usauta777
2023-02-10 23:23:25
15623文字
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傳と狂が恋バナしてる話1

傳 双子の兄。苦学生。
狂 双子の弟。裕福な若者。
ササキ 高校生。柔道部。
おでん おでん屋。

※軽く性的なシーンがあります。
※「大学のカフェとかで永遠に恋バナしてる傳と狂はずっと書いてられる」というコンセプトで作られたものです。

「ねえ、おれってかわいい?」
 自室の一角に座った傳ジローは、小さなヘッドセットをしながらパソコンに向かって聞いた。
 白雪姫の女王さまみたいな質問だが、着ているのはいつものTシャツとカーディガンで、髪型もいつもと同じだ。
 色気の欠片もないと思う。それでも相手は興奮しているようだった。
「自分では可愛くないと思うの?」
「うん……なんか自信なくて……
「どこらへんが?」
「服装とか地味だし……セクシーじゃないっていうか」
「地味っていうけど、初々しい子が好きな男はいくらでもいるよ?」
「そうなの?」
「見た目セクシーな感じの子もいいけど、おれは初々しい子がいいなあ」
「へ~~……
「ねえ、アダルト料金出すからさ、上だけ脱いでよ。脱ぐだけ」
「ええ~~恥ずかしいよ……それにおれそんなに逞しくもないし」
「逞しくなくても別にいいんだよ。笑ったりしないから」
 アダルト料金にすれば一分あたりの値段が倍になる。傳ジローは心が揺らいだ。上半身位だったら別に見せてもいいのでは? と思ったりする。だって会ったりするわけじゃないのだ。こちらに直接触れられるわけでもない。
「んじゃあ……ちょっとだけ。おっぱいだけでいい?」
「いいね」
 傳ジローは迷った挙句にそう答えた。
 男の声は嬉しそうだった。



 秋も深まってくるというのに今日は暑いくらいの日差しだった。
 午前の講義が終わった学生たちがそこら中の建物から一斉に出てくる。そこで弁当と飲み物を広げていた傳ジローは「席が混むなあ」と独り言を言った。
 健全で明るい生活を送っている学生たちが妬ましいのだ。
 構内にあるいつものカフェのテラス席、傳ジローは正面でコーヒーを飲みながらパソコンを弄っている狂死郎に目を向けた。
「ねえ、午前の講義無くなったんでしょ? なにしてんの?」
「明後日までのレポート。午前の講義なくなって助かった。そっちは何してんの?」
 傳ジローは弁当を食べながらスマホに向かっていた。
「バイトの連絡」
「今何のバイトしてるの?」
「居酒屋とかあといろいろ」
「なんか危ないことしてないだろうね?」
「してないよ。大丈夫。おれ投資とかできないし」
「そう? 固くいけば割といいよ?」
 傳ジローは高校生の頃からバイトと勉強しかしていない。
 みんな大学生になると髪を染めたりおしゃれにしたりするけれど、傳ジローはそんなこともせずに黒髪をポニーテールにしている。服装もスニーカーにTシャツにジーンズという組み合わせが多いし、眼鏡をしているから学生の中でも地味な方だ。
 一方、狂死郎は、いつもほんのりと紅いリップを塗っている。そしてゆるくカールさせた青白い髪をショートカットにして片側を上品にアップにしていた。
 服装も傳ジローなどより華やかだ。色が派手というよりかは、上品というべきか。
 狂死郎がいつも履いている革靴はヒールが高くて、スラックスを履いた長い脚や、コートを羽織った姿はモデルみたいだ。
 もっさりした傳ジローとは違う。
 そんなふたりは双子だ。
 傳ジローがお兄ちゃんで狂死郎が弟だけれど少しもそれらしくない。むしろ狂死郎の方がしっかりもので自立している。成績がいいし、要領もいい。おしゃれでモテるし年下の恋人がいる。傳ジローはなにもかもが羨ましかった。
 今だって狂死郎は白くて少し袖がふんわりしたボアニットとジーンズ姿だ。首筋と胸元が少しだけ見えて、首から下げたシンプルで華奢な金のネックレスが光っている。
 それも、その人がくれたものなのだ。
 狂死郎はパソコンから目を離さずに傳ジローに尋ねた。
「奨学金に手つけてないの?」
「あれは資格勉強するためにとってあるの。学費も免除してもらってるけど生活費は自分でどうにかしないと」
「ちょっとなら、言ってくれれば貸すよ?」
「利子が高くつきそうだからいいよ」
 狂死郎は奨学金を貰っている傳ジローとは違うけれど、ばら撒けるほど金を持っているわけでもないだろう。
「兄弟なんだから利子なんていいよ。それより明後日までのレポートできてるの?」
「できてない……
「経営戦略論の先生、アホみたいに厳しいし、明後日の一コマ目だよ? 一秒でも遅れたら評価下げられるって噂なのに」
