千代里
2024-08-02 12:59:03
11784文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その34


道中、竜の雄叫びを何度か聞くことはあったが、結局竜そのものに出くわすことはなく、ノエたちは無事に今夜の宿に到着した。
以前立ち寄った、ドラゴンズヘッドに似た作りの要塞には、入り口付近にすら騎兵が何人も配備され、ドラゴン族への警戒に努めていた。
もし、ベルナールから話が来ていなかったら、ノエたちも長々とした検問を受けなければならないところだった。突如訪れた旅人であるノエたちを滞りなく受け入れてくれたのは、間違いなく領主の口聞きがあったからだろう。
流石に、飛竜に攫われた人を助けるために来ているとは伝えられていなかったようだが、危険な道を行く訳ありの旅人であることは伝わっていたようで、案内役の兵士はノエたちの旅路を大層労ってくれた。
「実は先日、領土内で大きなドラゴン族による襲撃がありましてね。急ぐ旅とは聞いていますが、しばらくは竜の動きに気をつけた方がいいですよ」
今夜泊まる部屋の案内をしてくれた兵士は、皆に要塞内での注意事項を説明した後、現在の竜の動向について教えてくれた。
「それは、この先にある山に飛竜が向かっていたという話とも、関係がありますか」
「おや、よく知っていますね。確かに、ニヴェール領との境に広がる山脈で飛竜の姿を見かけた、という報告が届いているんですよ。あれは何日前のことだったかな……
情報の裏が取れてノエの表情が固くなる。
それを見て、兵士はノエが飛竜を恐れていると勘違いしたらしい。宥めるように軽く手を振り、
「とはいえ、ここ数日の報告には飛竜の話はなかったから、もうどこかに飛んでいってしまったのかもしれませんよ。たまにあるんです。移動中の飛竜が、この辺の山脈に滞在するってことが。でも、大体すぐにいなくなってしまうので、そこまで気にする必要はありません」
飛竜が訪れても、長居しない理由。それは、やはりこの地域一帯に飛竜が住みやすい環境がないからだろう、と兵士は語る。
「こっちで見かけるドラゴン族は、大体地上を移動できるように足が発達して翼が退化した奴らが多いんです。ドラゴン族同士でも、空を飛ぶやつと地上を行くやつじゃ、気が合わないんじゃないかって先輩方は話していましたね」
「その割には、先日の街の襲撃では飛竜と協力していたようだったが?」
オランローの質問に、兵士は数度瞬きを繰り返すと、顎先に指を当てて、
「そういえば、確かにランドンと飛竜が協力して迫ってきてたって話は聞きましたね。珍しいこともあると話題になってました」
「おや、ランドンもあの襲撃には加わっていたのかい?」
「はい。そのように報告を受けています。とはいえ、外周に姿を見せた程度ですけれどね」
兵士は肩をすくめ、よくあるんです、と付け足した
「その前に魔物が街中に出没するという襲撃があったそうですが、あちらでもランドンは姿を見せていました。奴はドラゴン族がヒトの住まいを襲うときは大体姿を見せているんですよね」
兵士の説明を聞き、ヤルマルも何か思案するような顔で指先を口元に添えた。数度の瞬きの裏で、瞳が行きつ戻りつしている。
「ああ、そうだ。ランドンの話をして思い出したのですが、皆さんにお伝えしておかなければならないことがあったんです」
今までは世間話をしているかのように表情を緩めていた兵士は、不意に一転して厳しさを帯びた顔でノエたちへと向き直る。
「実は、先日からこの周辺と付近の山脈でランドンの目撃情報が増えております。今までの活動報告では、奴はあまりこちらの地域に姿を見せていませんでした。しかし、此度の覚醒期においては、通常と違う行動が見られています」
旅をするのならば、重々気をつけるように。兵士はそう締め括って、部屋を後にした。残された面々は、しばしの緊張を交えて顔を見合わせたが、
「ここで考えていても、竜をどうにかできるわけじゃない。それよりも、今は休むことが先」
