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桜木が怒って、流川は桜木が自分に文句を言うのを許せなかった。
きっかけは、おぼえていない。
くだらないことだったのだけおぼえていて、それにまた腹が立った。桜木の家に泊まる予定だったのに、家を出てきてしまったし、桜木が追いかけてくるかこないか知りたくなくて、自転車を飛ばしたから、どちらなのか本当にわからなくて、それはそれで苛立つばかりだったし。
――オレとハルコさん、溺れてたらどっちを助ける?
心理テストとか、そんなものだったかも知れない。
流川は「決まってんだろ。どあほうだ」と即座に答えた。
そうしたら桜木が、晴子を助けるべきだと主張した。女性だからとか、色々と並べ立てていたが、流川はその最初の理由だけで脳みそが沸騰しそうになっていたので、他の理由もおぼえていない。
どうして好きな奴を助けちゃいけねーんだ。とか、言い争いから取っ組み合いになって、結局、桜木の家を後にしたのだ。
まったく納得がいかなかった。
翌日昼、桜木を待っているらしい桜木の友人たちに遭遇して、流川は訊いた。
「どあほうが女に優しくて腹立つ。どあほうの好みの女ってどんなの」
おもしろい騒ぎに発展しそうだ、という期待の気配も隠さずに、水戸も混じって、あれこれ言い始めた。
優しい、まじめ、清楚系、遊んでなさそう、純情系、小柄、黒髪
……
途中で桜木が来たので、流川はふいとその場を離れたが、脳内で彼らの話を総合して、ひとつの結論を出す。
――オレだって純情系で、清楚系だろ。
黒髪だし、バスケにはまじめに取り組んでいるし、バスケひと筋で、遊んでいないし、桜木にはたまにアドバイスしてやっているし、くやしいが身長は桜木より低い。
廊下ですれ違った赤木晴子からの挨拶を、流川は故意に無視した。
無視した、というよりは、挨拶を返さなかった。
「あ、流川くん」
こちらに気づいて笑顔を向けてきた晴子を、足を止めてじっと見おろした。
桜木の友人たちは、桜木の好みについての説明を流川が飲みこめないでいると、代表例として赤木晴子の名前をあげた。
優しくて、小柄で、黒髪。
これが、桜木の好み。
たいていの女は桜木に比べたら身長も低いだろうと思うが、あらためて見ると小さい。
ダンクなんか、絶対できないだろうに、桜木はこういうのが好みらしい。
胃の奥がムカムカしてきて、空腹のせいだろうかと流川はみぞおちあたりを押さえた。
新マネージャーとして彩子に教わりながらよく動いているのは、流川も理解はしている。
けれど、桜木の好みだからと言って、マネージャーを桜木より優先して助けなければいけないなんて納得できない。桜木の好みである要素を備えているのにも納得がいかなかった。
「流川くん?」
凝視されている晴子が、無言の流川の様子を不思議がる。
流川は顔を赤くしている晴子から、視線を背けた。
「あの、どあほうが」
桜木への怒りを小さく呟いて、行く手を邪魔されたとでも言いたげに晴子をよけて、廊下を進む。
「桜木くん
……?」
晴子のかすかに震えた声は、流川の耳には届かなかった。
心理テストではトロッコ問題のような設問もあるが、現実世界では、誰かを助ける機会はそうそうない。しかし、皆無でもない。
それこそ、桜木の言っていたように溺れることはあり得るだろうけれど、同時にふたりなんて、船がひっくり返るような事態だ。
もし万一そんなことが起きたら、桜木を助けてしまえばいい。後で文句を言っても、事実は変えられないのだから。流川はそう思ってはいたが、それと、腹が立っているのは別だ。
放課後、流川はホームルームが長引いた。急いで部室に行って着替えたが、体育館に行くのがふだんより遅れた。
シャトルドア付近にいた晴子が、クリップボードを片手に振り向いた。
「遅かったね、流川くん。ストレッチはみんな終わっちゃったから、ひと
――」
「ひとりでやる」
晴子に見向きもせず、流川は体育館の端で黙々とストレッチを始めた。
晴子のことはもちろん、桜木も目に入れたくなかった。桜木が晴子に向ける笑顔が、自分に向けるのと違うことくらい、流川もわかっている。ふたりが同じ空間にいて、自分もいる今、それを見たくはなかった。
