ふるさと さくら
2024-08-02 18:35:31
31615文字
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⑤メリノト テーマ『ピアス』

性癖パネルトラップ⑤
パロディのメリー×ノートン

⚠️フレオル新刊LOST SPADILLE時空ですが、フレオル及びフレオル要素は出てきません。新刊読まなくてもまったく問題ない内容ですが、新刊持っててまだ読んでない人は読んでからの方がいいかもしれないです。

偽装恋人の🧲と🐝の話。前半はわりとノトメリ感が漂っている。基本は🐝優位、キスまでしてる
独自設定満載、🎹と📰が出てきてなおかつ🎹の父親がわりと嫌な感じで出てくるので注意。
モブが動く!喋る!死ぬ!
🧐はいません。
なんでも許せる人向けです。



「お名前を確認させていただきます。メリー・プリニウス様と……ノートン・キャンベル様ですね。ようこそ、恋人たちの花園へ。どうぞごゆっくり、甘いひと時をお楽しみくださいませ」
 皺ひとつない燕尾服に身を包んだ、執事風のスタッフが恭しい礼を見せる。その完璧なまでの作法に対して、身分証をパーティーバッグをしまい込んだゲストの女は優雅に微笑んだ。ただし、口元以外の感情は薄いヴェールに包まれており不明瞭だったが。
「えぇ、今宵の夜会はひと月も前から楽しみでしたから。もちろん、彼と共に堪能させていただきます」
 そう言いながら女は傍らに佇んでいた男の首に手を伸ばし、細い指先で誘うように筋を撫でた。丁寧にクリーニングされたテールコートに身を包んだ男は一瞬ぴくりと肩を上げたが、あくまでそれが当然だと言わんばかりに女の誘惑を受け入れる。そして白いレースのあしらわれたイブニングドレスの腰に手を回し、スタッフから目を逸らして女をエントランスに誘っていく。
 見送る初老のスタッフはもちろんのこと、すれ違う他の招待客も息を呑むほどの完璧な入場だった。人の目の多いエントランスを行く間も、彼らは誰もが羨む恋人にしか見えなかった。時折二人にしか聞こえない戯言を発しては、面白おかしそうに笑い合う姿は、まさに今夜の『恋人たちの集い』に相応しい。
 だが────
………
 人気のない宴会場の外れまでやって来た二人は、おもむろに繋ぎ合っていた手を離した。そして周囲に誰もいないことを確認すると、甘いマスクに包まれていた男女の顔つきは瞬く間に凍りついたビジネスの雰囲気に様変わりする。
……こちらペルセポネ。無事会場に潜入しました」
 ダチュラを模した胸のブローチに向かって、メリーは冷たく業務的な声で話しかけている。そんな彼女の変わりように驚くでもなく、むしろ嫌悪感を示すようにあからさまな距離を取るノートンは、先程の情熱的なエスコートが嘘のように辛辣である。
「はい、はい……えぇ、ではそのように。エウリュディケーへの指令指導、くれぐれもお願いしますね。エウテルペー」
 耳元で聞き慣れた男の声が途切れた頃、メリーは会話が終わったことを示すために顔を上げた。そして高級感あふれる空間に馴染めないといった態度を隠せない新人エージェントに向けて、容赦のない苦言を呈するのだった。
「視線をあちこちに動かし過ぎです。きちんと足を揃えて立つように、プルート。そのような態度では出身階級がターゲットに露見しますよ」
……うるっさいなぁ、本当に。いいか、僕は今でもあんたと恋人ごっこをするのが気に食わないんだよ。さっきの入り口でのやり取りだって吐きそうだった、もう二度とやりたくない」
「愚痴は終業後に自分で処理しなさい。今は業務中です、それとも減給されたいのですか」
 すると、ノートンの顔つきはあからさまに不快に歪んだ。
「仕事、仕事ね……僕、金さえあればだいたいのことには文句は言わないけど。あんたにそれ言われると、はらわた煮えくり返りそうになるな……
「杞憂はもう控えなさい。心配しなくても────私もあなたと恋人のふりをするのは、真っ平ごめんですからね」
 バッサリと切り捨てるようなメリーの発言に、それはそれでげんなりとしてしまうノートンであった。本当に気に食わない上司だ。何だって、、僕はこんな女の言うことに従っているんだろう……
 宴会の開始まではまだ時間がある。意味のない回想をし始めたノートンは、諦めたように付近の柱に寄りかかって今日に至った経緯をぼんやりと思い出していた。




 話は、一週間前に遡る。




 仕事の小休憩を終えて職場に戻るワーカー、天気がいいからと今になってようやく南向きの窓に洗濯物を干し始める者。様々な人間がそれぞれの生活を送るフラットの集合地域に、ひっそりと佇む探偵社のオフィス……昼下がりの陽光が差し込む事務所の一角で、数人の男女が円卓を囲み座っている。
 ここはオルフェウス探偵社。ただし探偵社の顔はあくまで表向きの話。ここに集う社員は全員────貴族の一柱であるデロス家当主によって雇われた、法に縛られぬエージェントたちだ。
 彼らの目的はただひとつ。かつての『主人(ロード)』の命令に従い、社会に蔓延る危険因子────すなわち何者かによって精製された危険薬品し、を回収し、その根城を殲滅することである。
……というわけで、次の『標的』はこちらの番組に隠されていることが判明しました」
 キャラメル色のコートに袖を通した女が、ホワイトボードの一角にポインターを指し記す。彼女の名はメリー、コードネームはペルセポネ。此度の会議の進行役を務めるこの探偵社の敏腕経理担当社員だ。
「狙うは『恋人たちの花園』のスポンサーたるこの男。彼は何者かの支援を受けているようで、今回の番組に多額の投資をしていることが私の調査で判明しています」
「恋人たちの花園……それは一体、どういった番組なのですか?」
 純然たる疑問をその真っすぐな瞳に浮かべるアリス・デロスが、進行役に質問を投げる。するとメリーは「いい質問です」と前置きをしてからオレンジのリップで笑みを描いた。
「よくあるでしょう、テレビや何かで最も優れたカップルを決める恋愛バラエティというものが。このイベントはそういった類のものですから、内容は至極簡単です。集められたカップルを何らかの形で競わせて、最も優れたベスト・ラヴァーズを選出する……収録された映像は、いずれは国民向けにも放送されるでしょうね」
「そんなに大々的な番組の中に、危険薬が紛れ込んでいるなんて……
 神妙な面持ちになるアリスが黙り込むと、代わりに真横に座る男が口を開いた。コードネームをエウテルペーと名乗る彼は、フレデリック・クレイバーグ。メリーよりは探偵社での経歴は浅いものの、それでも幾多の死線を潜り抜けてきた歴戦のエージェントである。
「奴らは、あからさまに怪しい場所には薬を隠したりはしません。それにしても、よく目星をつけましたね……ペルセポネ。普通は芸能界を疑っても、その内部状況を知ることは難しいかと思いますが」
 同僚の関心を装った指摘を受けてもなお、メリーは日頃の微笑みを絶やさない。彼女はくす、と笑い声をこぼしながら、カツカツとブーツのヒールを鳴らしてフレデリックの傍に佇んだ。
「何も難しい話ではありません。私には私のパイプがある、ただそれだけのこと。まぁ、全てを捨ててこの探偵社に入られた『クレイバーグ』さんには、馴染みのない話かもしれませんがね」
 口調はあくまで柔らかかったが、メリーの言葉は「それ以上土足で踏み込むのは許さない」という立場を表明している。瞬時に緊張感の漂う雰囲気に、座っていただけのアリスは思わず息を呑んだ。彼らは仲間同士だというのに、時折こうして一触即発寸前の状態にもつれこむことがあるのだ。信頼はしているけれど信用はしていない、そういったメリーとフレデリックの関係は、アリスが初めてこの探偵社に足を踏み入れた時から目にしてきた光景だった。
 ほんの一瞬で、フレデリックの目つきにはメリーに対する敵意が浮かぶ。しかしそうした流れにも慣れているのか、彼は自らそうしたにもかかわらず、すぐに鋭い雰囲気を収めた。そしてもういいと言わんばかりに、佇む女に投げやりな声を向けるのだった。
……失礼。話を逸らしました、どうぞ続きを」
「ご理解いただき感謝します、エウテルペー。さて、本題に戻りますが……今回のスポンサー、彼が狙っているのはこの番組の優勝者です」
 トン、とボードに張り付けられた男の額を指先で叩きながら、メリーは言葉を続ける。
「情報提供者によれば、彼は優勝したカップルに多額の出演料と……愛の霊薬を授けるつもりだとか」
「愛の霊薬?」
 あからさまに嫌悪感を示すフレデリックの態度に苦笑しつつ、メリーは立ち位置を変える。ボードの左から右へ移り、端に貼られていた薄紅色のポーションの写真を手に取ってフレデリックに手渡す。それを受け取った彼が眉を潜める後ろから、アリスが少し背筋を伸ばして覗き込もうとしていた。
「それが、『組織』の作らせた危険薬だと私は睨んでいます。もしもこの霊薬とやらが一般人の手に渡れば、ろくなことにならないでしょうね」
「話は分かりました。つまり誰の手にも渡る前に、この薬品を回収しなければならないということですか。さしずめ潜入方法は、出演者として……
「えぇ。会場にはスタッフと出演者しか入れません、ですから我々は紛れもない恋人の立場で、正当にこのゲームを勝ち進む必要があるのです」
 頷くフレデリックは、メリーの言いたい作戦の全容までもを既に理解したらしい。そしてこの話をされた理由もとっくに咀嚼済みであるようだった。
「ではペルセポネ、私に男性役を任せたいということですね」
「そう言いたいところなのですが。エウテルペー、こちらを見てください。あぁ、エウリュディケーは少し目を瞑っていてくださいますか」
 メリーのやや沈んだ声に、フレデリックは首を傾げる。つられて干渉しないように告げられたアリスも同じ角度に首を傾けたが、存外素直な彼女は特に理由と問うでもなく、黙ってメリーの言う通りに両目を瞑った。
 フレデリックの前に、新たな写真が差し出される。映し出されているのは、何の変哲もないどこかのスタジオの風景だ。照明器具やカメラの間に数人のスタッフが立っており、忙しそうに業務をこなしている。
 しかし、その中でも視察をするように現場を見ている銀髪の男の姿を見た瞬間────フレデリックの呼吸は止まりかけた。
「スポンサーの中に、あなたの生家が連なっていました。あなたがお父上と鉢合わせになるのは、探偵社としても避けたいところです。あなたもそうでは?」
……申し訳ない。こんなところで足を引っ張るつもりはなかったのですが」
 何か良くない記憶でも蘇ったのか、フレデリックの顔色はみるみるうちに蒼白になっていく。浅い溜息を吐き、さっさとメリーに写真を突き返す態度は、まったくもって肉親になど会いたくないと言わんばかりの振る舞いだった。額に手を当てて具合の悪そうな表情を浮かべるフレデリックに、まぶたを上げたアリスが心配そうな視線を向けている。
「お気になさらず、エウテルペー。確かに偽装エージェントとしての力量はあなたが最も適していますが、何もこの探偵社の男性社員は一人ではありません。代役ならそこにいるではありませんか」
「えっ、私が紳士に変装を?」
「全然違います、デロスさん」
「記者さん、そんなわけないでしょう」
 見当違いなアリスの発言に対し、即座にメリーとフレデリックの指摘が刺さる。あれ、違うんですか? と小首を傾げるアリスの姿に『主人(ロード)』の能天気な姿が重なる……どうしてこうも、デロス家の人間はオトボケなのだろうか。やれやれと首を振るフレデリックに同調的な気分を抱きつつ、メリーは足音の鳴り始めたオフィスの入り口を射抜くように見つめた。
 そして、扉は作法の欠片もない騒音を立てて無造作に開かれる。
「休憩休憩……あ、何このお菓子。食べていいやつ? ねぇクレイバーグ先輩、これ取引先に貰ったお菓子だろ。袋開けていい? いいだろ、あのハチミツ女には内緒でさ……
………………プルート」
 底冷えするような女の声に、乱雑に入室した男の背中がぎくりと固まる。顔が半笑いになっているのは前職の後遺症故だが、それでも今回の引き攣ったような笑みは、紛れもなく天敵の女の存在を感知したせいで形成されたものだった。
「げ、ハチミ……ペルセポネ」
「エウテルペー、現場に出られないあなたに指示を下します。プルートを一週間後までに完璧な上流紳士に仕上げなさい。私の隣に立たせても不遜のない『恋人』に調整すること。できなければあなたの給料も減らしますからね」
 硬直したのは社用車の整備で薄汚れた男だけではなかった。思わぬ形で飛び火を受けたフレデリックもまた、冷たいこと極まりないメリーの絶対的な命令に冷や汗をかいている。腹を空かせがちな新入りの犬に密かに餌を与えていたのが露見したのだから、焦る態度も無理はない。追い詰められてこそ真価を発揮しがちなフレデリックのことを分かっているからこそ、メリーも敢えてそうした形で命じたのだが。
 フレデリックはおもむろに立ち上がり、つかつかと入口の側で身を竦ませた新人に歩み寄る。そしてすっかり仕事の雰囲気を纏った状態で、煤けた作業服の袖ごと無理やりに彼を引っ張り上げた。
「お、おい。何の話だよ、恋人ってなんだ? 僕がハチミツ女の? 何がどうなって……
「ロシナンテの点検は終わりです、プルート。詳しいことは荘園で話しますから、帰りますよ」
「は!? おいハチミツ女、クレイバーグ先輩に何吹き込んだんだよ、おい、僕のいないところで色々勝手に決めるな、おい……先輩、ち、力強っ……
 ずるずると引きずられていく新人と、問答無用で荘園に帰ろうとするフレデリック。数刻後には、彼らは厳しい貴族のマナーを叩き込み叩き込まれる特訓を始めることになるのだろう。後ろ姿を相変わらずの薄い微笑みで見送りながら、メリーはかちりと収縮式のポインターを短く納めた。
「なるほど、クレイバーグさんが出られないならキャンベルさんをということですね。さすがです、プリニウス夫人! きっと今回の作戦も成功しますよ────って、え……?」
 努めて明るく振る舞うアリスだったが、メリーからの返事はない。思わず心配になってソファに座ったまま振り向いたものの、アリスは吹き荒ぶ極寒の気配にぶるりと背筋を震わせてしまった。
(ふ、夫人……なんて難しい口元をしているの。そんなにキャンベルさんと潜入するのが嫌なのかしら……




