ノエたちが騎兵に案内されて辿り着いた砦は、今まで目にしてきた各地の要塞や対竜用の軍事拠点とさして変わらない石造りの建物だった。
周囲を囲む、無味乾燥とも言えるほど飾り気のない石壁。その中には騎兵たちの詰め所はもちろんのこと、宿となる休憩所や食堂、チョコボを管理する厩舎、見張りのための展望台などの各種施設がひしめいていた。
先だって世話になった要塞との違いは、占星台と呼ばれる一際高い塔があることだろうか。その場所では、日夜望遠鏡を空に向けて竜の動向を探る者が詰めている、とのことだった。
旅人用の宿泊施設に案内されたノエたちは、いつものように荷物を部屋に置いてから、それぞれが思い思いの場所に散っていった。限られた時間の中で、情報収集と必要な物資の補充を手分けして行うためだ。
だが、ノエは情報収集のために施設の中を行き来することもなければ、食べ物を分けてもらえないかと駐留している商人に声をかけることもしなかった。
彼は自由時間になると同時に、砦の中にあるある場所に向かい、仕事の手伝いを申し出たのだった。
「悪いね。旅人さんにまで手伝ってもらって。人手が足りなくて、魔道士の連中も困った困ったって言ってたところだから、大助かりだよ」
「いえ、むしろ案内をしてもらったのはこちらの方ですから。せめてお礼にこれくらいのことはさせてください。すみませんが、包帯を解いてもよいでしょうか」
「ああ、構わんよ。応急手当てに、適当に巻いただけのものだからね」
言葉を交わしながら、ノエは寝台の上に横たわっているエレゼン族の男性の腕を取り、巻かれていた包帯を解いていく。
錬金薬独特のツンとした苦味のある匂いと、どこか拭えない血の匂い。それは、ノエが話している壮年の男性から漂っているものではなく、部屋全体を覆っている匂いだった。
奥にある暖炉のおかげで部屋そのものは暖かいはずなのに、どこか寒々しさと痛ましさが抜けきらないこの部屋の正体――それは、砦の中にある救護室だった。
ノエたちが兵士たちと共に砦に帰還した際、彼は先だっての迎撃作戦で生じた負傷者が救護室に担ぎ込まれていく様子を目にしていた。
攫われた人の救助も忘れていないが、作戦に巻き込まれる危険性についてノエたちに教えてくれた上に、こうして砦まで連れてきてくれたお礼をしたい。そう思い、ノエは荷物を置くと、治癒魔法の使い手として救護室の手伝いを名乗り出たのだった。
情報収集なら、軽傷者からもできる。そう判断してのことでもあるので、決してただの慈善事業ではない――というのは、後から付け足した言い訳である。
ノエが男性の包帯を解くと、その下からは強打したと思しき痛々しい痣が浮かびあがった皮膚が露わになった。それでも、先だって治療した他の患者が負っていた火傷よりは、こちらの方が傷としては軽い部類になってしまうのだろう。
「ランドンの野郎に尻尾で殴られてね。咄嗟に盾で庇って直撃は防いだんだが、変な形に打っちまったんだろう」
「極度の腫れはないようですが……固定していなくても大丈夫なのですか。動かしたときに痛みが生じるようなことは?」
「ああ。骨までは破損していないって、うちの医師が言っていたからな。打撲なら、治癒魔法でいいだろうって話だ」
「分かりました。では、失礼します」
ノエは男性の腕に手を添えて、意識を集中させる。ふわりと漏れた癒しの光は、男の皮膚の内側にまで染み入り、彼の体の損傷を塞いでいく。
「俺は、魔法ってやつはてんでさっぱりだからね、こうやって治癒の魔法で体を治してもらうと、どうにも不思議な気持ちになるもんだ」
「そういうものでしょうか。でも、傷ができたことによる損耗が完全に消えたわけではありませんからね。しばらくは安静にしていてください」
一言釘を刺しながら、ノエは治療を続けていく。
男の言うように、魔法を扱わない者にとっては、傷をたちどころに塞ぐ治癒魔法は万能の魔法のように見えるだろう。だが、魔法はどんな傷もたちどころに塞いでしまう万能の手段ではない。
癒しの魔法の多くは、主にヒトの生命エーテルを活性化させる効果を持つ。
疲労を取り除くのは勿論のこと、切り傷や打ち身といった血管と皮膚の損傷から生じる傷は、損傷した部位の組織に対して傷の修復を急がせることで、比較的簡単に治癒が可能だ。ゆえに、癒しの魔法は外傷に対してとりわけ有効と言われている。
しかし、ノエが説明したように、傷によって生じた傷跡そのものを消すわけではない。当然ながら、傷口から出血したことにより失われた血が戻るわけではない。故に、無理に動けば貧血状態になり、体調を崩す結果になる。
それに、術をかける相手がひどく消耗している場合――活性化させるべき生命エーテルが枯渇してしまっているような事例では、治癒魔法は効果を発揮しない。瀕死の重傷者を魔法で治せないのは、治すべき相手の命の灯火とも言えるものが既に尽きてしまっているからだ。
この男性のように、体力自体はまだあるものの、傷そのものの自然治癒には時間がかかるという事例にこそ、治癒魔法は効果を発揮する。だが、だからといって、傷が塞がった瞬間に治ったと勘違いされるのも困りものだ。
「俺としちゃあ、今からひとっ走りできるぐらい元気になったような気分なんだがねえ。今晩の訓練には参加できる。俺の体はそう言っているぞ」
