千代里
2024-08-02 08:27:26
11639文字
Public リーブラ13話
 

リーブラの針は問う・13話・その33


ざくざく。さくさく。チョコボの爪が地面を蹴る音が一定のリズムで耳に届く。
乗り手に伝わる振動こそ雪のない地域のチョコボと同じで、お馴染みのものである。
しかし、延々と続く白い景色と、地面を蹴る音は積雪した地域ならではの風情だ。
雪原を行く、六羽のチョコボ。それは、飛竜に攫われた人を助けるために領主の街を旅立ったノエ一行だった。
飛竜が巣としているらしい山に向かうまでの手段として、ノエたちはチョコボを使うことにした。徒歩で行くのは時間がかかりすぎるし、何よりこの寒冷化したイシュガルド皇国内を地の利がない自分たちが徒歩で移動するのは自殺行為だと分かっていたからだ。
危険な旅路になると分かっていたので、いつもより多めの代金を貸しチョコボ屋に払い、ノエたちはチョコボに乗って、雪原の旅を続けていた。
チョコボ飼育の本場であるイシュガルドのチョコボは、グリダニアの牧場で見かけたチョコボよりも幾分か大きく見える。きっと、雪道や山道を駆け抜ける足腰の強さを求められるからだろう。
チョコボの旅は、ノエが予想していたような危険に遭遇することもなく、順調に進んでいた。
一団の先頭は地図を持ったサルヒが受け持ち、しんがりは目と耳のいいヤルマルが担当している。一行の中ほどにあたる場所にはノエとオランローが陣取って、周囲の警戒のために首を巡らせていた。疲れた時は、ルーシャンと見張り役を適宜交代するという布陣だ。
そして、見張りを担当しないオデットは第二のナビゲーション役として、地図と羅針盤と太陽を確認しながら一行の道筋が正確かを確かめていた。
「思ったよりも、道がしっかりしていますね。昨日は一度雪が降っていたので、どうなるかと思ったのですが」
周囲を見渡しているノエに声をかけたのは、地図を確認していたオデットだった。
他の面々と異なり、オデットは周りに注視する役を受け持っていない。その分、彼女は緊張により固まりがちな空気を和ませる役割を受け持っていた。
「そうだね。今日の天候は悪くなさそうだし、予定していたよりも早く目的の砦に着きそうだ」
ノエが話している砦とは、今日の到着を目指している防衛拠点の一つだ。砦と呼ばれてこそいるものの、見た目自体はイシュガルドに辿り着く前に泊まった、ドラゴンズヘッドと呼ばれていた要塞を小さくしたようなものである。
旅立った初日にも似たような建物に泊まらせてもらい、その時に各地に似たような砦が建てられていると駐留した兵士は語っていた。
領地の各所に点在しているこれらの砦は、近隣の村落が魔物に襲われないようにするための警備隊でもあり、領地を行き来する商人たちの宿でもあるのだそうだ。
実際、グリダニアでもたまに見かけていた旅宿を、より軍備的な面でも整備したようなつくりだとノエは感じていた。
「外で寝泊まりするときは、屋根のある場所を探すところから始めないといけないからな。それに比べりゃ、今日は楽をさせてもらえそうだ」
オデットの隣でチョコボを走らせていたルーシャンが、噛み締めるように呟く。
ここに至るまで、一行は三度の夜を超えていた。そして、そのうち二日ほどは外泊を余儀なくされたのだ。
そのどちらも、寝泊まりする場所を探すのは一筋縄とはいかなかった。
一度目は運良く廃墟となった村落を見つけられたから良かったようなものの、二度目は日が落ちる直前に洞穴を見つけ、皆で転がり込むように入って一夜の住処としたのだった。
「その砦に到着したなら、あとは真っ直ぐ北に向かえばいいだけのはずです。そこから更に二日ほどチョコボで走った先に、占星台を兼ねた要塞があるはずです」
ノエは頭の中に地図を広げ、今回の目的地までの道のりを逆算する。
ベルナールがいる街を旅立って、三日と半分が過ぎようとしている。攫われた人のことを思うとなるべく早く追いつきたいと思うが、残念ながらこれがノエたちのできる精一杯だった。