サルヒの至極もっともな意見を受けて、一行はようやく一晩の宿で息をついたのだった。

***

ゴオオオォォォ、と低い地鳴りのような音が耳朶をうつ。
まるで強い風が吹き込んだかのような音にも聞こえるが、あれは自然が生み出した音ではない。
砦にいても時折響く、竜の雄叫び。あれこそが『ランドン』と名付けられた竜の声だ、と教えられたときは、ノエは驚くと同時に不思議と納得もしていた。
他のドラゴン族とは一線を画す、遠くから聞くだけでも身構えてしまうような声。
ランドンが何百年も生きている竜だからこそ、あのような音を放てるのだろう。
思わず、ランタンを片手に窓の向こうを見てしまう。そのさきに、かの竜がいるわけないと分かっているのに。
要塞に辿り着き、念願の屋根のある寝床を手に入れたというのに、ノエはすぐに眠るような気持ちにもなれず、ランタンを片手に要塞内部を歩き回っていた。
すでに星が全天を覆うほどに夜も更けてきたというのに、兵士たちは寝静まるどころか慌ただしく廊下を行き交っている。彼らの邪魔にならないように気をつけながら、ノエは要塞内の奥まった部屋で一息ついた。
灯りもほとんどないような部屋ではあるが、夜の散歩で一休みをする分には問題ない。
物置として使われているのか、資材や貯蔵された武具が片隅に寄せられたそこには、小さな灯りとりの窓だけがあった。歪んだ硝子越しには、白に覆われた平原が見える。
再び、地の底から轟くような雄叫びがノエの全身を打つ。恐らくは、要塞内の兵士がこれ以上ランドンが近づかないように、竜への牽制を続けているのだろう。
近頃、この付近に姿を見せるランドンを警戒して、何度も竜を追い払うための出撃を繰り返していると、要塞の兵士は語っていた。
……ということは、僕たちが向かう先にはあの竜がいるのかもしれないのか)
竜と戦う覚悟はしていたノエであっても、流石に何百年も生きた竜を相手取るつもりはない。この数百年の間、幾度もランドンを仕留めようとしたが、彼を倒すという夢を果たせた者はいないのだから。
「あの英雄なら、ひょっとしたら……竜も倒せるのだろうか」
ふ、とそんなことを考える。
グリダニアの森で出会った、魔道士の少女。光の戦士として一躍有名になったあの冒険者なら、ドラゴン族すら軽く倒せてしまうのだろうか。
そこまで考えて、ノエはゆっくりとかぶりを振る。
そのようなありもしない夢に追い縋るなど、無責任にも程がある。現実にここにいるのは、英雄ではなく、凡百の冒険者である己と仲間たちだけなのだ。
「ランドンが今までと違ってこの地域に姿を頻繁に見せているのは、やはり今回の襲撃を考えた協力者がそこにいるからなんだろうか」
ルーシャンの推測が正しければ、ランドンの『らしくない』行動の全ては第三者の介入があってのことだ。
そうなれば、第三者ーー異端者が生活しやすい場所に、ランドンが生息区域を移すのもおかしくはない。だだっ広い雪原よりも、隠れる場所が多い山脈の方がまだヒトではある異端者としては、きっと住みやすかったのだろう。
攫われた人たちの救出の前には、異端者の首魁との対決や、ランドンとの邂逅という壁が立ち塞がっている。
自分の目的の前に立ちはだかる難関をどうすべきかと、ノエが思考の深みにハマっていると、
「ノーエ。何、そんな辛気臭い顔をしてこんな所にいるんだい。まるで、君自身がここの囚人みたいじゃないか」
ぽん、と肩を叩かれてノエはぼんやりと窓に向けていた視線を背後へと向け直す。
そこには、見慣れたヴィエラ族の麗人ーーヤルマルが立っていた。
「ちょっと、気持ちが落ち着かなくて夜の散歩を……それよりも、今、何て言いましたか? 僕が、囚人?」
「そうさ。この物置は、元々異端者や罪人を捕縛して勾留しておくための牢屋だったそうだよ。今は、場所を地下に移してしまったから、ここは物置として使っているんだってさ」
「よくそんな話を知っていますね。僕も初耳です」
「非番の兵士とおしゃべりをしていたら、教えてくれたのさ。一夜の宿とはいえ、仲良くなっておいて損はないものだよ」