 そんな作戦会議から一週間後。
 無事に番組企画への登録も終え、二人は潜入調査員として撮影会場であるホテルの宴会場に訪れていた。徐々に人も集まり始めているようで、ロビーには幾組ものカップルが集い始めている。甘いフレグランスの漂う空間は、まさに愛情を披露するに相応しい雰囲気を醸し出している。
 さて、フレデリックに厳しいマナーを一から十まで教え込まれたノートンは、依然として落ち着かない気分でいっぱいだった。何せこんなにも高級な場所に足を踏み入れたことなど、今の今まで一度もないのだ。どうしているのが正しいのか分からない。かと言って、横で静かに人間観察に勤しんでいるバディを頼る気にもならない。彼女に弱音を吐くぐらいなら、今ここでダイナマイトを身体に巻き付けて爆死する方がマシだと思うほどに、ノートンは自らの上司のことを疎ましく思っていた。
 メリー・プリニウス。コードネーム『ペルセポネ』、本来ただのドライバーとして雇われるはずだった自分を、エージェントの道に引き込んだ張本人。
 人手が足りないから『こちら』の仕事を手伝ってほしい、給料は三倍にする。かつて彼女が発したその甘い誘惑につられて、深く考えずにエージェントになることを承諾した自分のことを、殴り倒したいと思わない日はない。おかげで毎日は散々であり、慣れない調査員としてのスキルと、エウリュディケ荘園で使用人として働く作法を無理やりに学ばされることになった。こんなはずではなかった、何より既に上流階級の素養を身に着けた者たちから失敗を責められるのが、屈辱を感じるほどに嫌だった。
 その一方で夢を絶たれ、平凡な送迎ドライバーとして生きていくのが関の山だろうと思っていた自分を、見上げるべき存在たちと同じ土俵に立たせたのも紛れもなく彼女であって。悔しい話だが、プライドは散々に傷つけられているものの、暮らしは以前より格段に良くなっているのだ。しかしそれを叶えたのが、このメリー・プリニウスという気に食わない女であるという事実を、ノートンは未だに嚙み砕いて飲み込めずにいるのだった。
「プルート」
 はっとして横を見ると、唇を美しく結んだメリーがこちらを向いていた。元よりあまり裕福でない幼少期を送ったノートンに対し、東欧の血を引いているらしいメリーの身長はやや高い。性差はあるもののあまり変わらない目線で彼女が見つめてくるのも、反射的に気に入らないと構えてしまう要因だった。
……何」
「そろそろ撮影が始まります。お手洗いに行ってはいかがですか?」
「はぁ? 別にそういう気分じゃないけど」
「いいから済ませておきなさい。早く」
 何だこの女。結局僕が邪魔なだけだろ。あからさまに不機嫌になったノートンに対し、メリーはつまらなさそうに目を逸らす。これはもう、会話をする気もないということなのだろう。それは別に構わない、こちらだって彼女といる時間は少しでも短くしておきたいものだ。フンと踵を返して、ノートンはいかり肩のままずかずかと化粧室の方角へと大股で歩いていくのだった。
(やっぱりムカつくな、あの女。この仕事が終わったら絶対にしばらく口をきかないでいてやる!)
 黙っていればいるほどに、メリーへの怒りが増していく。いっそ誰もいないなら、トイレの壁でも殴りつけてやろうか。そんな思いさえ沸々と湧いてきたノートンは、狭い通路を通り抜けて手洗いカウンターの立ち並ぶ空間に入るなり、派手な舌打ちをしようとした。だが────
……ッ」
 開きかけた口から、思わず細い息が吸い込まれる。ぎょっとしたノートンは、鏡のひとつの前で幽霊のように立ち尽くす男の背中を見るなり、つい足を止めてしまったのだ。音もなく、呼吸音さえ聞こえないような出で立ちで、物体のように鏡像の自身を凝視している姿は、傍から見ても普通の状態には見えない。
 赤い帽子を被った黒髪の男は、しばらくの間しきりに「ライラ……」と繰り返していた。しかしおもむろに口を閉ざすと、背後に立っていたノートンの存在に気がついたようだった。彼はゆっくりとした動作で振り向き、へらりと笑いながらこちらへと近づいてくる。しかしノートンには特に興味はなかったのか、のろのろと横をすれ違うだけで何も言葉を発することはなかった。
 ベタつくような足音が遠ざかっていく。何だあいつ、という思いを抱えたノートンは、ぞっとするような心境を落ち着かせるために早足で奥へと向かうのだった。


