眞昼
Public 短編
 

Go up in smoke

ガラが病院に就職して少し時間経った頃。過去ガラ←ハイ

 口に合わない煙草を喫んだ。
 合わないことを分かっていながら火を点けた。
 その場しのぎだとしても瞬間的な充足感を期待して。
 そしてそれを喫むことによって、いつもの煙草を好んでいることを逆説的に証明するために。
 だがやはり好まない味に耐えられず、直ぐ灰皿に押し付けるようにして揉み消した。
 しぶとく立ち昇っていた細い煙が消え去った後。
 辺りに漂う残り香すら、私の眉間に翳を射すには十分だった。



「何ごとかと思ったぞ」

 カフェのテラス席でコーヒーを啜っていた私の前に現れたガラは、到着するなり呆れまじりのため息を吐いた。
 まだ夜の色濃い時刻、私は彼に電話をかけた。寝起きで判然としない相手に構わず、私たちが何度か訪れたことのあるカフェの名前と時間、また無理強いはしないことのみを一方的に告げて電話を切った。
 来るという確証はなかったが、案の定彼は来た。しかも時間通りに。
 傘を畳んで雨除けのオーニングの下に入ったガラは、座るべき場所を一瞬思案した。そうして店を背にして座る私の正面ではなく、横並びになった隣席に腰を下ろすと、テーブルと椅子を私の方へ少し寄せた。彼の体躯で道路側にある正面の席に座れば、オーニングの端から滴り落ちる雫がその背に降りかかる。
 そうするだろうと思い越して私はこの席に座っていた。これで真っ向から見合わなくて済む。

「午前の予定が飛んだんだ。仕事をしてもよかったが、確かお前も非番の曜日じゃなかったかと思ってな」
「そういうことなら夜中に叩き起こすんじゃなく、起きてるうちに誘ってくれ」
「仕方がないだろ。急に思いついたんだ」
「まったく、相変わらずだな。新しい運転手にもさぞ苦労をかけてるんだろう」
「ふん、お前より運転は下手だが遥かに従順だぞ。私の下で長く働くためには必要な能力だ」
「へえ、そいつは初耳だ。おれの契約書にその項目はなかったもんで知らなかったよ。最近付け加えたのか?」

 注文を取りに店の戸口から顔を出したウェイターとガラが言葉を交わす間、私はその横顔をちらと盗み見た。こうして顔を合わせるのは久しぶりだった。
 ガラが用心棒を辞め、医療従事者となって間もない頃は時折電話で話をしていたが、互いに忙しない日々の中それも徐々に減り、取り立てた用事もないが故に会わない日が続いていた。
 その空白の期間でも、カウンセリングの効果からか彼の変化は順調に良い方向へと向かっていたらしく、以前より安定した精神の上に成り立っているようだった。新しい傷の数も、衣服から露出した部分に見える限り、多少減っている。

「それで? 仕事の調子はどうだ」
「まだ慣れないことばかりだが、実際悪くない。おれの性には合ってるみたいだ。周りの人たちも良くしてくれてる」
「そいつは結構。もしクビになって私に泣きついてきても、お前の席はもうないからな」
「ああわかってる。努力するつもりだよ」

 やはり彼の気高い魂が、漸く本来の姿を取り戻しつつあるのだ。
 彼の意志を尊重し、送り出した時には喜ばしさと同時に一抹の淋しさを覚えたが、今では心から誇らしく思う。私の下では、恐らく叶わなかったことだ。
 笑みを隠すためカップを口に運ぶと、コーヒーの精緻な苦味と仄かな酸味が味蕾を刺激した。雨の景色には似合いの冴えた味わいは、夜を徹した私の頭にかかった霞を払ってくれそうだった。
 私たちは暫し他愛のない世間話に興じていたが、ガラのコーヒーが運ばれてきたことで会話は一時途切れた。コーヒーを口にするその僅かな中断の後、ガラは何かを思い立ったようにこちらへ顔を向けた。