練習に加わってからも、無視するのではないが、メニューに差し支えなければ桜木を見向きもしなかった。
桜木が突っかかってこなければ、流川から話すことはない。ふたりケンカをして宮城に叱られるのとは異なる空気の悪さが生じていた。
流川の動きも、悪いわけではないがトゲトゲしく荒く無遠慮だ。
「ここんとこうまく連携でき始めたかも? って思ったら、なんなんだよ花道」
宮城が桜木の腹を肘で突つく。
「キツネのことなんて知らねーよ!」
桜木が低くうなるように宮城に応じ、宮城は片眉をはねあげた。
二度目の休憩が宣言される。もう中身がなくなったのか、晴子がウォータージャグを両手で提げて、補充に向かうのを、「ハルコさん、手伝いますよ!」と、桜木が追いかけた。
たっぷりとスポーツドリンクの入ったウォータージャグを桜木が運ぶ。チャプチャプと軽快な音がしているのが、会話の途絶えた道程をごまかしていた。
終始、暗い顔でうつむいている晴子を笑わせようとしたものの微笑まれてしまって以来、桜木も黙っている。
そろそろ体育館、というところで、桜木は口を開いた。
「ハルコさん
……なんか、」
キツネのヤローに言われたんですか? と、続けようとして、声が詰まった。
体育館入り口付近で流川と晴子が何か話していたのは、コートにいた桜木からもちらりとだが見えた。声は聞こえなかったが、仲良く話しているようにも見えなかった。
今日の晴子がいつもより元気がないように見えるのも、気がかりだった。
「困ってることあったら、力になりますよ!」
と、桜木が言ったのと、
「流川くん、お腹でも痛いのかしら!」
と、晴子が頭を抱えたのが、ほぼ同時だった。
晴子はすぐに頭から両手を外して、桜木を仰いだ。
「あ、ごめんなさい桜木くん、うまく聞き取れなくて」
「いや、たいしたことじゃねーっすから」
晴子の暗い表情が、流川の体調を案じていたものとなると、少々悔しい。心に湧いたもやを、さすがハルコさんお優しい! と、桜木はすり替えた。
「それより、ルカワが腹痛ぇって?」
「ううん、流川くんがそう言ったわけじゃなくて、私が思っただけなの。今日、調子が出ないみたいだし」
「そ、う、ですかね
……?」
宮城に小突かれたのを思い出して、桜木は目を泳がせた。
「そうよぅ。桜木くんのほうが、私よりわかるでしょ?」
「いやー、はは
……」
学年別に分かれての練習では、流川との連携はまったく取れなかった。最近では流川から桜木にパスを出す回数も増えたのに、今日はパスのタイミングがあったというのに、ゼロだった。
ただし、意図的な行動であって、調子が悪いというのとは違う。
「昼に会ったときも様子が変だったのよねぇ」
「昼っすか?」
「そうなの。廊下ですれ違って。流川くん、私のこと、じっと見てたんだけど何も言わなくて
……違うわ、」
晴子は言葉を途切らせた。
体育館までもうすぐだと言うのに、足が完全に止まっている。桜木もウォータージャグを片腕に抱えたまま、晴子の隣で立ち尽くす。
「あのどあほうがって言ってたのよね、たぶん、桜木くんのことだと思うんだけど」
なんで私の顔見て桜木くんの名前を? と、晴子が首をひねっている。
桜木は、イヤな感じに思い当たる節があり、首すじを伝う汗が冷たかった。
「もしかして、」
「ハイ!」
桜木の声が裏返った。
「ふたりして、傷んだもの食べちゃったの?」
桜木からもらったもので、流川が腹を壊した。という解釈が、晴子の中で成立したらしい。
「あー
……食ってないです
……」
晴子がしょげた。推理に自信があったようだ。
「じゃあ、なんで?」
流川の様子と昼の出来事が、確実につながっているわけでもないのに、晴子は点と点を結ぶ線を探している。
桜木は、線のつなげかたに心当たりがある。
「たぶん、オレが
――」
言いかけたところで、体育館のドアから桑田が顔を出した。
「もう休憩終わっちゃうよー!」
「ごめんなさいー!」
急かされて、ふたりは体育館へ急いだ。
流川の取っつきにくさはあったものの、部活はとりたててトラブルもなく終わった。
居残り練習する気になれず、桜木は早々に体育館を後にする。ドアをくぐる前に振り返れば、流川はひとりリングに向きあっていた。流川をひとり残したくなかったのか、宮城と安田も残るようだった。