 数分後、不気味な男が立っていた場所とは別の鏡で身なりを整えたノートンは、メリーの元へと戻ろうとしていた。だが、発そうとした声は不自然に途切れてしまう。
「ぺルセ────」
 びり、と静かな電気が流れ出しそうな空気に、ノートンは咄嗟に足を止めた。メリーの前に、知らない男が佇んでいるのだ。探偵社の関係者ではない、見知らぬ存在。銀髪の男に見覚えはないはずなのに、妙に既視感があるのはなぜだろう。しかし少なくとも、メリーが相手のことを快く思っていないのは立ち姿を見ても明らかであった。
……今更ご子息が惜しくなったと? 申し訳ありませんが、彼は我が社の正統な従業員です。社員の生活を守るのは当然のこと、たとえお父上であっても居場所は教えません」
「ハッ、賞金目当ての元女優が偉そうに。私を誰だか分かっていないなら教えて差し上げましょうか、我らが麗しのヒロインさん。いいかね、私は……
 銀髪の男の口調には、中欧の堅苦しいイントネーションがこびりついている。見知った誰かに似ていると少しでも思ってしまった自分が嫌になるほどに、その年老いた男は傲慢だった。あれは……気に食わない。ああいう貴族は、僕が一番嫌いな輩だ。そう、たとえばあの男が今まさに無理やりに手首を掴もうとしている女が、日頃から忌み嫌っているメリーだとしても────思わずこちらの手が出てしまいそうになるほどに。
 表情筋の一切を動かさないメリーのほっそりとした腕に、皺の刻まれた乱暴が忍び寄る。しかし、銀髪の男の指先が彼女に触れることはなかった。やや目を見開いた紳士が横を見ると、そこには陰鬱そうな顔で接触を阻むノートンが威圧的に佇んでいた。
「な、何だね。君は」
 狼狽する真摯に対し、ノートンは光なき眼でニヤリと笑ってみせる。そしてやや力強く紳士の腕を振り払うと、その動作の流れで隣のメリーの肩を遠慮なく抱き寄せた。
「この人の恋人だけど、何? ここには結ばれた男女しか入れないんだから、彼女にも僕みたいな立場のやつがいて当然だろ……あと、賞金目当てで何が悪いわけ? その悪趣味な企画に出資してるのはあんたも同じじゃないか、クレイバーグ先輩のお父さん?」
 貴族相手であっても繕うことのない嘲笑に、老紳士はたちまち言い返す言葉を放とうと口を開きかけた。上等だ、と応戦しようとするノートンだったが、その試みは意外にもすぐそばでアカシアの香りを放つ淑女によって制止された。
「やめなさい、ノートン」
……!?」
 ぞわ、ぞわ、と這い上がる感覚に、ノートンは驚きのあまりメリーを凝視してしまった。この女、今何て言った。僕のこと、初めて名前で呼んだんじゃないか。
 ノートンの無言の動揺を完璧に無視して、メリーは静かに肩を抱かれたまま目の前の紳士に相対する。思えば彼女は、初めから助けなど求めてはいなかった。怯えることも、感情を露出することもせずに、ただずっとそこに佇んでいたのだ。まるで男たちが何をしようとも、自分のペースは崩させないと言わんばかりに。
……クレイバーグ様、今日はお互い手を引きましょう。あなたがこの番組に隠された情報を吐かないのであれば、私も『彼』の今の生活を守ることに徹するだけ。であれば、膠着状態を長引かせるメリットもない。ならば、これ以上押し問答をする道理もないでしょう」
「フン、そんな和平交渉が私に通じるとでも? お嬢さん、残念ながら私にはもうひとつ手札があるのだよ。君のかつての名前、君の過去を私は知っている。その薄布で隠そうとしても無駄だ、私が今ここで、そこの粗野な愛犬に君の正体を明かしたらどうするつもりかね?」
(────この女の、正体?)
 ほぼ反射の勢いで、メリーの方に視線を向ける。しかしそれでも、メリーの情のない顔つきが変わることはない。まるで老紳士の言うことなど大したことではないと言いたげに、彼女は未だに余裕を見せ続けている。
 なぜそんなにも平静を保っていられるのか、ノートンはすぐに思い知ることになった。
「どうするも、何も」
 くす、とメリーの仏頂面が初めて崩れていく。口元に甘い花の香りを纏って、何でもないことのように笑う彼女は視覚的は美しくも見えた。ただし、綺麗なものには毒が秘められているものだ。
 メリーは夜会の入り口でしたようにノートンの首筋を撫で上げながら────ぞっとするほどに鋭い針を覗かせた。
「もしも知られたならば……寝室にスズメバチを差し向けて、身体の震えが止まらないようにして差し上げようかしら。 クレイバーグ様、あなたのことも……そして私の可愛い彼もね」
 低く女が嗤った瞬間と、さっと青ざめたクレイバーグ氏が瞬時にメリーの前から距離を置いたのはほほ同時の出来事だった。狂ってる、という文字を顔面に浮かべて、老紳士は狼狽を隠せもせずに片手に持っていたステッキを携えて背を向けてしまった。
「あら、もうお話は良いのですか? ご子息の最近の様子でしたら、いくらでも教えて差し上げるのに」
「結構だ、失礼する……だがそこの野犬、これだけは忠告させてもらおう」
「は? 野犬って僕のこと? クソ貴族、お前……
 ノートンの極小の悪態は幸いにしてクレイバーグ氏の優秀な耳には届かなかったようだ。先達に受け継がれたのであろう銀色の年老いた双眸が、メリーの肩を中途半端に抱いたままのノートンに向かう。そして紳士は負け惜しみのように、不穏なセリフを吐き捨てるのだった。
「いいかね。その女は美しいアゲハ蝶などではない、男を巣に捕らえて食らい尽くした後、その場所に君臨する女王蜂だ。人生を棒に振りたくなければ、その女と交際するのはやめておきなさい」
「────」
 カツン、カツン、と紳士の足音が去っていく。まずは窮地を抜けたという安堵の実感を得られるかと思いきや、ノートンの心臓にはとてつもない爆弾が埋め込まれた。あのクソ貴族、何で最後に恐ろしいことを言い残していきやがった。おかげでこの女の肩に回したままの腕が震えて下ろせなくなったじゃないか。この、アホクレイバーグが……いや、先輩は悪くないんだけど、たぶん。
 特大級の脅しを受けたノートンは、何とか乾いた口を動かしてメリーに問いかける。そうでもしないと、次の行動が取れなかった。
「あんたさ……昔、何やらかしたわけ」
 言葉尻が震えている。そんなノートンの怯えた姿に、メリーはやはり蝶のように微笑むだけだった。するりと舞い上がるように自らノートンの腕を抜け出して、二、三歩前からこちらを振り向く彼女は……それでも良くも悪くもいつも通りのメリーにしか見えなかった。
「教えて差し上げても構いませんが、蜂に刺されるのはお嫌でしょう」
…………そうだな。聞こうとした僕が野暮だった」
 はぁ、とため息をつきながらノートンは肩を竦めた。これはつまり「あまり深入りをしない方がいい」ということなのだろう。あわよくばこの女の弱みを握って、少しでも日頃の優位性を高められればと思ったのだが。あいにく、メリーが秘匿している過去というのは想像している以上の質量を抱えているらしい。
「もういい、行こう。さっさと薬でも何でも回収して帰ろう」
「切り替えの早いところは成長しましたね、プルート。あとは手筈通りに、私がいいと言うまで『武器』は隠しておくようにしてください」
「はいはい……あ、そういえば。さっきトイレで変な男がいて」
「どうせ出演者でしょう、気にすることはありません」
 そんな会話をしながら、ふたりは宴会ホールへの扉へ歩み寄り、開け放つ。待ち構えていた恋人たちの花園は、煌びやかな舞台セットと共に彼らの入場を華々しく迎え入れるのだった。
「さぁ、行きますよプルート。『予行演習』の始まりです」



