2024-08-03 09:20:50
5342文字
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雨の隠れ家

サタイサwebオンリー『逢瀬は始末書の後で』期間中は限定公開にしています。
PWは会場にて公開中。
→全体公開にしました!
※イサミの兄についての捏造を含みます。本編過去軸サタケ(29)イサ(15)くらいの設定です。

 窓の外ではざあざあと雨が降っていた。サタケはその、雨の日に独特の静寂をそれなりに愛おしく思っていたが、インターホンでその静寂が破られたことを特段不快には思わなかった。
 素足にスリッパをひっかけて、インターホンを確認するでもなく鍵を開ける。誰が訪れたのかはわかっていた。
「よく来たな、イサミ」
 扉の外にはイサミが立っていた。傘も差さずに、学生服の肩を雨に濡らしている。それを認めて、サタケは一つため息をついた。
「飯の前にまずは風呂だな。シャワーを浴びないなら、ダイニングには座らせない」
……ス」
 言葉の上では頷きながら、イサミはずぶ濡れの体で部屋に入ることに今更躊躇したようだった。どうせそんなことだろうと風呂を沸かしてあったのだし、タオルも用意してたからそんなことを気にする必要はないのだが。
「ほら、早く入れ」
 半ばイサミ専用になっているタオルを差し出せば、イサミは怖々手を伸ばしてそれを受け取った。足だけで靴を脱いで、イサミが部屋に上がる。その雑な仕草とは相反して、イサミは振り向くと丁寧に靴を揃えた。
 シャワールームの位置は今更教えるまでもない。イサミは浴室の出口にカバンを置くと、そのままシャワールームに向かった。
 サタケはその背中を見送って、キッチンの脇に下げられていたエプロンを身につける。冷蔵庫の中に食材は十分。週末に雨が降ると天気予報で見て買い込んでいたものだ。
 さて、今日は何を作ってやろうか。サタケは意気込んで、部屋着にしていたスウェットの袖を捲った。

*

 雨の降る週末、イサミはサタケの家を訪れる。事前に連絡もなく、理由を話されたこともない。サタケがたまたま家を開けていた週末にもおそらくイサミは来ていたのだろうが、無駄足を踏んだことについてどうこう言われたためししもない。ただ、イサミはふらりとサタケの家にやってきて、インターホンを押す。応えがなければ、おそらくそうして濡れたまま帰るのだろう。それが嫌で、年に数回あるかないかというその機会のため、サタケは雨の降る週末にはつとめて家を空けないようにしている。
 やってきたイサミの態度はまちまちで、特に何も話すことなくサタケにじゃれついて帰っていく時もあれば、深刻そうな顔で黙りこくっている時もある。今日はどちらだろうかとサタケは考えた。
 出汁を溶かした湯を鍋にかけふつふつと沸かしている間に、包丁で具材を切り刻む。こんな雨の中を歩いてきたのだ、まずは体の温まるものを。その後に肉を使ったメインディッシュ。ちょうど白米を炊いてあるし、食いでのあるものがいいだろう。常備している漬物のほかに、葉物野菜をちぎってサラダでもつけてやれば完璧だ。
 朝飯は食べてきたのか知らないが、育ち盛りの子供に満腹という概念は存在しない。少なくともサタケ自身はそうであったし、イサミもそうであることを知っている。
「すみません、風呂借りました」
 しばし無心で調理を続けていれば、短い前髪を水に濡らして額に垂らしたイサミが浴室から上がってくる。サタケに妙に配慮して早く上がってくると他ならぬサタケ自身に浴室に押し戻されて本末転倒だということをイサミはよくわかっていて、しっかり風呂に浸かって温まってから出てくるようになった。
 手振りだけで食卓の椅子をすすめて、サタケは一度火を止めていた鍋のコンロに再び火をつけた。さっきの今でそう冷えてはいないだろうが、せっかくなら温かいものを出してやりたい。
 ちょうど焼き上がった鶏もも肉のブロックを切り分けて、イサミの前に差し出す。サタケ以外にはイサミしかやってくるもののいないこの家に常備されている予備の食器は、つまりイサミ用ということだ。
 ちら、と下手くそな上目遣いがサタケを伺う。サタケの家にやってくればこうして歓待されることをわかって訪れてくるくせ、妙なところで遠慮が抜けない。
「ほら、食え。流石に俺一人では食べきれん」
「いただき、ます」
 風呂で温まった指先が小さく合わさった。小さく首だけで礼をして、イサミは箸を取る。
 イサミは兄に似て、箸づかいの綺麗な子だ。きっと親御さんの教育が良いのだろうと思う。豆腐を小さく分ける箸先を見ながらサタケは、いつか食堂で見たイサミの兄の箸遣いをなんとなく思い出していた。
 微かな咀嚼音と、食器の音が小さく聞こえる。いっそ窓の外の雨音の方が大きく響くほど、部屋の中は静かだった。
 ふう、とサタケが息を吐いた音に、イサミの肩がわずかに強張る。それを視界の端で認めて、サタケは気づかないふりをするように目を閉じた。

