眞昼
Public ss
 

残像現象

内外の変容をみつめること。ガラ→(←ハイド)

 枝葉を揺らす風によって、梢から地に落ちた影と陽の光がかき混ぜられるように。
 水中に落とされた角砂糖が音もなく溶け崩れるように。
 緩やかに、ガラの日常は破壊された。

「さてと」

 ベッドサイドのライトを消し、一日の活動に終わりを告げる。布団に潜りこみ瞼を閉じて、暗闇の中で自分の心音と呼吸を聴く。この家に引っ越してきた時からもう何十年も繰り返してきた、全て異なる夜でありながら、ほとんど同じ様相の夜だった。
 だが、このところどうも落ち着かない時間を過ごしていた。一月に一度齎される獣の周期からは外れており、体調は至って平常であるにも関わらず、今夜も眠りの糸口は掴めないでいた。
 どこか身体の収まりが悪く、ベッドの中で居心地の良い場所を求めて数度寝返りを打ったところで、諦めて最初の仰向けの体勢に戻る。目を開き、夜闇を見透す視線を天井に巡らせた。やはり異変はない。日々仕事は忙しなくとも、プライベートには何の変わりもなかった、と思う。
 ブラインドを上げることから始まり、洗面所で顔を洗った後朝食を用意し、それを紅茶で流し込みながらスケジュールの確認、食後に最低限の身支度を整えて家を出る。昔カウンセラーから教わった、生活の規則正しさが精神の安定に繋がるという言葉を忠実に守り、日々をある種の儀式のように過ごしてきたのだ。行動を振り返るまでもなく、何も変わりないことはわかっていた。
 そう、理解っているのだ。日常の中に原因を探ろうとしても正確ではないことを。
 問題が起こっているのは、自分の視界、生活を見る視線なのだから。
 ──それは白い影だった。
 いつもの静寂、いつもの暗闇、いつもの過ぎ去る時間に、その異物は混ざっていた。
 暫し光を見つめた後、視神経に引き起こされる残像現象のように、朧げな影が日常に焼き付いていた。瞼を閉じたとて無駄なことで、閉ざされた暗闇にも影はしつこく残っていた。そして更に厄介なことに、ここ数年で混ざり始めたイレギュラーな光景を目撃する度に、それは日に日にその輪郭を濃くしていた。
 例えば、二人分の食器を棚に戻す時。
 長年引き出しの奥に押し込まれていた来客用のカトラリーが、常用のものと混ざり合っているのを見る時。
 テレビで天気予報が流れれば、無意識にロスの天候もチェックしている時。
 自分のサイズではないガウンをクローゼットに仕舞う時。
 洗面所に置かれた見慣れない数々のボトルのために場所を空ける時。
 否が応でも面影を思い出させる、クッションに移った香水の残香を嗅いだ時。
 これらの瞬間が日常に紛れ込み始めた時から、長い歳月をかけて綿密に作り上げてきた人生の何かが明確に壊れ始めていた。
 白い影は過去の記憶を伴って精神をゆっくりと揺り動かし、その水面に波紋を生んだ。苦くも微かに甘い、不安と苛立ち、それを上回る愉しみが精神に打ち寄せ、気がついた時には漣を立てるまでになっていた。
 時に記憶は現在の瞬間と重なった際、精神を丸ごと掴み取る力を持つことを知らしめる。その過去を生きた時間は、人生において鮮やかすぎた。煩雑で出鱈目で何一つ整然としておらず、快いものばかりではないはずなのに、悠然と立ち現れた懐かしい記憶はいつまでも見つめていたいと思うほど心を捕らえ、魅した。その感覚は、揺れ動く炎から目が離せなくなることにもよく似ていた。
 思案に耽っていると、ナイトテーブルの上でスマートフォンが微かな振動と共に点灯した。こんな真夜中にメッセージを送ってくる相手は限られている。職場からの緊急連絡でなければ、更に。
 手を伸ばしてスマートフォンを取り通知を確認すると、やはり予想通りの人物の名前とアイコンが表示されていた。

『今日で漸くシーズンが終わった。暫く休みをとる』

 彼らしい、要件のみの簡潔なメッセージ。
 何と返信すべきだろうか。指は逡巡で文字列の上を漂った。これまでのように友人として無難な言葉を返せばいいものを、この日はどうしてか思案させた。
 再会して以来、彼はモデル業の合間に長い休みを取る度、この街を訪れるようになった。今回もそれを暗に知らせる言葉なのかもしれないが、確実ではない。また暫く前から、こちらにも居を構えるべく目に叶う物件を探しており、移住すら考えていると言う。しかしそれも決して確約されたものでないことは、長い付き合いから分かっていた。
 強い願望として望んだことはないため、もしこれらが実現しなかったとしても、ほんの一瞬、ほんの少しだけ残念に思うかもしれないが、相手へ向ける眼差しに変わりはない。息災で、幸福であってくれさえすればそれで良かった。
 だが、自分自身についてはどうだろうか。理性によって感情を宥める方法は十分承知していても、今回ばかりはより多くの労苦を必要にするだろうという、どこか他人事のような予感があった。
 冷静にならざるを得ないほど、鬩ぎ合う理性と感情で胸の底はざわめいていた。自己欺瞞を許さない精神が、まだ静観を決め込むつもりかと鬱陶しくも囁く。
 何故平穏は破壊されてしまったのか、数十年の空白を忘れさせるものが何であるのか。全て、今に始まったことではない。何もかもに覚えがある。素知らぬ顔で静寂をかき乱すのは、いつも彼だ。沈黙の日々に戻るためには同じだけの月日が必要だというのに、いつだって。胸の内にある存在を知覚せずにはいられなくなる。
 一方で、強靭な理性がそれらを戒めていた。これ以上を望んでは再び失った時、今度こそ明確な失意と喪失が待っている。何より、彼のために引き止めることも引き寄せることもすべきではないという、絶対的な意思があった。彼を縛ることはできない。例え可能だとしても、それは自分ではない。そう固く言い聞かせていた。
 相反する内なる声に思考を砕かれながら、スマートフォンの画面とそこに記された文字をじっと見つめた。
 白い光、白い影、輪郭。
 息を吸った。そして吐く。
 それ以上でもそれ以下でもない、生命を存続させるに足るだけの反復。寄せれば返す摂理の運動として。だが、抗し得ない内なる欲求でもある。息苦しさは、肉体により多くの呼吸を命じる。
 もう一度、先ほどより深く息を吐くと、返信のメッセージを打った。普段通りの、労いのフレーズ。そしてそれに続く、異なる一言。

『休暇中、こっちに来る予定はあるのか?』

 これまでこうした質問をしたことはなかった。送信した後、やはり少しだけ後悔した。彼の気質や状況を思うと重荷になることを理解していながら、期待を込めたような言葉になってしまった。それでも、取り消すことはしなかった。
 返事はすぐに送られてきた。それを読んだガラの口元に淡い笑みが滲む。今度は迷うことなく、相手と同様に再会の日を楽しみにしていることを素早く書き送った。スマートフォンをテーブルに戻し、穏やかに目を閉じた。
自らの心音と呼吸だけを聴く。
精神は嘘のように凪いでいた。
何かを失う可能性と痛みを受け入れる用意が、既に整いつつあった。
深々とした闇に、影が浮かび上がってくる。
それはもう朧げな残像ではなかった。
ガラがその人物を最もよく眼差す姿、少し上方から見下ろした、ハイドの横顔を眼裏にはっきりと編んだ。