 宴会ホールの中は、まさしく夢物語に描いたような夜会の光景で満ちていた。
 すれ違う男女の全てが、甘ったるい砂糖菓子のような香りを纏っている。頭上に輝くシャンデリアは、まさに今宵のパーティーを照らし出す月明かりに相応しい。改めて普段の生活とは無縁の場所に来たのだと、ノートンは隣の女に悟られぬように息を潜めた。
「なるほど。会場内は典型的な社交舞踏会と大差はないようです。であれば、主催がこの後我々に要求してくる『オーディション』も、予想通りとなりそうですね」
『何か場内に不審な点はありませんか? もし気がつくことがあれば仰ってください。こちらで解析しますので』
 メリーとフレデリックの会話は、無論ノートンの左耳に装着されたイヤホンにも聞こえている。彼の言う通りに周囲を見渡してはみたものの、不審者や不審物は見受けられなかった。しかしメリーは違ったようで、ホールに流れる音楽に耳を傾けるふりをしながらも、押し殺した声で後方支援者に些細な気づきを知らせていく。
……エウテルペー、どうやら敵も警戒態勢を張っているようです」
「敵? そんな物騒な武器を持ったやつ、一体どこに」
 するとメリーは、突然ノートンの口元に人差し指を押し付けた。何であんたの言うこと聞いて口を閉じなきゃならないんだ、と思わなくもなかったが、メリーの冷たい眼差しに情が一切込められていないことに気づくや否や、ノートンは全てを悟って閉口した。
「あまり私以外を見ないで、ノートン。妬いてしまいそうになるわ」
 演技だ。これはきっと、お前自身が不審な真似をするなという彼女からの忠告なのだろう。
……ごめん、メリー」
 それなりの偽りで返事をしながら、ノートンはメリーがそれとなく向けた視線の先に目を向ける。すると笑い合う恋人たちの群れの向こうに、忙しなく動き回る使用人らしき者たちの影がいくつも見えた。一見すれば何も怪しい点などないが、メリーは試験官のように何気ないテストをノートンに強いていく。
「ねぇ。あのメイドたち、少しみすぼらしく思いませんか?」
 恐らく彼女は試したいのだろう。ノートンがどれだけの審美眼を磨き上げたのか、それが任務に通用するに値するレベルにまで鍛え上げられているのか。それを知るために、敢えてヒントまで出している。答えられなければ期待に背くことになるだろうと、新人エージェントは改めて遠い人々を注視した。
………
 ロングスカートに身を包んだ女性たちは、配膳の指示を的確にこなしている。その在り方はまるで機械人形のようであり、皺ひとつないスカートを翻して会場内を歩き回る姿は凛としている。しかし、ある一人のメイドがサイドテーブルに置かれていたワインを変えようと手を伸ばした時、ノートンはハッとして声を紡いだ。
「あのメイド、親指の付け根が擦れてる」
「ふふ……合格です、プルート。恐らく彼女らは銃器の扱いに長けている。スカートがくるぶしまでの長さなのも、きっと裏地に様々な暗器を隠し持っているからでしょうね。今回のテストの答えは、事前にエウテルペーから教えていただいたのですか?」
 何だこの女。存外素直に褒めてくるんなんて気色悪い。ノートンは不気味さのあまり目を逸らしながら、ぼそりと返事を呟くほかなかった。
……エウテルペーが荘園で執事をしている時も、似たような跡が手袋についてたから。それだけだ」
「まぁ。それは易し過ぎる予習でしたね。今度新しいものを仕入れなくては」
『結構です。使えるうちは、あの衣装で旦那様とお嬢様に奉仕するのでお気になさらず』
『そんな、ダメです! 後で私が買ってあげますからね、クレイバーグさん!』
『資産を私のような使用人に費やすのはおやめください、お嬢様……あと任務中はエウテルペーと呼んでくださいますか』
 何やら通信の向こう側では、アリスがゴネてフレデリックを困らせているらしい。だが、そんなことはこちらの知ったことではない。アリスのことになると途端に表情筋の綻ぶメリーの肩を小突いて、ノートンは彼女をさっさと現実に引き戻そうとした。
「何ニヤニヤしてるんだよ。気を抜くなっていつも言ってるのあんたじゃん」
………
「え。無視?」
 こちらの言葉が聞こえていないのか。いや、あれは明らかにわざとだ。自分の不利が分かるとすぐに踵を返すのは、メリーが逃げの手を使う際の常套手段だが、それにしたって事実を指摘しただけなのに無視されるのはいただけない。ノートンはさっさと距離を開けようと躍起になる女の後ろを追いかけ、その腕を掴もうとした。
「おい、待てって……
『皆様、お待たせいたしました。今宵の夜会は楽しんでいただけていますか?』
 しかし彼の声を妨げるように、突如場内をスピーカー越しの声が埋め尽くした。和やかな雰囲気を切断する男性の声に、さすがのメリーも立ち止まる。幸か不幸かという面持ちで再びメリーの隣に戻ったノートンは、一段上のステージに上がった司会者風の男の姿をその目に捉えた。
『申し遅れました。私、此度の番組の司会進行を務めさせていただきます、ジャックと申します。どうぞよろしくお願い致します』
 それなりに顔立ちの整った、長身痩躯の紳士はそう言って恭しく一礼を見せる。周囲の淑女たちがパートナーをよそに黄色い悲鳴を上げていたが、良くも悪くもノートンの相方は全く司会者に靡く様子はなかった。メリーの変わらぬ冷静沈着な面持ちにひとまず謎の安心感を覚えつつも、ノートンは司会者のジャックという男の観察を静かに始めた。
『今宵は我が主催者の開いた夜会にお越しいただき、誠にありがとうございます。僭越ながら私から、メインイベントであるベスト・ラヴァーズ選出コンテストの説明をさせていただきます。まぁ、とはいえ……皆さまに披露していただく演目は至極簡単! そう、このホールでの社交ダンスです!』
 ジャックの声とともに、ホールの中央に吊り下がっていたシャンデリア以外の照明が落ちた。何かがここで起こるかもしれない……ノートンは警戒ゆえに、ざわめく周囲をよそに密かに自らの耳元に手を添えようとしたが、その慎重さはメリーによって制止された。
「プルート。まだ武器はしまっておいてください」
………分かった」
 この潜入任務において、上司であるメリーの命令は絶対だ。互いがデロス家の信条に背くことがない限りは、その主従関係が崩れることは決してない。言われた通りに臨戦態勢を解いたノートンは、まるでスポットライトのように浮かび上がるホールの中央に向き直った。すると、人波をかき分けるように一組の男女が姿を現す。
「あ、あの男……!」
 思わず呟いたノートンの見つめる先には、ウェービーな髪を揺らす美しい美女と黒髪の男が佇んでいる。女の方は初めて見る顔だったが、男の方には見覚えがあった。あれは化粧室での出来事、彼は確か鏡の前で不気味な自問自答をしていた、薄笑いの男ではないか。
「見覚えが?」
 メリーの声に、ノートンは急くように頷きを返す。
「さっきトイレで会った。でも、その時は心ここに在らずって感じで……あんな、完璧な紳士役なんてできそうにもなかったぞ」
「なるほど……
 光の中に佇む二人は、手を取り合って檀上のジャックをじっと見上げている。それを準備完了の合図だと悟ったのか、司会者は意気揚々と片手を掲げて指を鳴らした。
 ぱちん、という音とともに。いつの間にかホールの片隅に控えていた楽団が甘美な音楽を紡ぎ出す。優雅なワルツの旋律に合わせて、他の参加者に見惚れられながら男女は軽やかにステップを踏み出した。
『さぁ皆様、ただいまワルツの手本を見せてくださっているのは今宵の優勝候補、ライラとマジュヌーンです。さぁ、ぼうっとしている暇はありませんよ。競技は既に始まっているのです、皆様もどうぞお好きなように踊り明かしてくださいませ! この音楽が終わる時、最も美しき恋人として場に残っていた二人こそが、ベスト・ラヴァーズに選ばれるのですから!』
 ジャックの楽しげな声とは裏腹に、周囲の恋人たちは騒がしく狼狽えていた。社交ダンス? そんなもの、この現代で嗜んでいるわけがないだろう。あなた、何とかしてよ。お前がどうにかしろよ。そんな雑音紛いの声で、会場は不平不満に満ちていく。
 そんな低レベルな参加者をよそに、一組だけで踊り続ける二人は密やかな会話を投げ合っていた。


……残念ね。もしかしたらこの会場には、私たち以上に愛し合っている男女なんていないのかも」
 そう呟くのは、マジュヌーンの手のひらを愛おしく握るライラという女だった。絶え間ないステップを踏みしめながら、彼女は口惜しそうな声色で独壇場を嘆いてみせた。しかし相手の男はただ純粋に、首を傾げて彼女の発言に疑問を抱く。
「でも、ライラ。笑っていて、楽しそうだよ」
「あら、あなたには分かってしまうのかしら? マジュヌーン……そうよ。私は今の状況がとても好ましいの。このまま私たちにしかダンスを披露できないのであれば、きっとあの人がくださるという霊薬も得られる。そうしたら、きっとあなたの心も。きっと治るわ……
「ライラ?」
 あぁ、とライラは目の前の男を見つめて想う。きっと、彼はこうして自分と踊らされている理由を知らない。何も分からないままに、こんな茶番に付き合わせてしまっているのだ。それを申し訳なく思う気持ちはもちろん存在する、けれども……
(他の人の事情なんて知らない。マジュヌーン……いいえ、エミールは私が守るの。そのためだったら何でもする、どんな薬でも彼の心は戻らなかった、だったらもう────得体の知れない毒でも何でも、試すしかないじゃない!)
 ぐっと恋人を抱き寄せながら、ライラは唇を噛み締めた。その緊張はステップの乱れを生み出し、不測の事態を引き起こしていく。
……いけない、足が!)
 考え事をしたばかりに、もつれた足が転倒を呼び招く。バランスを崩したライラの足首はあらぬ方向に曲がり、ヒールの靴が転がり脱げていく。併せて身体も横に倒れていき、ライラの視界はきらびやかなシャンデリア一色に染まった。
 これでは完璧な舞台にはできない。何もかも、台無しになる。彼を掬うことなんて、できない────すべてが絶望に染まっていくのが、嫌でも分かってしまうのに。
……ライラ!」
(あぁ、どうして)
 どうして、こちらを心配そうに見つめて呼びかけてくれる彼の表情に、心が戻ったように見えてしまったのだろう。