「知ってるけど、時間がないの! レポートは大丈夫。徹夜でやるから」
「じゃあミクロ経済学の本は? 読んだ?」
「まだ一ページも読んでない……
「どっちもやってないの? いくらかお金貸すのなんてなんでもないからレポートやりなよ。出世払いでいいからさ」
「うう~~ん……
「やっぱり無茶だよ。ひとり暮らしなんて。大学寮に入るか、おれの部屋に戻ってきなって」
「寮はヤダ。門限あるし、深夜バイト禁止だし。生きていけないよ」
「でも……
「だって……狂死郎あの子と同棲するっていってたでしょ!」
「言ってないって! 傳ジローが勝手にそう思ってるだけ! だってまだ高校生だよ? するわけない」
「あの子都心の大学に入りたいって言ってたでしょ。学校まで電車で一時間くらいなら一緒に住みたくなるに決まってる!」
「そんなことない。だってあいつは柔道で推薦狙ってるから今年の大会がだいたい終わるまでまだわからないよ、志望してる大学もキャンパスが郊外にあるから一緒に住めるかはわからない。そもそも成績が推薦基準を満たすかどうか……
「勉強頑張ってるって言ってたじゃん。成績も上がってるって」
「それは、最初の偏差値がゴミクズだっただけ。推薦貰うのにも成績大事だから勉強してるけど……今の偏差値やっと五十になるかどうかって感じだよ? だいたいケガでもしたら部活推薦なんて終わりだし、いろいろ難しいよ……
「でもまだ一年あるし、余裕だよ。推薦もらうだけなら他の大学もあるし。去年のインターハイ優勝したときから声かけられてるじゃん。どこにせよ一緒に住める距離だし、毎日イチャイチャしてるの見せつけられるのなんて嫌です」
「イチャイチャなんてしないです」
「ふ~ん。おれは誕生日にネックレスくれる彼氏とかいないけど?」
 狂死郎は俯いて照れたようにネックレスの石に触れた。狂死郎の髪の色と同じ青いオパールだ。彼が十月の誕生石を選んでくれたんだろう。
(ガキのクセに~~!)
 まだ高校生のその彼氏を思うと傳ジローはいろんなことに嫉妬した。
 狂死郎の恋人はまだ子どもで、部活に勉強にと、とにかく忙しそうだけれど、年上の恋人に細やかな気遣いをするのは忘れない。話を聞いているだけだとガサツそうなのに。最近の子はスマホで簡単に何でも調べられるから、気取ったプレゼントだってできる。
 それは彼の年相応の値段なのだそうだ。けれど、狂死郎は凄く大事にしていた。いつもネックレスが映える服をちゃんと選んでいるのだ。だから、傳ジローはそれの値段など関係なく羨ましくて、つついていた弁当を仕舞いながら上目遣いで狂死郎を見た。
「それに……狂死郎、こないだ本屋で『はじめての料理』って本買ってたよね。ネットのレシピとか、電子書籍でいいのにわざわざ紙の本」
 今まで外食ばかりに頼っていた狂死郎は最近料理を始めていた。
 狂死郎は、あまりに傳ジローが恨めし気に話すのが気に障ったのか少し腹を立てたようだった。
「ひとり暮らしなんだから自炊しててもいいだろ! 傳ジローはあの人どうなったの? すごくかっこいいって言ってたおでん屋さんの彼!」
「はあ~~もう正直会いに行ってるヒマないの……忙しくてさ……でも、ギリギリ名前はわかった」
「名前? ほら! 進展あるじゃん! 本人に聞いたの?」
「いや、常連のお客さんがそう呼んでたから本名ですかって言ったらそうだって」
「何そのテンション……なんて言うのその人」
「おでんさん」
「おでんさん……?」
「本名が『おでん』なんだって」
「本名が?!……そうなんだ……ん~~……でも! そういうところじゃなくない? いっかい流そうそれは」
「うん」
「じゃあまだなんにもしてないの?」
「なんにもって……ただの店主と客!」
「ウソでしょ?」
「家庭教師に行くたびにラブラブエッチしてるそっちとは違うんです。いいなあ家庭教師。お金になるし彼氏とイチャイチャできるし」
「してないってば!」
「ウソ」
「まだ高校生だよ?」
「高校生ってほんとそういうの凄い興味あるけど焦って空回ってる時期だよねえ」
「なんだよもう」
「おれ、何にもできてないもの……バイトと勉強だけ。好きな人になんて……いろいろしてあげられないよ……
「だからお金貸すって言ってるでしょ」
 傳ジローは疲れた脳みそで考えてから言った。
……んじゃ年始のテスト期間にバイトできない分のお金貸して……ちゃんと返すから。なんか疲れちゃった……彼氏とラブラブ羨ましいな……
 羨ましいと素直に言ったら少し気が楽になった気がした。いつも自分で作る弁当は見た目も悪いしほんとうに味気なくて、ただ、腹を満たすだけのものだ。それを見つめていると情けなくなってくる。目の前の狂死郎がため息をついた。