「残念ですが、それは止めた方がいいでしょう。せっかく体が治ったのに、貧血で倒れてしまっては元も子もありません」
口を酸っぱくして注意しながらも、ノエはオデットの顔を思い出してしまう。
怪我をして注意される側のノエとしては、オデットも普段はこのような気持ちで小言を口にしているのだろうかなどと、つい思いを馳せてしまうのだった。
続けて、今度は男性の頭に巻かれている包帯を、許可をとって解いていく。こちらは軽い擦り傷だったが、ノエはそちらにも癒しの魔法を施していった。
「そういえば、あんたの顔……どっかで見たことがあると思っていたんだが、もしかしてランドンに襲われていた旅人じゃないか?」
手当てをされていた男に尋ねられ、ノエは魔法をかけていた手をぴくりとさせる。特に隠す必要もないことではあるので、ノエはすぐに首肯を返した。
「ええ、そうです。もしかして、あなたはあのときランドンと戦っていた騎兵の方ですか」
「まあな。って言っても、すぐにひっくり返っちまった情けねえ兵士の一人だけどよ。いやはや、あれには驚かされたよ。あんた、よく生きていたなあ!」
痛みが薄れてきたおかげか、男は先ほど傷が塞がったばかりの腕で、ノエの背中をばしばしと叩く。安静にしていてほしい、という注意はどうやら聞き届けられなかったようだ。
「ランドンがあんたに向かって突進して行ったのを見て、あれはもう食われたんじゃないか、踏み潰されたんじゃないかって、見ていてヒヤヒヤしたんだぜ」
「はい。僕も……あの瞬間は、本当にだめかと思いました」
竜が眼前に迫ってきた時の恐怖は、こうして安全な砦の中にいても瞼を閉じればすぐに蘇る。魔物を前にしたことは数あれど、戦う前から敵わないと強く思ったのは、あの時が初めてだ。
「でも、結局僕はあいつには吹き飛ばされただけで済みました。至近距離で咆哮を聞いたせいで、体の内側がひどく出血はしてしまったんですが、死なずに済んだのは運がよかったです」
「あー、なるほど。だから、あんたの鼻のあたり、まだ赤いんだな」
男に言われて、ノエは空いた片手を自身の鼻にやる。
ランドンの咆哮が直撃したことにより、流石に頭の血管が全部切れるような結果にはならなかったものの、体の内側を巡る細い血管の何本かが損傷してしまった。
その結果の一つとして鼻血がなかなか止まらず、ノエはオランローのチョコボに乗せてもらっている道中、しばらく鼻を抑えていなければならなかった。
「何にせよ、よかったよかった。若いもんがドラゴン族に食われるなんてこたぁ、無い方がいいに決まってる」
そう言って目を細める男は、ちょうどノエの父親と同じぐらいの年頃のようだった。彼は、自分の言葉にしきりに何度も頷き、
「俺の息子が、ちょうど旅人さんくらいの年でな。だから、尚更あんたが無事でよかったって思っちまってな。何にしても、命あっての物種だ。あんたも、旅もいいがたまには親の元に顔を出してやるんだぞ」
「……そう、ですね」
まさか、つい先日会ってきたうえに、辛辣な言葉をぶつけてきたところだと言うわけにもいかず、ノエは無難な言葉を返した。
騎兵として竜と戦い続けている彼にとっては、明日は死ぬかもしれない身であるからこそのお節介だったのだろう。今は、その気持ちだけをありがたく受け取っておく。
ちょうど、額の擦り傷が完全に消えたので、ノエはそっと手をどかし、
「傷の方はどうでしょうか。他に、具合の悪いところはありますか」
「いや、もう大丈夫だ。ありがとうな、こっちの手伝いもしてくれて。急ぐ旅の途中だったんだろ?」
どうやら、領主からの連絡では、ノエたち一同について、そのように伝わっていたらしい。あながち間違いではないので、ノエがどう返したものかと思案していると、
「こっちまで来たってことは、ニヴェール様の領土にでも向かうのかい?」
「いえ、境にある山に向かうつもりだったんです。もし、あの山について知っていることが何かあれば、教えていただけませんか」
他領に向かうつもりだったのかと尋ねる男に、ノエは下手に隠し立てせずにありのままの予定を伝える。男は驚いたように数度瞬きをすると、
「そりゃ構わないが……あの山には他領と繋がる街道もないぞ。魔物が多くて、通り道としても使い物にならないって話になったんだそうだ。たしかに、多少珍しいものは見つけられるかもしれないが……」
「珍しいもの?」
「ああ。えーっと……魔道士の連中が言うには、あの山は大地に流れるエーテルの真上にあるとかなんとかで、クリスタルが採掘できるんだそうだ。魔法的な力が働いているせいだか知らんが、普通の山とは違う形をしている部分もあるな」
ノエが関心を持ったのがわかったのか、男は自分が知る限りの情報をノエへと伝えてくれた。
先ほども話したように、エーテルの流れの直上にあることにより、ところにより大きなクリスタルが表出していること。
それに惹かれるかのように、麓では見かけない魔物が見られること。
また、魔力の偏りのせいか、近年の寒冷化と相まって緑は少なく、山といっても大きな木々は麓にかろうじて残っているだけであるということ。
ドラゴン族にとっても、住み良い環境ではないのか、飛竜が移動の際に一時的に留まることはあれど、大抵は通り道として利用されるに過ぎないこと。
「魔物が蔓延っちゃいるが、後は閑散としたものだよ。ああ、でも最近は飛竜を見かけたって話があったな。なあ、あんた。本当にそんな所に行くのかい?」