部になじみ始めてきた新一年生と、上級生で連れ立って昇降口を出ると、ちょうど晴子と彩子も出てきたところだった。
電車組がなんとなく数名ずうに固まって駅に向かう。桜木が頭をめぐらせると、目のあった晴子が隣に来てくれた。
「今日もみんながんばったねえ」
宮城の練習メニューは、一年生がついて来られるよう配慮はされていたが、終わりごろには根をあげるものも多い。さいわいにも、まだ退部者は出ていなかった。
晴子に相槌を打ちながらも、桜木は
晴子と歩む速度をうまくそろえられないでいた。晴子にあわせたいのに、早すぎたり遅すぎたりする。
ふと気づけば、他の人々から遅れ、晴子が二歩先で待ってくれていた。
「桜木くん」
「は。はい!」
晴子の二歩は桜木の一歩だ。パッと距離を詰めると、晴子は首を傾げるように笑った。
「何か引っかかってること、あるの?」
桜木は晴子の笑顔に、ほとんど見とれるようだった。
やさしくて、笑顔がかわいくて、人への接し方があたたかい。こんなにすてきな人はそうそういない。誰もが晴子を好きになって当然だと思ってしまう。小さくて、守ってあげたくなる。
もし、こんなにすてきな女性が溺れていたなら、助けてあげるべきなのだ。
それなのに、流川は、そうは思わなかった。
ハルコさんのすてきさがわからないなんて、キツネのヤローは見る目がねーな! と言いたいところだが、言えはしない。
流川は、興味のあるものにしか興味がないのを、桜木はよく知っている。流川の興味、好意が向いている方向も、知っている。
でも、好意云々とは別で、やっぱり、自分より小さくて弱い女性が溺れていたら、そちらを助けるべきなんだと桜木は思う。人として。というやつだ。
桜木は小学校高学年のときにはもう同年齢の子供より身長が大きかった。小さいころから活発な子供ではあったけれど、体格のよさが加わると、ちょっとしたケンカでも桜木が相手にケガをさせる心配が増した。
幼いころから、父親によく言い聞かせられていた。
――女の子は花道より力も弱いし、ケガもしやすい。女の子には絶対に手をあげちゃいけない。女の子だけじゃない、花道より年上の女性でも、女性には親切にていねいにするんだよ。
そう言い聞かせられていたために、幼い日の桜木は母親のナイト気取りで、レディファーストを幼いなりに実践していたし、成長後も女性は壊れやすいものだと思って丁寧に接していた。
その反動のように、敵意を向けてくる男子生徒相手には容赦しなかったが、女子生徒相手に、ケガをさせただのなんだのという問題は起こさなかった。
父親の教育のおかげで、桜木の思考回路からすると、自分とハルコさんが溺れていたら、当然、ハルコさんを助けるべきで、そうしないキツネはおかしーだろ。という結論になる。
それが、ずっと引っかかっていた。
「ハルコさん、あの
……」
晴子は学生鞄を後ろ手に、なあに、と小首をかしげている。かしげたその首の細さも、桜木は自分の手が回ってしまいそうに細く思えて、折れてしまわないのかとたまに心配になる。
「その、たとえば、オレと
――」
ハルコさんが溺れていたとして、と言いかけて、桜木は慌てて口をつぐんだ。自分が助ける対象として選ばれなかった話など、晴子に聞かせたくはない。かといって、言い換えの例も浮かばない。桜木は頭をひねってひねって、どうにか、抽象的と思える例をひねり出した。
「たとえば、ええと、女の人と男の人がいて、助けを求めていて。ハルコさんは女の人を助けたいとして。他のヤツは、男を助けたいとします。でも、どう考えたって、女の人を助けるべきじゃないっすか。女の人のほうが力もねーし、ケガしやすいし」
あまり具体的な状況から遠ざかれてはいない説明だったが晴子はまじめに考え始めてくれた。
「そうねえ。女の人のほうを助けてあげたいけど、それって、自分の力で助かる確率が低そうだからだと思うわ。でも、たとえば、たとえばの話よ、女の人が知らない人で、男の人がお父さんだったら悩んじゃうと思うわ」
桜木は、お兄ちゃんじゃなくてお父さんなのは、ゴリなら自分で助かりそうだもんなと、勝手に納得した。
「だから、男の人を助けたいって言った人にも、助けたい理由があるんじゃないかしら」