そう言われて、ノエはやや気まずげに視線を落とす。
宿についてからも、ノエの頭はこの先の旅路をどうするか、ということで頭がいっぱいになっていた。そのため、要塞内の兵士と世間話をするなど考えてもいなかった。
見知らぬ土地を行くなら、情報収集は欠かせない。ウヴィルトータにも、そう教えてもらっていた覚えはあったのに、全く実践できていない己が恥ずかしく思えてくる。
二人の会話の隙間を縫うように、もう何度目になるかわからない雄叫びがノエの肝を揺らす。もっとも、その声は先ほどよりは随分と遠くなっていた。
……ボクもそれなりに長く生きたつもりではあったけど、あんな声は初めて聞いたよ」
ぽつ、とヤルマルが二人の静寂を埋めるように呟く。
「遠くから聞いているだけでも、あれを聞いたら竜は自分たちと全く違う存在なんだって思い知らされるね。森にいた頃も、蜥蜴や蛇に似た魔物とは何度も戦ってきたけど、竜は存在からして別格だ」
ヤルマルの言葉に、ノエも深く頷いた。
ノエも、竜と直接至近距離で剣を交えたのはこ、れが初めてだ。
異端者が変じた竜の姿を幼い頃に見たことはあれど、あの時は相手を倒そうーー殺そうと考えて剣を取ったわけではなかった。
しかし、こうして相手を倒さねばという考えのもとで相対すると、如何に竜が大きくて強大な存在かを思い知らされる。たとえ、それが飛竜のような小柄なものであっても。
「それに、竜は何百年も生きるんだろう。ボクたちヴィエラ族も、君たち只人に比べれば寿命が長い方だとは思うが、竜は更にその上をいく。一体、彼らにはどんな風に世界が見えているのだろうね」
「竜には、知性があるという話でしたからね。岩や木のように、何も思考せずただ漫然と存在している……というわけではないように思います」
何気なく言葉を返しながら、ノエは自分の心が幾分か軽くなっていることに気がつく。
ヤルマルと話をしている間は、この先の旅路とそこに生じる不安にのめり込まずに済む。
彼女と話をしていると、改めて一人でいたときの自分は暗い考えに沈み込んでいたのだと気がつくことになった。
「ヴィエラ族とは違って、竜は休んだり活動したりを繰り返しているんだよね?」
「僕も詳しくは知らないのですが、そうらしいですね。伝え聞いた話によると、大きな竜ほど、休眠期と活動期を繰り返しているそうです。ランドンは数百年を生きているという話ですが、そのうちの何割かは眠っていると考えるなら、実際に活動している期間はもっと短いのでしょう」
「ふうむ。眠っていれば、長く生き過ぎて、感覚のズレに苦労するってことは知らずに済むのかな」
ヤルマルが何気なく言った言葉は、長寿の種族ならではの重みが加わっていた。
彼女自身はさらりと口にした言葉だが、ノエにとってそれは馴染みのない感覚だった。
「感覚のズレ……ですか?」
「そうさ。たとえば、ボクにとって十年という数値は、森にいた頃は『そこまで昔ではない』って感覚だった。けれども、冒険者として旅立った後は何度もこんな言葉を聞いたよ。『久しぶり、十年ぶりだね!』ってね」
「ヤルマルさんのようなヴィエラ族にとって、時間の感覚は他の種族よりも随分と長いのですね」
「今は、だいぶん只人の感覚に合わせられていると思っているよ。それでも……そうだね。三十年ぶりに会う知り合いが、自分の知っている姿よりもずっと老いているのに、ボクは全く変わらない姿をしている。それについて、思うところは少なからずあるよ」
ヴィエラ族は、ある程度の成長を見せた後は、外見の変化が晩年まで訪れなくなる種族だ。結果、他の種族からは、いつまでも若々しい姿を保っていると思われることもある。
少なくとも、ヤルマルのいう『只人』であるノエも、そのような考えを持っている部分はあった。
「それでも、ボクは三十年という時間の経過の只中にいる。だから、三十の季節の巡りを、太陽の昇り降りを、日々の経過を知っている。だったら、再開した知り合いの姿が変わるのも仕方ないと思える。でも、聞いた限りだと、竜はそうじゃないんだろう」
