかもしれないが、かならず返事を書くので待っていて欲しい」
 あんまりきれいな色の目なので、ししがみはしばらくぼうっとそれを見上げていました。やがて言われたことを理解して、うれしさのあまり跳び上がりながら、ヒャン! と大きな声で啼いたのでした。