幸い、飛竜が飛び去った先の山脈と街との間の距離は、領地の半分ほどを縦断する程度で済んでいる。領地の端から端までを行くような道のりではないため、当初予想していたような長距離の旅路にはならないだろうと予想していた。
もっとも、それでも寒空の下に備えもなしにこれだけの期間放り出されていたなら、間違いなくヒトは死ぬ。願わくば、異端者が攫った人を丁重に扱っていることを祈るばかりだ。
高速で空を移動できる飛竜の移動速度なら一日もかからない距離かもしれないが、地上をいくノエたちにとっては、一っ飛びとはいかない距離なのだから。
(攫われた人たちに竜血を飲ませたいのなら、その人たちは生きていなくちゃいけない。運んでいる間に死なれては困るから、移動距離を抑えたのだろうか)
できれば、その選択が自分たちの旅路にとってて吉と出ればいい。
チョコボの足が遅いとは言わないが、やはりもどかしさを拭うことは未だにできそうになかった。
「目的地にも近づいてきたのですし、本当なら、夜も移動に使いたいところなんですが……やっぱり難しいですよね」
逸る気持ちが、ついノエの唇をついて形になる。しかし、その言葉を聞いてすかさずルーシャンが首を横に振った。
「よせよせ。街道のように灯りもない上に、ろくな目印もない雪原を真夜中に行くなんて自殺行為だ。俺たちがこうして目的地に向かって移動できているも、羅針盤と太陽の灯りと地図があるおかげなんだからな」
焦るノエを、ルーシャンの至極もっともな論が宥める。これも、この旅路の間ですでに何度か交わされたやり取りだった。
ルーシャンの言う通り、日が落ちた上にこの辺りでは天候が崩れやすく、月が出ない夜も多い。結果、夜になれば周辺は黒一色に染まる。
ならば、灯りをつければ良いのではないかとも考えたが、黒一色に染まった雪原で灯りをつけようものなら、今度は魔物や獣が格好の餌を見つけたと襲いかかってくる。それは要塞で出会った兵士が教えてくれたことだった。
それに、雪だまりになっているような場所を見落としてハマったり、崖や窪みを見落として滑落する事故も夜に多いとのことだった。そんな話を聞かされても、夜道を行くと主張することもできず、ノエたちは日が暮れたら無理に移動しないと決めて、これまでの道のりを踏破していた。
「それに、サルヒさんが歩きづらい道を避けて案内してくれているおかげですね。こちらに向かう街道がないと聞いたときは、どうなるかと思ったものですが……
「サルヒの出身は、草原を流離う遊牧民だって話だからな。道なき道を行くのは慣れているんだろ」
ルーシャンの声が聞こえたのか、前方を行くサルヒの紺色の小さな頭が微かに上下に揺れる。オデットの言う通り、ノエが向かおうとしていた山脈に向かうための最短ルートの街道は存在しなかった。もし街道を使って山脈の近くに向かうなら、結果的に大きく迂回することになってしまう。いくら安全策を取りたいと考えていても、旅の目的を思えば流石に悠長に迂回路を使おうとは一行の誰も口にしなかった。
「それに、兄さんが恐れていたような竜の襲撃も、今のところはありませんね。もっと頻繁に襲いかかってくるものかと思っていたのですが……
「たしかに、彼らの巣に近づいている割には、警戒が薄いような気がするな」
オデットに促され、ノエはちらりと空を見上げる。
鈍色の雲に覆われた天蓋には、相変わらず鳥以外の影はなさそうだ。この三日間と少しの旅路において、ノエが出立前に危惧していたように、竜の大きな影が空を覆うことは一度もなかった。
「飛竜はランドンの仲間じゃなかった、という俺の予測が当たっていたのかもな。用が済んだなら、奴らは奴らで自分たちの住処に帰ったのかもしれない」
「竜同士なのに、仲良しというわけではないんですね」
ルーシャンの推測に、オデットは微かに驚きを交えて答える。
「そりゃあ、ヒト同士だって一緒にいたいやつ、顔を見るのも嫌なやつって好みが別れるだろ。竜だって、自分が付き合う相手ぐらい選ぶだろうさ」
「ランドンという竜には不運なことかもしれませんが、僕らにとっては幸運でした。飛竜が味方をしないのなら、空からの攻撃に警戒しなくて済みますから」