……おやおやぁ。まさかまさかの珍事態ですねぇ? ここでライラとマジュヌーンのペアが、さながらロミオとジュリエットのような悲劇に見舞われてしまうだなんて』
 ジャックの冷ややかな声が、会場を支配し尽くしている。シャンデリアの下で呆然と座り込むライラと、何が起こったのか理解はしていないもののライラのことはしっかりと抱きしめているマジュヌーンは、頼りないオーケストラの調べの中で孤独に放置されていた。周りの客人たちも、誰も彼らを助けようとはしない。何せ、彼らは明らかにライバルなのだから。ここでライラとマジュヌーンが退場してくれた方が、ひょっとしたら演目が変わって自分たちにもチャンスが与えられるかもしれない。そんな邪な感情のせいで、哀れな失格者たちは誰にも助けてはもらえなかった。
「ライラ、足が」
「大丈夫、少し捻っただけよ……マジュヌーン、支えてくれる? わたし、まだ踊れるわ」
『いやいや、やめておいた方が賢明ですよ。ライラさん、そんな醜態を晒したあなたには、もはや愛の霊薬を得る権利はありません。お怪我がひどくならないうちに、その場所を退いていただけませんかねぇ?』
 意地悪くそう言い放つのは、番組の演出ゆえか。それとも……いずれにしても、ジャックに心無い言葉をぶつけられたライラの顔色は青ざめてしまい、頼りなくマジュヌーンの指先を探すばかりになってしまった。「エミール、ごめんね……」とか細く呟く彼女の声はそれなりに聞こえているはずなのに、やはり周囲の人間は彼らを助けてやろうとはしない。
 あぁ────何か。すごく、気に入らないな。でも……
……止めないの?」
 歩き出す前に、ノートンはさり気なく確認を取ろうとした。ここで勝手に動いては、またメリーのひんしゅくを買う予感がしていたからだ。しかし彼女はノートンの行動を止めるどころか、むしろ追随するように歩き出したのだった。
「民を助けるのが我々デロス家に仕える者の務め。その義憤は愚かではありますが……きっと『主人(ロード)』の意向に沿うものだと判断します」
 ゆえに、切り口はあなたに任せます。そう続けたメリーの静かな感情の揺らぎに、こんなところで同じ心境になった偶然を感じ取ってしまう。ならばもう足踏みをする理由もないと、ノートンは唇を結んでシャンデリアの光の中に歩き出した。
「おい、さっきから何なんだお前。主催側の人間なら、トラブルには迅速に対応するのが普通だろ。医者を呼ぶとかスタッフを手配するとか、そんなこともできないのか」
 ずかずかと、ジャックに向かって指を差しながらまくし立てるノートンの姿は、エントランスで見せた礼儀作法の完璧な青年とは程遠いこと極まりない。むしろ品のなさがエスカレートしていく口調に、周囲の見ているだけの客人たちがひそひそと噂話を立て始めたが、ノートンにはもはやそんなことはどうでもよかった。
 そうして彼が司会者を批判している間に、メリーは立ち上がれないでいるライラの元へとしゃがみこんだ。マジュヌーンはライラ以外の女性への耐性がないのか強張った表情になってしまったが、ライラにはどういう了見だと問いかけるだけの余裕があったらしい。
「あなたは……?」
 ライラの問いに、メリーは口元を緩めるなり優しく微笑んでみせた。
「ペルセポネ、とだけ伝えておきます……大丈夫ですよ、メスマーさん。むしろあなたは幸運だったのです、あの薬は危険なもの。あなたの恋人にそんな毒薬を飲ませるのは、私としても忍びないですからね」
「ペルセポネ、どうして私の名前を知っているの。ここには私はライラという名前でしか登録をしていないのに」
 すると、メリーはくすりと笑ってライラの背中に腕を忍ばせた。
「さぁ、なぜでしょう。ひょっとしたら私はちょっとした探偵屋だったのかもしれません……さぁエミールさん、彼女を支えて。医務室はホールを出て左に真っすぐ進んだところです。彼女のことを、きちんと守っていただけますね」
 メリーの声に、マジュヌーンは頷かなかった。しかしライラを立ち上がらせる際に、彼が確かに協力的だったことをメリーはほんの僅かに感じ取った。ならばきっと、彼は彼女を無事に安全圏まで送り届けてくれるだろう。
 そっと二人を人混みの向こうに送りながら、メリーは静かに振り向いた。そしてノートンの糾弾を受けてもなお嘲笑を崩さぬ司会者に対し、ヒールの音で応戦の合図を奏でる。
……さて。司会者さん、この度は私の恋人がうるさく嚙みついてしまい、申し訳ありません」
「フフ、何を仰ることやら。それで、このしなびた空気をあなた方はどうやって盛り返してくださるというのです? いいですか、ライラとマジュヌーンは我が主催の目に留まっていた『目玉』でもあったのですよ。彼女自身の落ち度とはいえ、それをみすみすみじめな気分にさせるでもなく退場させるなんて……番組として、そんなの面白くないじゃないですか」
 長々と喋り倒す司会者だが、要は彼はこう言いたいのだろう。お前たちにライラとマジュヌーンが見せようとした以上の『恋人』としてのパフォーマンスができるのかと。それができないのであれば、番組としてもペナルティを与えてやってもいい────口にはしないものの、司会者の口調はそんなことを切り出してもおかしくないほどに冷たかった。
 しかしメリーはたじろぐどころか、くすりと微かに弾ける笑いを零した。
「司会者さん、何も思い通りの展開にならないからといって不安がることはありません。今宵の主催者様がハチミツのように甘いダンスをお望みであれば、我々が成果を発表してみせましょう」
 そう言って、メリーは傍らに佇む男の手をそれとなく取ってみせた。程よく整った形の唇に微笑みを浮かべて、彼女はふわりとダンスホールの中心に自らのパートナーを誘い出す。そして囁くような声で、ノートンに軽い言葉を投げるのだった。
……緊張しているのですか」
「してない、別に」
「失敗は私が繕います。あなたはたとえ私の足を踏んでも、舌打ちをするような悔しさを見せなければいい」
「僕が失敗? するわけないだろ、あんまり侮るのはやめろ」
 交わす言葉は険悪であるが、纏う雰囲気は既に演者のそれに等しい。二人は衆目の中、シャンデリアでは足りない照明にと穿たれたスポットライトに照らし出される。その出で立ちに、互いを拒絶する常日頃の態度は皆無だった。


「大丈夫でしょうか」
 斜め後ろから、心配そうなアリスの声が聞こえてくる。仮にも同期だ、ノートンが現場で失敗をしないか彼女なりに心配なのだろう。しかしフレデリックは複数の監視映像を映し出す液晶を見つめたまま、単調かつ不変の態度でその不安を否定した。
「彼に社交の心得を教えたのはこの私です。今の彼なら、きっとペルセポネの相手に足るでしょう」


 水のように流れ出す、一節のヴァイオリンが音の始まりを告げた。
 目と目を合わせ、淑やかなカーテシーをメリーが魅せる。皇室の一員かとも見間違うほどの美しい姿勢に、周囲の客人たちが思わず息を呑む。先の堂々とした態度も相まってか、メリーの立ち振る舞いは大公妃のように完璧に見えた。無論、彼女が正当なる貴族の血統持ちではないことは、この娯楽的な会場そのものが証明していたが、それでも王女がお忍びでやって来たかのような姿は麗しの一言では片付けられないほどに惹かれるものがあった。
 それほどまでに美しい蝶を前にしながらも、あくまで一定の距離を保つノートンもまた、教わった通りの『紳士』になりきることを徹底していた。彼女に触れ過ぎず、それでいて上辺だけの熱情は芝居として見せつける。腕の中の淑女は自分にしか釣り合わぬのだと言わんばかりに、その腕を取り舞い踊らせる。正確にはそうすることで勝手に舞うメリーを操っているように見せかけていたのだが。
(クレイバーグ先輩の言う通りだったな。この女、ペアダンスのくせに自分本位でしか踊ってない)
 ────プルート、彼女を導こうとするのはやめておくといい。彼女は女王蜂、自分の城は自分で築く独り身の主人だ。あなたが徹底するべきは対等な男性役としてではなく、あくまで彼女に気に入られた雄蜂を演じること。それが彼女との軋轢を生まない、唯一の道筋ですから。
 そう告げたフレデリックの言葉を初めて聞いた時には、そんな真似なんかできるかと反抗心を抱いたものだ。だが……
(悔しいけど、ペルセポネの『演技』は本物だ。今の僕には、合わせることしかできない)
 長年デロス家に仕えてきたというメリーの諜報員としてのレベルには、少なくともノートンはまだ追いついていないのだ。だから口ではいくらでも反抗的なことを言えても、こうした『本番』では全く歯が立たない。彼女に対して、自分はまだまだ格下なのだ。それがたまらなく悔しいけれど……それで潜入計画を台無しにするほど、ノートンも子どもではない。だから、今はメリーに付き従うのだ。いずれは彼女と対等な、諜報員となるために。
 それに、だ。そもそも自分は、彼女の────
「私以外のことを考えるのはやめて、ノートン」
 きらり。不意に視界に迫った金色の光に思考が絶たれる。
 それはメリーの耳に吊り下がる蝶の形をしたピアスだった。はっとして目を開いたノートンの耳たぶにも、同じ形状の耳飾りが揺れている。
「ステップが乱れますから」
……悪いけど、あんた以外のこと考える余裕ないよ」
「未熟ですね」
「そうさ、今にあんたを踊らせながら給料のことしか考えない男になってやる。あんたが次に踏む足がどっちなのか考えなくても分かるようになってやるからな」
「そう……
 メリーは無感情に、それでいてごく僅かに口角を上げながら足を絡めた。くるりとターンをして、羽が生えたかのようにほんの一瞬ノートンから離れていく。しかしすぐに戻って来て、また同じように傍で身を寄せる。つかず離れずのダンスは、すっかり会場にいる人間すべての目を釘付けにしているのだった。
 いよいよオーケストラの演奏も佳境に差し掛かっている。紳士のふりもそろそろ終わりか、とノートンが考えていると、メリーがおもむろに小さな声で話しかけてきた。
……ダンスが終わったら、私についてきてください。どうやら主催のターゲットは、私たちで決まったようですから」
 そう言ってメリーがそっと顔を向けた先には、司会のジャックとなにやら話し合う見知らぬ男の姿が見えた。あれが、このくだらないオーディションを企画した主催者とやらか。もっとまじまじとよく見ようとしたノートンだったが、それはメリーに阻まれてしまった。
「だから、あまり周りをじろじろと見るのは控えなさい。怪しまれます」
「ねぇ、僕らこの後どうなるの? まさかこのホールで奴らが薬を出してくるわけないよね」
……きっと、別室に案内されるでしょう。そこで何を強いられるのか、だいたい検討がつきますが」
 それはつまり、より危険な地帯への潜入が始まるということか。メリーの腰に手を添えながら、ノートンは少しだけ目を逸らした。
「まぁ、あんたが見当ついてるなら。僕は従うだけだ」
「場合によっては『あれ』を使って切り抜けます。そのつもりでいるように」
……そう。でも、今日はエウテルペーたちも見てるよ。僕らの秘密、ネタバラシってわけ?」
 するとメリーはやや黒い雰囲気を纏って、ノートンだけに聞こえる声で耳打ちをした。
「いいえ。その時が来たら────彼らの目は隠すつもりです」
 くすりと、女は笑った。
 同時にフィナーレを迎える楽章。夜の舞踏会の終焉を告げるように、弦楽器たちが一斉に最後の音を奏でる。
 彼女との偽りの蜜月は終わりだ。ノートンはエスコートする身分でありながら、己が未熟さを認めるように目の前の女に全てを預けた。この二人きりのダンス・ホールを、彼女の思う形で終わらせるために。
 そうして、今宵の最も美しい恋人は選出されたのだった。