 ふたりは親が居ないから、小さい頃からふたりで頑張ってきた。高校までは施設で面倒を見てもらって、高校に入ってからはバイトと勉強の毎日。互いに心折れそうなときは慰め合い、どうにか目標の大学に入れたのだ。
 とにかくいい仕事をしたかったので、ふたりとも都心から少し離れた公立学校の商学部に通っている。教養、経営、マーケティング、会計、金融など会社経営について幅広く学べる。ただ、生活を支えるレベルのバイトと学業を両立させるのは難しかった。
 カフェテラスからは人がちらほらと居なくなっていっている。
「傳ジロー。大丈夫。元気だして。お金なんて……大学卒業すればどうにでもなるよ。今すぐ稼げなくていいの」
「狂死郎……ありがと……
 傳ジローはそう言うと手帳を眺めた。授業以外の予定がびっしり詰まっているのを見るとそれだけでドッと疲れるように思った。来年になれば授業とバイトの他に資格試験の勉強と就活の予定も入れなければいけない。スケジュールの中に好きな人が入る余地なんて少しも無いように思えた。
 そろそろ昼の時間が終わりそうだった。
「傳ジロー、午後の講義何?」
「ドイツ語。そっちは?」
「こっちはマスメディア論。息抜きの授業だね……ああ、あと、来年からほんとに忙しいし、本気で同居するかどうかちゃんと考えて。おれは構わないから。それじゃ身体壊すよ」
「うん……わかった……あとで話そう」
 そう答えたけれど、傳ジローはやはり、弟に頼りきりになってしまうのはいけないことだと思った。



 六時に講義が終わった後、電車で一時間のバイト先に駆け込んで四時間、傳ジローはへとへとだった。郊外よりも都心の方が時給がいいし通勤費も出してくれる。でもこんなにしてまで都心の飲み屋で働く理由はそれだけじゃない。
 その帰り道、ぽつんとおでん屋の屋台がある。
 明後日のレポートと経済学の課題。それは気になったけれど、傳ジローはその赤い暖簾をくぐった。疲れていたから癒されたかった。
「こんばんは」
「おう、らっしゃい。今日は何にする?」
「牛すじ!!」
「と?」
「牛すじ」
「他のもうめえぞ」
「じゃあ大根とたまごにちくわ。あ! 白滝も! それから焼酎のお湯割り」
「あいよ」
 この店主は名前がどうこう以前に変な人だった。もっと飲み屋街や駅に近い、人がわんさか通る場所で商売すればいいのに、人通りがあんまり無いような場所でおでん屋をやっている。今は営業する場所にも規制がかかっているのか。
 おでん屋は儲かっているのかいないのかも全然わからない。こんな場所で引車のおでん屋をしている。最近はどこも屋台風おでん屋だったり、店内に屋台を再現していたりするのにほんとうにこの店は屋台のおでん屋である。
 でもこの主の名前以外、どんな人なのかはよくわからなかった。
 こうしてこの人が作ったおでんを食べていると、その名前がこの人の全てのようにも思えるが。
 傳ジローにわかるのは、この人がすごくかっこよくて、作るおでんがすごくおいしいということだけだった。
 初めて会ったときから、まるで昔から知っているみたいに。
 仕事の帰りにいつもこうやって通っているけれど、黙って食べるだけで相手のことを見ることだってできない。皿を差し出す大きい手や、湯気の向こうの太い腕。それに、箸を持って器用に動かされている太い指が見えるだけだ。
 店主は長い髪をオールバックにしてひとつに結っている。眉がへの字で目がりりしくて、口元も顎も太い首もセクシーですごく男らしい。
 傳ジローの好みの概念が人間になったみたいな人だ。
 いつも、お酒を飲めば何か言えるかもしれないと思うけれど、何をどう切り出していいのかわからなかった。飲むほど逆に頭がぼんやりしてどうしていいかわからなくなる。ふと手をみると手のひらまで真っ赤だった。お湯割り一杯だけなのに。もっと呑めれば売上に貢献できるし、もっとここに座っていられるのと思うと、酒に弱い体質が嫌になった。
「おでんさん、お湯割りもう一杯~」
「おいおい、顔真っ赤だぞ。飲みすぎだ」
「でも……おれ……
「なんだ。なんかあったのか?」
「ううん……ただ……帰りたくないんだ……疲れちゃって……帰れないのかな……もう、わかんないや……
……まあ……そういうこともあるわな……
「うん……
「お前、家は?」
「もっと郊外の方」
「なんでこんな時間にこんなとこまで来てんだ。学生だろ?」
「うん。都心の方が時給いいから……郊外から出稼ぎ」
「郊外の方が住みやすいのにな。都心は狭っ苦しくて汚えぞ」
 屋台のテーブルに片肘をついていた傳ジローはぼんやりしていた。おでんが話しているその目をこんなふうに見つめるのは初めてかもしれなかった。
