Ykanokawa
2024-08-03 16:42:41
10512文字
Public クリテメ
 

【オクトラⅡクリテメ】雨の朝、窓辺にて

・pixiv掲載「翠色のゆりかご」
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=22368812
・こぼれ話その1(本編を読了済みでないと不明な設定があります)
・捏造3章およびロンドウェル家の懐がとてもでかい
・オシュちゃの薬師衣装が好きすぎる書き手の癖
以上を承知の方のみお通りください。自衛ご注意。

 霧雨の降る朝、クリックは胸元が軋むような痛みで目を覚ました。手指の先と足先が冷えて感覚が薄い。少々痺れているようだ。晴れの日なら瞼を閉じていても突き刺してくる日の光が、今は薄ぼんやりとしている。
 朝に咲く花は身を護るように固く花びらを閉ざし、鮮やかなはずの新緑はけぶり霞んで見える。別に悪いことではない。このところ晴れの日が続いていたから、田畑や花木には恵みの雨だろう。ただ、雨が連れて来る湿気はどうにも傷が残る身体によくないというだけだ。
 どことなく重たい頭を上げ、つとめてゆっくりと息を吐きながら伸びをする。丁寧に両手を開き、指の一本一本を意識して閉じる。同じようにまた開く。何度も繰り返すうちに段々と血が通って冷えも痺れも引いていく。肩を解すように回し、次に身体を左右に捻る。動くようになった手を使って、掛布の下の膝を持ち上げ、片方ずつ折っては伸ばすを繰り返す。最後に凝り固まった足首をそうっと数度、回転させてようやく全身が言うことを聞くようになる。
 クリックの両手両足はなくなっていてもおかしくなかった、と診察した薬師は言った。吹雪の夜に投げ出された身体は、当然、末端から凍えていく。冷えて、冷えて、凍傷を負い、尚も深刻になると壊死してしまえば切り落とすしかなくなるのだ、と。
 以前のクリックならば主に感謝を捧げて祈っていただろう。いや、まあ、今も間接的に考えれば祈るべきなのかもしれないが、それよりも優先すべき朝の仕事がある。
 ベッドの脇に寄せていた車椅子の肘当てに手をつき、これまたゆっくりと立ち上がる。ぎぃ、と車椅子の駆動輪が擦れて音が鳴る。今のクリックに与えられた、実に画期的で高価な移動手段なのだが、どう頑張っても音を立ててしまうのが難点だ。
 ――歩けるようにはなってきたけど。
 本当はもう杖があれば歩行できるのだが、こうした雨の日は無理をしないと約束をしている。
 車椅子のシートに身を沈める。クリックの体重を預けられ、ぎぃ、と一際大きな音が鳴った。足置きの上で二度、三度、再び足首を回してから手漕ぎ用のハンドリムを握った。
 雨の邸宅にぎぃ、ぎぃ、とクリックの歩く音が響く。
 人里から離れたウェルグローブの森道の奥の奥。隠れるように建てられた2階建ての小さな屋敷。窓には透明度の高い硝子を惜しみなく使い、庭園には蔓薔薇のアーチを抱き、それでいて高い石造りの塀に守られた小屋敷。個人の邸宅としては贅沢過ぎる。が、持ち主があの西大陸に名を馳せる大貴族ロンドウェル家のものだと聞くと途端に質素に感じられる。そんな屋敷が今のクリックたち・・の隠れ家だった。
 持て余している別邸を管理している老夫婦が、旅行に行きたいと言うものだから。それがクリックたちに与えられた建前だ。最初、この屋敷に連れて来られたクリックは震えあがったものだ。貴族にそこまでの大恩を拵えてしまって、この先どうすれば生きていけるだろう。そんなことを真剣に考えた。
 考えて、自分に生きていく意思があるのだと今さらながらに自覚したのだ。
 補助がなければ歩けない、手指は痺れて剣を握るどころかナイフとフォークを扱うにも苦労する、身体には醜い傷痕が刻まれてしまった。そんな身体になっても、クリックは当たり前に生きることを選択していた。それはきっと、生きることを望まれたのだと、嫌が応にも理解させられたせいだ。
 重たいハンドリムを動かして自室の外に出る。空腹を刺激するいい匂いが漂っていた。