『素晴らしい演出でした。さぁ皆さん、どうぞ喝采を! 美しき冥府の恋人たちに、惜しみない賛美をお送りください!』




 星のようにまばらだった拍手が、まるで嘘だったかのような静けさだった。
 ホテルの宴会場から離れ、ノートンはメリーと共にホテル内のプライベート・ルームに招かれていた。本来であれば披露宴などを催す新郎新婦が密かな朝食を楽しむための一室であるはずなのだが、今宵の室内はその清廉さを潜めている。室内を支配していたのは、くだらない恋人ごっこを考え付いたあの主催者の男だった。
「さて、このたびはおめでとう。まさかあなたのような人物が、恋人を連れてこんなところに赴いてくれるとは思っていなかったよ。プリニウス夫人」
「もったいないお言葉でございます、社長様」
 社長? この部屋に入って以降「口を開かぬように」とメリーに釘を刺されていたノートンは、訝し気に主催者────もとい社長と呼ばれた男を凝視した。なるほど、こいつはどこぞの芸能事務所か何かのトップだったのか。それが公共電波に乗るであろう番組の制作に加担するなんて、よっぽど地位が高いに違いない。きっと、こんな仕事をしていなければ関わることもなかった人物だろう。
 それにしても、社長はやけにメリーに親しみを込めて話しかけている。二人は旧知の仲なのか? いや、そんな話はメリーから聞かされてはいない。しかしノートンは既に、メリーがそういう「説明不足」を多発しがちな人物であることを知っていた。いつだって彼女は何も明かさないし、喋らないのだ。ノートンの経歴は隅々まで知っているくせに、彼女の過去は一度たりとも話したことがない。そういう人間なのだ、この女は。
(本当に、いけ好かないやつ)
 むしゃくしゃとした気分を抑え込みながら、ノートンは火傷痕の焼き付いた顔を静かに伏せた。その仕草が不意に目に留まったのか、社長は打って変わった声色で話を切り出した。
「それにしても、随分と物好きな男を引っ掛けたようだね、プリニウス夫人。あぁ、彼の前では『プリニウス』なんて言わない方がよかったかな?」
「お気になさらず。私は今でも変わらず『メリー・プリニウス』ですから。彼にもそう名乗っていますし、嘘はついておりません」
「ハハ、相変わらず蜂のように話題を躱すのが上手いな、君は。確かに君は嘘をつかない。だが、語らぬことで不誠実を働くことも多々あるのではないのかね?」
 その言葉がメリーの良からぬ部分に触れたのか、ノートンはすぐさま隣の女の纏う気配が底冷えするのを感じ取った。横にいてもぞっとするほどの雰囲気の変化だ、真正面からそれを向けられた社長はどれほどの気分だろうか。表情こそ見せないくせに、メリーは本当に自らの不快や怒りを静かに表明するのが得意なのだと思った。
……いいや、今のは踏み込み過ぎた。これ以上の詮索はやめておこう」
 社長も蜂には刺されたくなかったのだろう。手を振って静かに退いていく様は、賢明な判断だと言わざるを得ない。ここまでの地位にまで上り詰めるような人物だ、案外『組織』に踊らされているとはいえ愚かな人格ではないらしい……そんな人間観察結果を導き出したノートンだったが、ぱちんと視線が交わった瞬間────「そう」ではないことに否応なしに気づかされてしまった。
……?」
 社長の目つきがこちらに向けられる。それはメリーにずっと向けていたものとは違う、何かもっとおどろおどろしい熱を帯びた視線だった。喋るな、と言われた手前ノートンは何も発さなかったが、それでもそれが何やら気色の悪い感情に塗れていることは理解した。何だ、この男は。じっとりとした目でこちらを見て、何を企んでいるのか……
 あまりの嫌悪感に少し息苦しささえ感じ始めた瞬間、男はおもむろに席を立った。そして向かいの席に着いているノートンを眺めながら、ゆっくりとした足音を立ててこちらに近づいてくる。何が始まるのかは何となく分かったし、事前にメリーに聞かされていたそのおぞましさに背筋がうすら寒くなるのも、嫌というほどに自覚している。それでも平静を装うノートンの、机の下に隠された手をすっと握る手があった。
……少しの辛抱です。一線は超えさせませんから、ご心配なく」
 上司たる女の声に、ノートンはこくりと頷いた。どのみち、ここは彼女に従う他に道はない。新人のエージェントたるノートンは、まだ自身で作戦を指揮していくにはあまりに無力だ。ゆえに今はメリーに全ての信頼を預けるしかないのだ。彼女が大丈夫だというならば、大丈夫だと信じるほかない。
 そして、俯いて意を決していたノートンの顎を────見知らぬ男の手がやんわりを持ち上げた。
「あぁ、良い……とても良い『素材』だ、プリニウス夫人。マジュヌーンの無垢さも悪くないが、この擦り切れた瞳にも一見の価値がある。さぁ、協力してくれるね。女にひたむきに愛された男が、その女の手で毒を呷る瞬間を、私は見たいのだよ。それが私の『趣味』だからね」
 暗がりの中にひとつの光が浮かび上がる。怪しげなそれは男の手に収まった不可思議な霊薬であり、ノートンらオルフェウス探偵社が探し求めていた危険薬そのものでもあった。
(これが『組織』の……!)
 目を僅かに見開くノートンを、社長は愉しむように見下ろしていた。そしておもむろにノートンを無理やりに立ち上がらせると、そばに鎮座していたキングサイズのベッドにその身体を無遠慮に押し倒す。しかし抵抗がないのをいいことに彼自身がノートンを慰み者にしようという意図はなかった。男は薄気味悪く笑いながら、ノートンが抵抗できないようにその両腕を頭上で押さえつけるだけだったのである。まるで、哀れな青年を襲うのは自分ではないとでも言いたげに。
 男は、恋人たちの破滅を夢見ていた。
 愛する者たちが、悲劇に見舞われて死んでいく姿は何物にも代えがたい芸術。すなわち、カメラに留めておくべき甘美の一瞬なのである。ゆえに、最も美しい恋人を選び取り、その二人で以てして自らの芸術を完成させる……『組織』に授けられた薬は、その一瞬を彩るスパイスに過ぎない。
 彼は、ようやく自分が目指した至高に至れる歓喜に震えていた。
「さぁ、授与の時間だ────存分に彼を貪るといい、美しい女王蜂よ。そしてその毒で、愛する者の命を散らす瞬間を見せてくれ」
 抵抗の意思のないノートンを、メリーがじっと見下ろしている。その手には、社長から受け取ったおぞましい薬の瓶が握られていた。
 彼女は細いヒールの靴を脱ぎ捨てて、膝立ちのままゆっくりと横たわったノートンへと近づいてくる。ぎし、と音を鳴らしたスプリングがこれ以上ないほどに沈み込む頃、メリーの身体は既にノートンの上に乗り上げていた。
 華奢とは言えない、少し背の高い身体がゆっくりとしなだれかかってくる。ノートンの上半身にそのまま寝そべるような形で倒れたメリーは、美しい唇を不敵に歪めていた。
 そして何の疑念を抱くでもなく、緊張でややかさついたノートンの唇を静かに塞いだのだった。
………っ、……
 メイクに用いたリップのフレーバーのせいか。呼吸を塞がれた瞬間口内に雪崩込んできたのは、蜂蜜の甘ったるい香りだった。
 胴に乗り上げたままのメリーは、慣れた様子でノートンの身体を好き勝手に貪っていた。常日頃は請求書と向き合い、冷静沈着な態度で他の社員に応じる彼女が、今はまるで本能に淡々と従う生き物のように事を進めようとしている。一線は超えない、という先の宣誓の通り彼女が口づけ以上の行為を働く気配はなかったが、それでも受け身を強いられる方としては一種の空恐ろしささえ感じる気配がそこには在った。
(やっぱり、切っといてよかったな。通信機)
 眉間に皺を寄せながら、ノートンは少し視線を逸らす。頭上でニヤニヤと笑い続ける男の『面会室』とやらに入室した時から、メリーの手によって本部との連絡手段は敢えて絶たれていた。意図せぬ敵方の妨害に見せかけての遮断の理由のひとつが、この仮初の触れ合いでもある。同僚のキスシーンなど、フレデリックもアリスも見たいとは思わないだろう。ならば不必要に見せつける必要もない。ただし、その理由は決して主たるものでもなく……
「こちらを見なさい。考えごとは禁じます」
「っ」
 ぐい、と無遠慮に頬を固定され、ノートンは顔を背けることができなくなった。目の前にはヴェール越しの冷たい瞳、こちらを獲物としてしか認識していない雌蜂の無機質さが宿っている。メリーが言葉を発するために作った一瞬の間に、ノートンが反論することは許されない。呼吸をするだけで精一杯になっていると、その溺れかけた唇がまた容赦なく塞がれる。
 ……あぁ、全くどうして僕はこんなことを。
 意思とは正反対に全身の力が抜けていくのを自覚しながら、ノートンは今日一番のうんざりとした気分を味わっていた。なぁ、ノートン・キャンベル。これが本当にお前のしたかったことか? 金さえあればなんでもいい、なんて本当は思ってないだろ。いい加減、自分の気持ちに素直になったらどうなんだ。
『それと、もうひとつ』
 独白の中に、掠れたエウテルペーの声が響く。
『身売りも仕事と割り切ることができないなら、彼女との距離は一定を保つべきですね。私の見た限りでは、あなたはそういう妥協が得意ではないように思います。これは彼女をそれなりに知る私からのお節介ですが……ペルセポネにはくれぐれも絆されすぎないように。彼女は、彼女の安寧を守るためならば手段を選びません』
 どうか、あなたがその犠牲となりませんように。
……クレイバーグ先輩、それは無理だよ)
 趣味の悪い見知らぬ男と、世界一嫌いな女に醜態を見下ろされながらノートンは天井を眺める。
(無理だよ。もう僕は、こいつに近づきすぎたんだから)
 甘い香りにくらくらとしながら、酸欠の中で首が傾けられるのを感じた。ノートンはもはや指の先の挙動の一手間まで、メリーの思うがままにされている。ちり、と琥珀の蝶が耳元で羽音を立てた時、堪えきれない青年の苦悶の声がメリーの鼓膜を無遠慮に震わせた。
(なぁ。もういいだろ)
 目を細め、眼前の女にぐったりとした意志を示した。こんな時間に意味はない。ターゲットを油断させるためだけのキスシーンを、こんなに長く続ける必要はないはずだ。もういいから、早くその『糸』を握りしめて欲しかった。
(恋人ごっこはもうやめないか。いい加減、あんたの望む関係を始めたらどうなんだ────ペルセポネ)
 すると、ノートンの口内を散々に蹂躙していたメリーが、不意に手つきを変えてきた。貪るようなキスを求めて顔を固定していた指先が、ゆっくりと側面の耳たぶに忍び寄ってくる。彼女はそうして汗ばんだ首元に無意味なキスマークを刻みつけてから、くすりとノートンにしか聞こえない声で笑ってみせた。
「本当に、待てができないのね」
 ぞくり、と全身に悪寒が走ったのは彼女の言葉のせいか。それとも耳元に添えられた指先が、飾られた琥珀らしき光を砕いたせいか。
 ピアスに似せた『武器』が壊される。それは今起きているノートンを眠らせる合図でもあり────昏々と時を待つ『もう一人』が目覚めるための、序章でもあった。