「そうですね。ずっと眠っていて、たまに起きるだけだったなら……何だか、時間の感覚が大きくずれてしまいそうです」
長い間眠っていると人々には思われていても、竜にとっては一夜の微睡のようなものかもしれない。
一晩明けて見渡した世界が実は大きく様変わりしているなど、竜はきっと意識せずに過ごしているのかもしれない。彼らにとって、只人の目から見た一日も五十年も、似たようなものかもしれないのだ。
……だから、ランドンは今まで単純な攻め方しかできなかったのかもしれません。人々からしたら『何百年もかけて成長していない』と思われているかもしれませんが、ランドンにとってはたった数日か、良くても数年の出来事かもしれないのですから」
「なるほどね。そう考えるのはそこまでおかしいことじゃなさそうだ。彼は彼なりに、少しずつ成長しているつもりなんだろう」
そして、成長した成果の一つとして、ランドンは異端者の言葉に耳を貸すことを選んだ。
もし、ランドンが再び休眠期に入ったとしても、この記憶はランドンの中に確かな戦果として積み重なっていく。次に目を覚ましたとき、ランドンはより積極的に自身の協力者を求めるようになるかもしれない。
「できるなら、彼がそこまで頭が回る竜でないことを祈るよ。ほら、聞かせてもらった御伽話にあったような、間抜けでぐうたらな『ランドン』のようにさ」
「ああ……たしか、ランドンの名前は、その御伽話と関連して名付けられていたんでしたっけ」
それは、ノエがこの街に来た直後、アランに教えてもらった、竜になってしまった兄と弟の話だ。
勤勉な弟と、怠惰でありながら嫉妬深い兄。弟を貶めようと画策する兄は、いずれ竜となってしまったという教訓めいた内容が混じった童話である。
「父さんも、ランドンはこの街に伝わる御伽話と関係があるのかもしれない、とは話していました。単純に、討伐すべき竜に御伽話の悪役の名を与えただけなのか。それとも、ランドンという竜がいたから御伽話が生まれたのか」
「あるいは、ランドンは本当に竜になってしまったのかもしれないよ。弟を妬んだ兄は、弟を貶めるために竜血をあおった……とかね」
ヤルマルの示した仮説は、ノエにも一理あるものと思わせるものだった。
だが、そうだとしても疑問はいくつか残る。
「仮に、竜血を飲んだ大昔のヒトだとしたら、そのヒトは自分の寿命を逸脱して生きていることになります。いくら竜血を飲んだとしても、そんなことが可能なのでしょうか」
「うーん、そればかりはボクも専門家じゃないから分からないねえ。生きられるなら、今頃異端者はもっと増えていそうなものだけど」
「それに、もし元々がヒトであるなら、なぜ今でも僕たちを襲い続けるのでしょう。たとえ恨みを持つ相手がいたとしても、何百年も経っていれば、相手だってすでに死んでいるはずです」
ノエのもっともな疑問に対して、ヤルマルは肩をすくめただけだった。
ノエとしても、元々理屈のある回答が来るとは思っていない。これは、単なる眠くなるまでの暇つぶしの雑談に過ぎないのだから。
「ただ、ランドンが何百年も生きた竜であり、それなりに知性もあって、今もこの領地の人々を脅かしている。それだけは確かなことなんだろうね」
ヤルマルの言葉に呼応したわけではないだろうが、微かな振動が要塞全体に響く。それはもう何度も聞いた、ランドンの雄叫びだった。
……眠ったり起きたりを繰り返して、その度に自分の知っている世界が変わっていく。竜の生きる世界は、僕には想像もできそうにない)
結局、ランドンにとっては、ノエの父やそのまた父が積み重ねていった歴史も、かつてこの領土を治めていた者の奮闘も、さしたる意味を持っていないのだろう。
彼にとっては、瞬きと共に過ぎゆく束の間の闘争に過ぎないのだから。
そして、ノエも領主のベルナールも、ランドンが街を攻める理由を知ろうとも思わない。その意味では、竜もヒトも互いに対して無関心であるという点は変わらない。だからこそ、今も相いれずに戦い続けているのだ。