「そうだハイド。お前、煙草変えたか?」
……いいや。何故そんなことを訊く?」

 慄然とした。
 一体、この男は何を嗅ぎつけたというのだろう。
 答えを発するまでの数瞬間、ここに来るまでの自分の行動に落ち度がなかったか、私は凄まじい速度で隈なく点検していた。
 宿泊した部屋で今朝シャワーを浴びたが、着替えのため一度帰った自宅代わりのホテルの自室でも再度浴びている。何の残り香もないようソープで身体の隅々まで入念に洗い、いつもの香水を振った。スーツもコートも、全てクリーニングから戻ったばかりのものだ。当然それに合わせて靴も変えている。
 どこにも過ちはないはずだった。
 それなのに、隣からは何かを検めるような視線が注がれている。
 もしや昨夜吸った私のものではない煙草の匂いがどこかに残っているのだろうか。
 あるいは私の棚には決して並ばないであろう類の香水の芳香。
 私の汗ではない汗、私の肉と別の肉が混ざり合った臭い。
 それらの匂いが昨夜たった一晩で皮膚に染みつき、落としきれぬ臭気として細胞の隙間から漂っているのだろうか。それに私だけが気がついていないのだろうか。
 あり得ないことだと理解していても、急激な不安に襲われた。

「いや大したことじゃない。来る途中、これがポケットに入ってたのに気がついてな」

 そう言いながら上着の内側に手を入れたガラは、掴み出したものを私に見せた。
 それは私がいつも巻き煙草をオーダーしている、常連のシガーショップの箱だった。

「お前は良く煙草を持って行くの忘れるから、おれが予備の分を持ってただろ? まだ運転手時代の癖が抜けなくてな。家に残ってたやつを無意識に持ってきちまったようだ。吸うか?」

 この時寸分たりとも表情を動かさないよう努めたつもりだったが、成功している自信がなかった。貰おう、と答える自分の声を意識の遥か彼方から聞いた。
 やはり今日会うべきではなかった。彼の言動全てが私を責め立てているように思える。いや、そもそもそれを期待してのことではなかったか? この苦痛を耐えるべき自罰のエゴイズムから、私は彼の隣に座っているのではなかったか。

「ほら」

 ガラが箱の中から取り出した一本を、私は指ではなく薄く開いた唇で挟みとった。あたかも、聖職者から分け与えられる聖なるパンを口にする信徒のように。
 指に近づいた時、空気の揺らぎに乗った彼の体温が鼻先を掠めた。私の行動に驚くかと思ったが、ガラは身じろぎもしなかった。
 ライターを取り出す間もなく、すかさず横から火が差し伸ばされる。炎に炙られた煙草の葉は瞬間的に赤く輝き、燃え縮んだ。
 ゆっくりとひと吸いした後、咎めるために隣を流し見た。

「その癖もいい加減やめろ。もう雇用主じゃない」
「今のは違う。おれが友人としてやりたいからやっただけだ」
……それならいいが」

 苦々しくも微かに甘みをはらんだ煙草葉の、親しんだ薫香が舌と鼻腔に広がった。吐き出した煙は雨の中を縫うように漂い、やがて掻き消えていく。

「シガーが最良なのは言うまでもないが、手巻きに関してはこのブレンドが一番だな。市販品など足元にも及ばん。たまに別のものに変えてみても、結局はこいつに戻ってくる。時代ごとに色々試してはその時の好みを渡り歩いてきて、より好ましいものがあったにも関わらず、だ。今はメーカーが廃業した時の心配すらしている」
「嗜好品に限らず、一度気に入ったものに出会うとなかなか変えられんもんさ。きっと好みだけでは語れない、人それぞれの性質に合うものがあるんだろう」
「たしかにな。だが偏愛、あるいは執着するものは可能な限り少なくすべきだ。我々のような長命者は特に。それが増えるに比例して、喪失と失望の機会も増えていく」
「お前は執着という言葉で表すが、何か好きなものを増やすこと自体は悪くないと思うけどな。生きることを少しでも容易くするためにも、拠り所は多い方がいい。それが、ふと躓いた時支えになってくれるかもしれん」
「それ自体に足を取られることもある」

 今の私のように。
 彼の嗜好しているものを、私がいくつ知っていると思っているだろう。
 私には熱すぎると感じるほど熱を持った食事。ジンジャーの香りや風味。
 レアで仕上げられた赤身のステーキ。スーパーマーケットで買える安物の紅茶。
 軍支給品銘柄の紙煙草。
 これらの中には、語られていないものもある。
 私はそれを観察によって知ったのだ。どれも私には縁遠い品々であり、私たちが本来交差するはずのない存在であることを知らしめるような、明らかな相違である。
 その相違に愛着を覚えてしまったことが、私の最大の過失だった。