まだ年若いノエを心配する兵士をよそに、ノエは飛竜の目撃情報に関する部分を耳ざとく拾い上げていた。
「この付近で、飛竜を見かけた人がいるんですね」
「ああ。たしか、一週間ぐらい前に、領主様がいらっしゃる街を飛竜が襲ったって事件があったんだ。その時の飛竜が帰ってきたんだろうって話だったな。たしか、襲撃から二日ぐらい経った頃か」
「二日……」
襲撃があった日付と、自分たちの移動した日数を、ノエはすかさず頭の中で数える。
飛竜が襲撃した日とベルナールがノエに飛竜の在処を教えてくれた日を踏まえると、どうやらベルナールは飛竜の目撃情報が届いた直後に、ノエにその情報を渡してくれたようだ。
「飛竜の翼でも、街からここまで二日もかかるんですね。空を行くのなら、もっと早く着くのかと思っていました」
「俺の部隊の隊長もそう言ってたよ。だから、どこかで休憩してたんじゃないか、なんて話してたな」
本当にそれだけだろうか、とノエは思考を回転させる。
飛竜がどれだけ高速で移動できるかは分からないが、空を行けるなら、本来は気にしなければならない障害物を全て飛び越して目的地に向かえるはずだ。
チョコボの足では五日以上はかかる距離でも、飛竜なら一日もあれば十分ではないだろうか。だというのに、なぜわざわざ一日多く時間をかけたのか。
(運んでいる人を守るため、だろうか。流石に何時間も気温の低い空中を移動させられたら、精神的にも体力的にも参ってしまう可能性が高い。だから、一度休みをとった……?)
異端者の首魁は、横暴な手法はとったものの、攫った人を使うために生かすための判断はしてくれたらしい。ならば、ノエのこの救出行も無駄には終わらないだろう。
「ありがとうございます。貴重な話を聞かせてくれて」
「いや、この辺を旅する旅人の道を守るのも俺たちの仕事だからな。だが、危ない所に率先して行けって言いたいわけでもないんだぞ。山に行って、一体全体何をするって言うんだ?」
「それは……」
ここで攫われた人を助けに行くと言ったら、男はなんと言うのだろうか。
異端者になっているかもしれない人々を救いたいと語ったら、この気のいい壮年の負傷兵は、どのような言葉を返すのだろうか。
「……欲しいものがあるんです。ただ、それだけです」
「たしかに、竜がためこんだ財宝が眠っているとか、そういう伝説はよく聞くけどよ。どれも嘘くさいおとぎ話だぞ?」
「そういうものではないんですが……確かに、それも夢がある話ですね」
ノエは目を細めて、一度だけ頷き返す。
今ここで、攫われた人を助けに行くと言って、いたずらに彼らを刺激したくない。ノエは、結局そのような結論を出した。
もし、男が異端者をひどく警戒して、ノエたちの行動を妨害するように部隊に働きかけたら、彼らの本来の仕事を邪魔することになる。それは、ノエの望むところではない。
もし、男が親切心を出して、ノエを応援してくれようとしたら。それも、結局は兵士たちの本来の仕事を妨害することに変わりはない。
だったら、ここで余計な言葉を口にする必要はない。ノエが攫われた人々を助けたいと願ったのは、あくまでノエの私的な欲求にすぎないのだから。
「では、僕は他の方の治療に移ります。くれぐれも安静にしていてくださいね」
「ああ、わかったよ。心配性なところも、あんたは俺の息子にそっくりだな」
傷痕が残った手で、兵士はノエの手を一度しっかりと握りしめてから、そっと離した。
さながら父親が息子に送るような激励と感謝の握手に似たそれは、しかしノエが父からは決して受け取れないものでもあった。
一礼してから、ノエは隣の寝台に向かう。治癒魔法の使い手が来るのを待っている間に眠ってしまったのか、隣の寝台にいた怪我人はひどく静かだった。
「お休み中のところ、すみません。怪我の治療に来たのですが」
声をひそめて、ノエは目を瞑って眠っているらしい怪我人の肩を軽く叩く。
しかし、やはり反応はない。
頭にきつく巻かれた包帯や、体の半身を覆う包帯の下には、まだ怪我が残っているはずだ。放置しておくわけにもいかず、どうしたものかとノエが悩んでいると、
「旅人さん。そいつはもう治してやる必要はないよ」
先ほどまで話していた男が、ノエへと声をかける。
薄情にも聞こえる言葉に、驚いて、思わず振り返り、
「それは、どういうことですか」
「……そいつは少し前に、逝っちまったからさ」
男は目を伏せ、ゆっくりとかぶりを振りながら、何気ない調子で言う。
ノエはその言葉を聞いて、息を呑んだまま凍りついてしまった。
「あんたが俺の所に来る、五分ほど前だったかな。ランドンに体の半分をズタズタにされちまって、息をするのも絶え絶えだったんだ。あんたがもっと早く来ても、間に合わなかっただろう」
息がある以上は、すぐに埋葬するわけにもいかない。かといって、治癒魔法でも助けられないほどに傷は深く、手の施しようもない。錬金薬を飲ませたところで、数分命を長らえさせることしかできない。
そうして、ただ横たわって死を待つだけの怪我人も、この部屋には何人もいる。その事実を眼前に突きつけられて、ノエは呼吸をするのも忘れ、救護室全体を改めて見渡してしまった。
並べられた寝台の中、布団をかぶって動かない人は果たして本当に眠っているだけなのか。この中の何人が、ハルオーネ神の御許に旅立ったのか。あるいは、これから旅立つのか――。