「そういえば、兵士の人から聞いたんだけれど、僕らが目指してる山の麓には天気が崩れなければ、遅くてもあと二日ほどで到着するらしいよ」
「本当ですか!? それまで、攫われた方が無事にそこにいてくれたらいいのですが……
「攫われた人たちの中には、コーディのような子供もいるんだ。仮に彼らが竜の血を飲まされたとしても、ヒトの姿を保ち続けているのなら、一晩かそこらで大移動というのは難しいだろうさ」
異端者の指導者は、わざわざ街からヒトを攫うという余録を大事な作戦に挟むぐらいには人手不足であるらしい。
領主を討ち取るという気構えで臨んだ襲撃が不発に終わり、切り札として潜伏させていた異端者まで討たれてしまった今、黒幕は自由に動かせる戦力を持っていないはずだ。
「だからこそ、ランドンをそばに呼んでいるのかもしれないね。彼がいれば、魔物や騎兵たちの襲撃を気にせずに移動が可能と踏んだのかもしれない」
「ですが、実際はあの竜が動くことで騎兵たちの活動が活発になります。ランドンに騎兵の気を引かせて移動するつもりなのでしょうか」
「そうかもしれない。とはいえ、これも全部仮定だ。ボクらはここの土地勘がないんだし、急ぎすぎれば事をし損じるよ」
今にも立ち上がらん様子のノエを見て、ヤルマルは先んじて釘を刺す。
しかし、それでもノエの表情からは拭いきれない焦燥のようなものが滲んでいた。
本当なら、寝る間も惜しんで強行軍で雪原を踏破したい。その思いは、目的に近づけば近づくほど、より強くなるばかりだ。
それを見越したかのように、ヤルマルはすっと目をすがめる。
「ねえ、ノエ。今日の昼も思ったのだけれど、君は今、平常心じゃないね」
そう見える、ではなく、そうだ、と言い切られてしまい、ノエは一瞬言葉をなくす。
すかさず「そんなことはない」と言おうと思った。
けれども、思い出してしまう。
昼に遭遇した狼に対して、撤退の意思を見せていた獣まで手にかけようとしかけた自分のことを。
……平常心でいられていないのは、事実だと思います。だって、僕は、皆さんを危険に晒してまで、危険な選択をしたんです」
自分でもその理由はうっすら分かっていた。。これがただの放浪の旅であったなら、自分はもっと気楽に構えていられたはずだ。
ここまで気持ちに制御がつけられない状態になっているのは、この旅が救出に赴くための旅路だからだ。
「これで、攫われた人を助けられたなかったら……成果もなく、ただ僕らが竜に襲われるだけになってしまったら……そんなことを、よせばいいのに何度も考えてしまうんです」
この救出行の話を持ち出したのはノエであり、皆はノエの意見に賛同して同行者として挙手してくれた。
だからといって、不慮の事故で命を落とした場合は、ついて来たと言った者に全責任があると開き直れるほど、ノエも豪胆ではない。いくら、本人たちが「危なくなったらお前を見捨てる」と何度も言ってくれたとしても、だ。
「ドラゴン族に襲われて、逃げる間もなく皆が死んだら……。そんなこと、考えるだけでも皆の決断を信頼してないと言っているようなものだとは分かっています。頭では、そんなことを考えるべきではないと何度も言い聞かせています。でもーー」
「でも、心配になるわけだ。君は……それだけ、ボクらのことを大事に思ってくれてるんだね」
ヤルマルの声音は、先だっての雑談と異なる柔らかさを帯びていた。それは、年を経た者だけが持つ、独特の含みであった。
その柔らかさに釣られるようにして、ノエは顔を上げて彼女を見つめ、不意に生まれた気持ちをそのまま言葉にする。
……ヤルマルさんは、すごいです。手配書の魔物を倒しに行く時も、古城で僕を助けて一緒に行動したときも、僕の目にはあなたは自分の決断に対して迷いがないように見えました。こんな最悪の結末が待っていたら、それが自分が口にした一言のせいで起きたら……そんな風には思わなかったのですか?」
誰かの依頼をなるべく引き受けようとする姿勢自体は、ノエとヤルマルはひどく似通っている。