「んん……でも下町とかは……懐かしい感じだよ……
 酔った傳ジローがふわふわと答えると、おでんは傳ジローの隣に座って、焼酎を冷で呷った。
「ふぅ~」
 そして煮だっているセパレートの鍋の中からおでんをどんどん摘まみながらまた酒を飲みはじめた。
「おでんさんは……おでん好きなの?」
「好きじゃなきゃおでん屋なんてやらねえだろ」
 傳ジローの目の前でおでんは鍋に残っていたおでんを次々と平らげていく。
「そんなに食べて商売にならないんじゃない?」
「こりゃあおれの晩飯だ」
「これが? いつも?」
「そうだ」
「ええ……
 傳ジローは酔っ払いながらおでんを頬張るおでんの横顔を見ていた。そしてその太い腕に寄り添ってみた。その腕はいつも大きなガスボンベや重いビールケースを簡単に持ち上げている。
 傳ジローがそうしてもおでんの身体は少しも揺るがない。そのままそれを楽しんでいると、隣のおでんは「うしっ」と声をあげた。なにがいいのかよくわからなかった。
 おでんは立ち上がると「今日はもう看板だ」といって暖簾をひっくり返し、てきぱきと後片付けをすると、屋台骨に捕まれと言って屋台のテーブルをばんばん叩いた。
「ええ……でも……おれが座ったら壊れちゃわない……?」
「壊れたときはそんときだ!」
 傳ジローは言われた通り、荷物を抱え直すと屋台骨に抱き付いた。おでんは屋台を引き、人を避けながらすごいスピードで移動している。何らかの法律に触れないだろうか。不安になる。
「どこまでいくんです!」
「家だ!」
 おでんの声が後ろに飛んでいくように聞こえた。音が伝わるよりもおでんが走っている速さの方が早いのだ。そんなことはあり得ないと思ったが、傳ジローはそう感じた。
 しばらく走っていると傳ジローはテーブルから降ろされて、おでんは屋台を倉庫のようなところに仕舞った。傳ジローには、ほかにもいくつも屋台があったように見えた。
 そこからまた数分歩くと、崩れそうな家が見えた。私鉄の駅から数分の場所なのに、あばら家とはこのことである。
「風呂はねえが便所はある。吐きそうか?」
 おでんは部屋に傳ジローを上げると便所のドアを指さした。
「ううん。大丈夫」
 傳ジローは頭がふわふわしていた。おでんの部屋はなんにもない。簡単な流し台には古いガスコンロ。ペラペラの布団と型落ちの据え置き電話が置かれていた。
 据え置き電話を見て傳ジローはなんとなく呟く。
「もしかして、おでんさん、スマホ持ってないの?」
「すまほ? ありゃあめんどくせえ。仕入れ先からも持てって言われるんだがな……
「ウソ……
「ほらこっちで寝ろ」
 指し示されたのは敷きっぱなしでペラペラになっている布団だった。
「え……でも……おでんさんどこで寝るの?」
 傳ジローは申し訳なさと混乱でどうしていいのかわからなくなった。おでんはどうでも良さそうにそれに答えた。
「屋根がありゃあ上出来だ」
「でも、それじゃ寒いでしょ」
……狭いぞ?」
 おでんはそう言って隣に入ってきた。まだ頭がぼんやりしていた傳ジローはおでんの肩にこめかみあたりをすりつけて夢心地でいた。すると、隣のおでんが熱い身体でギュッと抱きしめてくれた気がした。それは夢か現かわからないままで、酒のせいか疲れのせいか、傳ジローはいつの間にか寝てしまった。



 次の日、傳ジローはまた狂死郎と一緒に昼の時間を過ごしていた。でも昨日のことしか思い出せない。すごいことをしてしまったのではないかと思った。考える度に顔から火が出そうになる。
 でもおでんにとってはどうでもいいことなのかもしれない。それはわからなかった。
 朝も、おでんの様子は普通だった。夜は酔っていたし、今朝はおでんと一緒の布団で目覚めて取り乱していて、傳ジローはとにかく慌てふためいてその家を出てきた。
(お礼はちゃんと言ったはず……
 いろいろ考えていて狂死郎が何かを話しているのを全然聞いていなかった。
「傳ジロー。ねえ、傳ジロー」
「え? 何? どうしたの?」
「同居の話。考えた?」
「あ、ああ、うん」
 全然聞いていなかったし、考えていなかった。いろいろ考えてくれているのに、申し訳ない気持ちになる。
「なんかおかしいよ?」
 狂死郎はしおりを挟めた教科書をテーブルに置いて怪訝そうな顔をした。
「明日までのレポートできたの?」
「や、やってない……
「もう! 単位落ちちゃうよ!」
「うん。今夜やるよ」
「今からやりなよ。パソコンないの?」
「あるよ」
「どうしたの? なんかぼんやりしてる」
 傳ジローは少し迷った。自分の中でだってまだ整理できていないのに、狂死郎に話していいのか。でも話さないといつまでもぼんやりしつづけそうだった。単位が落ちる。それは困る。