(……これが、ドラゴン族と戦うということ、なのか)
街に襲われた人々は、失った人々の葬儀を粛々と進めていた。
ここでもまた、同じように命を落とした兵士の葬送が、日常の一つとして過ぎていくのだろう。
それらの死を当然のこととして受け止められるからこそ、ノエが先ほど治療していた兵士は、死体の隣で平然とノエと談笑できたのだ。もう助けられない人が傍らにいても、彼はいつしか笑えるようになってしまったのだ。
自分の知らない形で繰り広げる日常と死の連なりに、ノエは言葉を発することもできなかった。
彼にできたのは、ただただ己の目で、耳で、心で、目の前の光景を受け止めることだけだった。
***
救護室の手伝いを終えると、ノエは疲れた体を引きずるようにして、一度部屋に戻った。足りなくなっていた備品を手に入れていた他の仲間と合流し、明日以後の予定を立てるためだ。
とはいえ、すでに目的地である山脈は目と鼻の先だ。流石に今から出発すると到着が夜になってしまうため、出立は明日の早朝と決まれば、目的地に関する相談は終わりとなる。
「食料は多めに買っておいた。山から一歩も外に出させてもらっていないのなら、まともに食事を摂らせてもらっていないかもしれない」
サルヒは大きな荷物袋を難なく担いで床に置き、中身を皆に見せた。そこには、長期間の保存が可能な干し肉や乾燥果物が詰まっていた。砦に滞在していた商人から買い取ったのだと、彼女はオデットと顔を見合わせて教えてくれた。
「僕が逃してしまったチョコボについては、部隊の方が捕まえてくれたそうです。負傷が酷かったので、そちらは手当ての後に街へ戻してもらうようにお願いしておきました」
「それで、代わりにチョコボは融通してもらえたのかい?」
「はい。少し割高になってしまいましたが、今回は仕方ありません」
ノエは救護室を出た後、部屋に戻る前に、自分の足であるチョコボの交渉も済ませておいた。
助けに行くにしても、攫われた人を連れ帰るための移動手段は必要だ。値がはるのを承知の上で、通常より大柄な個体を貸してもらったのも、歩けない人がいた場合に後ろに乗せる可能性を考慮してのことだった。
「興味本位で山の中に入ったことがある傭兵から、話は聞いておいたよ。あの山はクリスタルの鉱脈のようなものがあるから、たまに一攫千金を狙う採掘師が訪れるんだそうだ」
自身が得た情報をすらすらと並べながら、ヤルマルは地図を広げる。そこには、彼女が傭兵から写させてもらった、麓から山中に続く道を描いたと思しき地図があった。
「ただし、あくまでこれは概略だ。おまけに、あの山は崖崩れや落石がたびたび起きるせいで、一度使えていた道が数ヶ月後には使えなくなっていた、なんてことがザラにあるらしい」
「人が長期間滞在できそうな場所がないか訊いてみたところ、この山には大昔の廃村の跡が残っているそうだ。寒冷化の前は、採掘師たちが鉱山として再利用できないか試していた時期があったらしい」
「それなら、その場所を仮の住まいとしている可能性がありそうだね。ありがとう、オランロー。それに、ヤルマルさんも」
今までは漠然としていた救出行の全容が、徐々に明確になっていくのを感じて、ノエは改めて深々と頭を下げた。もし自分一人であったなら、ここまでてきぱきと情報を集めることはできなかったに違いない。
「飛竜に関しては、目撃情報は今のところ無しだ。奴ら、どうやら拉致した人間を置いてどこかに行っちまったらしいな」
ルーシャンの発言は、ノエが得た情報と同じ内容だった。
飛竜の脅威は下がったとみていいと判断できそうで、ノエは内心で安堵の息を吐きかける。しかし、
「だが、今朝のランドンとの接触はいただけないな。あいつが、この山の新たな主になっている可能性はある」
「……そう、ですね」
「そこで聞きたいんだが、ノエ。お前の目からみて、あの竜はどうだった」
いきなり今朝の邂逅の件が振られて、ノエは瞬時言葉に詰まる。
思い出すのは、魔物とは異なる知性を孕んだ朱黄の瞳。畏怖を強制的に引き摺り出す、骨の髄まで響いた怒号めいた咆哮。そして、その口から放たれた、魔物の鳴き声とは異なる音律たち。
「……敵う相手ではない、と思いました」
一瞬の迷いを振り切り、ノエは自身の体が感じた感想を口にする。
剣を持ち、立ち向かおうという気概すら折っていく。それが、ドラゴン族というものだ。
徒党を組んでいたとはいえ、ランドンに立ち向かった騎兵たちは非常に勇敢だ。しかし、個人の力量でどうにかできる相手ではないとノエは感じていた。
「遠目から見て皆さんも分かったかと思いますが、ランドンの鱗は非常に硬そうでした。魔法では傷を少しつけるのがやっとのようだったのは、見ての通りです。その上から、剣や槍で攻撃したとしても、近づく前に薙ぎ払われる確率の方が遥かに高い。僕の目には、そう見えました」
「あの鱗に大きな傷をつけるとしたら、この要塞にあるような対竜用の武装が必要になるだろうね」
「だが、オレたちはそのような重武装を持ち歩いているわけではない」
ヤルマルが対応可能な武装の案を口にし、オランローが現実的な意見を添える。二人の言う通り、重武装であればもしかしたらとは思うが、あいにくそのような武装は持ち歩きに適さない。