「お前は吸わないのか」
「あー、自分のは持ってきてなくてな」
「なんだ、忘れたのか?」
「まあそんなとこだ」
「私のを吸えよ。知っての通り、お前には少々キツい奴だがな」
「じゃあ一本貰うよ。……それ、初めて貰った時のこと言ってんのか?」
「噎せたお前の顔、今でも鮮明に思い出せるぞ」
「あれはちょっと驚いただけだ。たしかにキツい煙草だが、香りがいいから慣れればさほど感じない」

 オイルライターの火がガラの顔を明るく照らした。
 その手に守られながら揺れる小さな火を、例え一瞬のことだろうと妬みの籠った眼差しで見た。分け与たうことの期待を裏切られたもう一つの火は、口惜しげに葉を喰み灰を生んでいる。
 私の指に挟まれ燻る煙草、そして彼の唇から吐き出された紫煙は風に掻き乱され、たちまち散り散りに霧散しつつ混ざり合い、私たちを同じ薫りで包んだ。
 その薫りに洗われ、私は漸く清潔になった気がした。
 馬鹿げた話だ。昨日のようなことは一夜の出来事ではないのに。
 彼に出逢う前どころか、遥かそれ以前から度々行われてきた享楽的な夜であり、謂わば娯楽のひとつに過ぎない。
 だが、もはやかつてのような甘美な陶酔は得られなくなっていた。娯楽の現場を目撃され、勘違いした彼に救い出されたあの夜から、全ては変わってしまった。更には彼が去って以来、日に日に大きくなっていく不在を私は持て余し、気晴らしは今や苦しまないための醜い足掻きに成り下がっていた。
 彼の存在を他に求めても無意味であることを知りながら、それでも苦しみを認める訳にはいかなかった。認めてしまえば、取り返しのつかない本当の苦悩が始まってしまう。
 それが何より私を恐れさせていた。

……実はな、そろそろ禁煙しようかと思って最近減らしてんだ」

 その告白に思わず失笑した。こうしてまた一つ、乖離していく。

「ハッ、禁煙だと? 病院勤めは肺までクリーンってわけか」
「そういうんじゃない。単なる今後の健康のためさ。元々好きで吸ってるっていうより昔の……、軍時代の習慣からなんとなくって感じだったからな。良い機会だと思ったんだ」
「何故それを先に言わない。知っていれば付き合わせなかった」
「おれもそのつもりだった。だけど久しぶりにこうやってお前と話してたら、一緒に働いてた時のこと思い出してな、吸いたくなっちまった」

 ガラの目が伏せられ、過ぎ去った時間への懐かしげな微笑みが浮かんだ。
 全ての繋がりが消え失せるのも、恐らく時間の問題だろう。
 私一人を置き去りにして本来の在り方へ、全ては過去となり、“ 無関係 ”へと変わっていくのだろう。
 契約は解消した。彼はもう私の助力を必要としない。性質もまるで違っている。結びつけるものは何もない。それでも私たちを繋ぐものはあるだろうか。友情はそれに足りえるだろうか。残念ながら、それほど強固な友情を私は知らなかった。そして私の友情は──。

……ガラ、その煙草はお前が持っていてくれないか」
「そりゃいいが……
「お前も言った通り、私はよく忘れてしまうんでな。お前に預けておけば安心だ」

 気づけば、数口しか吸わなかった煙草はそのほとんどを灰に変え、指に火が迫っていた。彼のものは既に灰皿の中で頽れた屍の一員に加わっている。
 僅かに残っているものを私はそのまま灰皿に打ち捨てた。やがてその場で燃え尽きるだろう。

「そろそろ行く」

 そう言って席を立とうとテーブルに手をついた時、ガラが横から覗き込むようにして私を見た。この日初めて、まともに目が合った。
 彼の瞳に宿る清らかなものに耐えきれず視線を逸らしたと同時に、余計なお世話だろうが、という前置きを聞いた。