――実は……昨日、彼の部屋に行ったの……
「ええ~~! 脈ありだよそれ!」
「そんなわけないよ! 普通に知り合い泊めたレベル!」
「泊ったの?! ええ?! で?」
「で……って何にもないよ。一緒に寝ただけ」
「なにそれ! いけたよ! なんで押さなかったの? 知り合い泊めたレベルじゃないよ!」
「だっておれ、酔ってたから……
「それで二日酔い?」
「うん……ちょっとしか飲んでないのに……
「ふ~ん でもちょっとはいい思いできたんでしょ?」
「彼、ほんと何の気無しにって感じでそんな雰囲気じゃなかったし! あ、でも布団の中でギュッとしてくれた気がする――でも! 彼ってすごくモテそうだし、誰か恋人とかいい人いそうだし、そもそもおれのこと好きなんてありえないよ!」
「落ち着いて。今狂死郎さんが推理してあげるから。彼の部屋に行ったんでしょ?」
「うん」
「流し台とトイレと風呂、きれいだった?」
「お風呂は無かった……トイレも流し台も汚くて、布団とか煎餅布団。それにスマホも持ってなくて……
「はい決まり。恋人はいないね」
「なんで?」
「恋人がいたら、どんな汚い部屋でもその子が甲斐甲斐しくきれいに掃除してるよ。一緒に寝るなら布団も定期的に干したいし。それにお風呂がないの? なら恋人とのデートはホテルとかに泊まらなきゃ。そもそもスマホで毎晩連絡取りたくなるでしょ」
「じゃあ恋人持たない主義の人とか……
「あ~それはどうだろ。風俗行って満足するタイプっていうのはあるかも。ただ、その人そんなにお金持ってないんでしょ? 『風俗行くよりおれの方が安いよ』って言えば案外……
「いやだよ! 風俗の代わりなんて!」
「そもそもさっき布団の中でギュッとしてくれたっていってたよね。ちゃんと告白してきなよ。むしろそろそろあっちから告白してくるんじゃない? それは」
「そうかなあ……
「どっちにしろもっと誘惑しろってこと!」
「そんな大きい声で言わないで! だってあの人、ゆうわく……とか! 狂死郎ならともかくおれ色気もクソもないのに無理だよ」
「じゃあさ、とりあえずレポートやろうよ。おれの参考にしていいから。あ、コピペはしないでよ? おれまで評価下がっちゃう。テーマは変えて。構成だけそのまま写していいよ。そんでとりあえず本を十ページまで読んだら、午後の講義に出て、バイト行って、その後おれを一緒にそのおでん屋さんに連れてって。明日早いからお酒は無しね」
「えっ! やだよ!」
「なんで」
「狂死郎にとられちゃう……
「そんなことしないって。おれはほら、ラブラブだから?」
 狂死郎が胸元のネックレスに触れながらおどけて言った。
「そうですね。腹立つ」
 傳ジローは、そうは言ったものの悪い気はしていなかった。



 赤い暖簾を遠くから見て、傳ジローは隣にいる狂死郎を横目で見た。
 弟だけどすごくきれいな人だ。おしゃれだし、そばにいるとほんのりいい匂いがする。おでんだって傳ジローよりも狂死郎の方を気に入る気がした。
 安いし、動きやすいという理由で適当な服を着ている自分とは違う。しかも居酒屋でバイトしたあとで焼き鳥と酒と煙草の臭いがするし、かわいくもなんともない。
 それでも来てしまったので、ふたりは赤い暖簾をくぐった。
「おう」
 おでんはいつもと変わらぬ様子で出迎えてくれた。いつも一人でしか来たことがないからか。狂死郎は友達かと聞かれた。
「おれの兄弟で友達だよ」
「兄貴かぁ」
「違うよ。おれがお兄ちゃん!」
「双子だからどっちが年上とかあんまり考えたことがないんです」
 狂死郎は顔にかかる髪を指で耳にかけながら長椅子に座った。傳ジローもいつもの場所に座る。
 狂死郎は鍋の中を眺めながらおでんに言った。
「大将、おすすめは?」
「どれもおすすめだが……
「牛すじおいしいよ。コンビニのやつと違うの」
「へ~!」
「おれは牛すじ!」
「と?」
「あと牛すじと……がんもともち巾着とだいこん!」
「じゃあおれも牛すじと……あとはこんにゃくとごぼう巻きとたまご」
「あいよ。酒は?」
「ジュースあります?」
「おう」
「じゃあそれふたつ」
 おでんが瓶ジュースを取りに行っている間、狂死郎が「すごくかっこいいね」と耳打ちしてきた。
 傳ジローは狂死郎をじろりと見て「好きになったら怒るよ」とお返しに耳打ちする。狂死郎はそれに「大丈夫だって」と答えた。
 栓が抜かれたオレンジジュースとコップが目の前に置かれて、頼んだおでんが目の前に出された。狂死郎は「レポートお疲れ」と言って傳ジローのコップにジュースを注いだ。傳ジローも「レポート見せてくれてありがと」と言って狂死郎のグラスにそれを注ぐ。