「だけど、動き自体はそこまで早くなかった。それに、飛行能力もなさそうだった。気をつけなければならないのは、その力の強さと頑丈さだけ」
一見すると八方塞がりにも見える状況に対して、サルヒは客観的な意見を添える。
ランドンは騎兵たちに攻撃されている間、飛行して逃亡しようとはしなかった。やはり、その翼は単純な移動にすら適さないほどに退化していると見ていいのだろう。
「足が遅いといっても、他の竜や魔物と比較してのことですよね。もし出会ってしまったら、一目散に逃げても追いつかれてしまうのではありませんか」
「そればかりは運を天に任せるしかないな。とはいえ、チョコボの全力疾走に追いつけるかっていうのも微妙なところだ。まして、餌ですらなく、自分を攻撃しているわけでもない相手に、そこまで本気になってランドンが向かってくるかどうか……」
ルーシャンはオデットを心配させないように、敢えて楽観的な物言いをしているが、実際のところは五分五分といったところかと一同は考えていた。
異端者に策略を与えられているとはいえ、異端者を増やしたいと願っているのは裏で糸を引く黒幕の希望だ。ランドンが、その希望に対してどれほど積極的に助力したいと考えているかが、ノエたちの作戦の成功にも大きく関わってくる。
「あの竜は、兄さんの元に突進はしましたけれど、兄さんに噛み付いたり、踏み潰したりはしなかったんですよね。その理由がわかれば、わたしたちも安全に山に入れるのではないでしょうか」
「確かに、魔物の中には特定の植物や薬品を嫌がって、所持しているだけでも距離を置く場合があるね。ノエ、君は何か竜が嫌がりそうなものを持っていたのかい?」
ノエはしばし思案してみせたが、首を横に振る。彼の持っているものは大抵の冒険者が持っていそうな獣よけや虫よけの類が精々だった。
「それに、どちらかというと、アレは……まるで、ランドンが僕に何か用があったような……」
「ノエ?」
サルヒに訝しげに名前を呼ばれて、ノエはハッとする。
次いで、このまま自分が口にしようとした内容をそのまま言葉にしていいか、逡巡する。
ノエはあの瞬間、確かに聞いていた。ランドンの口から放たれた、単なる咆哮とは異なる音の並びを。
(ランドンは……僕に向かって、語りかけていた)
竜が、言葉を発していた。自分に向かって、何かを伝えようとした。
その内容自体は、ランドンに邂逅した際の大きなヒントになるかもしれない。
しかし。
(竜と話をした、なんて。そんなことを、言っていいんだろうか……)
結局、ノエは曖昧な微笑だけを浮かべ、己が抱いた疑念を心の奥深くに飲み込んだのだった。
***
夕方になって吹き込んできた細雪(ささめゆき)が、ノエの頬に触れては溶けていく。
夜に向かって急激に冷え込んでいく気温も、イシュガルドの旅路が始まってから着込んでいたコートの前では、まだ耐えられる寒さに過ぎなかったのは有り難かった。
要塞の各所に据えられた松明の灯りが己の存在を主張し始める頃、ノエは要塞の一角にある敷地に足を踏み入れていた。
一見すると、建物も何もない、わずかな雪溜まりだけが残ったその場所には、木で作られた棒状の印がいくつか並べられていた。
敷地の奥には、一際立派な石の碑が置かれている。その前に立ち、ノエは膝を折って深く頭を垂れた。
石碑に記されているのは、戦神ハルオーネの元に勇士が旅立つことを祈るイシュガルド聖教の聖句の一つ。死した戦士たちが、ハルオーネが座す氷の宮殿に招かれる勇者であったことを、天に輝く神に示す言葉たち。
つまり、ここは――。
「ノエ。あの騎兵たちが死んだのは、別にお前のせいってわけじゃないぞ」
頭を垂れているノエの元に、声が降り注ぐ。
振り返るまでもなく、それが誰のものなのかノエは知っていた。きっと彼もここに来るだろうと、予想もしていた。
なぜなら、彼もまた、イシュガルドの貴族に連なるものとして、竜に殺された兵を見た記憶があるだろうから。竜の犠牲者を目の当たりにして、司祭と共に葬儀の手伝いをしていた姿はノエの記憶にも新しい。
「……分かっているつもりです。僕がランドンに突進されようがされまいと、僕らがあそこを通ろうが通るまいと、亡くなる人はいたでしょう」
答えながら、ノエは立ち上がる。
周囲を見渡せば、粗末な棒状の印――連なる墓標の群れがノエの視界に広がっていた。
この敷地は、要塞内に作られた墓場だ。要塞に属する騎兵たちが亡くなれば、この墓場に埋葬されることになっているらしい。
故郷に帰してやるための余裕もないために、戦場で散った兵士は親や家族の元に帰ることもできず、この地で眠るのだと要塞の騎兵に教えてもらった。
「なのに、何でお前はこの場所に来たんだ?」
ノエに問いかける男――ルーシャンへと振り返り、ノエは自分でも分からない感情を笑みへと押し込んで、
「……どうしてでしょうね」
ノエ自身、自分が祈りを捧げる必要があると、頭で理解していたわけではない。ただ感情の赴くままに動いた結果、自然と足が墓場へと向いていたというだけだ。
その感情の発端を、ノエは慌てずに辿っていく。幸い、出立は明日だ。時間はまだ十分にある。
「……皆さんが、情報収集のために一度解散したとき。僕は、救護室に行っていたんです」
ノエの隣に並んだルーシャンが、小さく息を呑むのが聞こえた。
構わずに、ノエは続ける。