ランドンにあれこれ吹き込んだのは、異端者の一人に過ぎないという推測が正しければ、ノエたちにも勝ち目は見えてくる。
長い時を生きて進化したドラゴン族に比べれば、竜血を飲んで竜に変じただけの異端者は騎兵数名でも相手取れる相手だ。実際、ノエはオデットと協力して異端者が変じた竜を仕留めることに成功している。
「このまま、ドラゴン族に会うことなく皆さんを助けられたら良いですね」
「ああ。僕も、そうあることを願っているよ」
ノエとオデットは、前向きとも楽観的とも取れる言葉を交わし合う。
……相手を軽く見るってのは普通は賛成しないが、気持ちが軽くなるなら、今の時点なら問題ないか。変に肩に力が入るより、余程いい)
チョコボの手綱を握る手を軽く緩め、ルーシャンは再び警戒に戻ったノエの背中を見つめながら、そう思う。
出立当初から、ノエの全身には隠しきれない緊張が漲っていた。今も、完全に本調子とは言えなさそうだ。
もっとも、すでにノエは攫われた人を助けるために危地に赴くと決意し、そのためには異端者を殺すという選択までしてみせた後だ、
(そんなノエを、今までの『いつものノエ』と比較していいものなんだろうかね)
内心で独りごちながら、ルーシャンはノエの横顔をそっと伺う。常よりも眉間に力がこもり、唇を強く引き結んでいることに、果たして本人は気がついているのだろうか。
「おい、ノエ。……右翼に何か影が見える。おそらく、魔物かこの辺りに生息する獣だ。数は複数」
オランローの警戒の混じった声に、ノエも目を凝らし、なだらかな起伏が作り上げる雪原に目を凝らす。そして、彼の青銀の瞳は、一面の白の世界に滲む黒い影をしっかと捉えた。
「オランローの方もか。僕の方でも確認できた」
自分たちに近づく、何かの存在。それらを察知して、ノエはすぐさま耳に捩じ込んだリンクパールに指を当て、
「サルヒさん! 両翼に何かーー」
「皆、止まって! 前方から狼が二体来てる!」
ノエが報告をするより先に、サルヒから行軍を中断せよとリンクパール越しに声が飛ぶ。
「私が迎撃する。撃ち漏らしたら対応をお願い!」
ノエたちより数ヤルム先を走っていたサルヒは、チョコボの手綱を引き、自らが騎乗するチョコボを止まらせる。続けて、彼女はすぐさま背に負っていた弓と矢筒に手をかけた。
チョコボに騎乗したままでは、斧を振るうことはできない。乱戦ならいざ知らず、交通の足を守りながらの戦闘なら弓を使ったほうがいいと考え、今の彼女は弓矢を武器としていた。
だが、今はサルヒの弓捌きを観察している余裕はない。
「両翼から来てるあれも、狼か?」
オランローが疑問を口にした瞬間、ノエの耳にさらなる通信が飛び込む。この着信音はヤルマルのものだ。
「ノエ、このまま疲れたチョコボに鞭打ってこの場を乗り切るか、それともチョコボから降りて迎撃するか、今すぐ選んでくれるかい」
「ヤルマルさん、一体どうしたんですか」
「狼だ。しかも、群れのようだよ。じきに囲まれる。チョコボの今の様子だと、逃げ切れるか怪しい。すでに止まってしまった後でもあるからね」
ヤルマルの言葉は他の者にも届いたらしい。自分が停止の連絡を放ったことを後悔したのだろうか、サルヒの吐息に小さく後悔の気配が混じる。
とはいえ、進行方向を妨げる位置に布陣した狼を前にして、一目散に突っ切るのが最善であるとすぐに言えるものではない。サルヒが静止を促したのも、無理からぬことだ。
「僕らも迎撃します。ヤルマルさん、後方からも来てますか」
「ああ、何匹か見える。ただ、こっちの相手は任せてくれて構わない。ノエ、オランロー。左右からのやつらを頼む」
ヤルマルの通信が切れると同時に、ノエはチョコボの手綱を強く引いた。
静止を促されたチョコボは、甲高いひと鳴きと共に、おとなしく足を止める。
「オデット。僕のチョコボとオランローのチョコボを頼む」
「はい。ちゃんと守っておきます」
オデットは、素早くノエのチョコボの手綱を引き取った。
手綱を渡したノエは、鞍から滑り降り、腰の鞘から剣を抜き放つ。新調したばかりの剣は、曇天越しの薄い日を浴びて鈍く光っていた。
「お二人さんの援護は、俺とお嬢ちゃんに任せておいてくれ。油断するなよ」