*

 イサミがこの部屋に来るのは、決まって雨の降る週末だ。ちょうどイサミの兄が死んだ時のような、街が鈍色に染まる日。イサミがサタケに敬語を使い始めたのもこの日だ。平日にやってこないのは、きっと最後の理性なのだろうとサタケは考えている。
 イサミの両親は決して、兄が死んだ後もイサミを蔑ろにしたりはしなかった。むしろ、塞ぎ込むイサミに愛をもって接していた。所詮サタケは部外者であるから、本当のところはわからない。それでも、少なくともイサミから両親への悪感情を感じたことはない。
 イサミがサタケの家を訪れるのはきっと、極論サタケが部外者だからなのだろう。兄を深く愛する両親の前でイサミが悲しめば、両親も悲しむのだとイサミはわかっている。さりとて、兄のことをかけらも知らない人物とは悲しみを共有できはしまい。そこで白羽の矢が立ったのがサタケだ。イサミの兄の友人であり、そもそもが兄を介して出会った男。イサミにしてみればちょうど良い距離感なのだろうと思う。
 そんな距離感、だからこそ。いつものことながらサタケは、この空間を持て余している。
 サタケはゆっくりと目を開いて、目の前の少年を見た。
 成長期の体はしなやかで、筋肉量こそまだ少ないものの見るものがみれば運動の素養があることがわかる体格だ。背だってぐんぐん伸びて、あと数センチもすればサタケを追い越すかもしれない。もしかすれば、彼の兄すら。大人と子供のはざまにいる彼は、強靭なようでいて脆く、幼いようで成熟している。
 あからさまな気遣いはきっと不快だろう。かといって、飯だけ食べさせてさあ帰れと言うのも忍びない。雨の中傘も刺さずに家を訪れることが、助けを求める悲鳴でなくて一体なんだろう。
 人を率いる立場になったサタケは、人の心についてはそれなりに学んだつもりだが、このかわいい弟分のことだけはどうしていいかわからない。望むものを口に出してくれさえすればいくらでも与えるのに、イサミはいつも、何も言わずに扉の外に立っている。
……なあ、イサミ」
 イサミは口の中のものをこくりと飲み込むと、律儀に箸を置いた。視線は皿の上に落とされたままだった。濡れた短い前髪が、ぽたりと机に滴を垂らす。
「今日は、何があったんだ」
……
 沈黙。踏み込むべきでないかもしれない線の上で、サタケはその向こう側を見つめようと目を細めた。
「別に、話したくなければ話さなくていい。代わりに最近食ったうまい飯の話でもしてくれ」
 俯いたイサミの表情は伺えなかった。それでも、どんな顔をしているのかはなんとなく、わかる気がしていた。イサミの兄や家族となど比べようもないが、サタケだって長い間イサミを気にかけてきたのだ。
「ただ、もし話したいことがあるのなら、話し相手は俺にしておけ。よく頑張って俺の家まで来たな」
 イサミは小さく口を開いて、一度閉じた。それから、小さな声が机にぽろりと溢れる。
「俺、……そんなに兄貴に似てますか」
……箸の使い方は似ているかもな」
 それで? 続きを促すように小さく相槌を挟む。イサミが膝の上で握った拳にきゅうと力が入るのが見えた。
「母さんも父さんも……こんな日は、特に、俺を見る目がちょっと違うんです。最近身長も伸びたし、力も、ついて来たから、きっと」
「ああ、デカくなったな」
「ふたりとも、俺のこと、大事にしてくれてるのはわかってて、そんな愚痴が言いたいわけじゃなくて」
「わかっている」
 窓の外では雨が降り続いている。ざあざあと途切れることのないノイズのような雨音は、かえってイサミを饒舌にさせているのかもしれなかった。
「ただ、俺は……
 イサミが唇を噛み締める沈黙を、サタケは待った。
「母さんと父さんが、……俺を見て、俺を見たあと……申し訳なさそうな顔、してて。多分それは、俺が、傷ついたってバレたから、で」
……うん」
「俺、俺も、こんな日は兄ちゃんのこと思い出す、けど。俺のせいでふたりは、ちゃんと悲しむこともできない。俺を傷つけるかもって、俺の前では話題にも出さない」
 ぽた、と垂れ落ちた滴を、机の木目がじわりと吸った。