「本当は僕も情報収集に徹するべきだったんでしょうけれど、どうしても彼らのために何かしたいという気持ちが先走ってしまったんです」
「……そうだったのか」
「癒しの魔法を使えると話したら、魔道士の方に治療を手伝ってほしいと言われました。それで、僕は怪我をした人たちの元を巡って治療をしていきました。包帯を解いて、傷口を見て、癒しの魔法をかけて……」
助かった、と言う人もいた。楽になった、と喜ぶ人もいた。もう走れそうだと力こぶを作る兵士を宥める、なんていう一幕もあった。
けれども。
「救護室の中には……もう、動かない人もいたんです。よく見たら、そういう人は他にもたくさんいました。中には、床の上に敷かれただけの毛布の上に横たえられたまま……それきりの、人もいました」
今回の出撃では、これでも負傷者が少ないだったと教えてもらった。だから、もう助からない怪我人でも寝台の上に寝かせてもらえる者がいたのだそうだ。
だが、より多くの被害がでる場所では、そうもいかない。領主の街に近い要塞や、竜が多く闊歩する区域の要塞では、助からない者を床に転がしておくことも珍しいことではない、と救護室の担当者に教えてもらった。
「きっと、そういう人たちは、とても苦しいと思うんです。たとえもう動けなくて、傷の痛さすら分からなくなっていたとしても……僕が同じ立場なら、怖くてたまらないと感じますから」
目が見えなくても、声が聞こえなくても。痛みだけが体を支配し、周りの音は聞こえず、ただ冷たい床の上で死を待つだけというのは、どれほど恐ろしいことか。
「……死が訪れるその瞬間まで、そんな気持ちを抱えて息を引き取るのは……少なくとも、僕の目には正しいものには思えなかった」
「…………」
「でも、僕にはどうすることもできませんでした。重傷を一瞬で治す魔法を知っているわけでも、竜を倒せる英雄でもない」
既に冷たくなってしまった遺体を前にして、葬儀の手伝いを申し出るぐらいが関の山だ。ノエの手は万人を救えるような力は持っていない。
無力を確かめるノエの言葉を、ルーシャンは頷きと共に肯定する。
「俺たちにできるのは、精々、竜が俺たちや俺たちの大事な人の人生に関わらないように祈ることだけだ。それか、竜が暴れ回っていない土地に逃げ込むか、だな」
ちょうど、ノエがクルザスに逗留するのをやめてグリダニアへと向かったように。竜と戦うのをやめれば、こんな現実に触れずに済む。
だが、それはノエにはもう選べないことだった。彼は、拉致された人を救いに行くと決めた。その時点で、素知らぬ顔をして自分の事情だけを優先する可能性と袂をわかってしまったのだから。
「でも、できる限りのことはすると決めたんです。だから、今こうして僕はここにいます」
たとえ、死した兵士に祈りを捧げることしかできなくても。
ドラゴン族をイシュガルド全土から消すことはできなかったとしても。
ほう、と一息をついてから、ノエは改めて自分を探しに来てくれたらしい男と向き合う。
己の決意を確かめた以上、もう一つ確かめておかなければならないことがある。それを言葉にする決心を定めて、ノエはルーシャンへと向かい合う。
「ルーシャンさん。僕たちはランドンと遭遇しました」
「ああ、そうだな。……それが?」
「これは、ルーシャンさんが恐れていたように、ドラゴン族と遭遇したということになります。それでも、まだルーシャンさんは僕についてきてくれますか?」
ノエが危惧していることが何かを理解し、ルーシャンは思わず言葉にならない音を漏らした。
一度は首を縦に振ってみせたものの、ノエはルーシャンが竜の恐ろしさを知っているが故に、同行を断ったことを忘れたわけではない。彼にとって何年も待ち侘びた『機会』が訪れ、ルーシャンが成し遂げたい何かがイシュガルドにあることも、しっかりと覚えていた。
これまでは、ドラゴン族の咆哮を遠くに聞くだけだった。だが、今朝の一件でノエたちはその目でランドンという竜を目にすることになった。
一歩間違えれば、ランドンはノエではなく他の仲間たちの元へと突進していたかもしれない。この墓地の中で、失った仲間を思って呆然と立ち尽くしていたのはノエだったかもしれなかったのだ。
念押しのように問いかけるノエに、ルーシャンはふっと口元を緩め、
「だから、俺もお前に言っただろ。お前が危ないとき、助けに行くようなことはしないって。そして、今朝の俺は、お前を助けなかった」
ルーシャンの言葉を聞いて、ノエは彼の言葉を頭で噛んで含めるようにゆっくりと頷く。
「俺が、ドラゴン族がまだその鼻先を出してもいないうちから、やっぱり怖いから逃げますって臆病風に吹かれるような弱虫に見えたんだったら、そいつは心外だな」
「いえ、流石にそこまで思ったわけでは……」
ルーシャンはノエに数歩近づくと、雪が薄く積もった彼の肩をばしばしと叩く。
「乗り掛かった船だ。もう少しだけ、おじさんも若人に付き合ってやるよ。それに、こればかりは運次第だからな。俺たちが山登りをしている間、ランドンは昼寝をしてくれてるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だろ?」
本来ならば、ノエは素直にルーシャンの言葉に頷いていただろう。
しかし、ルーシャンの予想に反して、ノエは落ち着きなく瞬きを繰り返し、首をゆっくりと横に振った。それもまた、話さなければならないことの一つだとノエは定めていた。