「あんまり、無茶しないようにな。顔色が良くないぞ。ちゃんと寝てるのか? いくら丈夫な身体でも、休息は必要だろ」
「ハハ、私の顔色が良かったことがあるか? それに、まるで老いた母親のような小言だな。この次は神父のように節制を説くか?」
「ハイド、冗談で誤魔化すなよ。頼むから必要以上に心配させないでくれ。何かあっても、もうすぐには駆けつけてやれないんだからな」
……ご忠告に感謝する」

 冷笑と共に後ろ手に別れの挨拶を送ると、視線を遮るように傘を差し雨の下へ出た。背後でガラが立ち上がる気配がしたため、目の前に走ってきたタクシーを停めて素早く乗り込んだ。カフェの方を顧みる勇気はなかったが、こちらを見送る彼の鋭い視線は感じていた。
 きっと私の振る舞いに腹を立てただろう。私自身でさえ自分に心底うんざりしているのだから。
 苛立ちは増すばかりで、一瞬たりとも他者と狭い空間を同じくしていることが耐え難く、2ブロックもしない内に運転手に停車するよう命じた。運転手はあからさまに不機嫌な声で返事をしたが、どうでもよかった。ポケットの中の紙幣を数えもせず押し付けるようにして渡し、相手の顔色が変わるのを見る前に車を降りた。
 ホテルまでの道のりは遠い。しかし精神を落ち着けるには近すぎる。
 当て所もない方向へと足を向けた。彷徨い歩く私の脳内には、傘を打ち続ける雨音のように彼の言葉が途切れることなく滴っていた。
 やはり何か勘づいていたのだろうか。
 あれは私のために誂えられた即効性の毒だ。私の自己嫌悪と罪悪感に直接打ち込まれたこの毒に、恐らく長く苛まれるだろう。
 短い結婚生活が終わりを迎えた時に感じた、劇的な痛みではない。心臓の裏側に見えざる爪がゆっくりと食い込んでいくような、鈍く不快な苦痛だ。
 遠く離れていく彼に、私は何をすればいいのかわからない。引き留めたいわけでも、引き寄せたいわけでもない。
 ただ、いつも視界にあったはずの彼の不在が、時折堪らない苛立ちを齎すのだ。
 数えきれない別れを知り、孤独と倦怠に親しんだ私はどこに行ってしまったのだろう。
 これは教訓だと思った。
 この苦々しい不在を抑圧するためには、もっと決定的な別離が必要であるという教訓。今苦しまずに済むためならいくらでも意志と感情を支払い、別の苦しみを生み出そう。そうすれば新たな苦悩が私を安らがせてくれるに違いない。例え偽りだろうとも。
 一度決意してしまえば雨後のように朗らかな気持ちが蘇り、再び煙草を喫みたくなった。
 ジャケットの内側に手を滑り込ませ、シガレットケースを取り出して蓋を開けた。
 ──何も収まっていなかった。
 その虚しい空間を茫然と見ながら、昨夜吸い尽くしてしまっていたことを私は漸く思い出した。
 つまり、私の手は左の胸に据えられた生暖かい穴を探っただけにすぎなかったのだ。
 どうということはない。ホテルまで我慢すれば済むことだ。
 ケースを元の場所に戻し入れ、再び足を踏み出した、その途端。
 背骨が抜き取られたのではないかと思うほど、す、と身体の芯が冷え込んだ。視界を暗くする眩きに似た感覚に脚が凍りつき、目を閉じて傘のハンドルを強く握りしめた。
 そこにあるはずのものを私は持っていなかった。失っていた。
 たったそれだけのことで、あれほど危惧していたものが始まってしまった。逃れられない真の苦しみが。
 苦悩に枷を嵌められた喉は息苦しく、胸の底からも血反吐のようなものが込み上げていた。
 悲嘆だ。これまで直視されることもなく、感情の片隅に放棄されていた悲嘆が身悶えしながら噴き出そうとしている。
 奥歯を噛み締め、それを押し留めるために片手で口元を覆った。

「──────……

 指に染みついた、紫煙の残香を嗅ぎ取った。
 馴染み深いばかりに却って痛みを覚えるその残滓。それだけが現在の私と彼を結びつけているか細いよすがの証左に思え、縋るようにその薫りを肺に取り込もうとした。
 しかし締め付けられた喉では上手く吸い入れることができない。
 強張った舌では、名を呼ぶことすら。
 雨は絶え間なく降り注ぐ。
 一滴一滴、容赦なく。
 その下で私は一人、溺れかかっていた。