 無垢材の床に上質な絹の絨毯。その上に車椅子の車輪を滑らせるという所業には未だに馴れない。〝彼〟の仲間の一人である獣人の少女曰く、でっかい家の方はもっときんきらしてたから大丈夫!とのことだが何も安心できなかった。
「おはよー、クリック!」
 思い返していたら、当の本人である少女が廊下の向こうから駆けてきた。薬師の正装だという青を基調にした服にエプロンを掛け、がらがらとワゴンを転がしている。それはもう豪快な音を立てて。思わず絨毯の毛羽立ちを気にしてしまう自分は、割と神経質で小心者なのかもしれない。
「おはようございます、オーシュットさん」
「えーと、よくねむれたかしら?」
 彼女がよくよく慕う〝おふくろ〟の真似だろうか。腕を組んで、頬に手を当てて、口元に笑みを浮かべている。嫋やかな薬師の笑みとチャーミングな彼女の笑みでは魅力の種類が違うのでややアンバランスなことになってはいたが、微笑ましさについ目尻が下がった。
「今日もトト・ハハにアヤシイ船はいないみたいだよ」
「そう……ですか。ありがとうございます」
 トト・ハハに聖堂機関の船が現れないか。今のクリックにとっての懸念事項だ。あの夜、血を失い、朦朧としながらもクリックは己の上官たちの、いや、黒幕たちの会話を耳にした。聞き取れたのはほとんど単語のみではあったが、それは確かに黒幕である彼女が――カルディナが次にどう動くのかを示唆していた。
 トト・ハハ。案内人。裂け岩。暗黒。
 何を指すのか。クリックとテメノスが追っていた書とどんな関係があるのか。すべてを繋ぎ合わせることはできなかったが、ともかくカルディナの目的はクリックが見知らぬ南国の島にあるらしい。それを打ち明けたときにトト・ハハのことなら任せて、と手を挙げてくれたのがこの少女だった。
 トト・ハハに何かがあれば、風と鳥が彼女のもとまで異変を伝えてくれるらしい。理論も理屈も不明であるが、だからこそカルディナの方にこの情報網が気取られることはないだろう。
 ――機関長が行動を起こす前に、もうちょっと身体が動けるようになればいいんだけど。
 焦る気持ちはある。しかし、この身体で彼女に立ち向かおうなどと、それこそ無謀だ。それをクリックは身に染みてわかっている。今、大事なのは、眠ること、身体を適度に動かすこと、そして食べること。
 クリックはオーシュットが運んできてくれたワゴンに目を遣った。二人分の朝食が美味そうに湯気を立てている。香草入りのソーセージ、トマトとマッシュルームのオムレツ、アスパラガスのポタージュ。ライ麦のパンに添えられているのは見た目も鮮やかな木いちごのジャムだ。ティーポットからはほのかに甘い紅茶の香りがした。味は言うまでもなく、しっかり栄養面まで考えられている献立に感謝した。
「ソーセージ食べるかなぁ」
「食べさせますから大丈夫です」
「クリックのあんちゃん、なんかおふくろみたい」
「あの人の母親は勘弁かな……
 オーシュットはワゴンを押して、クリックは車椅子のハンドリムを回して。
 ぎぃ、ぎぃ、がらがら、ぎぃ、ぎぃ、がらがら。瀟洒な邸宅には到底、不似合いな朝なのだけれど、これがこのところの彼らの朝なので仕方がない。
 喧しい音を立てて、二人はひとつのドアの前で止まった。オーシュットはワゴンの向きを変え、クリックが押しやすいように車椅子に近づけると手を離す。そしてにんまりと彼女らしい笑みを口元に広げた。
「じゃ、あとはわかいふたりでね!」
 ドアの向こうにいる人は自分たちより年上だとか、そういう言い方はどこで学んだのだろうだとか。いろいろ言うべきことは浮かんだが飲み込んだ。特に後者は容疑者が多すぎて絞り切れない気がした。クリックの私感を交えるなら、この部屋の主が最有力容疑者だ。
 彼女の足音が聞こえなくなってから、クリックは飴色が美しい無垢材のドアに向き直った。真鍮のドアノッカーを緊張気味に鳴らす。