だが、ノエが自ら手を挙げて、自分の意思で危難に飛び込むと決め、周りまで巻き込んでみせたのはこれが初めてだ。しかし、ヤルマルはこれまでも何度か、ノエたちに自分の依頼を手伝ってくれと持ちかけていた。
「そりゃあ、依頼を持ち込んだ者の責任として、自分の持ち込んだ依頼で誰かが死んだり傷ついたりしたら、思うところはあるさ。本当にこの決断で大丈夫だったか、自分のミスで他人を巻き込んでしまわなかったか、と感じることもある」
……今の、僕のように?」
「そうさ。そして、ボクは最近までとてもずるい言い訳を持っていた。ボクはヤルマルだけど、ヤルマルじゃない。だから、できなくても仕方ないんだ……って」
それは、ノエも断片的に聞かされたヤルマルの過去に触れることだ。
ヤルマルには兄がいた。本人曰く、とても出来のいい優れた兄が。
その兄の後を追うように、ヤルマルは兄の名を背負い、百年以上もの年月を生き続けていた。兄のように振る舞い、兄のような選択をする。それが、ヤルマルが自身に課した生き方だった。
けれども、今、彼女はそれを『ずるい』と称した。
「自分がしたはずの選択なのに、まるで自分じゃない誰かに責任があるかのように思おうとした。思い切れなかった部分もあったけれど、少なくとも一度は棚上げしようとしたんだ。そういう生き方を、ボクは今まで『よし』としていた」
しかし、ヤルマルは、かつての自分を否定するようにゆっくりと首を横に振る。
「でも、今はちゃんと分かっている。それは、ボクにとっても相手にとっても良くないことだ。誰も傷ついていなかったとしても、やっぱり……良くないことだ」
ヤルマルは手を伸ばし、ノエの胸にトンと拳を押し付ける。
「だから、悩むのなら存分に悩めばいい。そうやって不安だったり自分への疑問を抱えておくことこそが、依頼に同行してもらう相手に対して、一番誠実な振る舞いだ。少なくとも、ボクはそう思う」
……たとえ、うまくいかなかったとしても? 答えが出せなかったとしても、ですか」
「答えが出なくても、それが君ならいいんじゃないかな。悩みすぎて答えが出ないことも、また一つの答えだろう」
ノエの胸に押し付けられた褐色の拳がそっと離れ、続けてノエの腕をーーその右手を包む。ちょうど、昼の戦闘で、剣を握ったまま強張ってしまった指を解すかのごとく。
「だから、焦る必要はない。今日のアレは、あまり君らしいとは言えないことだった。決めつけてしまうようで、申し訳ないけれどね」
……僕らしく、ない」
「そうさ。狼たちを傷つけたボクらが言えた口ではないかもしれないけれど、彼らはボクらに恨みがあって襲ってきたわけじゃない。ヒトを積極的に殺すような魔性に取り憑かれたわけでもない。何がなんでも殺さなければいけない、という理由はなかった」
強いて言えば、狼たちが起き上がって再び襲いかかってくる可能性も少しはあったかもしれない。けれども、ほんの微弱な『かもしれない』のための殺害を、ノエは許容できるのか。
「君は、『かもしれない』という理由しか持たない相手の息の根を止めるために、剣をとろうと決意したのかい。もし、『そうだ』と言うのなら、今度からは止めないよ」
……いいえ、そういうわけではありません」
それは、最も恐ろしい考えだとはわかる。仮定で相手を傷つけていいとなってしまったら最後、目につくもの全てを切り捨てるような結末に至ってしまう可能性もあるのだ。
「でも、あの瞬間の僕は、確かに似たようなことを考えていました。今までの僕のような甘い判断は、皆を危険に晒すだけなんじゃないかって」
自分の決意のために他人を傷つけることになるかもしれない、と予想はしていた。
それでも、攫われた人を助けるためならば、と剣を取った。
終わりのない問答に悩んでいるよりも、今は窮地に晒されている人を優先すべきだと思えたからだ。
「僕が決めたんです。危険を承知で、攫われた人を助けに行くのだ、と。だったら、たとえ相手が異端者でなくても……人で無くても、そんな所で躊躇している場合ではないだろう、と……そう、思ったんです」
「それで、狼相手にあそこまで徹底的に対応しようとしていたってことか」