前提などないも同然の質問に前提をひとりで想定してくれた晴子の優しさに、桜木はやわらかいもので頬を撫でられたような気持ちがした。
「桜木くんは、それで流川くんとケンカしてるの?」
「え!? あ、なんでそこでキツネのやろうが!?」
「ふふ、なんとなくよう。ふたりのこといっつも見てるからなんとなく、ね」
晴子はカマをかけるようなタイプではないから、本当になんとなくで察したのだろうと桜木は小さく唸った。桜木の悩みの種類で、晴子に想像がつくものなど片手で数えられるほどしかないのだが、晴子の勘に、尊敬の念を抱いてしまう。
「訊いてみたらどう? 流川くん、あまり人と話さないけど、桜木くんと一緒のときはいつもより話してるし。行き違いでケンカしちゃうなら、もっとたくさん話したらいいんじゃないかしら」
これも、いっつも見てるから。ということなんだろう。桜木は晴子をあらためて、すばらしいと思う。
コートにいる流川のことは、彼の技を盗む目的でよく見ていた。桜木がリハビリを経ての復帰後、基礎練習から再開で、皆と同じメニューへの参加はできなかったし、基礎練習でさえ時間を制限されていた。だから、IH前よりも、流川を見る時間は増えた。
コートにいない流川のことは、まだ、少しずつ知っていっている最中だ。まして、流川がひとりのときか、自分以外の誰かといるときの様子はわかるが、自分と一緒のときに外からどう見えるのかは桜木にはわからない。
たしかに、口数は以前より増えた気はするし、口を開けばケンカになっていたのが、まともに会話が続く回数も増えた。
けれども、いざつきあい始めて、もっと相手を知りたいと思ってもどうしたらいいのかわからなかった。流川との間にはバスケがあって、バスケがあればどこまででも通じあえる気がして、コートにいるときは言葉なんていらないと思うのに、バスケを離れると、たしかだったものの手ざわりがあやふやになる。
あやふなやものに形を与えたかった。水戸ら友人たちとは一緒に過ごすうちに互いを知ったし、宮城とは出会いの悪さから一転してフラレ仲間としての自己開示から始まったし、三井とも、彼の起こした襲撃事件があったというのに、いつの間にかふざけあうようになった。
みんな、いつの間にか、なのに、流川とはそのいつの間にかが、ちょっと違う。
出会いは流血沙汰で、最悪にしたのは桜木だし、その後も、晴子の好きな相手だという憎さやスカした態度が気に食わなくて、一方的に嫌って、結果、ケンカばかりしていた。
それだのに、いつの間にか、友人という枠で仲よくなるのではなくて、恋人という枠に収まってしまった。
どうしてそうなったのか、今さら考えてもムダで。けれども、今まで告白してフラレてきた五十人の女性たち、桜木よりも力が弱くて、いざというときには守ってあげなければいけない存在への恋心と、本気でぶん殴っても倒れない流川への恋心は色も形も違うようで、戸惑っている。
あいつの考えてることわかんねー、と屋上で友人たちにボヤいていたら、大楠がポケットから薄っぺらい本を一冊取り出したのだ。
こーいうの、やってみたら? と、差し出されたのは、タイトルもそのままズバリの『恋愛心理テスト、彼のことがわかっちゃう五十の質問』という本だった。
なんでてめーがこんなもん持ってんだよ、とひとしきり騒ぎになり。こういうの知ってると、クラスの女子と話すキッカケになんだよ! と、大楠がわめき返して。一同雁首揃えて、やたらに文字の大きい本へ熱い視線を注いだのだった。
「流川のことがわかるかどうかは別として、キッカケにはなるんじゃない?」という、しごく真っ当な水戸の判断により、桜木が本を借りて帰ることになり、流川に件の質問を投げかけたのだった。
桜木が読みあげた一問目は、恋人と、質問者がひそかにライバルだと思っている相手がともに窮地に陥っていたとき、どちらを助けるのかという質問だった。
水戸に言わせれば、ここで恋人を選ばなかったらその時点でダメでしょ、何この本。というあからさまさだったのだが、女性にはていねいに接するべき、という桜木の信念と真っ向から対立してしまい、心理テストの回答ページは出番がない始末だった。
あのとき、流川はためらいなく桜木を選んだ。