 返ってくる声はない。これもまたこのところの朝の日課なので、クリックは大して気にも留めずにドアを押した。鍵はかかっておらず、すんなり開いて静かな朝の一室がクリックを出迎えた。
 透明度の高い硝子が使われた大きな窓。晴れた真昼には眩しいほどの陽光が降り注ぎ、夜には中天に輝く月と星を拝むことができる。雨の日だって新緑を誇る木々と遠くに色づく花々が笑っているかのように見えて賑やかだ。そんな立派な窓の脇に誂えられた立派なベッドの住人は、とても静かに寝息を立てていた。
 元から細いのに眠っていた時間が長いせいでまた痩せてしまったように感じる。肌の色だって白を通り越して青白く、血色がいいとは言い難い。フリーサイズのガウンは袖も幅も余ってしまっていて、小動物が白い布地に埋もれているように見える。
 小さな眉間に皺が寄っていないので、今日は悪い夢は見ていないらしい。いいことだ。いくら眠りが深かろうと悪い夢ばかりでは寝た気がしない。身を持って知っている。
 クリックの足音がこんなにも、ぎぃ、ぎぃ、と五月蠅いのに瞼が開く気配はない。温かい朝食を用意してくれた薬師は身体が休息を求めているのだろうと言っていた。
 ガウンに包まれた肩に手を伸ばそうとすると、今でも指が震える。その瞼が二度と開かなかったら。そんな不安が脳裏に付き纏って離れない。触れる前に大きく深呼吸をする。それでも、クリックは彼を信じている。最後には正しいものを、真実を手にできる人だ。だから、この目は開かれた。鮮やかな翡翠の宝玉は失われなかったのだ。
 クリックの声で、クリックの手で、彼の瞼は朝に開く。
「テメノスさん」
 ごく軽く揺さぶりながら、声を降らせる。もっと力を入れても私は壊れませんよ、と心外そうに文句を頂戴したことは記憶に新しい。が、他ならないクリックがそうしたいのだから仕方がない。
「テメノスさん」
 二回、名前を口にしたところで銀糸の睫毛がふるりと微動した。一度だけ端整で涼しげな眉が顰められ、薄い唇から小さく呻く声がする。枕を抱き込もうとする腕をやんわりと止めて背中へ手を回した。すぐに指が背骨に当たるから心配になる。やっぱりソーセージは食べてもらわないと。
「テメノスさん、朝です。起きてください」
 どうか起きて。その声が聞こえたのかは定かでないが、白い瞼に力が入った。そうっと開かれた睫毛の合間から澄んだ翡翠の瞳が覗く。曇天故に薄ぼんやりした部屋の中で、一等星のように美しく輝くクリックの炎だ。
 二、三度、瞬きをしてようやく焦点を結んだ瞳がゆるりとクリックを見て眦を下げた。どくりと身体の中央が脈打ったことには見ない振りをする。駄目だ。駄目だろう。駄目に決まっている。
 クリックがこっそり深呼吸をしている間に彼の人はベッドの上に半身を起こしていた。窓の外の雨を見遣り、気怠そうにぐっと天へ伸びをする。ぱき、とどこかから軽い音が鳴った。思わず顔をしかめる。
……やはり運動不足では」
「五月蠅いですよ」
 くあ、と大あくびをする仕草はどこからどう見ても男らしい。線の細い顔立ちと儚げにも見える色素の薄い外見が相まって、中性的に感じられる人だが確かに男性なのだ。口に添えられた指は筋張っているし、節くれだっている。喉元を見れば当然のように喉仏が上下している。
 そもそも振る舞いからして女性と見間違えるなんてないだろう。特別であるはずの断罪の杖を肩に担ぐこともあるし、胡坐だって普通に掻く。靴の脱ぎ方だって結構、雑だ。
 ――なんだけど、なぁ。
 なのだけれど、どうしても自分の手はその背を支えるべく伸ばしたままで。彼が嫌がる素振りを見せないことに安堵している。
 アスパラガスのふんわりとした優しい匂いを嗅いで、彼は、テメノスは今度こそちゃんと目を覚ましたらしい。口元を綻ばせた人の白い指先が、クリックの頬に触れた。その所作がクリックの体温を確かめているのだと知ってしまっているから、振り解くことも出来やしない。せめて目元や頬が赤くなっていなければいいのだが。
 ほう、と息を吐いた唇が雨音の部屋の中で凛と音を紡ぐ。
「おはよう、クリック君」