「はい。ではーーいってきます」
硬さは残した声音で出立の挨拶を告げ、ノエは駆け出す。
オデットもルーシャンも、己の武器を構え、左右から近づく獣の群れに意識を集中させた。

***

ぱらぱらと点在する針葉樹に、時折姿を見せる岩の数々。それ以外は目立った遮蔽物もなければ、起伏に富んだ地形もなく、なだらかな平野が続く。それが、この土地の特徴だ。
なるほど、この地形では飛竜のように飛行に特化した生き物では住みづらかろう、とオランローは思う。
しかし、空の支配者がいないのなら、勢力を伸ばすのは地を行き交うものたちだ。
たとえば、先だって倒したアルケオーニスのように陸上歩行に特化した魔物。
そして、たとえば今相対しているような雪原で生きる獣たち。
中でも狼は、とりわけ狩りという行為に関しては馬鹿にできない知性の高さを示す。
「恐らく、狙いはチョコボだろうな。ヒトに飼われたチョコボは、野生のチョコボよりも大人しいと知ってのことか」
呟きつつ、オランローは腰に吊るしていた円月輪を構える。彼が相対している狼の群れは四方に散らばってこちらを包囲し、じわじわと追い詰める策をとったようだ。
群れの進行方向に割り込んで、先頭を行くサルヒの足止めをする。そうして、足止めをしているうちに四方八方から一気に襲いかかる。そうすることで、こちらが混乱するのを待っていたのだろう。全てを食い殺せなくても、チョコボの一羽が混乱して飛び出しでもすれば、それだけで狼にとっては儲けものだ。
だが、今回はヤルマルが一手早く狼たちの作戦を読み取ってくれた。ゆえに、獣が作り出した包囲網に対して、混乱が一行に伝播する前に迅速に対処ができたのだ。
狼を視認するよりも前に、オランローは呼吸を整えて既に武の舞のステップを軽く踏んでいた。彼の戦い方は、ノエやルーシャンのように爆発的な火力を一瞬で生み出せるものではない。事前準備としてステップを踏むのは、オランローにとっては戦闘前に呼吸を整えるのと同じくらい必要なことだ。
狼の一群のうち、一際大きな個体に促され、小さな個体が二匹、速度を上げてこちらに向かってくる。
「斥候を放って、こちらの力を見る頭もあるということか」
悪くない判断だ。敵対するこちらとしては、相手の知恵が回るのは勘弁してほしいところではあるが。
飛びかかってきた狼たちに向けて、円月輪をそれぞれ放つ。一つはカーブを描き、狼の首を切り裂きながら宙へと舞った。だが、もう一投は狼には届かず、接近を許してしまいそうになる。
とはいえ、それも織り込み済みだ。
「まずは、こいつから……!」
既に踏み終わった舞のステップから立ち昇る、魔力の奔流。魔力を流し込んだ舞や足遣い、体そのものの動きは、一種の魔法としての効果を持つ。
オランローが生み出したそれは、近づいた物の体を切り裂く風となり、何も知らずに突っ込んだ一匹の体を切り裂いた。ぎゃう、と悲鳴をあげて、斥候の一匹はオランローから距離を置く。その腹部から落ちた血が、雪原に転々と赤を残していた。
斥候の二体の返り討ちを見て、群れを率いているリーダーは手勢を小出しに襲い掛からせては不利になる、と判断したらしい。後ろに控えていた四体の狼とあわせて、ほぼ時間差もなくオランローへと肉薄する。
「こいつらが盗賊でなかったのは僥倖だったな」
一斉に襲いかからせるように見えても、わずかに攻撃に波を作るのは忘れていない。そのせいで、こちらが迎撃しなければならないタイミングがずらされる。
戻ってきた円月輪を改めて投擲するも、そのどちらも今度は回避されてしまう。円月輪はその武器の特性上、軌道が読まれやすい。日頃、素早く動く獣を追う狼にとっては、回避は容易い武器だったようだ。
オランローのすぐそばに迫ってくる二体の獣に、彼は舌打ちをする。先だってのように、舞の仕込みはまだ済んでいない。
「ならば、こっちだ……!」
舞と共に身体の内で高まっていたエーテルを練り合わせて作りあげる、魔力の扇。それをひとたび振るえば、溢れ出る風が牽制となり、狼の一体を弾き飛ばす。
それでも、残りの一体は、あと一飛びでオランローに迫る距離まで肉薄していた。