そのことに胸ときめくよりも先に、桜木は流川をなじってしまい、あとはお決まりのケンカになだれ込んだので、流川の言い分を聞く余裕はなかった。
話したくて、何を考えているのか知りたかったのが、始まりなのに。
そんな経緯なんて何も知らないのに晴子のアドバイスは的確で、桜木は、自分のすべきことが明確になる。
「さすがハルコさん! お目が高い!」
お目が高い、はちょっと違うんじゃないかと晴子はまばたきしたが、入学早々に桜木に声をかけたのは快挙だと思っている。そういう意味ではそのとおり、ということで、桜木の勘違いは訂正されなかった。
「うふふ、照れちゃう。がんばってね桜木くん」
背中をパシンと叩かれて、当たった手のひらの面積の小ささに、桜木はぎゅっと胸をつかまれた。心理テストの質問への回答は絶対に自分が正しいと再認識するが、女性の味方である天才は流川の言い分も聞いてやる心の広さを持ちあわせているのだ。
翌日、部活後に居残りをしたのは流川と桜木だけだった。
流川はあいかわらず不機嫌で、桜木のことを見向きもしない。そんなに引きずんなくたってと桜木は身勝手に思うが、そんなに引きずるほど流川が腹を立てているのがめずらしい。
練習の時間を終えて床のモップ掛けに移ったとき、桜木はためらいそうになるのを頭を思い切り左右へ振って振り払い、流川の前に立ちはだかった。
「ジャマ」
すげなく言われても、ついに無視しきれなくなったかと笑いそうになってしまったのを桜木はグッとこらえた。
「おいキツネ、今日オレん家寄ってけ」
「
……なんで」
ジャマと言ったときには顔もあげなかったくせに、流川はうろんげに目を眇めて桜木を見やってきた。さすがに家へのお誘いは、イヤだのひと言で切り捨てられなかったようだ。
「なんでだっていいだろ。来んのか来ねーのか、どっちだよ」
「いーけど」
流川はぶすっと言い捨てた。その割には、先ほどまでよりモップ掛けの速度が速くて、桜木は、少々いたたまれなくなった。
こいつも、意地はってただけなんか? と、思えてしまって。
真実はわからないけれども、桜木も大急ぎで体育館の半面にモップをかけた。体育館をあとから出たほうが、鍵を返しに行く役目になっている。
桜木が声をかけるのをためらってしまっていた時間の分、流川のほうが先に始めていたから、流川が先に掃除を終えるかと思っていた。
だが、流川の分担面積が残りわずかになると、床にしつこい汚れでもみつけたらしく、同じ箇処をモップでゴシゴシやり始めたので、桜木が先にかけ終わった。
「鍵はおめーな!」
桜木が高らかに宣言すると、流川はハッと顔をあげて桜木を見て、すぐに目を逸らした。一瞬前までしつこくモップ掛けしていたのに、忘れたように急いで残りをかける。流川が用具室にモップを片づけている間に、桜木は流川がやけに熱心にモップ掛けしていた箇処を見に行ってしまったが、目立つ汚れなどなくて首をひねった。
家に寄っていけと言ったものの仲直りをしたわけではなく、無言のままで着替えて無言のままで部室の鍵をかけ、無言のままで廊下の途中でわかれ、桜木は昇降口へ、流川は職員室へ鍵を返しに行った。
さっさと靴を履き替えて、桜木が昇降口を出たところで待っていると、予想より早く流川が昇降口に来た。
靴音に桜木が振り返ると、桜木の姿を目にした流川の唇は詰めていた息を吐くようにほどけ、目も少し見開かれた。夜になっていて下駄箱のあたりは薄暗いのに、流川の長いまつげのおかげで彼の目の動きはよく見えた。
一瞬、目があったが、流川はすぐに目を逸らして、靴を履き替えに行ってしまった。
流川が外へ出てくるまでのわずかな間、桜木は星の少ない夜空を仰いでいた。昇降口へ来た流川の目は何かを探し求めているようで、何かと言ったら桜木以外の何ものでもない。
桜木を見つけた瞬間の、緊張が一気に解けたような流川の様子に桜木は胸が苦しくなってしまって、口端を下げて一心に空を睨んでいた。
流川が自転車を取ってくるのを待って桜木が歩きだすと、流川は自転車を押してついてきた。いつもみたいに乗れとも言わないし、並んでも来ない。
流川がいるのに隣にいないのは落ちつかなくて、桜木はわざとゆっくり歩いてみたがそうすると流川も対抗して遅くなる。らちが明かなくて、桜木は回れ右して足音荒く戻り、流川の隣に並んだ。