「おはようございます、テメノスさん」
 その声を聞くことが今のクリックに課せられた朝の仕事だ。


 東大陸と西大陸の凡そでクリックとテメノスは行方不明者となっているらしい。
 聖火教会と聖堂機関は一時的に腹の探り合いをやめ、ひとりの要人と前途有望な新人騎士の無事を願い、行方を全力で追っている。そういう建前である。聖堂機関を信じたかったクリックではあるが、さすがにその建前を額面通りに受け取れるほど無知ではいられなかった。
 黒幕の仮面を剝がされたカルディナが、今さら和解や話し合いのためにクリックを捜すはずはない。行方不明者の捜索という名の指名手配であることはすぐに察せた。もっとも、クリックに関して言えば生きているとバレているのか、それとも遺体を確認したいのか。そこまで推し量ることは出来なかったが。
 二人の情報が大陸に出回る前に、テメノスの仲間と縁があるという西の大貴族を頼れたのは本当に運がいいとしか言いようがない。テメノスの仲間である彼らが全面的に二人の味方をしてくれたこともだ。下手をすれば二人を拐かした犯人と糾弾される可能性もゼロではないというのに。本当に〝仲間〟と呼ぶに相応しく、一生かけても返せない恩が生まれてしまった。
「では、カルディナはまだトト・ハハには現れていないのですね」
「そのようです」
「ふむ……
 テメノスはベッドに掛けたまま設置されたサイドテーブルで朝食を摂る。彼の場合、足を負傷しているわけではないので歩けないわけではないのだが、お互いに雨の日は楽に過ごすように決めたのだ。
 かちん、と置かれたスプーンがスープ皿に擦れて音を立てる。そのまま思考に沈んでいきそうなテメノスの手首を掴んだ。
「朝食を片付けてください。でないと、僕キャスティさんに怒られます」
……それは大事件です」
 いつも穏やかに笑んでいる薬師の雷がどれだけ恐ろしいか、クリックはこの屋敷に身を隠すようになってから何度となく味わった。思い出す度、背筋が震える。クリックがそうなのだから共に旅をしていたテメノスだって骨身に染みているはずだ。一度、微かに身を震わせたテメノスが再びポタージュを掬ったので、クリックは胸を撫で下ろした。
 考えなければいけないことが山積している。それはクリックにもよくわかる。
 クリックとて傷の痛みが幾分か和らぎ、熱も出なくなった頃に随分と考えた。こうしている間にまた誰か犠牲者が生まれたら。カルディナやクバリーが彼の南国の島で何か不穏な真似をしたら。聖堂機関は。聖火教会は。
 上級聖堂騎士としてカルディナと共にいるはずの親友は大丈夫だろうか。親友はああ見えて熱いところがある。彼は今もカルディナに傅きながら、真摯にクリックの行方を追ってくれているだろう。
 無事を伝えた方がいいだろうか、と問答して即座にその思考を打ち捨てた。彼だけに無事を伝える方法はなくもない。考えればいくつかは出てくると思う。しかし、それがもし万が一、カルディナやクバリーの知るところとなってしまったら。もし、クリックに向けられたあの凶刃が親友にも振るわれることになってしまったら。
 顔を隠した刺客としてカルディナと相対したクリックと違い、親友はカルディナを心から信じ傍に仕えているのだ。不意を打たれたらと思うと、嫌な想像ばかりが浮かぶ。
 下手な真似をして親友の身を危険に曝すよりは、後で力一杯、殴られた方がマシだ。
 ――それまで無事でいてくれよ。
 その拳を受け止めるためにも、資本になるのは五体満足な身体だ。行き着くのはやっぱり、眠ること、身体を適度に動かすこと、そして食べること。
「テメノスさん?」
 丸のまま残っていたソーセージを彼の方へ転がす。不満げにフォークで突いている。こちらに転がり返された。仕方なくせめてとナイフで三等分に切る。さらに転がそうとしてふと思いついた。
「テメノスさん」
 等分されたソーセージにフォークを翳し、晴れやかに笑ってみせた。
「自分で召し上がるのと食べさせられるのとどちらがお好みで?」
 ちなみにかなり恥ずかしいですよ?
