眞昼
Public ss
 

冷たい手

2023.9.27におけるそれぞれの夜

 ドアを開けると、玄関には灯りが灯されていた。
 先に帰宅したガラが消さずにおいたのだろう。どこに帰るのか告げてもおらず頼みもしていないのに、彼のやさしさそのもののような淡い光はこうして私に降り注ぐ。それを受け止める私の身体は、床に影を生む。
 コートを脱ぎもせず、同じく間接照明が点いたままになっているリビングに踏み入り、隣接する寝室の方へと向かった。現代社会では必要とされない、むしろそれ故に人々を恐れさせる要因でもある種族の特性を、思い出せないほど久方ぶりに使用した。
足音が、気配が消える。自らが不在となり、世界から切り離された生き物であることを突きつけられるこの技能を、いつの日からか嫌っていた。それでも、今日ほど必要とした夜はなかった。
 ドアノブに手をかけ、音を立てないよう慎重に押し開くと、隙間から室内を覗きこむ。伸びた細い光線がガラの寝姿を指し示した。暗闇には無防備な、奥深い寝息が規則正しく放たれている。
 部屋に身体を滑り込ませ、後ろ手にドアを閉める。室内には再び夜が満ちた。本来なら空間を認識するための頼りとなるブラインドの僅かな隙間から漏れる光さえ、今の私には過剰だった。ベッドの傍まで歩み寄り、少し身を屈めてガラの顔をじっとみつめた。
 眠る男の枕元に立つ、死人の顔色をした吸血鬼。
 見るものをさぞ恐怖させる光景だろう。
 ここ数日私に付き合ってまともな睡眠がとれていなかったせいか、彼は深い眠りの中にあるようで、身じろぎ一つしないその姿に、今夜自らが口にした言葉を思い出した。
 「その時」はいつか必ず訪れる。来てしまう。
 こうして見下ろした時、上下することをやめた彼の胸を目にする日が。
 想像するだけで心臓の鼓動が速まり、血の気の引いていく指先は冷たく痺れた。腹の底から競り上がってくるものが喉を締め付け、正常な呼吸を妨げる。
 いつまで経っても手放すことができない、私の純なる恐れ。忘却への恐怖。他者の存在への、愛着と執着。
 いや、全て折よく回避する方法はあるのだ。
 ここから去ってしまえばいい。二十年を永遠にしてしまえばいい。簡単な話だ。
 歳月が彼に私の存在を忘れさせ、私からは恐怖を取り除いてくれるだろう。
 では、悔恨は? 一体誰がその悔恨から救ってくれるというのだろう。
 もし他に慰めを与えてくれる人々がいたとして、それが致命的な宿窩を前に何の意味があろうか。
 ガラの身体の横に投げ出された腕を見据えた。逞しく、それでいて傷つけられた樹木のような。片膝をつき、その手の甲にそっと触れた。
 温かい、手。
 血の巡る、手。
 傷に添い痛みを抱く、手。
 星のつぶてのような、手。
 やがて骨まで冷え切ってしまう、手。
 本当に必要とする時、ガラは私の手を取らない。
 だが私は、この手を両手で包むことができる。
 もしかしたら、はじめて。さいごに。
 せめて、その許しを授けて欲しい、と思う。
 そのためなら神さえ信じても良い。
 私は私の持ちうるもの、永遠の全てを掛けて、お前のために祈る。
 己から最も遠く、最も近いものに祈る。
 死そのものに祈る。
 苦痛も恐怖も孤独もないよう祈る。
 静かで温かい、深々とした綿のような眠りであるよう祈る。
 真実がどうであれ、お前のためにそう祈る。
 私の願いを叶えられないお前に、そう祈る。
 だから。
 いつか来る「その時」、私にお前の手を包ませてほしい。

(ほんとうは。お前が私の瞼の上にこの温かな掌を乗せ、真の安息を与えてくれはしまいか)


   ***


 ──なにかいる。
 意識の遠く、暗闇の向こう。何かがこっちをみている。
 だが五感では感知できない。何も感じられない。
 しかし夜のように、ただそこに在るのはわかる。その「なにか」は部屋に入り込み、ベッドの方へと近づいてくる。
 目を開けることができない。指先すら動かない。意識は覚醒しかかっているのに、肉体は眠り込んだままだ。
 それもこれも、きっと眠れない日が続いたせいだ。あいつの、あの終わりのない迷宮のような自問に付き合ったからに違いない。
 そうだ、あいつの。ハイドの。
 そう思った瞬間、澱のような闇の中にあの白々とした顔が現れた気がした。枕元に立つ表情の失われたその真白い貌は、天使というよりも死の御使のようだった。
 単なる夢か。まどろみが見せる、願望の幻。それとも、獣の部分が知らせる現実か。
 夢だとしても、もっと近くに来て欲しい。
 近頃の姿を見ていると不安になる。目を離した隙に影の中に沈み込んで、もう二度と捉えられないのではないかと思ってしまう。
 遠ざかっていくものを見つめ続けることは難しい。見失いたくない。だから、もっと近くに。
 声を上げようとしたが、やはり眠りの中にある肉体では硬直した声帯を震わせることができなかった。
 ハイドは何も語らず、ただ静かにこちらを見下ろすばかりだ。ただ、その眼は鈍痛に耐え忍ぶかのように僅かに陰り、揺れていた。血の滲むような潤みを帯びて。
 どうしたんだ。
 一体何を視ているんだ。
 また一人で、痛みを押し殺しているのか。
 やはり、俺ではどうにもしてやれなかったのか。
 その苦痛を、孤独を、どうにかしてやりたいのに。
 昔お前がそうしてくれたみたいに。
 取り除くことはできなくともせめてひと時、それを忘れさせる何か。
 だが知る由がない。
 お前自身にしかそれはわからない。
 じゃあ、俺には、なにが。
 睡魔が、意識を暗黒の眠りに引き摺り込む。目覚めようとする意志を奪われる。
 夜が厚くなっていく。呑まれてしまう。彼の姿も、もう視えない。
 手に、冷たいものが触れた。
 ハイドの手だ。
 何を知らずともそう分かった。
 夜気のせいか、その手は冷え切っていた。石のように。
 しかしひどく心地良かった。途方もない安らぎを感じた。
 急速に意識が解けていく。
 恐ろしく広大な闇が、身丈ほどの夜へと変わっていく。
 その底に身を横たえ、輪郭が闇と泥のように混ざり合う心地よさ。
 ここには、揺るぎない秩序しかない。
 沈黙、静寂。
 意識の最後に、あるひとつの考えがぽつりと浮かび上がった。
 いつか迎える「その時」、包まれるのはこの手が良い。
 そう思った。

 抗えぬ眠りが訪れた。


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補足 : 病院などで臨終の場に立ち会えるのは法的家族だけです。つまりそう言うことです。