 それを飲みながら狂死郎はおでんに話かけた。
「スマホ持ってないって不便じゃないですか?」
「ン~~……おれは不便だとは思ってないが、いくら電話かけても出ねえって文句言われるなあ……
「恋人とかですか?」
「いいや、仕入先だ。めんどくせえが……持たねえとダメな時代になったのかねえ。おれはそんなのちっともわからねえ」
 おでんは溜め息を吐く。狂死郎が肘で傳ジローを突いてきた。見ると、何か言おうと口をパクパクさせている。傳ジローは何を言おうとしているのかわからなくて、頭に疑問符しか湧かなかった。
 すると狂死郎が傳ジローの耳を引っ張って小声で怒ったように言う。
「デート! デートに誘えって言ってんの! ガラケーでいいから一緒に買いに行きなって!」
「無理無理! 無理だって! できないよおれ……
 突然そんなことを言い出す狂死郎に傳ジローは焦った。狂死郎の耳元で小さな声で抗議した。
「まだ食えるか? はんぺんふたつオマケだ」
 おでんがそう言ってもう一皿差し出してきた。狂死郎はそれに愛想よく礼を言いながら傳ジローを急かした。
「ほら、はやくして!」
 傳ジローはもうどうにでもなれと思った。
「ねえ、あの……おでんさん。あのさ、今度休みの日に一緒にガラケー買いにいかない? おれ、いいメーカーとか調べておくから……
「がらけー?」
「ああ、あの携帯電話。スマホほど操作難しくないし、宅電みたいに……ああえっと据え置きの電話に似てる感じの電話ね。使いやすいやつを、あの……一緒に、探しに……いきません?」
 おでんは少し考えてから「見に行くだけでも行ってみるかあ……」と言った。
 狂死郎はそれを見て傳ジローの横腹を猛烈に肘でつついてきた。
 痛かったはずなのに、それがよくわからないくらい嬉しかった。



「ほんとにやめちゃうの?」
「うん。今月いっぱいで。だいぶお金溜まったしね」
「今月ってもう時間がないじゃないか」
「最近すごく忙しいんだ。もう嫌になっちゃう」
「君との会話を楽しみにしてたのに……残念だよ……
「ごめんね」
「じゃあさ、最後に課金いっぱいしたいからちょっとエッチなことしようよ」
「やだ……恥ずかしいよ……
「話すだけだよ」
「それだけ?」
「そうそう。おれがアダルト料金にして、エッチな話するだけ」
「エッチってどんな?」
「触ってるとこ見せて」
「え? 何? 何を?」
「身体触るところ」
「無理無理恥ずかしいよ」
「カメラ切っていいよ。声だけ聴かせて」
「ええ……カメラ切ってそれで自分で触れってこと?」
「そうそう。だから見えないよ。声だけ。触るところはおれが言うから。してくれたら料金上乗せする。卒業記念ってやつ」
「うーーん……わかったよ。じゃあ、カメラ切るね」
「うん。大丈夫。そっちの準備ができたらで」
「わかった……
 よくわからないけど緊張した。そんなことはしたことがない。そのときは安易に、カメラを切っていいならいいかと思ったのだ。



 相手がまたフィッシングにひっかかった。
 僕は、カメラと一緒に旅行に行くという渋い趣味がある。という設定になっている。それは嘘じゃない。相手には、定期的に写真を見てほしいと言ってリンクを送っていた。写真はちゃんとしたものだが、リンクは踏むたびに向こうの位置をこちらに知らせてくる。
 ちょっとした小細工だが、これが効くのだ。今の時間だと高確率で家にいるのがわかる。だからこの時間に見てほしい画像を用意しておく。
 可愛い君は優しいから、ちゃんと写真を褒めてくれる。それはわかっている。でもわからないのは他のことだ。
 最近、昼間学校にいるときに写真を見ることが増えたのはなぜなの。
 夜は何をしているの。
 仕事を辞めると言い始めたのも金が欲しかったのも全部他の男のためかもしれないと思うと頭がおかしくなりそうだ。
 君の学校も家も場所は知っているけれど、僕が君のそういうところに手をださないのは真摯な気持ちで君に向き合っているからだ。
 でも君はそうじゃないんだろうな。
 腹が立つよ、傳ジロー。



 いつものカフェのテラスだった。ふたりはこの時間に講義がない。朝の一コマ目にあった講義を終えたら、午後の講義まで休憩時間だ。
 狂死郎はタンブラーに注がれたカフェラテを一口飲んで傳ジローに聞いた。
「で、その後どうなったの?」
「何にもないよ」
「それはないでしょ? 好きって言った?」
「言えないよ!」
「なんで!」
「無理無理!」
「聞きだしてあげたのに。居なさそうだったでしょ恋人とか」
「そうだけど、あんな……
「かっこいいのに?」
「みんなほっとくわけないよ!」
「確かにモテそうだね」