「……ノエ?」
「まだ、確証はないんですが。……もしかしたら、ランドンは僕の元に再び姿を見せるかもしれません」
「それは、どういうことだ」
先ほどの気さくな先達の声は消え、代わりに竜と長年相対してきた男の厳しさの混じった声が投げかけられる。
一体どこから話したものかと、ノエはしばし言葉を迷わせ、
「……ルーシャンさん。先に一つ尋ねさせてください。今まで、ドラゴン族が言葉のようなものを話しているのを聞いたことはありますか。あるいは、そういう経験をした人がいる、という話を聞いたことは?」
ノエの質問は、ルーシャンにとっては完全の予想の外からのものだったのだろう。彼はまるまる五秒は間をとって、何度も瞬きを繰り返した後、
「イシュガルドの建国神話の中では、ニーズヘッグが恨み言を口にするような場面があるのは知っているが……そのことを言っているんじゃないよな。竜が、俺たちの言葉を話すかどうかと、そういう意味で訊いているのか?」
「厳密には、少し違うと思います。僕があの時聞いたのは、明らかにただの咆哮とは異なる音の並びでした。それを伝って竜の意思が届いた……ランドンが僕に相対していたとき、僕はそう感じたんです」
ノエ自身、咆哮のせいで割れそうなほどに痛む頭を抱えながら聞いていたので、自分の聞いたものが必ずしも正しいかどうかとは言えなかった。故に、類似した事例がないかと尋ねてみたのだが、ルーシャンの反応は芳しくなかった。
「俺の知っている限りでは、そのような話は聞いたことがない。ただ、ドラゴン族とヒトが会話をする物語や芝居はあるわけだから、奴らが人語を理解して、何らかの意思疎通の手段を以て対話に臨む可能性はゼロではないだろう」
「……だったら、僕に伝わってきた言葉は幻聴ではなかった可能性は十分にあるんですね」
「まさか……お前は、ランドンの言葉を聞いたのか?」
ルーシャンの質問に、ノエはほんの少しだけ首を縦に動かした。
「それで、ランドンは見ず知らずのお前にいきなり何て言ったんだ。喧嘩でもふっかけてきたのか?」
「いえ、そういうわけでは。ただ……『どうして来なかったのか』と。それ以外は、僕の頭痛がひどかったせいもあって、まったく理解できませんでした」
受け手側のノエの肉体が限界を迎えていたのも原因の一つではあるが、ノエはランドンの側にも問題があったのではないかと感じていた。
ランドンが伝えようとしていた感情の断片は、ノエの頭に直接叩き込まれていた。しかし、それは言葉や意思とするにはあまりに曖昧なもので、とてもではないがヒトが処理し切れるものではなかった。
例えるならば、子供の癇癪をそのまま固めて流し込んだようなものであり、ノエの頭では彼が怒っているらしいことしか読み取れなかったのだ。
「それでも、彼は、何かに対してひどく憤慨しているのだとは分かりました。同時に……悲しんでいるようにも感じられたのです」
「……悲しんでいる?」
「あくまで、僕がそう感じたというだけです。ただ……もし、この感覚が間違っていないのなら、ランドンは自分が抱いている怒りや悲しみに対する回答を、僕が持っていると思って声をかけたのかもしれません」
しかも、それはただ行きずりの初対面の旅人に向ける感情とは大きく異なっていた。
まるで、旧知の友人に手ひどく裏切られたかのように、長い年月を積み重ねたがゆえに生まれるものとして感じられたのだ。
ノエが、自分の所感をそのように伝えると、ルーシャンは途端に厳しく眉を顰め、
「お前、以前にあの竜に会ったことがあるのか?」
「いえ、少なくとも僕の記憶の中ではありません。そもそも、ランドンは最近休眠期から目覚めたという話でしたから、僕がこの領地にいた頃に会う機会はなかったはずです」
ノエも、ランドンとの会話を振り返るたびに、己に邂逅の記憶がないか確かめてみた。しかし、どこをどう漁っても、ノエの中にランドンと出会った記憶は存在しなかった。
「理由はわかりませんが、ランドンは僕に対して何か問いたいことがあるようでした。ですから――」
「なあ、ノエ」
ノエが言い終わる前に、ルーシャンが言葉を挟む。
「その話、他の誰かに言ったか?」
いつになく真剣みを帯びた声音。普段のルーシャンからはかけ離れた厳しさの混じった問いかけに、ノエはすぐに首を横に振る。
ルーシャンは、どういう理由からか、小さく安堵に似た吐息を漏らすと、
「……絶対に言うなよ。お前、異端者だと思われるぞ」
「えっ」
思わず驚きの声をあげるノエ。ルーシャンは、周りへと視線をやってから彼へと近づき、声を潜め、
「竜の血を飲んでなくても、竜の声を聞き、話をした。そんなことを聞いたら、十中八九お前は竜の味方だって思われる。特に、ここみたいに竜と戦い続けている場所の連中なら、尚更だ」
ルーシャンの指摘を受けて、ノエは自分が客観的にどう見られる可能性があるかに改めて気がついた。
もし、ランドンと鼻先を突き合わせたあの瞬間を、他の誰かが近くで見ていたら。
もし、ノエがランドンに引き下がるように命じていた瞬間を、目撃していた者がいたら。
ノエは今ごろ、異端審問官の元に突き出されていたかもしれない。
「異端者っていうのは、別に竜の血を飲んで竜になった者に限った話じゃない。イシュガルド聖教の教えに出てくるような、竜と通じた魔女『シヴァ』のように、竜に味方した者は悉く異端者ってレッテルがつくんだ」