(喰らい付いてきたなら、格闘術に持ち込むしかないか)
肉を切らせて骨を断つ、という格言はどこで聞いたものだっただろう。
命さえあれば、後でオデットの治癒魔法に治してもらえる。今は、この場を凌がねばと考えた矢先、
「オランローさん! 目を瞑ってください!」
オデットの澄んだ声と共に、オランローの目の前で光が爆ぜる。
警告に促されて、目を細めて差し込む光の量を調整していなかったら、目そのものが光と雪の反射で暗転してしまっていたかもしれない。
光の奔流は長くは続かず、オランローは片目だけを素早く開き、状況を確認する。
突如生まれた光は、狼の体を熱波のように炙ったようで、襲い掛かろうとしていた三体の体からは肉が焦げる嫌な臭いがした。
しかし、リーダー格の大きな個体だけは、それでもオランローに一矢報いようと考えたのだろうか。飛びかかる気力はなくとも、オランローの脚部へと喰らい付いてきた。
「その根性だけは褒めてやる。だが、自分の状態を考えずに突っ込むのは、愚か者の所業だぞ」
一言そう呟きつつ、オランローは自身の足を蹴りの要領で勢いよく振る。
あっけなく振り解かれた狼は雪の上にべしゃりと落ちた。忌々しげにこちらを睨んでいるものの、立ち上がる力はもうなさそうだ。
足に噛みつかれた傷も、オランローが見ている間にゆっくりと塞がっていく。傷を覆うように光の輪が幾重も取り巻いていたので、これもオデットの魔法なのだろう。
……出会ったばかりの頃は、ノエのそばにいたいと息巻くだけだったの子供だったと思っていたんだがな)
残心を解かず、眼前の狼たちを睨むことで牽制しつつも、オランローはそんなことを思う。
ノエのそばにいるためには、文字通り捨身になるしかなかった頃に比べれば、彼女は多彩な魔法を操り、皆を支えられる立派な魔道士になった。それもひとえにノエのためなのだ、と本人は言うのだろう。
幸い、狼たちはこれ以上オランローに逆らうつもりはなかったらしい。よろよろと立ち上がってはいるものの、尻尾は垂れ下がり、こちらを見つめる瞳にも戦意よりも先に警戒と怯懦(きょうだ)の気配が滲んでいる。
オランローは円月輪を再び構え、再び隙を突こうなどと考えられないように、彼らをじろりと睨みつけた。

***

オランローがオデットと協力して狼を迎撃している頃、ノエもまた盾と剣を振るい、狼の一群と相対していた。
オランローの相対した一群が統率のとれた群れだったのに対して、ノエが会敵した群れにはそのような統率力のあるリーダーはいなかった。
だったら、リーダーのいない一団はどうやってノエの前に立ちはだかったか。
答えは至極簡単、一斉に飛びつくーーただそれだけだった。
……獣を相手にするのは、久々とはいえ……やっぱり、やりづらいな……っ!」
だが、ヒトには腕が二本しかない。どう足掻いても、得物は二つしか振るえない。
おまけに、ヒトの目もやはり二つしか存在しない。何かを視界に入れるには首を動かすしかない。ヒトとは、そのような構造をした生き物だ。
故に、リーダー不在といえども、四方八方から飛びかかってくる四匹の狼を相手にするのは、決して楽なことではなかった。
右から迫る狼の牙を盾で塞げば、今度は左の脇腹目がけて狼が食らいつかんとする。それを肘で殴りつけて叩き落としている間に、
……うっ」
左足のブーツに狼の牙が突き刺さり、ノエは一瞬顔を歪めた。
だが、苦悶を顔に出している時間すら今は惜しい。喰らい付いた狼を蹴飛ばし、かろうじて得た自由を使い、障壁の魔法を発動させる。シェルトロンと呼ばれるこの技のおかげで、ノエは防具に致命的な破損を受けることなく、今まで狼と相対できていた。
(だけど、このままじゃいずれ障壁を削られて、追い詰められてしまう)
もし、これが一人だったなら、そして何の目的もない旅路だったならノエは逃走を選ぶこともできた。
しかし、今は狼に背を向けて逃げている場合ではない。
友達を助けてくれ、と必死に声を上げた少年の姿が蘇る。
孫を救ってほしいと見知らぬ旅人にすら縋った老爺の声が耳の奥でこだましている。
(僕は、こんな所で立ち止まっている場合じゃないーー!!)