 薄い唇の端がひくりと動いた。さっと視線が逸れる。そうしてから目の端でじっとりと睨まれた。意趣返しであることが伝わったらしい。
 長く見ていた夢の中。不自由で小さな体躯しか与えられなかったクリックに、先に食事を手ずから差し出してきたのは彼の方である。確かに地面に置かれた器から犬食いという行為には抵抗があった。あったし、そうさせるのも気が引けたからテメノスはああしたのだろう。が、あれはあれで顔面から火が出るかと思った。
 犬でよかった。いや、犬でなかったならそもそもテメノスはああいった行動にはでなかっただろうけれども。
「君、さらに性格が悪くなったのでは?」
「テメノスさんに言われたくありません」
 まだ不満げではあるがテメノスは自分のフォークで切り分けられたソーセージを引き寄せた。彼だってここにいるのがクリックだから渋ってみたり、駄々を捏ねてみたりするだけで、今の自分に何が必要か理解しているのだ。クリックと同じ。眠ること、身体を適度に動かすこと、そして食べること。
 ソーセージをちまちまと咀嚼する様を見つめながら思う。
 前よりもずっと彼のことがわかるようになった。テメノスは感情をわかりやすく顔に出したりはしない。してくれない。今だってそれほど表情が動いたわけではない。
 不満を感じたとて、ほんのわずかに秀眉が寄せられる程度だし、睨まれたといっても吊り目がちの眦がぴくりと動いたかどうか。よく観察していなければわからないほど小さなものだ。
 最初に会った頃は、考えていることがわかるどころか、彼が本当に異端審問官なのか疑ったというのに。今ではその表情の変化も動作も見逃したくはないし、言葉の裏側も秘された想いも知りたいと思う。何を考えているのか。何が好きで何が嫌いか。どんなときに笑い、どんなときに胸を痛めるのか。

『私はね、君のことが……

 あの朝の、掠れて尚、美しい声が耳元で蘇る。
 つい美しい横顔を凝視してしまって、不思議そうに首を傾げられた。
「何かついています?」
「い、いいえ」
 どうか熱が集まりかけた顔に気がつかれませんように。誤魔化すように空になった皿を積み上げてワゴンへと戻していった。
 情けない話だが、あのテメノスの言葉にクリックはまだ何も答えられないままでいる。
 言い訳にしかならないが、彼の唇が紡いだその一言が信じられなくて、固まっている間に仲間たちが駆け込んできたのだ。テメノスはキャスティの簡単な診察を受け、喉を癒す薬草茶だけを口にした後、また深く眠り込んでしまった。キャスティは、これは疲れて眠っているだけよ、と言ってくれたが、クリックは焦燥を憶えずにはいられなかった。
 漫然とせずまた朝を迎え、今度こそ目を覚ましたテメノスは実に清々しい顔をしていた。そして平素の彼とまったく変わらず、事件と真実を追う者の目をしていたから、あれは幻だったのかと疑う羽目になった。実際はこうして何度も思い出すので、幻などではない、はずだ。
 ――言って満足するなんて。なんて、ずるい。
 女々しいと知りながらそんな恨み言が脳裏に浮かんでしまうほど、テメノスは普通に過ごしている。ただ少しだけ、他の人間には許さない距離をクリックには許してくれている、ような気はしている。
 その距離感があまりにも心地よく、埋めてしまうには勇気が要る。いつかは埋めなければと思うし、埋めたいとも思うのだけれど、一歩を踏めない自分が不甲斐ない。
 すべての皿をワゴンに乗せ、改めてテメノスを見ると何故か熱心に窓の外を眺めていた。釣られて雨粒の滴る窓を見るが、クリックが目覚めたときと特に変わりはない。美しく整えられた庭に針のような細い雨が降り注いでいるだけだ。
「君、雨は好きですか?」
 唐突にそんなことを訊かれた。いきなり何を、とは思ったが、そういえばクリックもテメノスがどんな空が好きか知らない。あの大聖堂を抱く山間の町に似つかわしいのは澄んだ青空だけれど。わざわざ聞いたことがなかった。
 知りたいな、と素直にそう思った。だから、最初に自分から答えることにする。
……そうですね。好きな方だと思います」
「傷は、痛みませんか?」
「多少は。でも、嫌いではないんです」
 翡翠の瞳が丸みを帯びてきらきらと輝きを増した。興味深そうにクリックの話を聞いている。それほど面白い話でもないと思うのだけれど。いや、違った。きっと違う。
 だって、クリックだってテメノスの新しいことをひとつ知るだけでそんな瞳になるだろう。鏡を見なくたってわかる。だから、つまりそういうことだ。かなり照れくさい。
「その、テメノスさんは?」
「私?」
「どんな天気が好きですか?」
 長い銀糸の睫毛が瞬かれる。形のよい顎に指が当てられ、数秒、何かを思案し、また窓の外の雲を見る。さらさらとした淡い雨音が優しく耳を打つ。