つい先日の襲撃の状況も相まって、ノエの中では異端者とは竜の血を飲んで竜に変異した者である、という印象が強まっていた。
ノエが幼い頃に異端者の嫌疑をかけられたのは、母が竜に変じたからと誤解されたからという事情もある。
けれども、ルーシャンの言うように、異端者は必ず竜血を飲んだ者とは限らない。
竜と交流をしようとした時点で異端者として、疑いを持たれる可能性は十分にある。
自分が危ない橋を渡っていたことに気付かされ、ノエは唇を噛む。自分は、いまだにイシュガルドという国に生きる者の考えを未だに十全に把握できていない。そのことに気がついたときに胸によぎった痛みを誤魔化すためだった。
「……では、ルーシャンさんは、そう思わないんですか」
「ん?」
「ルーシャンさんは、イシュガルドで育った人ですよね。僕の先ほどの話を聞いて、僕が異端者だとは考えないのですか」
ノエの質問に対して、ルーシャンは何度か素早く瞬きを繰り返す。まるで、指摘されるまでその可能性に気がついていなかったのように。
「ああ。まあ……たしかに、そういう風にも考えられるか。とはいえ、元々俺は、異端者だ竜だって話は、正直そこまで気にしちゃいないんだ」
ルーシャンはそこで一度言葉を押し留めると、一息を挟んでから、
「それに、実際にお前が竜の味方になっているってわけじゃないんだろ。お前は、別に竜の味方をしてイシュガルドの民を傷つけようとか考えちゃいない。違うか?」
「それは、もちろんです。ただ、僕自身に覚えはなかったとしても、ランドンは僕に対して何か話したいことがあるようでした。だから……奴は、きっと僕の前にまた姿を見せるでしょう」
先ほど言いかけて途中になってしまった言葉を、ノエは改めて形にする。竜の来訪の可能性を指摘されて、こちらは流石のルーシャンも眉を寄せてしかめ面を見せた。
「そのとき、僕はまたランドンと言葉を交わすかもしれません。その末に、相手が激昂して攻撃してくる可能性は否めません」
「つまり、運悪く接敵するのではなく、もう接敵することはほぼ避けられないと若人は考えているわけだ」
「はい。そして、僕のそばに皆さんがいれば巻き込まれる可能性は高いでしょう。そのリスクを知っているのに、それを伏せたまま『ついて来てほしい』と言うのは不誠実だと、僕はそう思うんです」
故に、ノエはこのことは後で皆に伝えるつもりでいた。最初にルーシャンに伝えることになったのは偶然の結果だったが、彼が最も同行に対して難色を示した相手と思えば、一番に伝えるのはむしろあるべき姿だったのではないか、とノエは思う。
対するルーシャンは、口元に手を当ててじっと考え込んでから、やおら大きく息を吐き出すと、
「……それでも、ついて行くよ。俺は、お前に」
ルーシャンは首をやや明後日の方角に向けると、ゆるゆるとかぶりを振ってから、
「そんな危険極まりない情報を得た上で、のこのことついていけるか……そう言いたいところなんだけどな。どんな状況であれ、竜のせいで困っている連中を放っておくような真似をするわけにはいかない。そういう事情が、こっちにもあったのを思い出したんだ」
「それは……僕としては、ありがたい限りなのですが。でも、良いのですか」
やりたいことがあるんじゃなかったのか、とノエは思わず口にする。自分の我儘に付き合ってもらうリスクが今まで以上に跳ね上がっているのに、その上でまだついて行くと言ってしまっていいのかと。
しかし、ルーシャンは再度首を横に振り、
「いいも悪いもないんだよ。これは、俺の意地だ。こればっかりはノエが何をどう言おうが、覆るもんじゃない」
残念ながら、ノエにはルーシャンの言う『意地』が何かはわからなかった。ただ、問うても教えてくれることもないだろう、ということだけは、ノエも直感で読み取っていた。
「……ありがとうございます、ルーシャンさん」
だから、ノエは自分が伝えられる精一杯のお礼の気持ちを込めて、頭を下げる。
「僕の旅路についてきてくれて。僕の話を……いつも真っ直ぐに聞いてくれて」
頭を上げたノエを迎えたのは、ただ静かにノエを見据えているルーシャンだった。
虚をつかれたのか、それとも日が翳ってきたせいで彼の表情が見えづらくなっただけなのか。不思議と、ノエには彼がたくさんの感情を全部押し殺した上で無表情を作っているように見えた。
「……そんな風に頭を下げられるようなこと、俺はした覚えはないんだけどな」
「いいんです。僕がお礼を言いたかっただけですから」
「そうかい。タダでくれるって言うんなら、ありがたく貰っておくさ」
ルーシャンは軽く手を上げ、踵を返す。ノエも今一度、墓地の石碑に祈りを捧げてから、彼の後を追った。
細雪の向こう側、小さく灯るのはノエたちが泊まる部屋だ。あの中にいるオランローやサルヒたちにも先ほどの話をしなければならない。そして、彼らがそれでもついていくと言ってくれるのなら――明日には目的地である山脈へと出立することとなる。
(……何事も起きずに、無事に街に戻れればいいんだけど)
そんなノエの小さな願いを笑うかの如く、ノエの耳の奥には竜の低い咆哮が今もこだましていた。
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