少し肩を引いた流川の様子が気に食わなくて、桜木は足をあげて流川の腿をかるく蹴る。自転車を押している流川は反撃しにくいようだったが桜木を蹴りかえしてきた。桜木は反撃せず、なんとなくそれで痛み分けになった。
もう数分も歩けば桜木の家につくころ、桜木は夜空を仰いで流川に訊ねた。
「この間の。オレとハルコさん溺れてたらどっちを助けるかっつうの。てめーの理由聞いてなかったから、聞いてやる」
聞いてやる、だなんて。
自分の口から出た言葉に桜木は顔をしかめた。上を見ていたから、流川には顔が見えなくてよかったと思う。
こんなとき晴子みたいにやさしく訊ねてやれたらいいのに、どうしたらそんなことができるのかわからない。ハルコさんはやっぱりすごい、と心の中で褒めたたえた。
さいわいにも流川は桜木の言いように機嫌を損ねた様子はなかった。ただおもしろくなさそうに、あのときの憤りがよみがえってくるのをどうしたらいいのか持てあますように、「てめーが」と言ったあと、ずいぶんと黙っていた。
あの角を曲がったらもう家が見えてしまうと桜木が落ちつかなくなるころ、流川はようやく口を開いた。
「好きなヤツを選ぶの、当たりまえだろ」
声には怒りの名残がまだあって、流川の説明も言葉が充分に足りたとは思えなかったけれども、桜木は足が進まなくなってしまった。
数歩先に進んだ流川が、止まってしまった桜木を振り返る。
桜木は口をへの字に曲げて、流川を睨んでいた。肩越しに振り向いていた流川が目を瞠って、そのまま流川も動けなくなる。
どれくらい黙って、桜木は睨んで、流川はただただ驚いていたのか、視線を先に逸らしたのは桜木だった。
桜木は月のない夜空を仰ぎ、目尻が切れそうなほどに目を見開いた。
晴子の声が脳裏によみがえる。
――助けたい理由があるんじゃないかしら。
理由っていうほどの理由じゃありませんでしたハルコさん。そう、頭の中で応える。桜木が、自分より弱い女性を助けるのを当たり前だと思っているように、流川の中では好きな相手を優先するのが当たり前で、選択肢のもうひとりが女性でも男性でも関係なくて、流川の中での優先順位の問題だった。
もし溺れているのが晴子と石井だったら、もしかしたら、流川は晴子を助けるかもしれない。けれど、そんなことを確認するのは意味がなかった。
流川の中で、当たり前に自分は特別なのだ。
胸に差し込んできた痛みに、桜木はつよく歯を食いしばったあと、流川を見据えた。
「オレは泳げるし、てめーの力なんて借りなくたってひとりで助かるし、ハルコさんを助けてほしい。もしてめーとハルコさんが溺れてたら、オレはハルコさんを助ける」
桜木を怪訝がっていた流川の気配が一気に剣呑になったが、桜木は気にしてやらずに続ける。
「けどっ
……」
息がつかえたが、桜木は流川から視線を逸らさずに、短い息継ぎのあと続けた。
「てめーが、そう思ってくれてんの
……すげー、嬉しい」
ハルコさんはすげーな、と桜木は何度目かもわからずに思う。
思っていることを言葉にするのはとても難しくて、女性を大事にしない流川に腹は立つし、本当は喜んじゃいけないんだと思うのに嬉しくてたまらないしで、胸の中はぐしゃぐしゃだ。流川を睨む目に力はこもっているけれども頬は熱くなってしまって、唇は力なく震えそうだ。
流川は半身を引いて桜木を振り返っていたが、聞えよがしの大きなため息をついた。
「どあほう。てめー、ほんと、どあほう」
「なっ、」
桜木の反論なんか知ったことかと流川はさっさと歩き始めてしまって、桜木は急いであとを追いかける。
当初の計画では、大楠から借りた心理テストの本の解説ページを読みながら流川の理由を訊ねるつもりだったけれども、家までなんて待てなかった。
あと一歩で追いつく流川の背中は機嫌がよくて、たかが背中なのにここ数日見せられていたのとはまったく違っている。
流川のことはこれからもわからないことは多いだろうが、機嫌ぐらいはわかるようになってしまった。
あの心理テストの本はもう大楠に返してしまうつもりで、桜木は流川に並び、上機嫌の背中を手のひらで大きく叩いて追いこした。
ひと言いただけるようでしたら、こちらへ
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