「そう! めちゃくちゃモテそう! ……無理だよ……ふたりで買い物できただけでもラッキー。記念デートで終わってもいいくらいの人だよ」
「ん~~……あの人いくつ?」
「三十手前くらい? わかんない」
「で、汚い風呂無しの部屋に住んでて、金は持って無さそう。見た目はいいかもしれないけど……そういう男についてく人って少ないんじゃない? 確かに、最初はステキだと思うけど、お金がないことにイライラしたり、生活が自堕落すぎて長く続かなかったりとか。だって人間って基本的に安心したいでしょ? 安心イコールお金だよ」
「貧乏だから今のところモテてないってこと?」
「そう。お金がないとか目も当てられない。そんなのよっぽど考え無しか、よっぽどあの人が好きじゃないと付いてかないよ」
「なるほど~~……それ、おれは考え無しってこと?!」
「う~~ん……まあ、みんな計算高いよ。おれだって好きな人にはいい経歴であってほしいし?」
「だから有名私大の推薦とか勧めたわけ?」
「それは、いろんな意味で彼の経歴に相応しいから。おでん屋よりも飲食店店長の方が良いものそうに見えるでしょ?」
「確かに。飲食店店長はおでんさんよりお金持ってそう」
「良いものはどんどん売れる。ちゃんと掴まえておかないと!」
「そっちは今年もインターハイ優勝できそうなの?」
「できたとしても他の大会もあるの。勉強に部活に予定がハードすぎる……
「大会ってそんなにあるの? というか手帳にメモしてあるんだ……
「当たり前」
「しっかし彼、毎年そんなに大会出てるの? しかも勝ってるんだよね。大学選びたい放題じゃない?」
「ある程度の大学は選びたい放題だね。おれたちなんてほとんど選択肢なかったのに。実力もあるけど、なにより実家が太いっていいよね~」
「家庭教師とか付けてくれるなんてありえない」
「まあ、お金もだけど、それだけ彼も頑張ってるってこと」
「ねえ、さっきからこないだ言ってたのと全然違くない?」
「自分の自慢だけするのって嫌な感じでしょ?」
「ほんとだよ! おれなんて自慢すること何にもないよ!」
「でも、ギュってしてもらって、携帯番号も交換したんでしょ?」
「え! うん……した……
「メッセージ送った?」
「挨拶しか送ってない……
「ええ……何やってんの」
「だってぇ……
「だいたいデートで何してきたの? まさかほんとに何にもしてないわけじゃないでしょ?」
「ほんとになんにもしてないの! 待ち合わせして電器屋行ってケータイ選んで買って、回るお寿司屋さんに入ってごはん食べて、ケータイの使い方簡単に教えてサヨナラ」
「バっ……!」
「他になにすりゃいいの?!」
「せっかくお膳立てしたんだから告白くらいすればいいのに! 『ホテル行きましょう』って誘え! 連れ込め!」
「難しいよ!」
「なんで?!」
「だって十歳位年上なんだよ? 高校生とどうにかなるのの百倍くらいハードル高いの! もし恋人いなくてもいろいろ事情あるかもしれないし……
「そんなこと言ってたら誰かいい人できちゃうかもしれないよ。そこはもう当たって砕けないとだめ」
「無理だよ。おれ、今当たって砕けたら元に戻れなくなっちゃう……
「じゃあわかった。三年の最初の学期、マーケティング論あるよね」
「必修のやつ?」
「そうそう。先輩によるとそれって記述試験じゃなくて毎年レポート提出らしいんだけど、屋台のマーケティングなんてどう? 今からやれば結果をレポートにできるんじゃない?」
「でもあの店、たぶんめちゃくちゃ売れてないよ?」
「だからいいんでしょ? 傳ジローの手腕で売れるようにするの。レポートもできるし仲良くなれるチャンス」
「そんな上手く行くかな……
「傳ジロー、『いい感じになったら』とかそういうのはたぶん難しいから! どうでもいいことにしようよ。とにかく隙を見て食いつく。これ」
「なにそれ……釣り? 狩猟? のコツ?」
「そうなの! いい男は全員獲物! 早く見つけて早く捕まえた人が勝ちなの!」
「狂死郎もそうだったの?」
「いや、おれは普通に告白されたけど」
「言ってることが全然違う!」
「おれのを参考にしたらだめ! 相手は今のところ傳ジローのこと好きそう?」
「好きそう……かなあ……定かではないよ」
「言わないとわからないよ! おれだって高校生のガキにそんなこと言われて冗談だと思った」
「最初と変わるかなあ……とにかく言わないとダメかあ……
「そうそう。そんで首根っこ掴んでおくの」
「それで料理?」
「スポーツは身体づくりが第一だから。それに推薦って入るのは楽に思えるけど、卒業が難しいからね。大学の講義に遅れないように座学には慣れさせておかないと」
「至れり尽くせりだねえ」
「うん。おれ尽くす人だから。好きな人のためならなんでも頑張るの。でも言わないと始まらない」