 甘い蜜月の時間を奏でていた女の姿が、一瞬で掻き消えた。
 今宵、薬を分け与えた男の目が咄嗟に彷徨う。見れば、しっかりと押さえ込んでいたはずの、擦り切れた目をした連れ合いの男の姿も忽然と消滅していた。狙いを定めたはずの恋人たちが、どこにもいない。まさか、逃げたのか? いや、逃げ場などあるはずがない。廊下からエレベーターまでの警備は厳重で、部屋の外に許可なく出ることなんてできるはずがないのだから。
 ベッドの上に膝を立てながら、男は室内を見渡す。そして程なくして、ベッドサイドに揺らめく影が立ち上がるのを理解した。
「な、なんだ」
 思わず、そのような疑念が声になる。シルエットを見る限り、それは痩せぎすの男の背格好に思えた。しかしその体躯は騙し絵のように、徐々に上へ上へと伸びていく。壁の方を向いていて表情こそ分からなかったが、それが明らかに常人の背丈ではないことだけははっきりと分かった。
 化け物だ。化け物が、そこにいる。
「な、なん、何なんだ……おいっ」
 男の叫びに、影がぴくりと肩を震わせた。それは少しだけこちらを向いて、口端に笑みを浮かべてみせる。まるで、男の恐怖が喜ばしいとでも言わんばかりに。
 そして影は、静かに炎を纏い始めた。
……あぁ。ようやく俺を呼んだのか』
 溶岩で形作られた尾をしならせ、結ばれた長髪の末端には千をも超える熱が宿る。妖しげな仮面に秘匿された素顔は見えないが、その口元には女王蜂と揃いの微笑みが浮かんでいた。背徳の赤、高貴なる金。それらを纏いながらも、そこに坐すのはまさに悪魔の風貌に相応しい。
 手にした神杖で空気を振り抜けば、おおよそ小さなホテルの一室には不釣り合いな火の粉が舞散った。それだけで、取るに足りないただの人間である男は喉から引き攣った声を出すばかりになってしまう。
 熔熱を意のままに操る異形は、くつくつと笑い声を上げながら傍らに佇む女に声を落とした。
『お前に呼ばれるのはいつぶりだろうな。貧乏性め、俺なら〈あちら〉よりよっぽど素直にお前のためを尽くすのに』
……黙ってくれるかしら、フールズ」
『ハ、俺を愚か者呼ばわりとは随分機嫌が悪いな。また〈表〉と喧嘩でもしたか』
「無駄口は不要です。私の言いたいことはもう分かるでしょう……危険薬は既に回収しました、あとはさっさと掃除をすること。いいわね」
 もちろん、と悪魔は嗤った。
 かしゃん、と鳥を模した神杖が音を立てる。フールズ、と呼ばれた異形が薄ら楽しそうにこちらを向いた時、ベッドの上で硬直していた男は密かに悟った。自分は恐らく、メリーに陥れられたのだと。
「ま……待て。プリニウス夫人、これは、どういうことだ! あなたの恋人のその変化、紛れもなく『組織』の秘薬によるものではないのかね!? なぜ、私に害を成そうとする。『組織』の力を借りているなら、我々は同志だ! なぜ私が襲われなくてはならない!?」
 じっくりとこちらに近づいてくる炎の悪魔に狼狽えながら、男は腕を懸命に振って同意を求めた。
 この女は、悪魔を使役している。それも『組織』が求める完璧な怪物を。それをどうして、自分を殺すために使うのか。女が果たして何を考えているのか、恐慌状態に陥った男に瞬時に理解することは不可能に等しかった。
 きっとそうだと分かっていても、メリーの静かな笑みは崩れない。むしろ慌てふためく様子が興味深いと言わんばかりに、彼女は溶熱の悪魔の横にそっと並び立つ。そして腰を抜かした哀れな主催者の顎をそっと持ち上げて、端的な回答を示した。
「毒を以て、毒を制す」
………
「これが答えです。ご満足いただけましたか? 私は目的を果たすためなら、手段は選ばない方針ですので。同僚がたとえ禁じようとも、それで大切なものを守れるのなら武器は多い方がいい」
……ハハッ、さすがはプリニウス夫人。噂に違わない冷酷さだ、あなたは前夫を使い潰すだけでは飽き足らず、哀れな青年すら悪魔の依代にするのか」
 がたがたと震える人差し指を、男はおもむろに持ち上げた。何を言うのかとメリーが眺めていると、それは恐怖の根源と化した悪魔の方へと向いていく。男は最後の足掻きだと言わんばかりに、大声で悪魔の不甲斐なさを詰り始めた。
「なぁ、君も気の毒だな! こんな血も涙もない女の道具にされて、何も感じないのか? 君のその杖でなら、この女を殴り殺すことできるだろう。なぜしないんだ、そんな簡単なことを!」
 唾を飛ばし、吐き捨てる男を悪魔はぼうっと見下ろしていた。やや小首を傾げ、男の放った言葉をじっくりと反芻する姿は、まるで神杖に飾られた小鳥のように無垢だった。しかし静かな時間は瞬く間に終わり、悪魔はにたりと笑いながら男の眼前に迫ってみせた。
『ペルセポネを殺す? 俺が?』
 低くざらついた、塵肺を患ったような声に、男は思わず身を竦ませる。
『お前、金持ちのわりに教養ないんだな。ちゃんと本を読んだ方がいい、おすすめは冥府下りだが────まぁ、読まなくても構わない。そんな時間はないからな』
 ヒュン、と何かが振り上げられる音がした。最初、男にはそれが何の音であるのか分からなかった。思わずつられるように彼が顔を上げた瞬間、追い詰められた主催者の視界には、巨大な神杖のシルエットがかかる。
 それは確かに炎を宿す武器でありながら……なぜか、どことなく粗暴なツルハシのようにも見えて。
『くたばれ。俺のペルセポネのために』
 そして最期に男が聞いたのは、悪魔が言い放つ女主人への忠誠だった。