再び喉元に喰らい付いてくる狼を盾で塞ぎ、片腕に喰らい付いてくる一体は障壁で防げていることを確認して、ノエは意識を集中させる。
練り上げた魔力は、一点に集約させるのではなく、あたりに拡散させるように。それでいて、破壊力は込めるのを忘れずに。
……今は、先を急ぐ必要があるんだ。だから……お前たちに構っている暇はない!!」
己を奮い立たせる言葉と共に、ノエが振り上げた剣先から魔法が放たれる。
光の渦が宙空に生み出され、それが渦をなし、弾ける。降り注ぐ光は熱となり、不可視の刃となり、狼たちの脅威となって降り注いだ。
辺りに飛び散る、獣の血。それが一瞬、自分が殺した異端者の血と重なるも、動揺を抑えつえてノエは狼たちが次なる一手を打つ前に、剣を横なぎに振るう。
それにより、まだ飛び掛かろうとしていた一匹が、ノエの刃に切り裂かれて絶命する。
しかし、それを確認する前に、ノエはよろよろと立ち上がりつつあるもう一匹の狼へと向かう。すでに手負いとなり、こちらに向かう気力もなさそうな一匹に対して、剣を振り下ろさんとして、
「ノエ、その辺にしておくんだ」
その腕を、横から掴む者がいた。
思いがけなく横からの制止を受けて、ノエはハッと我にかえる。
腕を掴んだ人ーー声から察していたが、そこにいたのはヤルマルだった。
「ボクらは、狼を殺せと依頼されているわけじゃない。彼らを殺す理由は、あくまで身を守るのに必要だからだ」
ヤルマルの言葉を聞きながら、ノエの体を巡っていた激しい熱がゆっくりと冷えていく。
ノエの様子を見守る狼たちは、どれも手負いであり、引き際を探っているように見える。ノエが威嚇として剣をもう一振りするだけで、狼たちは更にノエから距離を置く。
やがて、一際大きく、遠吠えが響いた。それを耳にした瞬間、ノエたちの様子を伺っていた狼たちは一斉に踵を返し、雪原の向こうへと消えていく。どうやら、この狩りは失敗だと狼の首領が判断したようだ。
冷静な狼たちとは逆に、ノエは自分がすっかり頭に血が上っていたと自覚し、ゆるゆると首を横に振る。
……すみません、ヤルマルさん」
狼の姿が完全に見えなくなったのを確かめてから、ノエは残心を解く。だが、彼の手はまだ剣を握ったままだった。力が入ったままの指は、なかなか剣を離そうとしてくれなかった。
「気持ちはわからないでもないから、謝らなくていいよ。早く目的地に着きたいのは、ボクも同じさ」
「ただ、たとえそうだったとしてもーーーー……いえ、なんでもありません」
そこで言葉を区切り、ノエはゆっくりとかぶりを振ってから、ようやく緩みかけた指を使って剣を鞘へと戻す。
後ろに残した皆の様子を見るために振り返り、そちらへと近づきつつ、ノエは強張った指をほぐすため、何度も開いたり閉じたりを繰り返した。
(たとえそうだったとしても、無闇に獣を殺すような真似は避けるべきだ。それぐらい、分かっているつもりだったのに)
自分に襲いかかってきた者に慈悲の心を持つべき、とまでは言わない。それでも、すでに撤退の意思を示していた獣を殺戮するのが真っ当である、とノエは言いたくなかった。
そんなことは、今までのノエなら考えるまでもなく避けていたことだ。だというのに、ノエはヤルマルに言われるまで止まらなかった。
……攫われた人を助けるためなら、たとえ相手がヒトであっても剣を振るう。僕は、その道を選んだ。でも……それは、こういうことじゃないはずだ)
では、自分は一体全体何を己の道と定めたのか。
その結論が出る前に、ノエの足は後方に残してきたオデットたちの元へと、到達していた。
「皆さん、怪我はありませんか」