ヤルマルに改めて確かめられ、ノエはその時の自分の気持ちを反芻しーーやがて、頷いた。
こんな所で立ち止まってはいられない。こんな場所で、狼如きに躊躇している場合ではない。そう思う気持ちに突き飛ばされるように、ノエは剣を振り上げていた。
「ボクが言うまでもないことではあるけれど、君は無闇な殺生を好む人じゃない。だが、今の君にとって、それは枷のように思えているらしいね」
……自分で、決めたんです。たとえ相手が異端者であっても剣を向けると。それなら、僕はちゃんとそうしたいんです」
「その決意に水をさすつもりはない。でも、だからって今までの君を全て否定しなくてもいいんじゃないか」
ノエの手は、手袋に包まれていてもわかるほどに固い。
剣を握り、盾を握り、今日まで戦いを続けてきた者の手だ。ヤルマルは、ちゃんとそれを分かっている。
「ですが……
「君の躊躇いも、大事な君の一部だ。今は少し蓋をしておこうと決めたのだとしても、完全に捨ててしまう必要はない」
ノエの手から、ヤルマルの手がするりと抜ける。微かに感じていた熱が遠ざかり、代わりにその手はノエの頭をぽんぽんと軽く叩いていた。先輩として、後輩を励ますかの如く。
「今までの自分を捨て去ろうって意識しすぎると、ボクみたいになってしまうよ。第一、ボクは、今までの君も気に入っているんだ。だから、そんなにあっさりと全部作り変えようとしないでもらえると嬉しいね」
「ヤルマルさん……
会話に生まれ出た隙間を埋めるように、微かに響く人の声がノエの耳に届く。
聞くともなしにそれを耳に入れながら、ノエはヤルマルから渡された言葉を胸の奥にしまう。
……迷っている場合じゃない。そう思うあまり、僕は僕自身すらも望まない形になろうとしていたんだろうか)
こればかりは、自分で分かることではない。とはいえ、他人に言われても素直に受け入れられるものでもない。
答えは、未来の自分しか知らないことだ。それでも、その先を予想して己の考えを俯瞰して、見つめ直すことはできる。
「ま、要するにもう少し気楽になりなよってことだ。さっきも言った通り、答えの出ないままでいたっていい。それだって、ノエっていう冒険者の一部だってボクはちゃーんと知ってるんだからさ」
雑談の締めくくりにそう言うと、ヤルマルはもたれかかっていた木箱から離れ、うんと大きく伸びをする。
ノエも、ヤルマルに釣られるように同じく体を伸ばす。そうして、彼は初めて自分の体に走っている緊張に気がついた。
ぎゅっと目を瞑って思い切りのびをしているノエに、ヤルマルはにやりと笑うと、
「ははっ、どうやら君の体もすっかりガチガチになっていたみたいだね。軽くほぐしてから休むといいよ。寒いところにいると、どうしたって体が固まってしまいがちだからね」
「そうみたいですね。体を温めてからゆっくり休むことにします」
体が固まっているように感じた理由は、単に寒いからだけではないことは、きっとヤルマルも気がついている。
それでも、これ以上はノエの内面に触れるような話題をしなかったのは、眠る前に気持ちを切り替えてもらおうという彼女なりの心遣いか。
ランタンを片手に、元牢屋だという一室から出る。元々いた部屋が必要最低限しか照明を置いていなかったこともあり、廊下を照らす照明の数々だけでもノエの目には眩く見えた。
並ぶ照明の灯りの暖かさに、ふと気持ちが緩む。おかげで、ノエの心の奥に凝っていた塊も、少しずつ溶けていくような気がした。
(ーー大丈夫。今夜はぐっすり眠れる)
悩むのだとしたら、眠りづらい夜の時にでも考えればいい。今は、用意してもらった寝床の温かさをじっくり堪能しながら体を休めよう。
そう思うと、口角がふっと緩む。思えば、旅立ってからこうして自然に心の底からの笑みを浮かべる機会が殆どなかったように思う。
胸の内に灯った灯りを大事に抱えて、ノエは要塞の廊下をいく。
その後ろを歩くヤルマルが目を細め、幼子を見守るように彼の背を見守っていることを、ノエが気づくことはなかった。