 無音の一室に、赤黒い痕がこびり付いている。
 脳天を砕かれた人間だったものを見下ろしてから、悪魔────フールズ・ゴールドはくるりと後ろを振り返った。そこには自らの手を一切汚さず、代わりに目的の危険薬を得たメリーが静かに佇んでいる。怪物は女と揃いの目元を隠した表情で笑うと、ずるずると尾を引きずって主人の労いを求めた。
『望みは果たしたぞ、俺のペルセポネ。それでは代価を貰おうか』
……俺の、と言うのをやめて。私はあなたの妻ではないのだから。ペルセポネの夫はハデスで、プルートの妻はプロセルピナよ。教養がないのはどちらかしら」
 メリーの苦言に、なおも悪魔はヘラヘラと表情を繕うばかりだった。この怪物は、本当によく笑う。常に口数が少なく、不機嫌そうな顔を見せるばかりの依代とは真反対だ。鬱陶し気に悪魔を眺めながらも、メリーは静かに彼の前に佇んだ。
 ノートン・キャンベル。とある事故により重傷を負い、巡る巡ってこのデロス家に仕えることになった哀れな青年。身分の低い彼をれっきとしたデロス家の一員とするためには、普通の方法では貴族たちを認めさせることができなかった。相応の特異な理由を作らなければ、本来彼はこうしてメリーと超法規的な仕事には携わることはできなかったのだ。
 だから、彼女は用いることの許されない手段を選んだ。決して用いてはならぬとされた、人を怪物に作り替える『組織』の秘薬────そのおぞましい秘術を、身分の低い彼に投与するという大罪を。
いつかこの真実を知った時、同僚たちは決して自分を許さぬだろうということは分かっていた。『組織』の危険薬に恨みを持つフレデリックも、彼女が何よりも守りたいと願っているアリスでさえ……きっと、糾弾する側に回る。それだけのことを、メリーはノートンに強いたのだ。
 ……それでも、彼女に後悔はない。他でもない依り代の彼自身がそうなることを選んだあの日、『主人(ロード)』の薬棚から一瓶の薬を盗んだあの瞬間。メリーは、『組織』と同じ罪を背負ったことを今でも忘れずに生きている。
「それで。何が欲しいの、フールズ」
 ノートンという人間は強欲の塊だ。そうは言っても即物的なものを求めがちな〈表〉に対し、〈裏〉であるフールズ・ゴールドはやや夢見がちなことを口走ることが多い。薬の染み込んだノートンの身に、初めてこの悪魔を降ろした時のことを思い出す……メリーは辟易としながら、じっと怪物の痩躯を見上げた。その冷たい視線も面白いと言わんばかりに、悪魔はにやりと腰を屈めるのだった。
『では、俺と踊れ。お前たちが俺を置いてけぼりにして、生温い恋人ごっこに興じているのを見ているのは退屈だった』
「それは無理よ。あなたと舞踏会を決行したら、たちまち悪魔の玩具にされて四肢が吹き飛ぶに決まっているわ」
『つれない女だな。じゃあ物質的な報酬はどうだ? そら、お前の耳に垂れ下がる蝶のピアス……こちらの分は、俺を呼ぶのに壊しただろう。俺も〈表〉もかなり残念な気持ちになったからな、新しい品を寄越せ。ついでに新しい穴も開けろ。今回の代価はそれでいい』
 小さなアクセサリーが欲しい、だなんて。メリーは思わず含み笑いを漏らしそうになった。全てを焼き尽くす力を持つ悪魔が、殊勝にも契約者の私物たるピアスが欲しいと言い出すとは思わなかった。だが、それくらい叶えてやらねば悪魔の気は落ち着かぬのだろう。
 メリーはふっと張り詰めた顔の力を抜きつつ、頷いた。
「それでいいのね。てっきり大きな宝石でもせがまれるかと思ったけれど」
『今はそういう気分じゃない。その琥珀色の蝶がいいんだ……〈表〉の俺も、そう思っているようだからな』
 その言葉に、メリーの余裕癪癪の立ち姿は一瞬だけ硬直した。しかし、そんな些細な人間の機敏を感じ取れるほど、悪魔の情緒は育ってはおらず。
…………そう。それじゃ、膝をついてくれるかしら、フールズ・ゴールド。あなたたちのその片耳に、新たな傷を刻んであげる」
 告げると、悪魔は満足したような顔つきで身を低くしてみせた。右手に針を隠し持った女は、返り血まみれになったその頭を淡々と撫でる。そして、まるで血の通っていない冷たい怪物の素肌に指先を落とした。メリーに触れられた瞬間、悪魔はじっとその時が来るのを待つように目を閉じる。
「ノートン・キャンベル。その小さな空洞を、私との契約の証と心得なさい」
 ふたりきりの沈黙の暗室。光の乏しい穴倉のような空間に、ぱちんと何かを貫くような音が響いた。









「もう、本当に心配したんですからね!」
 キーボードを叩く音がぴたりと止まる。顔を上げたメリーの目の前には、ディスプレイ越しに頬を膨らませる愛らしいアリスの姿があった。
「ご心配をおかけして申し訳ございません、お嬢様」
「ア・リ・ス、デロスです! 事務所では主従はナシにしましょうと約束したのに、もう忘れたんですかプリニウス夫人!」
 いつもであればそれなりに大人しめの淑女として接してくるアリスが、此度は随分ご立腹のようだ。メリーは打ち込んでいた請求書のデータを一時保存して、さっさと彼女の不満に向き合うことに決めた。これは諜報員ペルセポネとしてではなく、デロス家に仕えるメイド長としての勘による判断だ。お嬢様は完璧なレディに見えて、その根底にある性格にあどけない少女を隠している。可愛い年下の友人の愚痴に付き合ってやらなければ、誰が彼女の相手をしてくれるというのだろう。
「プリニウス夫人と連絡が取れなくなって、おまけにキャンベルさんの通信機も故障するし……私、何かあったらどうしようかと」
「それはそれは」
「それはそれは、ではありませんよペルセポネ。彼女が『私、今から会場に突撃取材してきます!』などといって事務所を飛び出そうとしたのを、私が何とか食い止めたのですから、感謝していただけませんか……
 うんざりとした顔で会話に参入してきたのは、メリーの斜め前に座っていたフレデリックだった。なるほど、彼も彼でアリスと初めて組んだことでそれなりの苦労を味わったらしい。いい経験になったのではないですか、デロス家の方々は揃いも揃って猪突猛進というか、飛んで火にいる蛾の性質を持つでしょう? そんな目でフレデリックを見やれば、彼は呆れたように席を立ってしまう。
「まぁ、無事に薬品を回収できたのならそれに越したことはありません。私も任務で相応の治療費をいただくことはありますし……これを機に、通信機の買い替えを検討されてはいかがですか」
 疲れ切った声とは裏腹に寛容なフレデリックの発言に、メリーは「前向きに検討します」と返事をした。とはいえ、通信の断絶を意図的に誘発したのは他でもないメリー自身なのだが。そんなことは口が裂けても言えないので、彼女はそっと視線を外しながら鳴り始める受話器を手にして、会話の輪からそっと外れることにしたのだった。
「はい、オルフェウス探偵社です。はい、今月の請求の件ですね。はい、はい……
 再び仕事モードに戻ってしまったメリーを見かね、アリスは次の興味をフレデリックに移したようだった。相変わらず愛銃の手入ればかりしているフレデリックには、それなりに近寄りがたい雰囲気が醸し出されているはずなのだが……どうにも先の一件で、彼女は先輩に対する恐怖心を克服したらしい。無遠慮に「このピストルはどこで入手されたのですか?」と質問を投げてくるアリスの姿は、どことなくフレデリックのよく知る『主人(ロード)』によく似ていた。
「あの。あまり近くで見ないでください。暴発したら危険なので」
「クレイバーグさんはそんなヘマしないでしょう」
……あなたがた兄妹は、どうしてああ言えばこう言うというか、切り返してくるばかりなのか……あぁ、本当に話していて疲れる……
「お疲れなんですか!?」
………
 フレデリックの表情は、これ以上ないほどに呆れ色に染まっている。一体どう言えばこのお嬢様を黙らせられるのかと思案していると、おもむろに事務所の扉がばたんと開いた。
……なんだ。全員いるのかよ、もう少し下にいればよかった」
 ドアの向こうから姿を現したのは、先日の任務で無事危険薬を回収してみせたプルートもといノートンだった。彼はついさっきまで車両の整備をしていたのか、やや煤だらけの姿で小綺麗な同僚たちを見るなり、残念そうな表情を浮かべた。
「お疲れ様です。キャンベルさん」
「飲み物取りに来ただけだから。ここでおしゃべりしてる暇人と僕は違うんだよ」
 挨拶に対し冷たい言葉を返されたアリスだったが、怯む気配は微塵にも感じられない。その自信満々な態度が本当に苦手だ、と言わんばかりにノートンはさっさと貴族らの間をすり抜けて、日陰に設置された冷蔵庫をがばりと開いた。きんきんに冷えたミネラルウォーターを掴み取るその後ろ姿を見たフレデリックは、ふと見慣れない光の存在に気がついた。
 さっさと階下に去っていこうとするノートンがすれ違う間際、フレデリックはおもむろに彼を呼び止める。
「プルート」
……何。忙しいんだけど」
 振り向いたノートンは、邪険極まりない態度だ。しかしフレデリックは何気ない会話のように、他愛のない発見を彼に投げてみせる。
「それ、お似合いですよ。新しいピアスですか?」
 耳飾りには目のない男の指摘に、アリスもつられて「あっ」と声を上げる。見ればノートンの耳にはゆらゆらと揺れはしないものの、小さくささやかな琥珀色の蝶が留まっていた。一見すると目立たないが、光の角度によってはそれは黄金のように輝き、薄汚れた彼の姿に若干の洒落っ気を与えている。
 珍しい、あなたがそんな装飾を好むだなんて────そう言いかけたフレデリックだったが、言葉の途中でノートンの様子がどうにもおかしいことに気がつき、つい言葉を区切ってしまった。
……プルート?」
 敢えて、あまり刺激しないように声をかける。するとフレデリックの呼びかけに何とか応えようとしたのか、ノートンは少し気まずそうな顔のままふいと顔を逸らしてしまった。
「まぁ、ね」
 その隠れた表情が、あまりにも気恥ずかしさに塗れていたものだから。フレデリックもアリスも、それ以上何も言うことができなくなってしまった。
……じゃ、整備に戻るから」
 そそくさと踵を返すノートン。しかし、その背中に思いがけない低めの声が浴びせられた。
「そう、手入れもほどほどにね────プルート」
………!?」
 いつの間に、電話を終えていたのか。こちらを見つめる貴族らの向こうから、甘ったるい蜂蜜のような女が真っすぐにノートンを見据えている。その瞬間、ノートンはかあっと怒ったように赤く色づくなり、バタンと扉の向こうに逃げてしまった。
 どたどたと、エレベーターがあるにもかかわらず騒がしく階段を下っていく音が遠ざかっていく。同僚の突然の急変に、フレデリックは恐る恐る振り向いて女に問いかけた。
……プリニウス夫人。彼に、何かしましたか?」
 けれども、メリーは首を振るだけだった。何も思い当たることはない、しかしどことなくノートンがああなることは予見できていたかのように、彼女は一切の戸惑いのない態度でひらりと質問を躱していく。
「さぁ? あいにく、心当たりはないものですから」
 そう言ってのけるメリーの片耳は、飾り気もなく真っ新であった。