……うう……じゃあバイトの後にまた行ってみる……
「おでんおいしかったから。よろしく言っておいてね」
「わかった~~……
 傳ジローは憂鬱な気分でそう答えた。



 いつもの席で牛すじを食べている。いつもはおいしいそれが、何だか今日は味がわからなかった。酒の勢いでそんなことを言うのはなんだか信用されそうになかったから今日もジュースを頼んだ。
「なぁ」
「ひゃっ!」
「このケータイ、これってなんの通知が来てるんだ?」
 傳ジローは鍋ごしにおでんのケータイを受け取って「ああ」と言った。
「これ、メーカーの広告メールだよ。無視しても大丈夫。消しとくね。あ、そうだ。ガラケーってさ、短縮が使えるんだけど……仕入先を短縮に登録してもいい?」
「たんしゅく……?」
「うん。ボタンひとつ押すと電話をかけられるんだ」
「ほお」
「じゃあ一番に……あ、ねえ、やっぱり、おれの番号も短縮にいれていい?」
「ん? おう」
「短縮の一番、おれがもらってもいいの?」
「ああ、何番にでも入れとけ」
 なんだかよくわからない様子のおでんに、傳ジローは切なくなった。この気持ちは言わないと伝わらない。そして伝わったとしてもどうしようもない。きっと、この短縮の一番もそれで終わりになるのだ。
「じゃあ二番に仕入先入れとく……ほら」
「お、それで?」
「一番押してみて」
「こうか?」
「ほら、おれのスマホにかかってきた。便利でしょ?」
「便利な世の中だなあ」
「嫌だった?」
「いや、仕入先の親父にドヤされなくなったし、まあ便利だ」
 おでんは短縮がどうこうなんてことは気にしていないようだった。何番に誰が入っていようと別にいい。それは、裏を返せば傳ジローがそこにいようがいまいがどうでもいいようにも思えた。
 この人にとってはどうでもいいことなのだ。でも、自分はそんなふうに思えない。
 いつもは好きになった人にこんなことはしない。つらいことを知っているし、無駄だと思うから。
 でもこの人だけにはぶつかってみたい。そうでないと自分も壊れそうなのだ。
「ねえおでんさん、おれ……おれね……
「なんだ」
「おでんさんが作るおでん……大好き……昔からずっと食べてるみたいな味がする。理由はわからないけど」
「なんでだろうな……
「だから……だから、おれ、おでんさんのことも大好き。あんたのケータイ、短縮の一番がおれだって思うとすごく幸せ。こんなのって……変?」
 傳ジローは不安になって早口で言った。最後まで聞いてもらえないかもしれないと思ったからだ。おでんは小さく息を吐いた。
「ごめんなさい。でも、ただ、おれがあんたのこと好きってことだけ……
 おでんは少し困ったようにして頭を掻いて言った。
「そりゃあ、お前な……
「わかってる……
 おでんは傳ジローの顔を見た。傳ジローはどんな自分が顔をしているかわからなかった。ただ、知っていたけど悲しいと思って俯いた。おでんの顔を見ていられなかった。
「おでんさんなら、良い人のひとりやふたり……いや、いっぱいいるよね」
「おれはしがないおでん屋だ」
「でも、あんたみたいな人がひとりでいるなんておかしいよ」
 おでんは湯気の向こうでコップを取り出して、焼酎を注ぐとぐいぐい飲んだ。
「おれはな、バカばっかりしてきた」
「バカって……何?」
「人様には顔向けできねえようなことだ。だから羽振りは良かったし、女もより取り見取り。手に入れるのは汚れた金だっだがなあ」
 おでんは半分ほどになっていた酒を飲み干し、また酒瓶から酒を注いで半分ほど飲んだ。
「でもやめたんでしょ?」
「やめた」
「なんでやめたの?」
「人を守るのは限度があったからだ」
「ええ……あの……それ……誰か、死んじゃったの?」
「いいや、故郷くにに帰ってピンピンしてら。そんなわけで今は足洗っておでん屋だ」
「おでんが好きだから?」
「うまいだろ?」
「うん大好き」
「ただまあ……そんな話はな、真っ当に学生やってるお前には遠い話だろうが」
「ん……まあ……でも……だから……だめなの?」
「付き合う相手は選べよ。若えの」
「そんなのどうでもいい! だって大好きなんだもん。理由はよくわからないけどすごく好き。初めてこの屋台で見たときからずっと……大好き」
 おでんは片眉をあげて、作業場で飲んでいた酒入りのコップを持ち上げると、傳ジローの隣に座った。そしてテーブルにコップを置くと、泣いている傳ジローの肩を抱いた。
 そうされると傳ジローはおでんの腕の中にすっぽりと納まった。おでんはその肩口あたりに顔をつけて傳ジローの背中を撫でた。傳ジローもおでんの広い背中に手を回して彼が着ているTシャツをぎゅっとつかんだ。

《続》