「大きな怪我はしていなさそうだな。サルヒと、サルヒのチョコボが少しばかり噛まれたぐらいだ。今、オデットが手当をしている」
ルーシャンの言う通り、羽を畳んでしゃがみ込んだチョコボのそばで、オデットが治癒魔法をかけている。大きな傷ではないので、この分ならばゆっくり歩けば目的地である今夜の宿には辿り着きそうだ。
治療が終わるまで、周囲の警戒をしていようと、ノエが自分のチョコボの手綱に指をかけたときだった。
……?」
最初、それは空気の振動だった。
しかも、ごくわずかに引っかかる程度の震え。たとえるなら、重たい荷物を引いたチョコボ車がそばを通りがかったときのような。
「ノエ、どうかしたのか」
「ああ、いや……何か聞こえたような」
「魔物の声か? だとしたら、襲われる前に場所を移動した方がーー」
オランローの言葉が終わる前に、一行もその場にいたチョコボたちもその声を耳にする。
ーーーオオオォォォ。
それは、決して大きな音というわけではなかった。
だが、確かに空気を伝わり彼らの耳に強く響いた。
地の底から響くような、空そのものを割るような声。大型の魔物に似ているのに、そこには単なる獣の雄叫びとは異なる意志が混じっている。
先ほどの狼たちが発していた吠え声など、全く問題にならない。
それはーー『竜の雄叫び』だった。
……まだ遠いな」
数秒の間を挟み、ようやく口を開いたのは、ルーシャンだった。
声そのものは、さほど大きなものではなかったのに、あの雄叫びを聞いた瞬間、一行は竜そのものを眼前にしたかのような緊張と言葉にしがたい恐怖に体を縛られていた。
あれに比べれば、異端者が竜に変じた際の叫び声など、赤子の鳴き声と大差ないと思うほどだ。
「だが、進行方向から聞こえているようだったよ。ひょっとしたら、飛竜の巣にはあの声の主もいるのかもしれない」
「姿が全く見えていないのに、ここまで声が届いたんだ。大きさは相当なものだろう」
大きな長耳を活かして、ヤルマルは声が聞こえてきた方角を聞き分けてみせる。オランローも、現状で考えうる竜の情報を口にして、相手の脅威を予測してみせた。
「本来ならば、声のしない方向に進路を変更するべきなんだろうがーー」
……向かう先に竜がいるとしても、僕は行くつもりです」
ルーシャンから無言で目線で問いかけられ、ノエはすぐさま回答した。もとより、竜と遭遇する危険性は承知の上での救出行だ。今更、踵を返して立ち去るつもりなど、毛頭ない。
「今、聞こえてきた方向に竜がずっといるとも限らない。ひとまずは、この先の砦に向かうべき」
サルヒは怪我を治してもらったチョコボの羽を軽く叩いてやる。問題なく動けると、チョコボは羽を広げて声を上げた。
「わたしも、サルヒさんの意見に賛成です。この先のことを考えるとしても、一度体を休める場所に向かってからの方が良いはずです」
「そうだね。とはいえ、ボクは竜の声を聞いたぐらいで帰るなんて言い出すつもりはないけどさ!」
ヤルマルは厳しい面持ちになっている一行の肩をポンポンと叩いていく。
チョコボに飛び乗る彼女に倣い、ノエもチョコボへと跨り、改めて手綱を握った。けれども、手綱を握るその指は自分でも驚くほどに、再びの強張りを見せていた。
(覚悟は決めたはずだ。竜がいたとしても、攫われた人を助ける。だから、僕はきっと、怯えからこうなってしまっているわけじゃない)
ならば、自分はいったい何が理由でここまで体に力が入ってしまっているのか。
チョコボに跨ったノエの視界に、雪原に残された狼の死体が映り込む。白の世界に刻まれた赤すぎるほどの赤は、ノエの心に嫌な痛みを残していった。