「曇り、ですかね」
 間を置いて返ってきた答えに少しばかり驚いた。同時に気がついてしまう。クリックの中には、まだ彼のことを、こうだろう、そうなのだろうと、決めつけていた部分があったらしい。
「晴れだと掃除が面倒なんです」
「そ、掃除、ですか?」
「ええ。教会の落ち葉掃きがね。あの通り、木々が豊かな町なので、ほぼ一年中、落ち葉を掃かなければすぐに汚れてしまうのですよ」
 風の日はさらに散らかって酷いことになる。雨の日は水を吸った落ち葉がぺったり地面に張り付いてどうしようもない。
「晴れの日は、掃くこと自体は楽なのですが……。いかんせん、子どもたちが〝お手伝い〟に来るもので」
「お手伝いなら、助かることなのでは?」
「ええ。せっかく纏めた落ち葉の山を散らかしたり、箒でごっこ遊びを始めたりしなければね」
「それは……
 確かに、悪気はないのだろうが、いや、悪気がないお手伝いだからこそ一仕事のような気がする。子どもは正直者だから曇りの日は晴れの日よりなんとなく大人しくて、お手伝いもしないが邪魔もしないのだという。
 おかしくなって込み上げる笑いを必死に抑えた。だが、そんなクリックの表情を見逃してくれるテメノスではない。
「なんですか、他人の苦労を笑うものじゃありませんよ」
「す、すみません。ちょっと、つい」
 会う度にクリックのことを振り回して揶揄っているテメノスが、晴れの日には年端もいかない子どもたちに振り回されている。それは、ちょっと、予想外でおかしくて見てみたい、と。そう思ってしまった。
「今度、僕がお手伝いに行ってもいいですか?」
……晴れの日に?」
「晴れの日に」
 彼がクリックの思惑を見抜いていたかどうかはわからない。ただ嬉しそうに小さく笑った顔に、小さく心臓が跳ねた。
「では、お願いしようかな」
 それがいつになるか、なんて野暮なことは二人とも口にしなかった。
「君は?」
「え……?」
「晴れの日に、君は何がしたい?」
 どうやら彼の中ではいろいろなことが借りになってしまうらしい。おそらく、晴れの日にテメノスを手伝うのだからテメノスも何かしなければならない。そんな方程式が彼の頭にはあるらしい。
 彼のことを大分、理解できるようになってきたと思ったが、その構図だけは今も解せない。これからも、たぶん、理解できないような気がする。
 ――晴れの日に、してみたいこと。
 晴れの日に、自分は何をしてみたいのだろう。改めて考えてみると、なかなかに難しい。
 晴れたからあれをしなければならない、これを済ませなければならない。そういったことなら山ほどあったけれど、いざ、晴れの日に何をしてもいいと言われたら、クリックは何をしたいのだろう。
 ――考えたことなかった。いや。
 無意識に、考えることをやめていたような。そんな気がする。それが何だか悔しくて無理矢理にでも見つけてやろうと頭を捻ってみる。
 浮かぶ光景がひとつだけあった。それを見たのはつい最近で、ついでに言えば現実のものでもないのだけれど。直近で晴れの日にひどく羨ましく感じた光景だった。そして、あれはたぶん、晴れの日でなければやろうという気分にならない。
……外で、あなたとサンドイッチを食べてみたいです」
 虚を突かれたテメノスがきょとりとクリックの姿を映す。
「私と一緒に?」
「テメノスさんと一緒に」
 決まりが悪そうに落とされた視線が、クリックの意図が正確に伝わったことを表している。
 自分でもこんなに底意地が悪かったのだな、と驚いているところだ。でも、だって、ずるいではないか。クリックはそんなことをしたことがないのに、クリックではない謎の幻だけがそんな体験をしている。到底、許せそうもない。こんな嫉妬、降り積もって澱になる前に払拭してしまった方が絶対にいい。
「それでいいの」
「それがいいです。あ、でも」
……?」
「出来ればスモークチキンのサンドイッチが欲しいです」
 戸惑っていたテメノスが、笑いを堪え切れずに、フフ、と吐息を漏らした。
「それが君の好物なの?」
「駄目ですか?」
「いいえ。全然」
「テメノスさんは?」
「私?」
「外で食べるなら、何のサンドイッチがいいのかな、って」
「そう、ですねぇ……
 雨が止まないので、それからずっと取り留めのない会話を続けていた。考えることも、動くべきことも、もっとたくさんある。二人はそれから逃げない。逃げられないし、逃げないと誓ったことを二人とも憶えていた。
 でも、雨の日は無理をしない。それが二人で決めた約束だったので、雨が降っている間だけ。このわずかな時間だけ。雨が上がり、虹が出たなら、そのふもとを探す旅に向かうので。

 食後の紅茶はすっかり冷めてしまっていたけれど、そんなことが気にならないくらい、二人で過ごした。