「俺が、にいちゃんに似てる、から。俺が、まだ子どもだから」
 膝のうえで握られていたイサミの拳が、ぐいと涙を拭った。赤くなるからやめろという間もなく、ぐしぐしと拳が瞼の上を往復する。
 涙を拭って顔を上げたイサミは眼前のサタケを見て、瞠目した。
 一瞬だけ合った視線がすぐに逸らされる。ぎくりと身をこわばらせて、また俯く。
……イサミ?」
……ごめん、なさい。すみません。俺、サタケさん、だって。兄貴の友達なのに。俺、サタケさんの優しさに付け込んで……辛いのは同じなのに……
 そう、涙声が謝りながら、ふるりと肩が震えた。
「イサミ、顔を上げろ」
 小さく息を吐く音。
「ああ、ちっとも怒ってないぞ。だが、ずっとそのままなら怒るかもな」
 そうまで言ってやれば、イサミはゆっくりと顔を上げた。赤くなった目尻が痛々しく、涙に濡れた顔は、やはりまだ子どもだった。
「なあイサミ。俺はお前にとって、いつまで『兄貴の友達』なんだ?」
「え……
 サタケは頬杖をついて、身を前に乗り出した。 
「俺はとっくに、あいつの弟じゃないお前が大事だよ。お前が仮に碧じゃなくても、たとえばどっかから降ってきた宇宙人だとしても、それがお前だってわかれば、俺は大事にする。たまの週末を潰して飯を作ってやることなんてなんでもない。本心だ」
 相対したイサミの瞳は困惑に揺れていた。涙の名残の膜の向こうで、小さなアンバーがふらふら揺らめいている。
「それにな、お前があいつに似てて、あいつのことを思い出すのも、俺は嫌じゃないんだ。むしろどこか……嬉しいのかもしれない」
「嬉しい、ですか」
 硬い声が返答する。万に一つでも誤解があってはいけないと、サタケは言葉を重ねた。
「お前にあいつを重ねてるわけじゃない。だが、お前の中にあいつがいるのを見ると、嬉しいと思うよ。あいつがお前を愛してるのを知ってたから。あいつがお前に残したものが、お前の中にあるのが嬉しい。それこそ、箸の使い方とか」
 イサミは、あげた目線を下ろした。今度は机ではなく、自分の開いた手のひらに視線が注がれていた。ぐっぱと何度か開き、握る。
「ご両親のことは……内心までは、俺にはわからないが。俺がフォローするまでもなく、お前はわかってるんだろう?」
 イサミがこくりと頷いた。きっと、こんな日に両親の元にいたくないと思うことすら、イサミにとっては罪悪感の種だろう。
「だが、わかっていてもどうしようもない気持ちのときは、確かにあるものだ」
 サタケは腕を組んで、椅子に背中を預けた。大きく息を吐いて、改めてイサミを見る。
「そんな時に、お前が俺を思い出してくれてよかった。お前がきて迷惑だなんて少しも思ってない」
……ス」
 俯いたまま、小さな声がサタケを肯定した。正しく伝わっているのならいいと、その硬いままの肩の線を見てサタケは思う。
「飯の途中に悪かったな。食っていいぞ」
 雰囲気を切り替えるように、サタケはあえて明るい声を作った。
「それとも、再開する前にハグでもしておくか?」
「もう面白がってますよね。感動して損した」
 こちらの作り出そうとしたトーンを正しく受け取って、涙声が憎まれ口を叩く。泣いていることなんかサタケにはお見通しなのだから、意地を張る必要はないのだが。
「面白がってなんかないぞ。俺は有言実行の男だ。ほら胸に飛び込んでこい」
「言いましたね、腰いわしても知らないですよ」
「お前から見れば全ての成人男性はおじさんかもしれないが、俺はまだそんな歳じゃない」
 くす、と小さな笑い声が聞こえて、イサミが席を立った。サタケも立ち上がると、机に対して体を斜めにし、イサミの方に胸を開け渡してやりながら、迎え入れるように腕を差しだす。
 とす、と、宣言よりはよほど軽い感触がして、イサミがサタケに身を預けたのがわかった。肩口に押し付けられた目のあたりが熱く、背中に回った腕がぎゅうと抱きしめてくるのも全く不快ではなかった。
「鼻水まで拭くなよ」
 返答のようにずび、と鼻を啜る男がして、サタケは苦笑した。そして、まだ薄いイサミの背を、宥めるように何度か撫で下ろした。